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わが師わが友)#伊谷純一郎 先生 から #石垣金星 さんへの4通の手紙
2025/10/17
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西表島の文化力表紙
西表島の文化力表紙内側
もともとは、2025/08/22の投稿でしたが、
Airtableのリンク切れを修正します。
西表島の石垣金星さんが2023年6月に帰天され、1周忌にあわせて、西表をほりおこす会として、石垣金星一巻選集『西表島の文化力』(南山舎)を刊行しました https://ankei.jp/yuji/?n=2694 。それからも、金星文庫の整理のお手伝いをしています。そうした経緯で、石垣昭子さんからプレゼントされたものに、恩師・伊谷純一郎先生から金星さんへの4通の手紙があります。
伊谷先生が科研費をとって、八重山の生態人類学の研究をされたのは、1970年代のなかばで、安渓遊地も、その恩恵で、1974ー75年の2年間の修士研究の対象だった、西表島の廃村・鹿川(かのかわ)村で、いろいろな先輩方に現地で助けていただくという仕合せにあずかったのでした。
「こんな隔絶した場所(もよりの船浮村まで歩いて4時間とか、潮が悪いと一泊二日とかかかる)で、人びとはどんな暮らしをしていたんだろうか、推理小説みたいに考えてみたらどうや。なぜ滅びたかには、あんまりこだわらんと、ここでの生活をなるべく具体的に描いてみよう。」
というのが、伊谷先生のメッセージでした。
「すり鉢の破片を見ると、目の幅が広いものと狭いものがあります。」と報告したところ、「それは、効率の問題にかかわる発見かもしれない。」と言われました。
修士課程の2年間の終わりごろ「自分がだんだん、西表島の郷土史家みたいな立場に近づいているような気がするんですが」と申し上げると、「うーん、それではいかんのやがな」とだけ言われました。
廃村の藪の中は、また、腹をすかせたダニやツツガムシ、羽虫たちの巣窟で、アフリカで鍛えられた伊谷先生も「安上がりの熱帯はつらいなぁ」とぼやいておられました。https://ankei.jp/yuji/?n=8
「西表島についたら、まず石垣金星さんという人を探せ」と伊谷先生に言われていましたから、こんどいただいた4通の手紙もてっきり1970年代のものかと思っていましたが、引っ張り出して読んでみたら、なんと4通とも1998年のものでした。
1998年4月17日の日付のあるものは、Lifeの原稿用紙に書かれています。
「先日は突然にお電話してすみません。」とあります。初めての台湾行で感動して、昔通った西表島の石垣金星さんにぶつけて、八重山との対比してみたいという気持ちが伊谷先生の中に芽生えたのでしょう。文中、平凡社の本というのは、1990年に出た『自然の慈悲』のことかと思われます。
4月27日の第二信以後は、和紙の便箋です。宮古島の人たちが台湾に漂着して殺された牡丹社事件のことが書かれています。アミ族の村でお土産に蛙3匹をもらったことなどを紹介して、一度一緒に台湾を訪れてみないかという、金星さんへの誘いが書かれています。
金星さんもこのころは、昭子さんとともに、染織の交流で、97年にフィリピンのマニラとパナイ島、および台湾原住民族、98年に台湾台中県、99年には、マレーシア・サラワク州などを訪れていて、なかなか忙しいので(金星さんの遺稿集『西表島の文化力』(南山舎)の表紙裏には、西表島を訪れたパイワン族の衣装を借りて、昭子さんと二人で台湾原住民に扮している場面をいれておきました。5枚目の写真です。)、伊谷先生との旅は実現しなかったものと思われます。
第三信は、8月4日付けです。夏休みを利用して、アフリカ、コロンビア、バシー(海峡)、旧「満州」など、あちこちに出かけてしまった若手たちの留守居役として、大学に残るという貧乏くじを引かされた伊谷先生は、でかけたくてうずうずする気持ちを金星さんにぶつけておられます。この間の金星さんの伊谷先生への手紙は、西表島には残っていないのですが、文面から察するに、「三線かついで、旅費を稼ぎながら旅しませんか。伊谷先生も踊れば」とか、「むかし、人頭税を逃れて波照間島の人たちが逃げた先が、ぱいぱてろーま(南波照間)という島だと言われていますが、きっと蘭嶼のことだと思います。昔の舟を復元して、ぱいぱてろーま丸と名付けて、ごいっしょに西表から蘭嶼をめざしませんか」など、いつもの金星節が炸裂するお返事を差し上げたものと思われます。
