榕樹文化)國分直一先生の足跡を追って(2)──残された野帳にみる228事件との遭遇 RT_@tiniasobu
2019/09/28
http://ankei.jp/yuji/?n=2382 に掲載した京都で発行されている湾生の雑誌『榕樹文化』第64-65号に投稿させていただきました。
2019年10月1日の日付で発行されています。表紙は 2・28事件となっていますが、引用されるときは、本文にあわせてください。
日本人の戦後責任との向き合い方を考えるためのひとつの貴重な材料であると思います。
國分直一先生の足跡を追って(2)──残された野帳にみる228事件との遭遇
安渓遊地・安渓貴子
台湾に留用された日本人
第63号に掲載していただいた前回の主題は大正時代のはじめ、当時打狗(ターカウ)と呼ばれていた高雄の町での國分直一先生の幼年時代だった。今回は、ずっと時代が下がって1947年のことを書いてみたい。
台湾に暮らしていた日本人は、敗戦によってそのほとんどが──「湾生」と呼ばれた台湾生まれの人びとも含めて──「帰国」することになった。例外として、大学教員など、専門的な技能をもつ者は、やりかけた仕事を完成するまで台湾に留まることが求められた。こうして「留用」された日本人の中に、國分直一先生と、恩師である金関丈夫先生の家族もいた。
「光復台湾」のあらたな支配者として到着した大陸からの「外省人」への台湾生まれの「本省人」の不満は、1947年2月27日に、台北でヤミ煙草の取締をする専売局員の発砲事件を期に、一気に爆発した。のちに228事件と呼ばれ、その後37年にもおよぶ戒厳令の中での白色テロの源流となったまさにその時、それを目撃し、記録に残した日本人は非常に少ない。
この時、留用日本人として台湾大学の教員となっていた金関丈夫・國分直一両氏は、台湾人スタッフとともに台南附近での考古学発掘や人類学調査に従事していた。
半世紀後の語り(1990年11月)
1990年秋、私どもは、日本民族学会(現、日本文化人類学会)と原ひろ子会長の支援を受けて、國分直一先生のお話をビデオに収録した。その語りを文字おこししたものを、以下に示す。これは、國分直一著、安渓遊地・平川敬治編、『遠い空──國分直一、人と学問』(2008年、海鳥社刊)に収録した文章の原文にあたるものである。ビデオそのものもインターネットで公開しているので、パソコンで「國分直一先生のとっておきの話」で検索していただくか、スマホで以下のQRコードを読み込んでいただくと視聴することができる。
ビデオ・國分直一先生のとっておきの話「留用の4年間」(聞き手・劉茂源)
228事件のときは、僕は金関先生とご一緒に、曾文溪の調査をしていたんですが、「台北で暴動が起きた」というんです。そしたら汽車は、新竹まで来たら止まっちゃったんです。台湾大学の学生が指導して、汽車止めちゃったんだそうです。それで、中国の製糖会社の技師が、妙齢のお嬢さんを連れていました。もう暴動が起きていますから、中国内地系の方というのは、ことごとく脅迫されていました。金関先生と僕は新竹の駅で、お嬢さんを連れた中国の技師を誘いました。「あなた方は危険があると思うから、すぐに我々は、ホテルに避難するから行きましょう」と言ったんです。それで、ホテルの一番奥の部屋に、その技師を連れて──英語の通じる方でした──新竹に四日くらいいましたかね。お嬢さんがいるもんだから非常に心配して……、とっても可哀想でした。それから僕は、金関先生と相談して、「この方達、台北に連れて行きましょう。金関先生の所に置いてくれますか?」と言ったら、「良い。僕の所に連れてこい。二人を救おう」と言われました。それで僕はマダムに頼みました。「このお嬢さんに、スカートをやって下さい」スカートの姿になれば、内地(中国)の人かどうか分からなくなりますからね。お父さんの方は、背広を着てました。お嬢さんだけ扮装を変えれば良いから……。非常に心配しながら「どうしたら良いんだ?」と言うので、「話が通じても通じなくても、日本人が話してれば日本人と思うだろう」と言うことで、仕方ないので、下手なイングリッシュで話しながら駅に行ったんですが、こうして耳を傾けるんですね。
「君、話しているのは何だ? あなたは何だ?」「僕は日本人です」「日本語じゃ無いじゃないか。こっちは中国人だ」と言うんですね。そして、なんぼ弁解しても駄目なんですわ。「この人達は技師だから。本当に技術者なんだ」と言っても、(首を横に振って)許さないんですね。結局、二人を連れて行ってしまいました。それはいつまでも消えない、何とも辛い思いでね。
――あぁ。そしたら先生、救えなかった訳ですね。
救えなかった。
――それは、お気の毒です。
「もし、あなたが我々を妨害するなら、あなた方を殺す」と言うんですね。
――そういう事があったんですか。
そういう所まで、行ったんです。それで台北に帰って駅降りたら、装甲車で銃撃してくるんです。金関先生と二人でドブに飛び込んだんです。銃撃が去った後に、飛び出して帰って行きましたけど、それから後、一か月間はどこにも出れないんです。……
そのときにこの『回覧雑誌』、この分厚いのができた訳です。ちょうど戦争の末期に、日本の東京では紙の配給ができなくなりまして、三省堂が中止になって、東京書籍株式会社と言うのができるんですね。台北にも、その支店ができたんです。こんなに(背丈ぐらいの高さの)この『回覧雑誌』のもとになった原稿用紙を持ってました。戦後、支店長に会って「原稿用紙下さいませんか? 我々は寂しくて仕方がないから、みんなで書いて回覧雑誌を作ります」と言うと、「どうぞ。使ってください」と、大変なボリュームの紙をくれましてね。そして金関先生を中心にして、書きました。それがこれです。そのメンバーに森於菟先生(森乗ス外の子、解剖学)などもいるし、早坂一郎先生(古生物学、後に島根大学学長)のような人がいるわけですね。
