榕樹文化)國分直一先生の足跡を追って(1)──高雄の幼年時代の家 RT_@tiniasobu
2019/09/28
京都で発行されている、台湾で生まれ育った人たちの思い出と出あいの場を提供している、『榕樹文化』という雑誌に書かせていただきました。
『榕樹文化』63号(2019年3月1日発行)
國分直一先生の足跡を追って(1)──高雄の幼年時代の家
安渓遊地・安渓貴子
國分先生とのご縁
私どもは、1970年代半ばから沖縄の西表島や、熱帯アフリカに通って、人が自然の中でどのように暮らしてきたのかを研究している。山口市に住むようになった80年代から、東アジア先史文化研究の泰斗・國分直一先生(1908-2006)のお宅の近くに住んだことから、ふらりとお邪魔してはいろいろ相談にのっていただくことが多く、先生から「若い友人」と呼んでいただく光栄に浴した。
そんなご縁から、先生の没後に自伝『遠い空』を海鳥社から出版する編集のお手伝いをした。昨年のこと、その内容を中国語に訳したいという申し出を、台湾の国立精華大学で人骨の考古学を専攻する邱鴻霖さんから受けた。
もちろんできる限りのお手伝いをすることにした。ちょうど阿里山を世界遺産にという団体から、阿里山登山の招待を受けたので、その前か後に國分先生の足跡をたどる旅をしてみませんか、ともちかけてみた。幸運にも、4日にわたる自動車の旅を企画していただくことができた。その報告に先がけ、戦後も台湾に「留用」された時期に國分先生が書かれた、「幼年時代」からの抜粋をご紹介したい。
國分直一先生の「幼年時代」抜粋
私の父は、私が東京は芝区白金三光町、大久保彦左衛門のお墓のあるお寺の下の小さな家に生れてから間もなく、私と母とをおいて台湾に単身渡ってきたのだという。……お父さんは僕にも道が開けるかも知れないと、お前が出来て二ヶ月目かにとうとう私たちをおいて、一人で台湾にきて、花蓮港というひどい淋しい所の郵便局長をしていた小野田の叔父さんの世話で打狗(ターカウ)の郵便局につとめるようになったのだよ。それが何年だったと思う? 明治四一年の六月頃なんだよ」
「それから何ヶ月がたって私はおまえをつれてお父さんのあとを追いかけてきたのだったよ。はじめて台湾にゆくという義勇艦桜丸という船に乗ってきたのだが、岡部とかいった司法大臣、それから男爵様が三人、代議士が幾人かが乗っていました。私はおまえのおしめを干すのに苦労したものだった。私たちは鉄道全通式の翌日に基隆から打狗までのり通したものだから、どの駅もどの駅も万国旗でかざられていて、駅員は昨日のお酒がまださめないというような顔をしていたよ」
私の母は私がもの心ついてからでも幾度この話をくり返してきかしてくれたことか、とにかくこのようにして、私たちは台湾の南部の港打狗に住むことになったもののようである。……
打狗の町の西側には肩を怒らしたような形の打狗山が聳えていて、夕刻にはそのかげが私たちのいた哨船頭(しょうせんとう)という湾口に近い町の上に落ちた。この町には二階建ての巨大な洋館があって、私たち一家はその洋館に住んでいた。勿論私たち一家だけがおさまっていたわけではなくて、階上には独身者がごろごろしていたし、階下には三組もの家族もちが住まっていたのである。その建物の前身がなんであるかはわからないが、外人が住んでいたような建物であった。
恐らく領台とともに日本政府によって接収されて、郵便局がもらったものであろう。
私たちの住居は一番はしっこに位置していて、すぐ隣には光長光太郎という体の大きなお酒のみの赤いこわい顔をした「小父さん」がいた。「小母さん」は、やせたきれいな人だったように思うが、その「小父さん」と「小母さん」の間にミイチャンという女の子がいた。
ミイチャンの家の隣には背の高い胸の薄い前かがみの「小池の小父さん」夫婦がいた。小母さんはちょっといきな今思えば芸者上りとでも思えるような人だった。
「小池の小父さん」は胸が悪そうだというので、私の一家はミイチャン一家と親しくして「小池の小父さん」一家とはあまり親しくしていなかったように思う。
