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#榕樹文化)#台湾留用日本人_の足跡を追って(3) #蓬莱米の父 #磯永吉_#ISO_Eikichi_#Ponlai_rice_#RT_@tiniasobu
2025/10/06
元の投稿は2021年9月21日でした。
2025年9月30日追加です。
追記1
蓬莱米の中でもっとも普及した台中65号を始めとして台湾の多くの稲のゲノム分析が進行して、その結果、あらまし以下のようなことがわかりました。台中65号のもっている性質の中で磯先生が書いておられることそのものを見直す必要が出てきたということでしょう。
「台中65号が、日長感受性(日が短くなると実をつける性質)を失っているのに、その親とされる品種は、それをもっていた。それでは、それがどこから来たかを探したら、台湾の在来品種だった、という発見です。」
追記2
このころの台湾の農民と肥料についても、勉強中ですので、論文をひとつ添付しておきます。
追記3
10月6日 資料追加しました。植民地台湾での稲とサトウキビの改良の足跡についての回相談ですが、当時の稲の肥料や農薬等の購入する農業資材の一切は、すべて台湾総督府の糧食局が独占的に扱い、農民は収穫された米で物納したと語られています。政府米は生産量の30%ぐらいだったといいますから、とりあえず農民の手元には70%残ったというわけでしょう。この政府米の用途は、軍用米と官吏の給料の一部としての現物給与に使われたということを、糧食局もと技師だった、財津亮蔵という方が回想して語っています。
https://www.jircas.go.jp/ja/publication/shiryo_nettai_kanrishitsu
の中の9_2というファイルです。台湾果樹や沖縄についての資料もあり充実しています。
以下はもともとの投稿です。
このシリーズ完結で、全体では7回目の投稿文です。
台湾で作られた日本稲・蓬莱米(ほうらいまい)の父として名高い磯永吉博士の足跡です。遺稿の中の「農業と道徳」という言葉が胸にしみます。
いかなる農夫も作物に対する限りただ誠あるのみで虚偽は許されない。故に人を道徳的にならしめる。木石を相手にする工人にも道徳が与えられる。物のみでなく生命をも相手にする農人が愛なる要素を加えてさらに人間性を豊かにする。農人は求めず意識せずして道徳を授かる民族中の恵まれた階層であり、農業は道徳をも育てる。それにより民族の健全性が保たれ「農は国の基」となる。其の道徳教育は可能であり技術訓練の中にも生まれる。このことは教育を科学する現代の教育方法にとりて一考を要することと思う(「農業と道徳(遺稿)」『磯永吉追想録』)。
Any farmer, while facing his crops, must be only faithful, and no lies
whatsoever are allowed. Therefore, agriculture urges humans to be
morally attuned. Morality is also given to craftsmen who deal with wood
and stone. Dealing not only with things but also with life, a farmer can
enrich his humanity with an additional element of love. Farmers are a
privileged class among the nation; they are blessed with morality
unconsciously without seeking it. Thus, agriculture also nurtures
ethics. As a result, the soundness of the nation is maintained, and
hence, ”Agriculture becomes the foundation of a nation.” Such moral
education is possible, and it also takes part in technical training. In
my opinion, we should take note of this fact to promote the modern ways
of teaching that have made education a science. Translated by ANKEI
Yuji.
(Agriculture and Ethics: Dr. ISO Eikichi’s posthumous publication in the
”Collection of the Memories of ISO Eikichi”)
pdfには、編集のお手伝いをした高野秀夫さんの「台湾省日僑子女教育班(1947-49)」と
李高坂玲子さんの「学習所から台北第一女子中学に進学」の記事もあわせて掲載させていただいています。今回も『榕樹文化』の関係のみなさまにはお世話になりました。
これが連載7回目です。これまでのものも、あわせてお読みいただければ幸いです。
國分直一先生のとっておきの話
1回目 高雄(打狗)での幼年時代 http://ankei.jp/yuji/?n=2382
2回目 竹南で遭遇した228事件 http://ankei.jp/yuji/?n=2383
3回目 國分文庫と回覧雑誌 http://ankei.jp/yuji/?n=2387