――(劉茂源)先生、228事件があって、大変な時を過ごされましたね。今(1990年)、台湾では若干解放されて、野党ができて228事件のことも検証していますけど……。そういう、嫌な時代もあったと言うことなんですね。だけど、あの中国人の親子を救えなかったというのは、先生、残念だったですね。それはもう、ベストを尽くされたんですから。
長く、心の底に残ってねぇ。「どうしたら良いか」と泣きたいような思いでしたね。……
同人の『回覧雑誌』の目次の例
(台湾大学図書館所蔵)
発掘と228事件の勃発
「感心居士」と呼ばれ、メモ魔であった國分先生は、フィールドでの見聞を細大もらさずその野帳に書き付けた。数百冊にのぼるそれらの原本は、いま国立台湾大学図書館5階の特蔵組に所蔵され、すべてデジタル化され、整理が済み次第順次公開していく手順となっている。その中に、台湾時代のものも数は少ないが残されている。ちょうど、上記の語りの前夜から、まさに中国人の親子を救おうと奮闘するあたりのことが書かれたものがあるので、それを読んでみたい。
台南附近での考古学発掘や人類学調査をしていた金関丈夫・國分直一先生たちは、2月27日の夜、台北で暴力事件が起こったという報に接する。留用されて残った少数の日本人として、慎重に行動しなければならない。急いで台北に帰って、戒厳令の中で駅に着くのは危ないなどと考えて、出発を1日延ばして汽車に乗るが、新竹まで行くと国民党軍が列車を接収するかもしれない、というので新竹駅から20キロほど南の苗栗県の竹南駅で列車は止まってしまう。日本語も台湾語もできなければ、中国人とみなしてリンチを加えていた集団が、日本人には危害は加えないから、降りて下さいというので、リンチにあいかけていた、まだ幼い女の子を連れた老人をかくまって、駅前の旅館に入る。旅館の台湾人の主人も2人の女中も、なんとか助けてやりたいという人情を共通して持っていると國分先生は書いている。緊迫する状勢の中で、ラジオ放送が「600万の台湾人よ立て!」と日本語で蹶起を呼びかける。旅館の見取り図や、4人で寝た部屋の図面まで、ドラマ作家のような詳細な筆は描いていく。國分先生の記憶による後の語り(上記のビデオ)では新竹でのこととなっているが、野帳に記された現場は新竹の南の苗栗県竹南駅付近だった。恐らく、竹南を新竹と取り違えられたものだろう。
発掘の記録や、遺跡・遺物の図とともに、本省人の間での外省人への不満の高まりや、日本時代を懐かしむ声、警察官となっている原住民族の声などが緊迫する情勢の中でもていねいに拾い上げられている。文中「先生」とあるのは、金関丈夫氏のことである。外省人は、「中国人」「アーサン」、国民党は「中山さん」などと表現されている。群衆はMob, デモはDemonstrationなど、野帳をのぞき込まれてもすぐには意味がわからないようにするための配慮か、所々に英語の単語が混じる。以下、すべてを載せる紙数はないが、当時の社会情勢がわかるところを抜粋してみよう。場所は、台南州曾文郡大内庄、今日の台南市大内区で両先生が発掘した曾文溪遺跡付近から始まる。見出しは、もとのノートにはないが、このたび仮につけたものである。……は省略を示す。読めなかった字は■で、下線で示す明らかな誤記の訂正や補足は[ ]の中に表記した。野帳のデジタル画像(ntul-mf0033-00444)の使用にあたっては、國分直一先生のご遺族の許可と国立台湾大学図書館特蔵組のご協力を得た。
戦中戦後の状況 (1947年2月25日)
25日 山上の調査了へて大内にかへってきて一軒のそば屋による なんにもいしきしないで はいったのではじめは気がつかなかったが 自分にたいする店のものの態度がいくらかおかしい その中にものをたべてゐたものの一人が(ちょっと顔きゝのやうな) 私にあなたは純粋の日本人かときく 私は日本人だと答へると あゝさうか 実はあなたが中国人だとうたがって 中国人ならものをやるな お茶もだすな(実は私はいせき歩きでつかれてゐて お茶をくれと注文したのである) 料理はつくってもまづくつくって高くとってやれ等とはなしてゐたが みんながおまへは日本の軍とも関係してゐたし 日本人を見分けることが出来るだらうから ためして見れといはれてためしたのだとのこと
そこで私が名刺を出すと かれは大内郷大内952番地 梯江守 と書いて私の名前をいへばどこでも大丈夫といふ かれは陽にやけたあからがほの もうかなりの年ぱいのものであったが上機嫌で私と語り さかんに中国人の悪口をいひ かへりには私を途中まで送ってくれた 芋の蔓しかくへないもののゐるお菓子屋によってお菓子を買わふ とまで通訳ををしたり手伝ってくれたりした いよいよわかれる時には お大事にといひ別れた
民心がどのやうにうごきつつあるか それはいかなる状勢の反映であるか くわしく考へてみなくてはならない
25日 鳴頭[大内郷の地名]にゆき 鄭水深君に会ふ 数年前別れたばかりではじめて会ひ 感慨無量の感あり
東洋医学院を卒業して 戦争の末期にかへってきて 結婚したとか すでに女児二人の父となってゐた 奥さんは背の高い人だが赤坊をおぶったまゝ 厨房にゐて出てこない。お父さんが 10日ほど前に[なく]なったといふので 家族全体が沈うつに沈んでみえた。
戦争中日本に協力 殊に Tatara部隊がきてからは牛車のてうはつ竹のてうはつ(供出)人夫の供出などに全面的に協力した ために終戦後は部落民に賃銀支払のこと 供出した器材の返かん等を迫られて非常に困却したといふ お父さんの鄭万断氏は長くわづらってねてゐたので危害を加へられなかったやうであるが 兄さんの水木氏はおう打されたといふ 水深君はいたいたしげにその話をしてゐた
Tatara少佐とはよく気もちもあったらしくなつかしそうにTatara少佐(26才)の話をしてゐた
