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イノベーションを考える)やまぐちのリンゴの物語(安渓貴子)
2025/12/07
西南暖地のリンゴ産地としては、山口県の阿東高原が知られていて、徳佐のたくさんのりんご園や、地福のしもせりんご村 など、お客さんもよくこられているようです。(下瀬さんが特出しなのは、大学院で安渓ゼミで学ばれたからです。)
実は、徳佐以外の嘉年(かね)などでもリンゴを植える取り組みはあったのですが、鉄道が来ていないなどのハンディがあってひろまりませんでした。
安渓貴子が、高校生向けの歴史副読本に書いた、やまぐちのリンゴの物語を紹介します。はるか中央アジアに端を発したリンゴの大旅行と、朝鮮経由の徳佐のリンゴ栽培が定着するまでのようすを追いかけたルポです。
先日、大学生にお話したときも、リンゴの話はとっつきやすかったようです。https://ankei.jp/yuji/?n=3110
いい本ですから、手にとってごらんください。https://ankei.jp/yuji/?n=3065
リンゴから世界が見える
安渓貴子
1.1 人と栽培植物の濃いつながり――生物文化多様性の世界
地球が誕生して46億年、生命が誕生して40億年、生命が陸にあがって4.6億年、そして現生人類がアフリカ大陸で誕生したのはおよそ10万年前のこととされていて、6万年前にはアフリカを出て世界中にひろがりました。最も遠くへは、3万年前の氷河期に、海面が下がって陸続きになったベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸を南下し、およそ1万3000年前には南アメリカに到達しました。こうして世界中に広がった人類は、はじめは採集と狩猟、漁労で暮らしていましたが、やがて世界のそれぞれの地で定住し、家畜を飼い、作物を育てるようになったのが、1万年前より後のことです。それ以来、人は栽培植物や家畜なしには、生き続けることができません。いっぽうで作物や家畜も人なしには生きていけないのです。
それぞれの栽培植物にはそれを選んで食べて育てた人々がいて、それらの人々が暮らしていた起源地をもっています。主食としてのイネは東南アジア、コムギは西アジア、トウモロコシは中部アメリカで栽培化されました。それが今では世界中の地域で栽培され、いろいろな料理法で人々を支えています。トマトは山口でも家庭菜園で育てることができる手軽な野菜ですが、南アメリカのアンデス山脈で栽培化されたものが、コロンブスのアメリカ大陸到達以降、徐々に世界に広まりました。今ではイタリア料理にトマトは欠かせません。トウガラシも同じ南アメリカのアンデスが起源地です。韓国料理にトウガラシが欠かせなくなったのは、世界史の中では最近のことなのです。
このように、栽培植物ははるかな旅をして、今では世界中で栽培され食べられている作物が多くあります。それは、人々がタネを持ち運び、育て、食べることによってそれぞれの地域で作り続けられ、持ち運ばれてきた歴史の産物なのです。
ひとくちに、育てて食べるといっても、異なる気候・環境・文化があります。お米のように粒のまま煮てあるいは赤飯のように蒸して食べるもの、パンのようにいったん粉にして捏ねて焼くもの、アフリカのウガリや日本のそばがきのように粉を熱湯でこねるもの、ジャガイモやサツマイモのようにそのまま茹でて食べられるもの・・・・・・。このように文化の違いも大きくさまざまな料理が工夫されたことが想像できます。ここでは、西南日本では珍しい山口市阿東の「徳佐リンゴ」を手がかりに、私たちの生活を支えている生物と文化の多様性の世界史を考えてみましょう。
遺伝子の研究手法の発達によって、栽培植物の起源の研究は日進月歩です。インターネット上でその成果を読むことができますが、その多くは英語です。ところが試みに「history apple」で検索すると、ヒットする内容のほとんどはスティーブ・ジョブズの物語だったりします。そんなときには、「fruit」のキーワードを加えるとともに、学術論文を探すためのGoogle Scholarなどのサイトを利用してみましょう。