竹尾茂樹さんは、西表のお祭りに学生を派遣するとともに、台湾原住民族にも詳しいという大学教員ですが、伊谷先生は、ご存知なかったようです。伊谷先生は、このころ「毛の生えたものに飽きて、最近は鳥ばっかり追いかけてる」とおっしゃっていましたから、話題は、台湾の鳥のことや、フィリピンの先住民族アエタのことにわたります。
話は、鹿川村あとにあるたくさんの瓶の話になります。安渓遊地が、修士研究をしているときに、伊谷先生が、「古い瓶が1本5000円で売られてるらしいぞ」と言われたので、「先生、2本でも10本でもやっぱり5000円でしょうよ」といって、私は乗りませんでしたが、次の手紙を見ると、伊谷先生は、見果てぬ夢を追いかけて、昔の宝の眠る鹿川村を、金星さんとめざしたいようです。
伊谷先生からの四番目の手紙は速達で、10月2日の日付です。9月末に学生と西表島に着いて、翌日はさっそく九州と台湾の間の島々で最長の浦内川(うらうちがわ)を遡るトレッキングを試みたところ、雨中行軍となり、びしょ濡れになったために、金星さんと昭子さんの工房を訪ねることができず、台風も接近したので、急ぎ石垣島にもどって帰路についた、という報告です。9月17日付けで金星さんから、おそらく西表滞在の予定を尋ねる手紙が届いたために速達にされたものでしょう。
郷土史家か 霊長類の、そしてホモー・サピエーンスの壮大な歴史の探求者かという立場は、修士の時代からのジレンマでしたが、
安渓遊地の手伝いと考古学発掘の指導のために、鹿川村にやってきた先輩方のひとりの篠原徹さん(2019年までびわこ博物館館長)は、拙著『廃村続出の時代を生きる』(南方新社)への礼状に、次のように書いてくださいました。エスノアーキオロジー(ethnoarchaeology)というのは、民族考古学とも訳される、現在観察できる人びとの暮らしをヒントにすれば、考古学遺跡に残された謎が解けるのではないか、という研究の手法を指すことばです。
「・・・・・・鹿川のエスノアーキオロジー的民族誌はおそらく八重山諸島の近現代史を中心とした人びとの歴史的世界へ外挿すべきものとして安渓さんは後ほど思うようになったと思いますが、伊谷さんはおそらく人類史のどこかに外挿できるはずだと思っていたにちがいないと私は思っております。トングウェなどで山の中の生活遺跡のことをいつも喋っていたし将来誰かが掘ってくれと願っていたと思います。同時に門下生の行ったアフリカ調査のモノグラフも人類史の初期に外挿できると確信していたのは彼の有名な『人間平等起源論』を見れば明らかだと思います。・・・・・・」(全文は、篠原さんの許可を得て、https://ankei.jp/yuji/?n=2050 に貼付しました。)
これは、今読んでいるグレーバーとウェングローの『万物の黎明』(光文社)の中心的な話題そのものです。
私としては、土地を離れて人類史を考えるという立場には立ちません。
例えば、鹿川村の南の浜は、ウブドーという場所ですが、ここで発見された遺跡は、紀元前1500年ほどの下田原土器をともなう層から、それより新しい無土器文化へと層が連なって出てくるという、たいへん貴重なものだということが、2008年の発掘でわかってきました。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/35841
石垣島の白保竿根田原(そーんたばる)洞窟遺跡の人骨は、2万7000年前という、日本でも一番古い時代のものでした。以下でたくさんの研究や広報記事が出されていることがわかります。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search_integrated?all=%E7%99%BD%E4%BF%9D%E7%AB%BF%E6%A0%B9%E7%94%B0%E5%8E%9F
八重山で伝承に素直に耳を傾けていると、南波照間島どころか、15世紀の済州島や、それよりもはるかに古い時代からの、台湾やバターン諸島などとの交流の様子が生き生きと立ち現れてきます。
https://dunanmunui.wixsite.com/my-site のリンク先のAirtableに載せています。
安渓遊地・貴子が伊谷先生にいただいた手紙 https://ankei.jp/yuji/?n=1049 に書いておられるように、伊谷先生にとっては、「私の一番身に合ったフィールド・ワークというのは、新しい土地を電光石火のように訪ね歩くことと、地元民の中に融け込んで、ともに生き、あらためて聞きとりなどということを意識せずにすごすこと」なのですが、私はどこまでも泥臭く、一点を掘り続けるのだろうと思っています。