元来鄭家は日本時代初葉にこの地方にはいり 平埔族中の豪族藩天生一門ときそひつゝ 次第に地盤をかため ことに玉井精糖会社工場が出きてからは原料係として次第に地位をもち 玉井─善化間の甘蔗運搬台車を管理することになってから非常に大勢力をもつやうになり 蕃家をおさへて大をなし 戦争末期には非常にTatara部隊に協力したものであるが 終戦後前記のやうないきさつから地方民の攻げきをうけ 遂に蕃家の天生の息に従来の地域をうばはれた形となり 天生の息が村長となり水深氏が副村長といふ格でおさまってゐるが 水深氏は最近辞表を出したといふ
愈々辞して去らんとするや郷長の息私らをひきとめてとまれという 郷長はイシをかねてゐて医院の方にゆく かなりの年ぱいのやせた人 やさしい声で 煙草をすゝめてくれたりのあげく お風呂をわかし入れてくれる 非常に多忙らしく時々中座 食事の間も 息子さんをのこして会社の雇員のせん抜しけんの口頭試問を行ひにゆく。夜は郷長官舎にとまる
夜官舎にかへる前 廖乾定氏の所をたづね、鄭君のおくさんの兄さんといふ。ゐない。
廟にゆくと台南からよんできたという老人をかこんでこゑにあはして古歌をならってゐる
千里眼 順風耳のまっくろなものすごい風姿がうすぐらい神廟の祭壇の両側に立ってゐるのをながめながら奥へは入ると げんら王といはれる主神の前でこゑがなつて合唱の声をあげてゐた
廖さんはやあといひながら握手をする 福岡のYuhshu[修猷]館を出て 台北高校をへて 熊本医台[大]にまなんだとかで ばりばりの日本語を使ふ 日本時代に 非常に日本人の官辺や民間人に受けがよく かつ廖君自身も日本人とかはらないいしきで生きてゐたらしく 終戦は意外でもあり悲しくもあり 失望の中に奸漢としてのはく害をうけはしなかったが 白眼をもってみられ中傷をされたりしたという かれが最高学府を出た手腕のある医者であったゝめ 村民にもうけがよかった そういったものへのそねみから 現郷長陳氏(?)は、かれが日本時代蒋介席[石]を地獄に於いてさばく劇の脚本をかいて 劇をえ[ん]じた事を密告したといふ ために憲兵にしらべられたとのことであるが 地方民の評ばんのよいことゝかれのひとがらによってきりぬけることが出きたらしいが 爾来両者の間はうまくゆかず 廖君は郷長に対していろいろ不平とその悪評をしてゐた
時代のおもひがけないおおきなてんかんきに際して 様々の運命の比関[ママ]さがみられる
夜郷長官舎にとまる 美しい風とん[布団]にあらひたてのシーツかかってゐて きもちよくゆっくりじゅくすいする
考古学と人類学の情景(25-26日)
25日午後二時 水深君の案内で玉井に出る
国民学校遺跡を見たが土器片の極めて断片的な散布が見られるのみである 約1mくらいの表土を除去したといふのでその際に遺物の多くのものがはこびさられ他の地いきに埋せきされてしまったものと考へられる
国民学校の教師教務主任の人にあひ案内してもらふ
Tabanii 事件[編註。大正4 年に玉井で起こった原住民族の蜂起から日本人95人が殺された事件。西来庵事件とも]についてきかれて返事にこまる
つゞいて初級中学をたづねて校庭をみる やはり土器片含砂 火度低い土器片散布してゐる 包含層の厚さは測定してゐない 適当な露層が見られない。初級中学に於いて郷長の息子(物理学校出)に会ふ その他先生方したしさうな話しにあつまる 北京語、物理化学 英語、数学博物 語文等の担任あはせて専任4人 しょく託1人(長崎医大出身海軍々医)原始[原子]ばくだんをみまはれし時はよそにいってゐたといふ。)……
26日 早朝辞して廖氏をたづね自転車で坑口── の遺跡をたづねる
26日 頭社[大内郷の地名]一泊
……5時先生一行と頭社にかへる
26日 石棺の各石材に一々マルクをつけて 取り除き さらに石棺下を掘ってみる 棺蓋上面のレベルから下には土器石器ともに包含なし
整理は午前中にすむ 国軍の一人この時来て見てゐた 鄭先生のご好意で生徒たちが竹のタンカで石棺の材を奉安殿あとにはこんでくれる
この付近古い墓地にして幽れいが出ると伝へられてゐた
25日夕刻 石棺が出土したので婦人が あらら といふのをきいてゐた観衆は 道理でこの付近を通りかゝった時 淋しさうにめしがくへないとないてゐる婦人がゐたので うちにきなさいと手をひいたら 手がつめたくてたちまち消えたといふ話があるが そのわけが分かったとある一人がいふ
なにも出なかったのであの人たちは気の毒なことだなどといふ……
「馬鹿な人たちだ 何にも出やしないのに」「下から掘ればいいのになんといふおろかなほり方だ」……あつまった見物に通行人色々我々を見て笑ふ
竹山国民校の出来た時 [石棺が]三個位出土したともきく
「金を掘るのだらふ」といふもの 「金をほるならはじめから石をぬいてみたらよいだらう」「いや金を掘るには昔からあゝいう風に少しずつ静に掘るものだ」等と説明するもの知りも出てくる
「蕃人はmagicがあるからあの人たちは棺をあけたしゅん間石となるであろう」とうれうるもの 「国が破れたのに研究になんの意味があるか」といふ国民服の青年もゐる
第一日は結局20 cmほりさげ 一部20~40 cmほりさげたまゝにして次日にゆづる 四時おはる
夜お医者様たちの歓迎会に出席 竹山旅館 生のエンチェンがでる 豚の足のスノモノがうまかった
中国軍の一大尉から ピストルをもってゐるであらう それなら2000 yenで売れと言はれて面くらう 劉街長の辯明によって漸くうたがひがはれる
27日 牛車 午前中国民学校児童の調査 指紋血液型 指紋のお手伝ひをする あかまみれの子供の手にインクをつけていると体がくさい はきたいやうなのがゐる 先生とくさい生徒たちがふざけはじめる 先生には童心があるので生徒たちなつくのである こんなにふざけてあそぶことは こゝの子供たちにはなかろうとおもって ほゝえましく見てゐる しかし子供のいたづらだんだんすゝみ 先生のベレー棒の頂についてゐるひもをつかみにくる
午後1時牛車に荷もつをつんで大内に出る 大内でチョッキをなくす 結婚した時にかつたチョッキでおもひ出のおおいチョッキであつたから愛惜のきもちが強い
台車にて善化に──善化から5時頃の汽車で台南に
