わが師)掛谷誠さんをしのぶ
2024/11/14
この記事は、もともと、2014年4月25日に掲載したものです。
授業の資料として、リンクを新しくし、写真とファイルを追加しました。
アフリカでの生態人類学の道を切り開き、後輩を導いてくださった掛谷誠さんが昨年2013年12月22日に68歳の若さで亡くなられ、2014年3月22日には京都で「追悼の集い」がありました。200人近い方々が生前のお姿を偲び、ご冥福を祈りました。私どもも参会しましたが、依頼により追悼文を書きました。
写真は、東宏乃さんのブログからお借りしました。
https://www.be-winds.jp/?p=1987
「生態人類学ニュースレター」(https://ecoanth.main.jp/nl.html)のNo20別冊、掛谷誠氏追悼 に収録されました。追悼号の全文をpdfで添付しておきます。
以下引用。
せっぱつまったときも猫なで声で――掛谷誠さんに学んだ危機管理
安渓遊地・安渓貴子
京都大学の自然人類学研究室に通うようになった時、伊谷純一郎先生のもとで生態人類学の道を切り開いていた大先輩に掛谷誠さんがいた。大学院4年目の初めてのアフリカ。伊谷先生の指示で掛谷誠さんと英子さんご夫妻が私どもの指南役として、当時ザイールと呼ばれたコンゴ民主共和国でのフィールド探しの旅に同行してくださることになった。
ナイロビからキンシャサに飛び、調査許可証をもらって、国の東端のブカブ近郊のルウィロにある国立科学研究所にたどり着いた。ここでやっと掛谷夫妻と合流し、いよいよコンゴ川上流の調査予定地キンドゥに向かうことになった。といってもブカブからの直行便はなく、キブ湖をはさんだ北岸のゴマの町に行く飛行機がなかなか飛ばない。掛谷さんが親切なムニャルワンダ人の商人と話して、車を手配してもらえることになった。ゴマの空港でもなかなか飛行機に乗れない。まる一日空港で過ごして、結局空振りにおわって疲れ果ててホテルに戻る日々が続いた。そんな時に、掛谷さんが2年間の奨学金をもらってタンガニイカ湖畔に降り立った時の経験を聞いた。やっとフィールドワークが始められたと思ったら、警察官がやってきて、ちょっとキゴマの町まで来いと言われて、お二人は着の身着のままで村を出た。ところがこの「出頭」は、首都のダレスサラームでの調査許可の取得まで、5ヵ月も続いたのだ。タンザニア文部科学省に日参して、調査許可発給のシステムを作らせるという努力がようやく実ったときには、掛谷さんは、みごとなスワヒリ語の能力を身に付けていたのだった。
つまり、フィールドで出会うことがどんなに期待はずれでも、その中で人間的な努力を重ねていけば、道は開けることがあるし、その経験から身に付けたものはかけがえのないものであり得るという教えだった。
やっと飛行機に乗れて到着した州都キンドゥの100キロほど北の鉱山の町カイロから、私たちのフィールド探しの徒歩の旅を始めることになった。独裁政党の若手指導者に道案内を頼み、荷物運びのために2人の囚人が加わった7人で、森の中の街道沿いに歩き、コンゴ川を丸木舟で渡って旅をした。まず若者が村ごとに人々を集めて、モブツ大統領への忠誠の大切さなどの演説をする。それをひきとって掛谷さんがあいさつする。「この二人は、あなた方の暮らしを勉強するためにやってきたのです。できれば半年ぐらい滞在させていただける村を探して旅をしております。」村人たちは、ラジオでしか聞いたことのない、見事なタンザニア・スワヒリ語をあやつる掛谷さんにかなり圧倒されていたらしいことを後に知った。
人々と挨拶を交わし握手する。泊めてもらうときのあいさつやお願い、交流の仕方、お礼をどうするか、ひとつひとつが私どもにとっては、得難い学びだった。「やっぱりバンツーやな、もてなし方がトングウェと同じや」と、お二人の初めてのフィールドとの対比も聞いた。
一晩泊めてもらって朝、森の中を歩いて小さな集落にさしかかった。掛谷さんが村人たちと握手をしていく。窓からのぞいている年老いた女性に歩み寄った掛谷さん、英子さんに続いて握手した私たちが握った手には指が一本もなかった。ハンセン病の患者だったのだ。菌は弱く、握手したぐらいで感染することはないのだが、そうと知っていても心理的な抵抗があることを、にこやかにやってみせるのだという、掛谷式フィールドワークの真髄を教えられた。
「しごき」も受けた。少し先を歩いていた掛谷さんが、荷物を下ろして汗をふきながら、上を見てスワヒリ語で「鳥を見ようよ」と言った。つられて上を見ながら歩いて行った貴子は、道を横切るサファリアリの行列にみごとに足を突っ込んでしまい、体中あちこちを噛まれることになったのだった。
あと40キロほど歩けば、町のホテルの対岸まで着けると目星をつけて旅の最後の村を出るときに、荷物運びの囚人たちが逃げてしまった。仕方なくテントや食器などのすべての荷物をかついで歩いた。
森の中のふみわけ道をたどって一本橋を渡ったり、廃村を通りぬけたりした。街道に出てからの道のりも遠かった。夕ぐれの中、ホテルの対岸まできたもののフェリーの最終便に乗り遅れ、民間のモーター船もガソリン切れで動かない。ここで野宿するのかと思った時、幅600メートルの夜の川を渡す丸木舟をようやくつかまえた。言い値は昼間のフェリー料金の100人分もするのだが、他に方法がない。ところが漕ぎ出してから、それは1人分で4倍払えという。真っ暗な中洲に漕ぎ寄せて「ここで一晩寝てみるかい? ここらのワニはお腹が大きいよ」と脅すのである。遊地はかっとなったが、掛谷さんはおちついた猫なで声で「トゥタクバリアーナ(折れ合おうじゃないか)」と値引き交渉を始めて、かなり値引きさせたのだった。
体を洗う水がコップ一杯しかなくても、どんな危機に直面しても、にっこり笑って受け止める肝をもて、これが、掛谷夫妻から伝えられた生き方だった。
(引用終わり)