台湾留用日本人の足跡を追って
4回目 植物病理学者・松本巍先生の思い出を蘇鴻基名誉教授に聞く http://ankei.jp/yuji/?n=2428
5回目 高坂知武教授の思い出 http://ankei.jp/yuji/?n=2507
番外編
6回目 児玉識先生追悼 上山満之進と陳澄波 http://ankei.jp/yuji/?n=2508
安渓遊地・安渓貴子 (生物文化多様性研究所)
2025/9/30検索の便宜のために、本文を以下にはりつけておきます。
台湾留用日本人の足跡を追って(3)
蓬莱米の父・磯永吉
安渓遊地・安渓貴子
八重山の稲作研究での出会い
私たちが初めて蓬莱米(ほうらいまい)という言葉を聞いたのは、遊地の修士研究のため1974年に日本の南端の八重山地方の西表(いりおもて)島を訪問した時でした。在来の稲が昭和の初めに蓬莱米(ほうらいまい)という品種に置きかわることで起こった生活の大きな変化を聞いて興味をもちました。そして、蓬莱米の父と言われた磯博士の名前を知りました。
京都大学理学部動物学教室自然人類学研究室に遊地は所属していましたが、ちょうど農学部から東南アジア研究センターに移られるところの渡部忠世先生に教えを乞いに行きました。『稲の道』をNHKブックスから出される前年の1976年のことでした。修士研究では、廃村の考古学という未知の学問を手探りでやっていたのですから、稲については全くの素人でしたが、渡部先生は、八重山の在来稲の研究が大切であること、蓬莱米の導入に伴う大きな変化が起こったことなど、研究の要点を丁寧に教えてくださいました。
何度目かに研究室へお邪魔した時でした。
渡部 「台中65号という品種は未だに八重山で一番作られているけれど、もう50年も前の品種や。日本の稲作でひとつの品種が平均的にどのぐらいで交代していくかといえば、だいたい15年なんだな。それに比べると八重山での品種交代はずいぶん立ち遅れているよ。」
安渓 「なるほど。稲の品種の寿命が15年平均という事は嵐嘉一先生の『近世稲作技術史』に載っていましたね。」
渡部「何、出たばかりのあの本をもう読んだのか!」
実は、貴子が京大農学部図書館で勉強中に見つけた本を、遊地はカードに抜き書きしながら全編をていねいに読んでいたのでした。ありがたいことに、農学部図書館には『台湾総督府中央研究所農業部彙報』などの報告も揃っていて、そこで蓬莱米に関する磯永吉博士の原著論文を読んで引用することができました。
沖縄島の名護市にある沖縄県農業試験場には、八重山の在来稲の生きたサンプルが系統保存されていました。それをもらい受けて、農学的な実験をしました。また八重山のみなさんに穂を見せて昔の在来稲の話を聞き集めました。じつは、農学部の大学院生たちが、渡部先生から「君ら理学部出の駆け出しに負けてるやないか」と言ってずいぶん発破をかけられて辟易したというのは後に〝被害者〟から直接聞いた話です。
昭和初期、蓬莱米導入以前の八重山には、典型的な日本型の稲はなく、また典型的なインド型稲も芒がないため「波照間坊主」とよばれた一品種のみで、ほかの稲は、熱帯ジャポニカとも呼ばれ、ブルとも呼ばれるものが多いという点は、沖縄島と共通していました。さらに芒が長く、粒の大きいというみかけはブルに似るけれど、フェノール試薬で籾が黒く染まるという性質をもち、台湾や南の島々とのつながりのある、渡部先生の言う「水陸両用」の品種が八重山在来稲の古層をなすらしいことが判ってきました(安渓遊地編著、2007『西表島の農耕文化』法政大学出版局)。
この時の研究は「西表島の稲作」として1978年に『季刊人類学』9巻3号に発表され、渡部先生と佐々木高明先生が熱いコメントを寄せてくださいました。西表島の廃村の明治時代の生活の復元をテーマに修士論文を書いたものの誰も注目してくれなかった経験を持つ遊地にとっては、この研究は両先生以外にも、大林太良、佐原真、飯島茂、高谷好一、下野.見、応地利明、生田滋、松山利夫、田中耕司、高谷紀夫といったさまざまな分野の学問の巨人や気鋭の新人たちと共に与那国島や種子島、対馬で稲作をめぐるフィールドワークをするというご縁をいただくきっかけにもなりましたし、山口では先史学の國分直一先生から「若い友人」と呼んでいただくようにもなりました。
「蓬莱米の父」磯永吉博士関係小史
磯博士の略歴については、日本・台湾でさまざまな資料が公表されていますが、細部で一致しないものが多いため、ここでは、ご遺族の提供による資料を広くあつめて福山市内で昨年展示された内容をまとめた、八幡浩二・辻水衣・鈴木悦美、2020「台湾蓬莱米の父・磯 永吉の生涯とその功績——展示資料を中心に」(『都市経済』No.13: 133-156)に基づき、必要に応じて「磯永吉小屋」のサイト(https://www.isohouse.org.tw)からの情報等を追加して整理しました。なお、磯小屋のサイトでは、次頁に太字で示した磯博士の主著2冊(英・日)と追悼文集を読むことができます。
1886年11月23日 もと福山藩士磯其三郎とヨシの次男として広島県深津郡福山町字西町五〇九番屋敷(現、福山市霞町二丁目乙436番地)で出生。
1900年 私立日彰館中学(現、県立日彰館高校)入学。
1905年 札幌農学校に入学。東北帝国大学農科大学予科を経て、
1911年7月 東北帝国大学農科大学卒業(1918年に北海道帝国大学農科大学に改称)。副手として南鷹次郎教授の指導を受ける。
1912年3月 台湾総督府農事試験場技手として1歳年上の新妻たつを伴い台北に赴任。
1914年 同上技師に昇進。
1915年2月 台中庁技師として農事試験場場長になる。