車中ピッケルをわすれたことをきづいて悲しくなる 沈氏が電話をかけてくれる(車掌にたのみ) 台南駅にてまだ返事なし 沈栄氏の所におもむく 久しぶりの対面 めしを銀座のすしやの二階でくふ 沈栄氏の招待
旅館新生旅舎にとまる 芝昭氏の居宅のあと 大床を二個おいた洋間に先生と自分、余さんと蔡氏は日本間。
夜陳師雄君に会ふ 土橋迎久君の葉書をよむ なつかしい 陳君のおぢさんが日本婦人を妻にしてゐたこと 戦争末期に死んだこと 日本婦人のおくさん4人の子をつれて日本にかへったこと等を知る 写真を見る 美しい人 おぢさんは Saijiri[蔡滋理]氏ににた怪いな容貌 看護婦の写真といふ づがブックにはってあるいく枚目かのものは小さな赤ちゃんをだいた写真 陳君の叔父さんのつくった子でないかと気になるがきかなかった 日本婦人と他国人 ことに支那系の人との結婚は結局不幸になることが多いらしい。(はじめて石氏をたずねたがゐない)
台北での騒乱のニュース(2月27日)
陳君の話ではじめて 台北にあるさわぎのおきたことを知る よくはわからぬが 煙草売りの老婆を専売局のとりしまり係のもの短銃の台にてたゝき 且つ あまりひどいではないかといひ とめんとする民衆の一人をうち殺した(計二人)といふ ために市民のげきこうするところとなり 専売局は包囲され長官公舎前にも Demonstrationのむれがあつまったらしい 事件は次第に大きくなりついに三時放送では 戒厳令がしかれたといふ 参議会は陳[儀]長官に六項の要求を出したといふ 陳君は町を歩きながらその話をいくらか冷静にはなす。自分は非常におどろく
さかり場で帰路かしをくひ ビーマー[不詳]を食べて先生にあふつもりなりしが お目にかゝれず いっしょに新生旅舎にかへる。先生らまもなくかへる
先生は台北の事件ニュースを街できいてこられて話される 先生は陳君のニュースよりもっとくわしくきいておられた。大変なことが出きてしまったと話しあふ
「うちの奴がかわいそうだな どうしているかしら」先生はこころからさういはれる しみじみといはれる はっとうたれるやうに 私も台北のおうちのことを思ふ おく様のお顔 とくちや[ん、金関家末子の悳さん] 敏雄さん、ちんりゃうせいが僕の出たことをしってゐるから なんとかしてくれたかもしれない」「しかし つかまって 入れられたかもしれない」「とくちゃんが英語学校にいってゐるんだが」それなら色々時間的に下校時間その他のことを考へられる 日僑互助会が何とか通知してくれるかもしれませんね
陳君は首をふるやうにして 台北の奴らはやるな といくらかふがひなささうにいふ
落ち着いた金関丈夫先生(2月28日)
実は翌日紅頭嶼の壺を台南師範に見にゆくつもりなりしも 一刻も早く台北にかへらうといういふことを考へて 陳君12時すぎにかへる 先生二時頃まで英文の探偵小説をよんでおられる 私はつかれてゐるので さきにベッドに入る 先生も気になられるとみえ 思ひ出したやうに事件に関して話される かいげん令がしかれてゐるとすると 通行はむつかしいだろうね しらべるでせう カメラはおいてゆきませう ピツケルはあぶない
その中にさいさんが済南にゐたといふから あちらのかいげん令を知ってゐるかもしれない きいてみやうとしてさいさんのroomにゆかれる
「済南では共産党潜入のうたがひのあった時 かいげん令がしかれたが けんぺい兵たいらがならび 一列通行で要所々々であやしいと思はれるものの身体けん査が行はなれる位でyancho[洋車]も通行がゆるされた。」
さういふ話がせまい廊下ごしにきゝとれる
先生がかへってこられて これこれかうかうだからたいしたことはない 明朝の急行でかへろうといはれる その中に自分はねいってしまふ 翌朝4:30頃目をさまし 善化に忘れたピッケルをとるために5.35分の上列車にのるために駅にゆく
善化ではピッケルが駅長の所に保かんされてゐる。たしかにあなたのものか 証こは といはれ仙台山内505番とかいて(ほって)ありますがといふと その通りとてかへしてくれる ピッケルのあったことおどり上がるほどうれしい 善化の遺跡を見るために下り7時15分列車までの30分間位を町にむかって歩く しかし十分時間をつくして見ることができない 8時に新生旅舎についてみると先生はお菓子をかひにいって留守 余さんがひとりぽつねんとして一人ゐて どうするかわからないのですが 先生はかへりたくないと いっておられるといふ 温かい陽ざしがまどから入ってゐてじっとして動きたくないやうな気もち
その中、先生かへってこられる チョコレートのあぢのするあんのはいったおいしいまきパンとお菓子をかってこられる あと45分で急行が出る お茶をのみお菓子をたべてゐる中にかへりたくなくなる もう十分間でかへれなくなる さういはれながら先生はどっかとこしをおろしておられる 万事休すもう十五分間 もうどうしても間にあいませんかねといはれる まにあひません
先生はやゝにこりとしてたばこをふかす さいきん僕はあそんでゐたいやといふ 余氏もたちたくない様子 その中 午後の汽車で台中までゆかうか そしてもやうをみて夜行にて立つといはれる 余氏その辺りのこと考へてゐたといふ。そこで1時55分発で立つことにして 12時に陳栄氏の所におちあうことにして 自由行動をとることにする 高ヱをたづねて顔氏にあひ 千々岩さんにたのみ 台南師範にゆき紅頭嶼の壺(彩紋)を見ることにする
とにかくいさゝか興ふんして校長官舎を辞す(師範はむざんにもばくげきと災火のあとをとゞめていた。)
それからひるめしを例の銀座のすしやでたべる 余氏とさい氏にあふ 余氏さい氏台中に一時の列車で立つことになる われわれはのこり(*石さんの所にくる途中 Tsau
shauといふ靴型推断器をつかって蕃箒はんをつくる台をけづってゐるのを見て実測図をつくる)
紅頭嶼[蘭嶼]の彩紋土器(首廻32.5cm火度低い。へらみがき朽葉色 伊師教諭 昭和10年紅頭嶼よりかへりてマラリアとチブスにて死去 伊師氏がもちかへりしもの 本田校長所蔵 現在師範校長所蔵)
