わが師わが友)丹野正さんとの西表廃村滞在
2024/04/22
丹野正先生最終講義DSC_2224_2
フィールドで怒り出すとき――西表島の廃村調査につきあわされた先輩たち
の前編です。後編は、篠原徹さんの予定です。
大学院に入って人類学を勉強して、初めてのフィールドは、西表島の鹿川村でした。「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかのかわ」と同じ発音の村です。しかし、そこはもう何十年も人が住まなくなった廃村でした。
お年寄りと縁側で梅昆布茶などをすすりつつ、「人生はこれからですよ」などと励ましつつ、ついでに自分の頭もハゲましたりする、さだまさしさんの「建具屋カトーの決心」に出てくるようなのがフィールドワークかと思っていた私の、背中をどやしつけるようなサバイバルの日々でした。
道らしいものがないので、最寄りの村まで歩いて8時間ぐらいはかかるという場所ですから、例えば、海岸の岩場や川の滝で足をすべらせて落ちて怪我をしても、助けを呼ぶことはできません。携帯電話が普及する25年も前のことです。
私をここに送り込むことにした伊谷純一郎先生は、2年間の修士研究の間に、3度も鹿川村まで同行してくださいました。それだけでなく、たった一人での滞在ということにならないように、先輩方を上手にだまして(説得して)、鹿川村まで送り込んでくださいました。
村の地図を作るための測量の時は、研究室の先輩の丹野正さん。その直前の伊谷先生との滞在の時には、大宜味村からの移民で、西表島の東部に家があるTさんという地元の方が、鹿川へキャンプに来ておられて、イノシシや、オオウナギやミズン(イワシの類)などを豊富に獲ってくださいました。そのお裾わけにあずかって、私はほっぺたに脂がついて垂れ下がっていると、祖納村でいつも泊めてくださった石垣金星さんが驚くほどのぜいたくな食生活のキャンプだったのです。「酒だけ持っていったらいいよ」という伊谷先生の言葉を信じて、丹野さんが、私といっしょに、背負子に泡盛の一升瓶を5本も背負ってたどり着いてみたら、鹿川村にTさんとその仲間たちはもうおられませんでした。
村のあとの南側のウブドーと呼ばれる浜に丹野さんと泊まりました。彼は、この浜の浅瀬をトイレとして使いながら、腰掛けになるぐらいの岩がたくさんあり、石の破片も多いことから、ここが石器づくりの場ではなかったか、とおっしゃったのです。この場所が、実際に3500年以上昔から、無土器の時代包含層とそれを遡る下田原式土器が連続して埋蔵されている遺跡だという発見がされる30年以上昔のことです。彼は、I君という若者が建てたあった、薮の中の小屋に寝て、私は浜にテントを張りました。米と味噌ぐらいは持っていったのでしたが、おかずは自分で貝を拾うだけで、魚を捕るすべも知らないのでした。ある晩、テントの中でまどろんでいると、顔の下のテントのグラウンドシートの下が膨れていて、そこを押さえると、膨らみはなくなり、こんどは別のところが盛り上がるのでした。しばらくは、うつらうつらとしていましたが、やがてこれはなにか生き物がいるのかもと気づいて、大声で丹野さんを呼びました。ライトを照らしてもらって、フレームごとテントを持ち上げてみたら、そこには大きな蛇がいたのです。二匹のサキシマハブがからみあっているのかと思って、米軍の払い下げの刃渡り50センチあまりのブッシュナイフで、切りました。翌朝、浜辺の岩の下にはいこんで息絶えていたのは、長さ1.5メートルほどの西表島で一番大きくなるサキシマスジオという無毒の蛇でした。
実は、この10日ほど前、伊谷先生と鹿川村のあとのやぶの中を歩いていたときに、出くわしたサキシマスジオを思わず切り殺したのを、しばらく歩いたあと伊谷先生は「さっき君が切った蛇の頭が君のズボンに食らいついてるで!」と脅されたのでした。実際は何も付いていませんでしたが、「食わぬ殺生をするな」という教えでした。ですから、今度は皮をむいて、長さ3センチほどのぶつ切りにして、煮て食べることにしました。骨が多くて美味しいとは言えませんが、ほとんどおかずらしいものを食べていないので、ありがたくいただきました。丹野さんは、「あ、僕はそれはいい」と言って召し上がりませんでした。
のべ3日ほどかかって、木々に覆われた急斜面の村の屋敷あとの旧道の切り開きと測量も終わりました。山形県の鍛冶屋だというお父さんの打たれた、ぴかぴかのナタが羨ましくて、おねだりしたけれど、くださいませんでした。測量のあとも、まだいろいろと、屋敷あとごとに落ちている遺物を調べなければならない私をおいて、丹野さんは、先に帰ることにされました。お別れに「ご感想を」とお願いしたところ、毎夕には「今日もえがった、明日もえがろ」とふるさとの山形弁風におっしゃったのでしたが、最後の別れに際しては「いや、印象深いフィールドでした」という言葉を残されました。これまでに通ったことのない道を、ということで鹿川村の西側に超えて、ウバラシュク川の上流へ出るというルートをたどるとおっしゃいましたが、幸い崖などにもあわずに一人で戻られたようでした。
その後、アフリカでもお会いしました。弘前大学の学部長などを勤めながら、マルクスの資本論に取り組んでおられたことを知りませんでした。以下のサイトに最終講義が載っていて、写真はそこから拝借いたしました。
http://humanbs.mimoza.jp/pick_up/tanno_last_lecture.html