1915年 長女愛子誕生。10月嘉義市から台中庁農事試験場主任に転任した末永仁技手(1886〜1939)とともに、台湾米と日本米の改良に関する研究。
1919年 三女百合子誕生。
1919年〜1921年 1年半にわたり欧米各地に留学し品種改良技術を学ぶ。米コーネル大学ではHarry H. Love 教授(1880-1966)から作物育種学と生物統計学を学ぶ。1928年にも指導を受ける。
1921年 台湾総督府中央研究所農業部種芸科長・殖産局農務課技師兼任。
1925年 「南支那 英領香港 佛印 シャム 馬來連邦 英領印度 爪哇」への視察のため出張。
1926年5月5日(新聞記事では24日) 台北鉄道ホテルで開催された大日本米穀会第19回大会の席上、磯の提案した3つの名前から伊沢多喜男台湾総督が選んだ「蓬莱米」と水稲内地種を命名。
1927年 台湾総督府台北高等農林学校講師。末永仁が台中庁農事試験場場長となる。
1928年3月 創設された台北帝国大学理農学部の熱帯農学第三講座(作物学)助教授。
1928年8月 「台湾稲ノ育種学的研究」で北海道帝国大学から農学博士の学位授与。
1929年 亀治と神力を交配し「台中65号」を選別。この品種によって蓬莱米は新時代を迎えた。
1930年 台北帝大教授に昇進・大学附属農場長・農業試験場技師兼任。
1932年4月 「台湾稲ノ育種学的研究」に対して日本農学会長から農業賞を受賞。
1932年10月 蓬莱米の研究・生産・移出に対して富民協会理事長から富民賞を受賞。
1933年3月 種芸研究、蓬莱米の生産・移出に対して大日本農会から紅白綬有功章を受ける。
1935年10月 蓬莱米の研究・生産・移出に対して大日本米穀会会頭から表彰記念杯を受ける。
1937年 中華民国福建省出張。
1938年2月と1943年 フィリピン出張。
1941年2月と1942年7月 海南島出張。
1941年7月 一時的に海軍省事務・海南警備府事務兼任。
1942年 台北帝大教授・台湾総督府農事試験所所長・食料局米穀課員兼任。
1945年 戦後留用され、台湾大学農芸系教授・台湾省農林庁顧問兼任。
1947年 228事件のあとほとんどの日本人が帰国するも農学系では、中村巍(たかし)教授・高坂知武教授らとともにひきつづき留用となる。
1950年 妻たつ発病。1週間後に死亡。
1951年1月 タイ出張。
1953年5月〜6月 米国出張。
1954年 研究の集大成として600頁を越える「Rice and Crops in its Rotation in Subtropical Zones」を日本FAO協会から発刊。完成後脳卒中となり右半身に麻痺が残る。
1957年2月〜3月 琉球へ出張。蓬莱種普及による生産増加に対して琉球政府主席から表彰。
1957年 退任が認められる。帰国にあたり中華民国総統から特種領綬景星勲章と特別慰労金5000ドルを受ける。台湾省議会は終生食用米として台湾産の蓬.米を毎年1200キロ(20俵)贈ることを議決。実際は外国米の輸入を制限する食管法のもと食糧庁が買い取り、代金を磯に支給。
1957年8月29日 CAT機で米軍岩国基地に到着。山口県防府市緑町に新築した家に入り、湾生の小澤太郎知事の懇請で山口県農業顧問に就任。
1958〜1967年 山口大学農学部で熱帯農学論を10年間にわたって毎年集中講義。
1959年夏 防府市の家を手放し、後妻ヒメとともに横浜市井土ヶ谷(現、南区)に転居。その後も年2回山口県農試での指導に当たる。
1961年5月 日本学士院賞受賞。ヒメ、がんのため岡山市で半年間の入院のあと死去。
1963年 『蓬莱米談話』を山口県農業試験場から刊行(65年同・増補版。68年、雨読社から増補・改訂版)。岡山市の長女愛子の家に住む。
1966年11月3日 勲二等旭日重光章を受ける。
1967年5月 稲作指導のため台湾へ出発する直前に発病し、川崎病院(現、川崎医科大学総合医療センター)に入院し、再び立たず。
1972年1月21日 米の研究者だから米寿まで生きるという願いはかなわず85歳で長逝。
1974年11月23日 『磯永吉 追想録』(私家版)出版。
2003年 台湾大学内の旧台北農林学校作業室内の暗室あとから磯永吉の残した書籍・原稿・講義録など4000点が発見される。
2009年7月29日 保存運動の結果、「磯永吉小屋」が台北市の直轄指定古蹟となる。国史館からDVDと解説冊子『異人的系列 奠基台灣稻米種研究的學者 磯永吉』刊行。
2012年 磯永吉小屋の一般公開とボランティアによる案内開始。実業家許文龍氏により磯永吉小屋に磯永吉・末永仁の胸像寄贈。
2013年3月23日 台湾大学磯永吉学会発足。2013年4月11日 許文龍氏の寄贈により末永仁の胸像が福岡県農業試験場内に設置。
2020年7月13日〜31日 郷里の福山市内で「台湾蓬莱米の父 磯永吉」特別展が開催。
磯永吉小屋と「蓬莱米の母」末永仁
コロナ禍で訪問がむずかしくなるまで、私たちは山口県立大学国際文化学部の学生たちとともに、台湾での地域実習を毎年のように実施してきました。受け入れ先は國分直一先生の資料が寄贈された台湾大学図書館特蔵組であったり、嘉義市の陳澄波文化基金会や阿里山を世界遺産にする会などいろいろでしたが、台湾大学図書館での実習があるときは、欠かさずすぐ側の磯永吉小屋を訪ねるようにしていました。
木造平屋建ての古い建物の周りには、農場や植物園が広がり、小屋の中には台湾の稲についての展示やその研究の歴史的な文物が昔のままの机や棚の上に整理保存されています。ボランティアの方の日本語による案内もありました。