掃箒刀Tsau shau touの実測図
白金町 東門 花園町
(*Gan[顔]さんが湯川さんのあとの小屋に 書がが おいてあるといふのでがんさんとゝもにゆく そこで寛済[寛齋]のナスとキウリ のマリとカシワの小畫を見つけられほしいといはれる Ganさんおしさうにしてゐたが なにかと交かんしやうといふ)
先生いゝきもちになられたらしくたのしさうに(がんさんとわかれて)石さんをたづねることになる 途中くつ形の推断器を見る 今日の午後はゆかいになったといはれる) をみる[ママ] みるべきものなし 白金町でかべ新聞を見た。くわしく知る
がんさんの所へゆき魚すきをごち走になる (公会堂前のカフェでコゝアとかしをたべ 石さんの案内で花園町の好事家をたづねたのだ)
東門からのかへりに号外を見る 陳長官のせい明を知る
千々岩さん夫妻 肺病々院長 Ganさん夫婦 みんなでたべる おいしい
8時私だけにもつをとりにゆく
沈氏のところでお嬢さんたちに会ふ 大きくなってゐる かあいらしいよせがきをのこしてあった 昔の生徒たち 文句少々おかしい しかしいっしゃうけんめいにかいたものらしい ありがたい
汽車で台北に向かう(3月1日夜)
(Ganさんのところで GanさんAn・san[外省人]といっしょになるのがいやで汽車は三等にのることにしたという 時々考へるとねむれぬことがあるといふ あのいつみてもたのしげな生活力の強さうなGanさんにしてそれかと思ふとおどろく)
陳栄氏の弟さんがきてゐていっしょに立つ 肺院の院長おくってくださる 二等車内で寝台をとってもらふ 所属でわかれてから 寝台には入る
しんだいがあったので にもつをはこび入れやうとして 私がおくれてゆくと 列車boyが私をかこみ 日本人ですか あゝ日本時代はよかったな といきなりかんがいをこめていふ 興ふんしてゐて 中山さん[孫文、国民党のこと]をほうり出さなくちゃといふものあり。台北事件をはなすものあり、応答のしやうなし
汽車通霄でとまってしまふ それまでねた 新竹には入ると汽車がとられるだらうと(鳳山部隊北上 在新竹なるにより汽車を)とられるといけないといふのでこゝはしばらくてい車するといふ その中ねいる さめると竹南に
もうおきませうと先生がいはれるのでおきる
ついて先生はいかぬという
台北飛行場占領のDema(風評を)boyからきく 次第に重大化しているらしいことを知る。
(台南出発の時 2日[付]の中華日報を見てくわしく知る しかしかいげん令は一日夜に到ってとくといふことが出てゐる もし昨夜たってゐたらかいげん令下の台北にいってこまったらうとはなしあふ)
その中駅べんをうりにくるものあり 干がきをうるものあり 駅べんはかひはぐれ 干かきをかってくふ 日本語の非常に上手な上海styleの婦人と日本語の上手な中国人及本省人二人のところへどんぶりはこばれる そのどんぶり一つあまったのをくへといふ 先生と二人わけてくふ くひきれず
汽車の中でのリンチ(3月2日)
やがて寝台を出てくれといふので 二等車には入ってゐるとMob来たりて中国人と思はれるものをひき出てリンチをはじめる やゝ長髪の白いものをまじへたやゝ年ぱいの人のやせ形の中国人をひきづり出さんとする かあいらしい女の子をひとりつれてゐる 出ぬとこづくのを女の子悲しい聲をあげる 私はどうしてもたすけねばと考へ女の子を自分たちの所へつれてきたく思ふ その中Mobの中のbossらしいものラホヤ[台湾語、老人]だからと制止するものあり 鉄道従業員らしいものもラホヤだからといふ Mobをさけて出なくはならんと考へてゐる中に出てくれといってくる 日本人は大丈夫だから正かくなる日本語を話してくれと案内で駅員の注いをうけて苦笑する
竹南駅頭の旅館に避難(3月2日)
先生先とうに老人女の子それからいちばんあとに私が重いリュックサックを背に旅館にくる Mob中中国人でないかときくもののある中に日本人々々々といひつつ Hotelにくる 三階の部屋におちつく
別々の部屋をあてがはれたがいっしょにゐてやる (なにかのひゃうしに)老人先生の名刺を見てProfessorといふ Oh you speak English といふことになり英語での会話ができるやうになる かれの名は 楊樹仁といふ 台北normal schoolのTeacherだと名のれと先生は英語でゐふ
(列車から出る時 Mobの一人にかれがつかまった時学校の先生だと先生がいはれ病人だとといはれる 学校の先生ならよろしいといはれたのを思い出されて)
おし入れの下にコンドームがおちてゐる 使用されたものらしく根本はやぶれさきの方はにかはしつのものが付いたあとのやうにてかっとひかってくっついてゐる 先生つまんですてられる。
駅員ながく話してかへる 中食事をすましてあと 先生は画をかけられて老人に説明される(老人はC[h]icagoのTechnical schoolを出たといふ)
高雄の糖化公司にゐるengineerなりといふ はなしていった鉄路業員は竹南区竹南鎭塩鑪前百三十七 鄭柄爐といふ
ゆっくりさしてやらうと次の部やに二人去る Mobの中にゐた一人 牛耳ってゐた乗客あそびにくる しばらくしてかへる カギ[嘉義]の人
その中にHotelのMasterがきてきけんだからはなれのあきやにうつすといふ 一人一人つれてゆくといふ Come by one と先生が重々注意される
はじめむすめさんをつれてゆく時私がついてゆく つゞゐて老人がゆく 入れてしまふと外からかぎをおろしてしまふ。女中も主人(若い)もたすけてやりたいといふきもちにいっちしてゐる 人情といふものを考へる