洋館の周囲には広い空地を庭にとり入れて、煉瓦のかこいが、その外をめぐっていた。そのかこいの外にはもの凄く大きな赤煉瓦の「苦力小屋」があった。苦力小屋と土地の人がよんでいたのであるから、大して大きくはなかったのであろうが、幼年の頃の私にはそれが、もの凄く大きく思われていたのである。打狗港は既に浚渫や港口の拡張工事を進めていたので、その工事に雇われていた苦力たちの合宿所であったらしい。べん髪を頭にまきつけた、柿渋で染めた麻地の短いパンツをはいた筋骨たくましい苦力たちは、たくましいというよりも、何か怖しいもののように思われたので、私たちは小屋の方には行かないことにしていた。多くはかこいの中でミイチャンといっしょにままごとをして遊んだもののようである。私がお
父さ
でミイチャンがお母さんで、弟が私たちの間の子供というような役割が決められる。私は多少きまりがわるかったが、おませのミイチャンのいいつけであるものであるから仕方がなかった。私がそんなことより、センダンの木にでも登ろうというとミイチャンはもう明日から遊ばないというものであるからこまるのである。
この屋敷の中には二階の屋根も越す位のセンダンがあって私はその木によじ上ってよく遊んだものであった。私の背丈位の所が大きな股になっていたので、よじ上ったといってもそこまでではあるが。
私はある時ママゴトにあきて、いやがるミイチャンを無理にセンダンの股の上におしあげた。ミイチャンは股の上にかがんで「怖いよ、怖いよ、直ちゃん下ろしてよ」と泣くものであるから、私はごみ箱をもってきて、その上に上がってミイチャンを下ろしにかかったが、私はその時ミイチャンの白い股の中を非常に驚きをもって見たのである。
所がミイチャンはじっとまっておれなくて、驚いてのぞき込んでいる私の首にいきなりかじりついたものだから私はミイチャンを抱いたまま、ごみ箱の上からころがり落ちて二人ではげしい大きな泣声をわき上がるようにあげることになった。
その後私はひとりでいる時、ひそかに私の前をはぐって私とミイチャンがどんなにちがうかをしさいに調べてみた。……
直ちゃんとミイチャンの家を探す
國分先生は、戦後も1949年まで台湾大学の考古学の副教授として、研究と教育に活躍されたのだが、私たちは、上記の文の舞台である高雄の町をめざした。先生が幼年時代を過ごされた、高雄の町は、台湾の地方都市の例にもれず、ここ20年ばかりは大いなる速度で変貌しているらしく思われた。
先生が1947年に、40年ばかり昔を回想して書かれた「幼年時代」には、明治末の植民地台湾に暮らす人びとの雰囲気が子どもの目で活写されている。
幼い直ちゃんが家族とともに暮らした巨大な二階建てのレンガづくりの洋館、塀に囲まれた洋館の傍らの、当時「苦力(クーリー)小屋」と呼ばれた建物、そして直ちゃんがミイチャンを登らせたセンダンの木。「幼年時代」を手がかりに、カーナビを見ながら、2018年9月1日の夕方、海沿いの道をそろそろと走った。哨船頭は見つからなかったが、哨船街という通りが現存することがわかったので、それをたどる。やがて、海に面する道沿いに、100年以上は優にたっていると思われる、赤いレンガ造りの2階建ての家が見つかった。2頭の台湾犬が吠えかかる中を、邱さんが道から2メートルほど高くなった入り口へ階段を上がって挨拶をする。そこに座って豆のさやの筋を取っていた老婦人が、犬を制して招いてくださり、気軽に椅
を勧
めてくれた。邱さんが、私たちの訪問の目的を説明すると、「もとは日本人が住んでいたのよ」とこともなげにおっしゃった。
道から1段高くなったベランダのような空間に座って目をこらすと、たしかに、何軒かの家が横に連なった長屋のような造りの家である。私たちの座っている、向かって左側は、大きなさしかけの屋根をトタンで葺いて、家の前が広く使えるように改築されている。許しを得て建物に向かって右の奥の方に歩いて見ると、他の家は無人でかなり荒れた状態と見受けられた。歩測してみると、間口が40メートル、奥行きは10メートルほどの大きな家である。番地が振られてあり、全部で6軒の家として登録されたことが分かった。家の中を見せてもらうこともできたのだが、上に登る階段は6つあり、もともとは、1階と2階を、一軒の家として使うような造りである。
そして、蔓草に覆われた隣接の敷地には、以前は軍人が利用できる「クラブ」があったという。おそらく、國分先生の時代の「苦力小屋」が後にはそのように使われていたものだろう。
このような古い建物が二つ並んで現存する場所は、哨船街では、ここだけであり、幼年時代の國分直一先生が家族で住んでいた「巨大な2階建ての洋館」は、確かにここだったと考えられたのである。