その1室に立派な胸像が2つ並んでいて、1つは「蓬莱米の父」磯永吉、もう一つは「蓬莱米の母」末永仁(めぐむ)のものでした。八重山の稲作史を研究した私たちでしたが、末永仁の名前は初耳でした。幸い、兵庫教育大学東洋史研究会の『東洋史訪』 12: 12-24 (2006)に、堤和幸「1910年代台湾の米種改良事業と末永仁」という論文が掲載されているものがインターネット上で読めますので、それを勉強してみました。
1886年3月15日に福岡県筑紫郡大野村竈蓋(現、大野城市大城)に生まれた末永仁は、磯永吉より半年ほど年上です。1910年、24歳の彼は、福岡県農事試験場の勤務を途中でやめて、台湾嘉義庁農会の技手となります。時あたかも全台湾で、300人もの新しい農業技術者を雇用して、在来稲の品質向上を図ろうというプロジェクトが始動した年でした。
台湾でのサトウキビ・在来稲・日本稲の関係
そもそも、1895年に日本の新しい領土となった台湾では、いかなる産業を育てるべきか、それが農業であるなら、作物としてはどのようなものが適切かというのが、植民地経営の課題となりました。
反乱を武力で抑えることを主とする時代の後、児玉源太郎(1852-1906)第4代台湾総督が1898年2月末から8年余りにわたって、後藤新平(1857-1929)民政長官とともにインフラ整備に努めたことはよく知られています。後藤は、札幌農学校の助教授だった新渡戸稲造(1862-1933)を招いて、農業振興策を担当させました。高雄の台湾糖業博物館には「台湾砂糖之父」として新渡戸の胸像があります。磯永吉を含め、その後の台湾の農業を牽引した人材が、ほぼ札幌農学校の後身の東北帝大および北海道帝大出身だったのは、偶然ではありませんでした。
また、児玉源太郎の盟友で「内閣製造所」といわれた杉山茂丸(1864-1935)が、北海道で廃業した製糖工場の設備一式を、台湾での製糖業の本格的開始のために用意したことを、杉山自身が「古鉄責め事件」として『俗戦国策』(1929年、大日本雄弁会講談社、新版は書肆心水から刊行)に面白おかしく書いています。
話をもどしましょう。台湾にサトウキビ栽培と砂糖産業を定着させたあと、総督府の次の課題は、自給的だった稲作の品質と生産量を上げて、商品作物とするという目標に置かれました。1901年に児玉総督は、水利をよくし、耕作方法に注意するなら、米の生産量を3倍にでき、食べて余った分は島外に売ればいい、という演説をしました。これに先だって、日本稲を育ててみるという実験も当然行われましたが、気候が違いすぎて不時出穂といって、まだ成長しないうちに花が咲いてしまうといったことで、失敗が続いていました。
そこで、とりあえずは台湾在来稲を対象に、明治の始めから日本で取り組んできたのと同じく、なるべく純系を選びつつ、白い米に混じる赤米を撲滅していくという取り組みが始まりました。日本稲栽培のための研究は許可されましたが、仮に成績がよくても、一般農民への奨励は禁止とされました。
日露戦争中(1904-05)とその後の米不足に対応するために、台湾米への期待は高まります。しかし、台湾の在来品種の中で、味は悪いのに丸い形だけが日本米に似ている種類が、安価な混ぜ米用として人気を集めたりというようなちぐはぐなことが起こっていました。
新規採用した農業技術者のレベルを高めるために、1913年から台湾各地の農会での技能コンテストが開かれ、赴任してまもない末永仁は、水稲内地種の栽培を主張する論文で、1年目と2年目に連続して嘉義農会での一等賞を獲得します。技術畑の技手としてがぜん頭角をあらわし、しかも後に水稲内地種の栽培技術を確立し、蓬莱米を誕生させるようになる動きの始まりだったといえるでしょう。
上述の年表に示したように、1915年に台中庁農事試験場に転任した末永仁技手は場長である磯永吉技師のもとで、ともに働くようになります。古川勝三によると、同い年の二人は野球という共通の趣味もあり、人間的にも協力しながら、磯が理論面、末永が実践という車の両輪のように助け合って、日本稲の栽培を軌道に乗せていくという働きをしていきます。
とくに、不時出穂を防ぐためには、強健な若苗を田植えするという技術の発見や、台中65号の育成など、末永仁の働きは、まさに「蓬莱米の母」の名に恥じない、きわめて重要なものでした。
やがて台中庁農事試験場の場長となった末永仁は、病いに倒れ、53歳の若さで1939年12月24日この世を去りました。
1920年から建設に着手して1930年に竣工した嘉南大.(だいしゅう)は、八田与一が指導した烏山頭ダムの工事で有名ですが、嘉義州と台南州で合計1445平方キロにもおよぶ農地で確実に潅漑水が得られるようになりました。水をうまく農地に配分するために、稲とサトウキビと緑肥・野菜という3年輪作体系がとられ、粘り強い指導がされました。これは磯永吉博士の台湾での戦後の研究にもつながるものでした。
磯永吉博士の研究のまとめ
末永仁を始めとする多くの現場の技術者や農民そのものとの緊密な連携を保ちながら、磯永吉博士がリードして、どのような研究を重ねていったのかは、例えば『蓬莱米談話』を見ても、多くの人には専門的すぎてわからないことが多いと思います。
1961年に、彼が学士院賞を受けたときにまとめられたものが、『亜熱帯における稲の育種に関する研究要旨』として残されており、前述の八幡ら(2020)の紹介によってその目次がわかり、内容的には、山口県時代にまとめられた『蓬莱米談話』もこれにそって書かれたものと判明します。
ごくおおづかみに見ると、末永仁や磯永吉が赴任する前から台湾では、水利施設を拡充して水田面積を増やし、緑肥作物と堆厩肥などの自給肥料の増産と、金肥といわれた肥料の購入を奨励し、塩水選による種籾選別、正条密植、水田除草に加えて害虫巡視員を配置して病害虫の防除に努めて、品質と生産量の向上をめざしました。