Mob Hotelには入ったことをみとめて 時々きゝにくるといふ しかしあとでは にげたといってごま化してしまふ 2時頃東大工科出の若い支那人変装ツメエリの国防色(?)の服を着て 外省人とつれ立ってくる 奥さん(あそばせ言葉を用ふる)は新竹の人なること モンペをはいて変装してある所にゐること 一人の中国人日本語を解せぬもの同伴不安のこと等をはなす モッブの話をするとどんなものかときく ふくしゅうを考へてゐるのでないかと直感する 主人と子供のことを心配してゐた 私たちがかばってゐることをきかしてやると安心したらしい。またくるといってかへる
午後3時頃外出して菓子をかってくる 茶をのみ かけものをかんしゃうする
その中楊樹仁氏から英文のletterくる if there is any train ならfor公司寮にむかって明朝立ちたいといふ your’s sincerely Yanとかいてある。
Dr. Kanaseki Mr. Kokubu, March 2nd
would you leave southward 4 o’clock tomorrow morning for 公司寮 by the train
(if there is any)
Yours sincerely, Yang Shu Jen
[以下は、名刺の陳大經の名を消し住所を破った表側] 送呈
金関博士 國分直一殿
(a few Bananas)
とても汽車はないしあぶないからと考へるが話が出きないからとHotelのMasterいふ 私が通訳をしにいって説明してくる 奥さんの服装の上海styleなることあぶないといふと変装したといふ
かれは 公司寮からshipをとらへるつもりらしいが出きないこと汽車の見込のないこと stay here is better なること等を話し翌日
newsをもってreportするからとわかれる
夜くらい電灯の下で日記をつける 風午后になって強くなり寒気つよくなる
How are you
と歓喜して私を迎へるのをHotelのMaster聲をたてるなといふ わかるとこまるといふ それからはしゃわしゃわしゃわというやうな低いふるえるやうな聲で英語を話す ■■[ローマ字カ]になる 日本語十万金[斤カ]からのあじがとれたとて 外を通るものはみなあじをさげてゐた
夜食をすませてから寒気のやゝ強くなったくらい外に出る気がしなくて かけぶとんであるが あかじみたふとんを二枚かさねてしいて うすい洗たくしたと思はれるシーツのかゝったふとんを胸から下にかけoverを頭からかぶってねる (体中をのみがはひまわってゐるらしくかゆいがうとうとしてゐると 先生のおうちのボンの毛の中を歩きまわってゐるノミのことを思ひ出す
兵隊が来るという噂(3月3日)
夜中の十一時頃旅館の若い主人おこしにくる 新竹の兵隊がキ銃さうしゃをしながら南下してきた いま香山にかゝってゐるといふから危険ですから逃げてくれといふ
あわてゝはねおきリュックサックにつめてあった石器類を出し衣類及ふろしきづつみのみつめてきがえをする 先生はかべにかけてあったかけものをまいて長い方を私がもち 小さいのをbagにつめる おおあわてにあわてゝ外に出て元川(穎)医院をたづねたがかたくしめてゐておきない 老人と女の子のことをおもひ出し そのかくれ家にさけることにする
老人たち窓から入る月光をあびてならんでねてゐたが おきて見てふとんをあげやうとするのを 先生 you may lay, sleep sleep といはれる
子供のみねかしつける 我々にはover coatをかしてくれる (女中らが二人(その中一人は少女))が案内してくれたのである
二人を匿った竹南の旅館の見取り図
一人の少女女中私たちにぴったり体をよせて カギは中からかけて下さい それから旅館にとまったのでなくて こゝまでさがしにきたといって下さい 旅館でこゝにかくしたといふと 私たちが大変になりますから 静かにしてもしは入ってきたら かべに体をくつゝけてゐて下さい 等と静かなおちついた聲で話してくれる あなたたち女だから旅館にかへらぬ方がよいでせう こゝにゐなさい といくらすゝめても 私たちはHotelにかへるといってかへってゆく
大きな方の女中は日本語が通じない 小さい少女の方はよく日本語ができ色は黒いがどこから可愛らしく 私がかつて女子校時代に教へた教へ子のだれだったかににてゐる なにか非常に感激してその少女の手をとりたいやうな気もちになる 少女たちおりていって 平静になるとYan氏立ち上がってまどの外をながめ 又腰をかゞめて私たちの所にきてHomesick
Homesick all chinese is poem という The moon is up in the sky! 先生がpoem?
poetでせうといふとpoet poetといふ あはてゝゐる my wifeといふておくさんをおもいだしてゐるらしい 少女のそばに腰をおろして顔をかきむるやうにかいている 先生と二人マドの外を見る あかりがあか??とついてゐる Never mind Never mindと先生いふ 体中かゆし 先生タバコをすはれる 月光がマドカラ青白くながれてうすきったない部屋を美しくみせる それからしばらくしてねてしまふ 3時おきて見ると 先生のおしりに顔をくっつけて寝てゐた どうりで顔がぬくとい(あたゝかい)と思った (月光の中で町の灯があかるく見える 各戸におこしてあるく声がする うとうとしてゐる中にねむる)
避難した部屋のようすの図解
少女と老人もおきてなにかしてゐる 少女が指さすと老人がふとんをよせる みてゐるとノミらしい 老人が白いシーツの上で黒いノミを指でおさへる 血が出る あゝといって我々の顔を見る 月光のなくなった部屋はもと通りうすぎったなく のみをつぶしてゐる老人と少女とがいたましく思はれてくる
We are going to gather news You must stay here a little while といって先生と二人 one by one に出る Hotelにかへる 若い主人 兵隊の行方不明であるといふ 外は平せい あさのさわやかさ バナナ一本 干ガキ一個がなくなってゐるだけ かあいらしいどろ棒!