1.2リンゴの旅
トルコでは約8000年前の炭化したリンゴが発見されていて、有史以前から食べられていたことがわかります。
リンゴは世界共通のラテン名ではMalus domesticaと表記され、現在のリンゴの祖先は、カザフスタンの山中に生えている野生のリンゴM. sieversiiという高さ18メートルくらいになる木です。ここには、実の大きさがビー玉からソフトボールくらい、色も黄緑から赤紫までという多様な野生種のリンゴの森が今もあります。シルクロードはこの森のいくつかを通り抜けていました。この森を旅する人々がリンゴを持ち歩き、食べて、そのタネが旅先で芽生えて、地域の野生のリンゴと雑種をつくりながら、西はヨーロッパに、東はアジアにと旅をしました(ポーラン2003: 41-42)。世界中で栽培されているリンゴについて、酵素や最近では遺伝子DNAを比較した結果、約3000年前に移動と交易を経てヨーロッパにもたらされたとされています(Chen et al. 2021: 2206-2207)。
4000年前ごろのスイスの湖上生活者の遺跡から炭化したリンゴが発掘されており、リンゴはヨーロッパでは最も古い栽培の歴史を持った果実です。これは今日クラブアップル(サイダー・アップル)と呼ばれるもので、果実は小さくて苦く酸味があり、現在では主として加工用や料理用に利用されています(阿部2010: 470-471)。
ギリシャ時代には、アレクサンドロス大王のペルシャ遠征で持ち帰った果物の中にリンゴがあったとされていて、ローマ時代にはプリニウスの「博物誌」のなかに、29種類ものリンゴが記載され特徴が識別されていました(阿部2010: 471)。
リンゴの品種改良は、5〜6世紀以降はヨーロッパ中部以北で行われ、中世ヨーロッパ社会では、リンゴは嗜好食品として上流階級の間で愛好され、アップルパイをつくったりしました。17世紀ころには現在の栽培品種に匹敵するような大きな果実をつける品種が知られており、早生品種や晩生品種、色や形の異なる品種もできて、19世紀中頃には、イギリスが質量ともにリンゴの一流産地となりました(阿部2010: 472-473)。
現在のヨーロッパのリンゴは、筆者の経験では、市場でもスーパーマーケットでもほとんどが山積みの量り売りです。1990年頃にフランスで1年半暮らした経験では、フランス産のリンゴは直径6〜7cmほどで、日本産よりも小さく、また味もそれほど甘くありませんでした。ノルマンディーの友人の家で庭先の果樹園からもいできたリンゴを、種をのぞいて大きく切って煮たものはほんのり甘酸っぱく肉などの付け合せにしました。ここではリンゴは自家用です。2005年にスペイン北部の山口県と姉妹県であるナバラ州で5ヵ月過ごしたときも、スペインのリンゴは大きくても直径8cmくらいのもので、有機栽培の果樹園で鶏が走り回る中をもいで食べさせてもらったリンゴは、フランスのものと似ていました。
フランス北西部のブルターニュで友だちになった農家にホームステイをしました。リンゴを絞って果汁の発酵酒「シードル」を毎年1000本もつくり、これを蒸留して自家製の「カルバドス」をつくっていました。近くには今は使われていないけれど、巨大なリンゴ潰し用の石臼が展示してありました。また、ナバラ州では、レストランの壁にはめ込まれた樽の形のタンクからのリンゴ酒が飲み放題で、酒の原料としてのリンゴを実感できました。
1.3 酒から果物へ――アメリカ大陸へ
17世紀、ヨーロッパからアメリカへの移民たちは、接ぎ木で育てたリンゴの苗を携えていましたが、この苗は新しい環境に適応できず育ちませんでした。育ったのは、航海のあいだに食べたリンゴのタネを採っておいて播いたもの(ピピンと呼ばれた)で、西へ西へと開拓を進めるなかでリンゴはタネで広がりました(ポーラン2003: 43-44)。