在来稲、続いて日本稲を対象に品種改良をめざす長年の努力が実って、1929年に台中65号の農民への種籾配布を始めたことで、蓬莱米の品種とその栽培法は一応軌道に乗り、そのあとは稲以外の作物を輪作することで、水田の高度利用をはかるという内容となっています。
1. 台湾稲の育種学的研究
台湾の在来稲を記録したところ1197品種あったので、優良品種390を選び、性質を調べて(1918年までに)175系統にまとめました。在来稲のひとつひとつを、現地の発音による名前で記録し、その特性をくわしく書き留めていくという地道なフィールドワークは、膨大な手間と時間のかかる仕事です。そして、戦後は漢字とその北京語による読みが主流になるなか、ローマ字による記載はきわめて価値の高いものでした。台湾以外の東アジア・東南アジア・沖縄からもたくさんの在来品種をとりよせて試験しましたが、台湾在来にまさるほどのものはありませんでした。
2. 日本稲の育種学的研究
インド型の稲をいくらかけあわせても、日本人の馴れた丸い粒の日本稲のような稲ができないことから、亜熱帯の台湾で育つ稲はないかと日本の各地から稲をとりよせて1256品種を試験しましたが、北部大屯山の高台で一期作が可能であっただけで、失敗に終わりました。このため総督府としては、一時的に日本稲栽培をめざさないことになりました。若苗を植える技術が発見されて、研究が進んで日本稲の栽培が一般に奨励されはじめたのは、1923年のことでした。それでも、日本稲はイモチ病の被害を受けやすいなどの弱点をかかえていました。
3. 台湾稲と日本稲の交雑育種
亜熱帯に合う新しい稲をつくろうという努力も続けられました。従来インド型の稲と日本型の稲を交配しても実らないとされてきたものを、1916〜18年、1920〜21年にかけて膨大な交配実験の末、孫の代でよく実るものを選別して200品種ばかりを得て、数品種はかなり広く栽培もされました。
4. 日本稲品種間の交雑育種
1921年、若苗技術の有効性がはっきりして栽培が可能になった日本稲の交配実験を、3の実験と並行して同時期に大規模に行い、両方の実験での組み合わせ総数は5500に達しました。収量・品質・イモチ病耐性を指標にして選ばれたものの中に、台中65号もありました。
5. 稲の品種間並びに品種の純系内の形質の相関、各品種の感光、感温、熟性の研究
交配のための基礎資料を得るため、例えば草丈が高いと分げつが少ない(茎の数が増えない)といった傾向が日本稲には強く、台湾稲ではそれほどでもないといった、性質ごとの相関を、のべ1万2120もの係数を比較して調べました(1921〜22年)。これによって、末永仁が見つけた、「若苗を植えれば、草丈も茎数も多くなり、穂がつく時期がきちんとそろって、多収となる」という現象が、理論的には、苗のもつ炭素量÷窒素量(C/N比)を指標にして苗代におく日数を決定できることが解明されました。
6. 稲品種の生理遺伝学的分析
これは、ひろく温帯アジアから熱帯アジアまでのさまざまな稲の多様性を、たんに日本型・インド型というだけでなく、陸稲や浮稲などにまで視野を広げてその生理的特徴を分析した視野の広い研究でした。感光性(日が短くなると熟す)・感熱性(気温が高くなると熟す)・熟すまでの期間の長短(早生〜晩稲)の3要素の組み合わせでアジアの稲を5つに分類し、蓬莱種を、感光性は中程度・感熱性鈍く・晩生という独自のグループと位置づけました。
7. 蓬莱米の完成
1919年の若苗技術の発見によって、予想していなかった速度で台湾中に生産が広まることになり、1926年5月5日に「蓬莱米」と命名された水稲内地種は、その後の交配の努力によって、在来稲147品種に対して、純日本米とは異なる感光性や感温性をもつ200ほどの「蓬莱種」と呼べる品種群に育ちました。台中65号のように、一期二期ともに栽培でき、どこでも栽培された大品種もありますが、それだけでは不足で、「適地適作できめ細かく優良小品種を育てていくことが一期作だけでなく二期作をあわせて全生産額を安定させるために大切」と磯博士は指摘しています。
台湾が日本の植民地になった直後の1896年ころは、1年に穫れる米の総量は、150万石(一石は180リットル)内外で、島内の自給が主でした。それが、1900年215万石となり、1921年には498万石と3倍以上に増えて、そのうち100万石を日本内地に移出するまでになりました。これらはインド型の台湾在来稲でしたが、内地種の栽培奨励を始めた1923年の3万8968石を皮切りに、蓬莱米の名前がつけられた1926年には13万石を越え、大戦前には毎年500万石を移出するようになりました。『蓬莱米談話』が書かれた1962年には、1491万石で、そのうち蓬莱種が975万石と生産量の3分の2を占めていました。
戦後の在来種の生産量は明治時代とほぼ変わっていないことも判りますが、これはビーフンなどの、台湾人の嗜好にあった食品の生産のためだと説明されています。
ちなみに、その後も台湾の米の生産高は増えて、1976年には史上最高の271万3000トン[1石=150キロで換算すると、1800万石以上]を記録しましたが、その後は生活様式の変化にともなうお米の消費量の急激な減少にあわせて、水田面積も3分の1以下になるという減反が進みました。2007年の生産量のうち、87.1%は日本型の稲でした(『農林金融』2009年8月号)。
8. 水田輪作体系の研究
台湾の在来稲の研究を手始めに、亜熱帯および熱帯での栽培に適する日本型の稲である蓬莱種の開発とその栽培法についての研究を完成させたあと、磯博士の関心は、限られた土地と水を有効に使える水田輪作体系の中でいかに水稲生産への悪影響を減らすかという研究へと広がりました。これは、若苗を移植すべき水田にまだ裏作物が植わっていれば、蓬莱種の場合は大減収となるといったことから、必然的なものです。
