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自己との和解)「憤怒痙攣」から「世間をお騒がせする」へ #廃村研究 #西表島 #鹿川村
2025/08/22
ウダラ川源流で篠原さんとPK001_0057
鹿川村のあった斜面PK001_0063
拾った貝がらPK001_0076
鹿川村の植物を集める貴子PK001_0066
腹ペコでもうだめです遊地PK001_0064
これが道なのかPK001_0067
鹿川湾PK001_0068
明日は晴れるかPK001_0069
ウブドー浜のウミウかPK001_0060
2025年8月22日、リンクを追加してバージョンアップしました。
もとの投稿は2014年11月23日でした。
ある雑誌(『平和研究』 https://www.jstage.jst.go.jp/article/psaj/44/0/44_44006/_article/-char/ja)に頼まれて原稿を書いたら、字数がだいぶ超過しました。それでさっさと削った部分です。断捨離。
安渓遊地・安渓貴子の共著です。
1.「自己」との和解
1.憤怒痙攣
遊地がフィールドワークをするようになって一番困ったのは,自分の感情の制御ができないことだった。二歳のとき,食べようとした菓子を兄が横取りしたとき顔が紫色になって倒れた。医者の見立ては「憤怒痙攣(ふんぬけいれん)」だった。この子は腹立ちのあまり失神するのであまり怒らせないようにと言われたという。
みさかいのない敵愾心も強かった。でこぼこ道で転んで起きないので母が助け起こしてみたら手が血まみれだった。「こいつがぼくをころばせた!」と怒って小さな拳で大地を殴り続けていたのである。
長じて大学院に進んで,初めてのフィールドの西表島で,廃村調査をした。村にもどっての酒の席で地元の人とトラブルになった。「おまえは墓場の骨董品荒しの一味じゃないか」とからまれたのである。酔っていた遊地は軽率にも「あやまれぇ! 学問を何だと思っているんだぁ!」と叫んで,あやうくビール瓶で頭をたたき割られそうになった。
廃村には二人で行った。満潮に阻まれたマングローブの湿地でのビバーグで食べ物がつきた。頼んでおいた迎えの舟が来なかったのだ。考古学の指導に同行してくれた篠原徹さん(もと琵琶湖博物館長)は,人界までの海辺を何時間も歩かされながら怒っていた。「なんで俺はこんなところで新婚さんといっしょに,切り干し大根を噛んでないかんねん!」(このエピソードを篠原さんはすっかり忘れておられました。良い思い出、美しい碧の世界に染め上げられていたようです。)
村の食堂のおばさんに遊地はもっと叱られた。「プシキヤン(マングローブ)はハブの巣窟だよ。あんたなんかは蛇に喰われて死んでもいいさ。かぁちゃんの顔見てごらん,かわいそう! 虫に食われてシチ祭のミリク(弥勒)の面みたいに膨れあがって。」
自分でももてあます短気を治してくれたのはアフリカだった。1978年に訪れた初めての外国はコンゴ民主共和国。ここでは,週2便などと書いてある飛行機だが,実際は2週間も飛ばないことがある。毎日飛行場に通って今日も飛ばないと知らされた怒りは,日本の7倍もの国土に飛行機が10機しかないなどという事情を聞けば,拍子抜けの感情に変わっていった。まわりを見回しても誰ひとり怒っていないのだ。
「隣り合わせに坐ったら言葉を交わすもの。そして30分も話せば友だちだ」というのが,アフリカの旅の作法だった。
スワヒリ語のことわざに
「道に迷うことこそ道を知ること
Kupoteza njia ni kujua njia」
というのがある。着いてしまえば旅は終わり。道草こそがフィールドワークとサファリの極意だった。
2. アクセルとブレーキ