駅にゆく 昨日の急行の客車がそのままゐる 新竹行のバスが出る所 女学生らがのりこむ 汽車はないらしい 前の文具屋にいってnewsをきく 台北を様子をきく 公会堂で会議中にも銃声をきいたという 台中もほうきしたといふ 新竹から南下の部隊はdisap[p]ear
したらしいといふ 台中の放送があったといふ 日本語放送があったといふ 海軍マーチがかけられ 青年よ立て 海外からかへった同胞たて といったといふ
穎川医院をたずねる 主人穎川氏に会ふ 日本の婦人をおくさんにしてきた弟の医師は先生をしってゐて したしく話をする 奥さんがいれてくれたお茶がおいしい
医院の患者の話を聞く(3月3日)
台中放送といふのを又きく 海軍マーチをかけて 日本精神を忘れたか 我々は日本の50年の教育をうけた。全島600万の同胞よたてと いったといふ
先づ桃園中壢に大学生がきたり指導 新竹にもあらはれ 大学生が手りゅう弾銃器などをつんで四台のバスで応援にきたといふ
竹南から非常召集をうけた警官はなにか共産軍かと思ひでかけた 共産軍ならむかふにいってから共産軍には入ればよいと考へてゐた ところがそんなことでなかったので武器をわたしてかへってきたといふ
南の中港部隊では(竹南はやったらしいから銃器をわたしたといふ 我々もやらなくてはならないとて)昨夜ドラをならして人をあつめた 軍歌をうたひながら 木刀や松明などをもち 町をねり歩いてゐる中に 群衆となったといふ しかし兵きたらず 今朝のかん者の話
警官中に三人の高砂警官あり 南庄に状せいをしらせたら 我々も出動するが といってくる それをこんど電話をかけたらこい まっすぐに自分の所にきてくれといったといふ
高砂を利用して抗日劇を上演するとのNewsを台北でみてきたが思ひあはしてみて 興味ふかい
大溪兵の Tayalは大溪まできてTaiki[待機]してゐるといふ
10時半 先生 Egawa 氏といっしょに出てゆかれる 毛ぬき を買ひにゆかれる 白がをぬいて若がへるといはれる (かべに静物をかけて日本のお茶をのみたいといはれる)
町にでて毛ぬきとお菓子をかってこられる
ひるめし前bananaをかってかへる38 yen ひるめし60円──ランチ
町で大戦果とはなしてゐるのをきく かなりのDemaがあるらしい
先生 ひるめし後1.30迄ひるね 1 40分にEgawa氏の所にNewsをきゝにゆく
名刺の裏に書いた楊樹仁氏の手紙
タイヤル族の警官の話(3月3日)
はからずも陳さんという中国姓ではあるがTayal出身の警官にあふ
「私は終戦後 省の警官訓れん所にゆき4ヶ月間の訓れんをうけました しかし一日としてたのしいことはなかった 午前中は北京語をしたが これをならって役に立つかと考へ 本気になっておぼえる気がしませんでした 4ヶ月間はあそびました 友人の所 先生の所 部下の所と そして途中で自分にはむかないし体もわるいからといって辞職をねがったが許されませんでした 出てから平地勤務を命られたが一日も一つもたのしいことはありませんでした 私は山の言葉もよく出来ません 日本語しか出来ません それでずいぶんくるしめられました 警官になってからも何回も辞職ねがひを出しましたがうけ入れて呉れません
私の南庄[苗栗縣東北部]の村はかって15戸ありましたが今は10戸くらい 出征してなくなったものもあり 現に私の兄は空てい隊の一員として生死不明 父と妹は終戦後のマラリヤ大流行の時になくなりました 一切の救済そちは講じられてゐません 一人の官吏もきません 村のものはあるものは 蕃社の大湖郡の山にかへったものもあります たった二人きてくれたのはEgawaさんとある歯い者さんだけ Egawaさんは採血と血ちんをやってくれました そして保菌者をしらべあげてくれました 政府から少しばかりくすりをもらひそれでやってゐます Egawaさんに○○をつくってもらひそれで交渉してみるつもりでゐた所この事件です はじめ私はこの2.28事件をしりませんでした 非常召集をといふので中曙レまでいってもやうをきいてみる
わかりました そこで自動車がパンクしたといってさきにゆけぬと報告してくれといふことにした所 ひんかん[賓館カ]にとまって明日修理した上もしできなければ汽車にて北上せよといはれたが ひんかんにゐると 中壢のpolice station から包囲されてそこで武装をといてこんぽうし 上衣をとり私服にしてTrack[トラック]にのってかへってしまった 包囲後の状況不明です 昨夜は支那兵南下の報がありましたので もし事実なら警察の銃をわたすといひましたがたしかめてからといひ 新竹やstationにとひあわした所事実なしとてそのまゝにした 所が夜中に空襲警報の放送がありましたので 電気を消せといって町を歩きました 村人は退ひなど動えうしましたがよく音をきけといふとしづかになりました 今朝4時にねました 山には電話で事情をしらせてやりました。山ではぢりぢりして出動の機をまってゐるやうですが 正かくな情報を得たらしらせるからそれまでまってくれといってやりました 私は命はいりません やるよりほかにないのです」
しかしやるなら断然あくまでやらなくてはなりません 私には足のつめさきから頭のかみの毛まで日本精神がは入ってゐます 私は死をおそれません」
かれは三十にはならぬと思はれる とゝとった容貌のしっかりした分別のある青年だった。
放送が決起を呼びかける(3月3日)