台湾での水稲第一期作の生育期間は約4ヶ月で、第二期作は3ヶ月半ですから、夏は1〜2ヶ月、冬は3〜4ヶ月の期間を利用して水田裏作がされてきました。夏季裏作物は、緑肥作物、マクワウリ等ですが、冬季にはサツマイモ、小麦、大麦、亜麻、煙草、蕎麦、トウモロコシ、蕓薹(ナタネ)、エンドウ、ジャガイモ、タマネギ、ナス、キャベツ、セロリ等の蔬菜と緑肥作物が植えられます。
磯永吉博士はすでに1919年から台湾での亜麻の試作に取り組むなど、稲以外にも短期間で収穫できる裏作作物品種の育成の努力を早くから始めていたのでした。『蓬莱米談話』の本文の最後は、台湾での亜麻栽培の具体的品種試験の報告となり、サトウキビ作の間にバナナ栽培が食い込んでいるという変化に触れています。
台湾以外への蓬莱米のひろがり
台湾で開発された蓬莱米とその栽培技術は、台湾以外にも広がりました。若苗移植という技術の発見以後、さまざまな品種の開発とその生育法という技術体系は、台湾の外へどのように広がっていったのかを、大正時代から昭和のはじめの、1920年代の八重山に注目して検証してみましょう。農民たちがどのように新品種を受け入れていったのかにも注目しておきたいと思います。これによって、台湾で完成をみた蓬莱米栽培の技術がどのような形で八重山に、ついで沖縄全体に普及されたのかがわかります(安渓遊地、2007『西表島の農耕文化』からの引用)。
八重山への蓬莱米の導入を先導したのは、石垣島の字新川の仲唐英昌氏、仲唐英友氏、石川正芳氏という三人の篤農家たちでした。その意欲に押されてともに普及のための努力をし、普及に努めたのが、沖縄県農会技手仲本賢貴氏でした(喜舎場永.、1954『八重山歴史』371頁)。仲本賢貴氏の令息の賢弘氏が、父君の蓬莱米導入事業の経緯について書きとめた記録を中心に、石川正芳氏からもお話を直接うかがうことができました。1923年、はじめて石垣島に「県外種」が来て、仲唐(なかとう)英昌氏が失敗を重ねつつ試作し、3年目の1925年、ようやく若干の収穫をみました。これに関心をもった仲本技手は、台湾へ渡り、新技術を習得し、八重山に多い湿田に合う品種はなかったため、中村、竹成、嘉義晩1号・2号の種籾を持ち帰って本格的試作に着手しました。苦心のすえ、当時1反(10アール)あたり玄米7、8斗の収穫が標準的であったなかで、2石もの収量をあげるにいたって、1926年には積極的な普及にのりだしました。1929年、大量の台中65号の種籾を購入配付。足踏み脱穀機、籾すり機もはじめて導入しました。
当時、仲本技手が台湾から持ち帰って推進した新技術は、a)種籾の塩水による比重選、b)温湯を用いる浸種(一期作)、c)水面より高く床あげした短冊型苗代、d)苗代1坪あたり籾2合程度の薄播き、e)強健な若苗を正条植えすること、f)化学肥料の使用、g)水田を均平にするための新しい農具の導入など。播種は、新暦2月上.中旬(一期作)、7月上旬.20日ごろ(二期作)がよいとしました。当初は、第一期作でも13日目の苗を植えるように指導したため、丈が10センチほどしかなく、苗を採るにも、除草用のへらを使うなどの苦労がありました。また、はじめのうちは、石垣島の農民の反感と非難の対象になり、その中で、仲本技手とその仲間の農民たちの5年をこえる大きな努力が必要でしたが、1931年には蓬莱米が、第一期作だけで、八重山の米の全収量の3分の1を占めるにいたりました(仲本賢貴、1931「稲作のコツについて」『産業の八重山』1号)。
蓬莱米とその栽培技術を、多くの人が納得して受け入れるまでには、西表島においても先駆者の苦労は小さなものではありませんでした。島の西部の網取村の山田満慶(みつけい)氏は石垣島から万作という品種をもらいうけて作りましたが、翌年度の種籾がほとんど発芽せず、周囲の嘲笑をあびました。充分乾燥させて密封しなければ、発芽率が下がり、二期作を前提とする品種であることがわかっていなかったのでした。やはり西部の干立村ではじめて蓬莱米を植えた人たちのひとり、稲福伊勢戸(いせと)氏は、石垣島からのあまり苗(愛国)を植えましたが、芒もない新品種の悪評を聞いていた父親が「こんな波照間坊主(ぼーじゃー)みたいな米がなんの役に立つか」とその田に牛を入れてせっかく植えた苗を食べさせてしまったとご本人から聞きました。そのほかにも、化学肥料はもったいない、八重山の在来稲に比べて、台中65号は脱粒が多くてかえって減収になるなどといったさまざまな非難がおこりました。しかし、栽培がうまくゆき、あきらかに収量の多い品種であることをみてとるや、刈り取りの加勢を申しでて、一日の労働の手間返しとしてもらう60束の稲から種籾を取って、自分でも作ってみようとする人が多くなりました。
そして、台中65号が導入されて2、3年すると、台中糯46号がもたらされ、在来稲は品種を問わず蓬莱米によって駆遂されはじめました。遠い山奥の田や離れ島の田まで刳り舟で苦労してこぎ渡って耕作しなくても、化学肥料の力で安定した収穫があがることがわかり、1935年ごろには、在来稲はほぼ八重山から姿を消してしまいました。
西表島の北岸地帯では鳩間島の人が、芒のない蓬莱米はイノシシの害が大きいからと、戦後しばらくのあいだまでは在来稲を作り続けてていたといいます。八重山の在来稲が最後まで残ったのは、網取村でした。蓬莱米の導入を推進した山田満慶翁が、そのために在来の品種が失われることを惜しんで、籾が黒く粘りと香りのある赤米の、藁がしなやかで縄づくりに適する「アハガラシ(赤烏)」などのいくつかの在来稲を1965年ごろまで作りつづけていて、それが沖縄県農業試験場に収集されることになり、絶滅を免れました。