まもなく息子さんの劉さんが、バイクで帰宅して、邱さんの通訳でもう少し詳しい話を聞くことができた。
父親が軍の将軍だった時代からここに住んでいるが、父親が亡くなったあとも、軍人年金をもらっている妻とその息子は、ここに住み続ける権利を持っている。自分たちが入る前には、地区の役場として使われた時代もあり、歴史博物館だったこともある。戦前は、日本人が住んでいた。ここで子ども時代を過ごしたという日本人の女性が、家族をともなって、毎年訪問されるといって、その方たちの写った写真を探して下さった。
これで、この建物が確かに日本時代から建っているものだということがはっきりした。直ちゃんの「ヰタ・セクスアリス」が始まったセンダンの木は、残念ながらいまはなく、その代わりにガジュマルの木が太さ30センチばかりになって影を落としている。
劉さん一家の住んでいる区画は、道路から立ち上がっていたもともとのレンガの壁を、コンクリートの擁壁で補強してある。高さ1メートルほどのレンガの塀を取り払い、もともとの幅1.2メートルほどの家の前のスペースを4メートル近くに広げたのは、ひさし屋根をつけた10年ほど前のことという。ベランダの下は、防空壕になっていて、入り口が二つあり、劉さんの側の入り口は閉じたが、もう一つの入り口はまだ空いているという。
荒れた家の保全の必要性
タロウとリリと呼ばれている2頭の台湾犬とも仲良くなり、ビンロウを噛むように勧められたころ、家の中を見せてもらえないか、とお願いしてみた。実に気軽に中へ案内された。もともと6軒だった長屋の2軒分にあたる一階は、将軍の肖像がかかる居間と、マージャンができる客間になっている。
日本時代のままの木製の階段を上ると、レンガの壁の上に、材木で屋根の合掌を作った構造がよく分かる。1階の奥は、差しがけ屋根で台所と物置になっているが、いきなり岩山の壁になっており、そのために湿気がひどい。
ここに住む劉さんは、この建物のすべての空き家の鍵をもっていて、ミイチャンの住んでいた真ん中の家を手始めに、「危険につき立ち入り禁止」の市当局の張り紙がある、すべての扉を開けて見せてくれた。トタンで葺き直した劉さんの家以外は、古い瓦屋から雨漏りがし、裏山からの湿気もあって、床が抜け落ちそうになっているので、気をつけて歩く。外からみると、無人の部分は窓がやぶれ、レンガの壁にも2ヵ所ほど亀裂が走っている。
隣接するもとの「クラブ」または「苦力小屋」がどれだけの間口をもっていたのかは分からないのだが、道路からレンガを積んで高くした同じ造りの壁をもつ敷地は、2階建ての洋館とほぼ同じだけの間口でひろがっており、その右の方には現在建物が建っているものの、もともとは、ほぼ同じ広さの1階建ての建物であった可能性がある。市内のレストランに張ってあった、「昔の高雄」という市街図にも、哨船街には、背の高い建物と低い建物が隣り合って描かれているのを認めた。これは、高雄(打狗)の古写真や古地図などで確認できるのではないか、と邱さんと話し合う。
アロー号事件のあと、1858年の天津条約後、1864年に打狗は開港した。最初期の商館は、アメリカ人のWilliam M.
Robinetが開いた羅賓奈洋行(Robinet &
Co.)だったことが知られている。その後も欧米各国の商業拠点が哨船頭には置かれた。その関連のものではないか、というのが邱さんの意見だった。
哨船街を岬まで行くと旧英国領事館がある。それらとの関連で整備がのぞまれる貴重な文化財だと思われるが、あと数年もすれば、補修していない屋根が崩落することが心配される状況になっている。
文化財として改修するといった計画はないのだろうか、と問うと、立ち退きにかかわる保証金で折り合いがついていないという。
近くには、郵便局も小学校も現存し、今はすっかり新しく建て直されているが、この家に住んだ直ちゃんのお父さんをはじめとする郵便局員たちが働いた場所と子ども達が通った学校が、おそらくもとの場所にあるのだろう。
こうして、國分直一先生の幼年時代の舞台が、地形と風景はかなり変わったとはいえ、高雄の町にしっかりと現存していおり、その内部までも見せていただくことができたことは、感激であった。國分先生を追いかけるフィールドワークをともにした邱鴻霖さんとの旅はまだ続くが、それは次回以降のお楽しみとさせていただきたい。
(あんけいゆうじ、山口県立大学名誉教授・
あんけいたかこ、山口大学非常勤講師)