その中やゝおっちょこちょいの青年来る 国民校の先生であるといふ 今日から学校にゆくと生徒 先生といってくる 日本語を使いませうといふ 日本語をつかへといふと校長にらんで怒る あとでおまへはあわてものだといふ 自分があわてゝはゐませんとやってゐると
そこへ ラヂオが日本語放送をはじめたといふ 又一人あらはれる
かへる。(この話のはじめの頃 お風呂をたのむ)
雨がきて街街がぬれてゐる
僕はstationへ汽車のことをきゝにゆく 先生は Yan氏にNewsを伝へにゆく 子供のよみものがないといふから 先生かって与へられたといふ 高雄軍隊がしっかりしてゐるから大丈夫 といふとうなづいてゐたといふ 雨の音 赤いやねかはらにおちる雨の音をきいて日記をつける(3時半)
(Takasagoの警官は志願兵にいったといふ人)
(以上の会話のはじめ 台中放送きく ふくけん[福建]語 広とん[広東]語放送についで日本語で 台中市内で国軍と市民との間に戦争が行はれてゐるといううわさがありますが 台中には国軍のかげを見ません 実かんがある)
[228事件をめぐる國分直一先生の克明な記録は、ここで途絶え、この後は、メモや発掘記録になっている。その最も新しい内容は、同年4月の蘭嶼学術調査のものである。]
現場を求めて(2018年9月)
これは、ほとんどの日本人が立ち去ったあとの時期に起こった228事件の勃発の前夜から直後にかけての台湾中南部の雰囲気を伝える貴重なルポである。緊迫する情勢を伝える國分先生の野帳は、残念なことにここで終わっていて、いまのところ、続きは発見されていない。しかし、残された部分だけでも、これまで報告されたことのない詳細きわまりない、まさに同時代の記録といえる。228事件の時に、金関丈夫大人が、動乱のニュースが流れるさなかでも、落ち着いて絵を鑑賞したり、白髪を抜くために毛抜きを買い求めたりする余裕は、みごととしか言いようがない。そして、身の危険を冒しても中国系の人たちをリンチから救おうとした台湾人と日本人たちがいたこと、その様子を克明に捉えた記録を、留用日本人が残していたことは、歴史の記録として忘れてはならないと思う。
この野帳の現場に立ちたい。そう願ったわたしたちは、2018年8月31日、新竹にある国立精華大学で人骨考古学を教える、國分先生ファンの邱鴻霖さんに導かれて、竹南駅をめざした。
竹南駅前の問題の旅館は、今もあるか、住民はその宿のあったことを覚えているだろうか。駅との位置関係がはっきりしない、國分先生の残された地図を頼りに駅の周辺をぐるぐる回る。市場と接していたというのだが、その後市場もかなり拡張されたのか、なかなかこれはという場所がみつからない。
考古学者の邱さんが、人類学者も顔負けのフィールドワーク力を発揮して、まず、古そうな旅館を探すが、若い人しかおらずらちがあかない。それでは、と昔のことを知ってそうなお年寄りはいませんか、と聞いて回ってくれる。角の漢方薬屋の女性が、近くのハンコ屋のおやじさんがいいだろうという情報をくれる。別れるときに丁寧に両手を合わせて挨拶をされる。
竹南駅前のハンコ屋さんの店で
(撮影・邱鴻霖)
ハンコ屋を訪ねると、階上から生け花の葉の束のようなものを両手に提げて元気に降りてこられた。年齢は84歳で、228事件の時には8歳だったという。日本語もかなり話せる。そのころからここに住んでいるが、そう言えば、向いには旅館があった、経営は韓国人がやっていたようだという。昔の竹南市街の地図の載った本を出してくれて、親切にコピーまでとってくださる。
そうだ、隣の旅館のじいさんはどうだろう、というので、行って尋ねてみるが、奥さんが出てきて日本語で「もう頭ショートしてる」という。高齢で話が通じないという意味らしい。通りを渡って、もとは隣に住んでいたというおじいさんの家を訪ねる。92歳、車椅子だが、通りの向いにあった旅館は日本時代には日本人がやっていて、末廣という名前だったという重要な証言をしてくれる。
お二人にお名前を書いていただく(撮影・邱鴻霖)
また、國分先生の地図にラジオのある文房具店とある店も記憶と符合し、文房具以外に薬なども扱う雑貨屋のような店だったという。まだ確定はできないものの、有力な可能性がある場所のひとつかと思われた。「日本の歌はどんなのを覚えておられますか」と聞いてみたら、白地に赤く日の丸染めて、桃太郎さん桃太郎さん、などが出てきた。海ゆかばなどの軍歌調のものは、歌われなかった。住所と名前を書いてもらううちに、ハンコ屋さんのご家族が、食事に行くよと誘いに来られたので、早々に失礼した。
おわりに
邱鴻霖さんの導きのおかげで、行く先々で、どなたも熱心に協力してくださるのをありがたく思いました。また、ノートの中の地名の同定などでは、土地勘のない私どもを、中生勝美先生(桜美林大学)が適確に助けてくださいました。
次回以降は、國分直一先生と金関丈夫先生のように留用された台湾大学の教員のなかで、もっとも遅くまで台湾に残った、松本巍(まつもと・たかし)教授や、「かうぱん生」の筆名で、金関サロンの『回覧雑誌』に寄稿していた高坂知武(たかさか・ともたけ)教授とその記念室、また台湾大学内の磯永吉小屋として現在も大切に保存されている、農学系の先生たちの足跡と思い出をたどってみたいと思います。
幼いころを台湾で過ごされた会員のみなさまにとっての「常識」が足りなくて、おかしなところがありましたら、なんなりとご教示をたまわれば、次回以降に訂正とともに掲載させていただければ幸いです。
(あんけいゆうじ、山口県立大学名誉教授・
あんけいたかこ、山口大学非常勤講師)