磯永吉博士も、『蓬莱米談話』の末尾に添えられた「蓬莱米裏話」の14「あひるの卵」に農民からの蓬莱米への不信の声を紹介しています。
大正十五(1926)年第一期作蓬莱種の稲熱(いもち)病による被害は未曾有、実に惨憺たるものであった。自分は、胸に五寸釘をうたれるおもいを以って被害地を見廻った。彰化の田舎の一農家も、その例に洩れず怨嘆して曰く「たとえ蓬莱米が、あひるの卵程の大きさの粒になることがあっても、一生涯決して蓬莱種は作らない」と。自分は責任を感じ、胸がしめつけられたが、挫折を払い、ひそかにこれが解決を決意した。ところで翌年行って見ると、米粒は卵大になっていなかったが、その農家は依然蓬莱種を作っていた。曰く「昨年は随分、稲熱病にやられたが、売って見たら在来米より儲かった。第二期作もよくできたし、それに今度の蓬莱種はいもちに強い」と。農家は最多収量よりも、最多利潤を欲したのである。
以上、文系の方には不慣れな、磯永吉博士の農学そのもの研究のあらましを紹介してみました。戦後も、台湾の農業の復興と、台湾大学での後進の育成、さらにライフワークの英語によるまとめなどに忙しく働きながら、例えば1953年には、米国から取り寄せた稲の38品種の試作をおこない、試験の結果、蓬莱種にまさるものはなかった、と結論づけています。
『蓬莱米談話・増補改訂版』(1968年)の中で、磯博士は次のように報告しています。
熱帯に於ける純日本稲の経済的栽培は至難であるが、蓬莱種は赤道地帯でも栽培できる。現にその普及は台湾だけに留まらず、琉球全域及びマラヤ、ジャバ、ルソン等の一部に及び、南北アメリカの熱帯及び亜熱帯各国でも試作中であり、最近はドミニカ、ボリビア、アマゾンでは蓬莱種の栽培が著しく成功し、……北米テキサスボウモントの稲作試験場長(ビーチエル氏)から蓬莱種が同地方で年々広範囲に作られるようになったことを祝福すると来信。
『磯永吉追想録』の中で、児玉源太郎の盟友だった杉山茂丸の孫の杉山龍丸(1919-1987、作家夢野久作の長男)は、インド・パンジャブ地方の砂漠の緑化を私財をつぎ込んで成し遂げたあと、台湾を訪れて、磯博士と意気投合したと書いています。磯博士からの国民党への要望として、蓬莱米の遺産を大切に育ててほしいと副総統に伝えました。さらに蒋介石総統に蓬莱米は台湾だけの宝ではないと説き、台湾からインドへ20トンの蓬莱米の種籾が実際に贈られました。杉山龍丸は、蓬莱米の実る現地報告を入院中の磯博士にして二人は手を取り合って泣きました。
「更に優れた蓬莱品種の育成を後継者に期待する」と述べた磯永吉博士が去ったあとも、台湾では稲の育種の努力が続けられました。そのことを示すエピソードを記しておきましょう。
1981年の10月、台湾の西海岸を旅行している男たちの一団がありました。おとなりの八重山の島々からやって来た農民たちの観光旅行でしたが、実はもうひとつ目的があり、二期作の収穫期にあわせて稲作を見学することでした。彼らは、500キロも北に離れている沖縄島の名護にある農試から奨励されてくる新品種は、どうも八重山の風土に合わないものが多いと感じていました。その証拠に、50年以上も前に台湾から導入された台中65号が今だに栽培され続けているほどでした。かれらが台中市の近くの大甲区の水田で見たものは、日本では見慣れない稲の1品種でした。台中65号に似ていますが、それよりも草丈が高く、1穂の粒数が多く、しかももっと粒がこぼれにくい稲です。沖縄の農試から最近奨励されてくる品種は、どれも草丈が低く、八重山に多い湿田では作りにくいうえ、少し湿気の多いところに籾を置くと味がすぐ落ちてしまうのです。台湾のこの品種は八重山にとって有望な稲だということを、畦に立った男たちは直感しました。ぜひ自分たちの島でも試作してみたいものだ。袖にでも隠してなんとかもち帰ろうという魂胆で、みながひそかに1穂ずつ摘みとっているところへ田の持主が現れました!
そんなに欲しいのなら頒けてあげようということになり、種籾を1升だけゆずってもらうことに成功しました。めいめいが茶筒に隠すなどして種籾をもち帰って、その年の暮れに始まる1期作にさっそく試作してみたところ、藁が丈夫で台風に強く、雑草や病虫害にも負けず、八重山の風土によくあった稲であることがわかりました。翌年の6月には収穫が始まりましたが、収量もこれまでの品種より多く、炊いた飯の味は驚くほどおいしいものでした。ついに台中65号にかわる新しい蓬莱米が八重山にも届いたのです。この稲は、大甲の地名にちなんで西表島では台光、または島ごとに持ち帰った農民の名前を冠して呼ばれ、またたく間に広まりました。その後、農業改良普及所や農協が気付いた時には、すでに手遅れで、この密輸された稲は八重山の島々ですでに数十ヘクタールも栽培されていたのでした。
農業史研究家の藤原辰史氏は、『稲の大東亜共栄圏..帝国日本の〈緑の革命〉』(2012、吉川弘文館)の中で、台湾農民達の蓬莱米への初期の反発を紹介しつつ、磯永吉は、科学の力を背景に「収量が増すという現実で現場を圧倒する。そのあとに生まれる利益を化学肥料の作り手および売り手たちが吸収していくのである」と批判をしています。綿密で重厚な研究を持ち味とする藤原氏にしては、実証を欠く一面的な議論です。農民の蓬莱米との出会いについても、自給肥料の役割や、新品種に対する農民達の主体的な選択、さまざまな利害関係者の長期的にみた得失などに視野を広げて研究を深めるべきだということを自戒をこめて紹介しておきます。
山口県阿東高原に生きる