遊地は自分を自動車に例えれば,ハンドルとアクセルしかついていない欠陥車だと気付いている。速度計とブレーキがないのだ。これを暴走させずに事故を未然に防ぐのが貴子の役割になっている。例えば,コンゴ民主の森の村に二人で暮らすようになった1978年7月,はじめの一月は,カメラもテープレコーダーも出さなかった。村人が私たちの存在や人柄に慣れるまでは,そのような文明の鈍器を使うまいという貴子の考えだった。
たまに独り旅もする。遊地が一人でコンゴの村にでかけた1983年,若嫁がシロアリの幼虫を食べさせてくれた。蟻がたかっていたので「これ焼くとかできない?」と聞いたら「もう茹でてあるのよ」と言われて飲み込んだ。貴子がついていればきっと止めていた場面だ。そのあとマラリアではない熱に悩まされるようになった。コンゴ川上流部の市場を調べるためにキサンガニまで600キロを二人乗りの丸木船で漕ぎ下る計画を立てていた。体調不良のため,病院のある200キロの地点で中断して調べてもらった。腸チフスだった。あのまま下ったら途中の村で死ぬところだった。
3.世間をお騒がせする
「研究は,するなと言ってもなさるでしょうが,図書館にこもってお勉強ばかりなどというのは好ましくありません。友だちをたくさん作ってきて下さい。水が変わります。健康には充分気をつけてください」https://ankei.jp/yuji/?n=417
これが,国際文化会館の松本重治理事長(1899-1989)の餞の言葉だった。太平洋の架け橋となることを願った新渡戸稲造博士の名を冠した2年間の奨学金をいただいて,家族でパリに暮らすようになったのは,1987年の春のことだった。 私たちのアフリカ研究は,ある事情で1983年に中断を余儀なくされる。それがフランスでの勉強を思い立ったきっかけだった。ある事情とは,世間をお騒がせしたために科学研究費をもらえなくなったことだった。1983年の旅で遊地は腸チフスにかかったのだが,それが原因ではない。旅のはじめに,キンシャサの在ザイール(コンゴ民主)日本大使館を訪ねた。先に到着していた研究室の先輩(https://ankei.jp/yuji/?n=2876)からの手紙を参事官から受け取った。ホテルでの支払いを現地通貨でできるように大使館が手紙を書いてくれたので君も書いて貰えば,と記されていた。さっそく頼んでみたら「そのようなサービスはしておりません!」とにべもない。
遊地は内陸部に旅立ったが,このあと,キンシャサから外務省にあてて概要以下のような公電が打たれていたのだ。「科研費で訪問中の大学助教授・安渓遊地氏から無理な要求をされたが,大使館では一切そのようなサービスをしていないので,外務省から文部省に科研費の運用のあり方について連絡して再発防止を徹底すること」。
「君,なにしてくれたんや!?」
科研費の研究代表者(https://ankei.jp/yuji/?n=1982)から電話があったのは,腸チフスで帰国後の遊地が山口県立病院隔離病棟から無事退院した年末だった。文部省の担当者から研究代表者の勤めていた大学の事務局長に電話があり,「こんな不祥事を引き起こして,あなたの大学では今後いっさい科学研究費の支給が受けられなくなってもいいんですか!」ときつく叱られたというのだ。
さぁ,どうしよう。泣こうか,それとも怒ろうか。一応の事情を説明したあと受話器をおいて考えた。この先あらゆる科研費からずっと外されることを覚悟した(実際,次の海外科研費の調査隊に加われたのは6年後だった)。世間をお騒がせしてしまった以上,じたばたしても,傷つくのはこちらだけ。しかし,研究仲間がどんどん海外フィールドワークに出かける中で大きなハンディがつくことは悔しい。
キンシャサの参事官氏に公電を撤回させるといった幻想をすてて,闘いを準備することにした。ただちに民間助成財団の研究助成の獲得をめざして走り出したのである。日本生命財団の助成による西表島研究(後に安渓ほか[2007]として出版)と新渡戸フェローとしてのフランス滞在は,この準備の結果だった。
引用文献
安渓遊地・安渓貴子・川平永美・山田武男、2007『西表島の農耕文化--海上の道の発見』法政大学出版局