私どもは縁あって10年前から津和野にほど近い山口市阿東高原(旧阿武郡阿東町徳佐、1990年に山口1号として稲の新品種「はるる」が育種された山口県農試寒冷地試験場のあった場所)で、飲める水を飲めるままで下流に流すことを目標に、化学物質を投入しない棚田を耕し、伊勢神宮のコシヒカリの神田で台風被害後に生き残った2株の「奇跡の稲」から選抜したイセヒカリを育てています。
その稲を選抜して「原々種」を保存し、全国に種籾を送っている吉松敬祐(けいすけ)さんが、わが家の環境保全型農業のお師匠さんです。実は、彼が1969年に山口県農業試験場に赴任した時、場長であった西村昌造氏から「これは、磯先生の残された教えである。これを肝に銘じて働くように」という言葉とともに手渡された1枚の紙があったといいます。それは、45センチ角ほどの木の板に彫りつけた文字を拓本にしたものでした。吉松さんの心にきざまれた記憶によれば、次のような漢字でした。
爾俸爾祿(なんじのほう なんじのろくは)
民膏民脂(たみのこう たみのしなり)
下民易虐(かみんは しいたげやすきも)
上天難欺(じょうてんは あざむきがたし)
(公務員としての)お前の給料と手当は、民衆の汗と脂そのものである。土百姓とばかにしていじめることは簡単でも、いつもお天道様が見ておられるぞ。だいたいそんな意味でしょうか。
この言葉は、福島県の二本松城の前の岩に刻まれているのが有名ですが、もともとは、中国の五代十国時代の孟昶(もうちょう)の「誡諭辞」から北宋の太宗が16字を抜き出して「戒石銘」としたものでした(板木は今も、山口県農試にあり、「昭和丙子新春 縣古語」とあります。1936年に彫られた山口県の指針を磯博士も大切にされていたということでしょう)。
さて、山口県産の「防長米」の中で、「都」という品種は古くから有名なもので、それが蓬莱米の源流のひとつだったということをお話しておきましょう。高森(現、岩国市周東町)の農民・内.五左衛門(1805-1890)は、1851年、萩藩主のお国入りの行列のお供をして、現在の兵庫県西宮にさしかかったとき、稲掛に干された見事な稲束に目を留め、2穂を買いもとめました。玖珂の親戚田中重吉とともに改良を重ねて良質米に育て「都稲」と名付けました。都稲は大坂市場でも好評で、藩主の御膳米にも用いられ、防長米の主力となりました(http://heisei-shokasonjuku.jp/kids/utsumigozaemon/)。
これが、1899年に、台北県知事であった橋口文蔵(ぶんぞう、1853-1903)によって、台湾にもたらされた最初期の水稲内地種のひとつになりました。「都」は、他の品種とは異なり北部の冷涼な高地ではなく、台湾を南進しました。若苗移植法が見つかったあと、台湾北部の都系の「中村」、中部の「台中特2号」とともに、台湾で3本の指に入る品種となり、1923年には嘉義でもっとも広く植えられる水稲内地種になっていました。
1889年、山口県吉敷郡小鯖村(現、山口市)の篤農家伊藤音吉(1856-1912)が、都稲から選抜した早生の穀良都(こくりょうみやこ)は、1999年になって山口県で復活しました。これを、さらに山田錦と交配して「西都の雫」という酒米の品種がつくられて、各日本酒メーカーが良酒を競作するということが、現在行われています。
磯永吉小屋では、小屋の前の展示槽に、蓬莱米関連の古典的な品種として中村・嘉義.2号・台中65号・亀治・神力の5品種を植えたというニュースが、昨年6月のfacebook@ISOHOUSEに掲載されました。
わが家の耕している田にも、吉松さんが心をこめて選別したイセヒカリにも、磯永吉先生をはじめとして台湾の蓬莱米をめぐって努力した人々の経験と遺訓が脈々と通い合って流れていることの不思議に心をうたれます。
磯永吉博士の言葉
八田与一の評伝を書いた古川勝三さんは、台北帝大教授としての磯永吉は、「台湾全土が研究室である」と台湾中に足を運び、「大地が教室である」と現場を大事にしたと記しています(https://www.nippon.com/ja/column/g00446/?pnum=3)。私どもは1993年、冷害でタイ米が緊急輸入された年から家族のいただくお米を自給し、山口県立大学では「地域が教室」「地元が先生」「キャンパスは地球」という目標をかかげて、地元の方とともに地域共生演習という授業を創って学生とともに汗を流してきました。退職後の今も研究を続けながら、学生実習の受け入れ先のひとつとして、阿東つばめ農園での農業体験を提供しています。最後に、そんな私どもが深い共感と大いなる励ましを感じる磯永吉博士の言葉を引用して、本稿を閉じたいと思います。
いかなる農夫も作物に対する限りただ誠あるのみで虚偽は許されない。故に人を道徳的にならしめる。木石を相手にする工人にも道徳が与えられる。物のみでなく生命をも相手にする農人が愛なる要素を加えてさらに人間性を豊かにする。農人は求めず意識せずして道徳を授かる民族中の恵まれた階層であり、農業は道徳をも育てる。それにより民族の健全性が保たれ「農は国の基」となる。其の道徳教育は可能であり技術訓練の中にも生まれる。このことは教育を科学する現代の教育方法にとりて一考を要することと思う(「農業と道徳(遺稿)」『磯永吉追想録』)。
謝辞
台湾大学校史館は、農学院の留用日本人教員の写真をご提供くださいました。山口県農業試験場は、保管されている『蓬莱米談話・増補版』の校正刷の実物の閲覧を許され、5校におよぶその綿密な校正ぶりから磯博士の学問に対する厳しい姿勢をうかがうことができました。山口市阿東徳佐の吉松敬祐さんからは、ほかのどこにも記録のみあたらない、磯博士についての記憶を語っていただくことができました。山口県農試の版木の解読にあたっては、もと山口県文書館副館長の金谷匡人氏のご教示をいただきました。みなさまに心から感謝申し上げます。
(あんけいゆうじ・あんけいたかこ)