タネからのリンゴは遺伝的に多様で、広大なアメリカ各地の多様な環境に耐えるものが広がっていきました。タネを播いて育てたリンゴは、たいていひどく酸っぱいものでしたが、開拓者たちはリンゴ酒のためにリンゴを育て(ポーラン2003: 38)、果実を絞って樽に詰めると3週間でリンゴ酒ができたのです。
例えばオハイオの土地払い下げには、移住者がそこに定住した証拠として「少なくとも50本のナシまたはリンゴの木を植えること」が条件の一つになっていました。リンゴの木が実をつけるにはふつう10年かかるため、リンゴの果樹園が定住のしるしになりました(ポーラン2003: 48)。
『大草原の小さな家』などでアメリカ開拓時代の生活を描いたローラ・インガルス・ワイルダーは『わが家への道』で、ようやくたどりついた開拓農地に家を建てて、束ごと仮植えしたリンゴの苗木400本を手に入れる場面を描いています(ワイルダー 1983: 130,143-144)。これは1894年ミズーリ州でのできごとでした。
やがて大きな変化が訪れます。1920¬〜34年の全米での禁酒法の前夜、20世紀への変わり目の頃から、アメリカでは禁酒運動によって、リンゴ酒用の果樹園の樹が次々と切り倒されました。そこで、「リンゴ1日1個で医者要らず」というスローガンを唱え、果物用の甘いリンゴを選び育てて売ることで、リンゴ農家は生き残りをかけました。そして、ブランド力のあるいくつかの品種を集中的に栽培・販売するようになっていきました。
こうして1世紀ほど前のアメリカ各地の市場にあった 数千もの品種のリンゴは、現在栽培される少数の品種に淘汰されたのです(ポーラン2003: 101)。
現代のアメリカのリンゴは少数のクローン品種に依存する傾向を強めているので、リンゴの植物としての適応能力をさらに大きく低下させており、それが現在のリンゴが他の作物よりも農薬を多く必要とする一因にもなっています。野生の状態では、植物とその病害虫は互いに進化を繰り返して、リンゴは病害虫への抵抗力を上げ、病害虫はそれを克服する、という共進化が起きて、どちらかが勝つということはありません。しかし接ぎ木で育てられた果樹は同じ遺伝子しかもたないので、共進化は起きずリンゴが負けてしまうのです(ポーラン2003: 101)。
1. 4 アメリカから日本へ
リンゴの起源地シルクロードを東へ旅すれば中国です。6世紀にはリンゴは果樹として中国に伝わっていました。林檎と柰(ないなえ)の2種類があったとされ、林檎は丸い小さい果実の中国系のリンゴ、柰は長楕円形の大きい果実でヨーロッパ系のリンゴだったと考えられています(阿部2010: 473-474)。
日本には中国から9世紀、平安時代に、クラブアップルに相当するM.asiaticaが渡来しました。日本の文献で「林檎」の文字が見えるのは鎌倉時代の中頃からですが、「和りんご」「地りんご」等と呼んで、各地で栽培されました。当時のリンゴは、果実の直径3〜4cm、重さが30〜50gと小さく苦味や渋味があり、食べ物ではなく庭園樹として植えられてきました。
果物としての西洋リンゴが日本に公式にもたらされたのは、明治4(1871)年に北海道開拓使次官であった黒田清隆が、アメリカ・ミシガン州からリンゴ・西洋梨・桜桃・ブドウその他の苗木を導入したのが始まりです。リンゴは75品種あったと農商務省1888年発行の『農務顛末』(第1巻)(農商務省農務局編纂課編 1952)にあります。苗木はいったん東京都六本木の青山官園で試植・繁殖されました。また内務省の勧業寮により、主にフランスから108品種を導入、新宿試験場(現・新宿御苑)で試植・繁殖されました。これらの苗木は、明治7(1874)年に長野県へ、明治8(1875)年に青森県へ配布され、それぞれ生産が開始されました(内山2013: 83-84)。明治10(1877)年には弘前の養蚕家・山野茂樹が現在の弘前大学医学部構内に試植したものに初めて果実が実りました。
また、「蝦夷地」を改め「北海道」となった札幌、有珠、余市などの開拓地にも多数のリンゴの苗が無償で配布されました。明治12(1879)年に余市で、会津藩士であった赤羽現八宅と、金子安蔵宅の庭にリンゴが実りました(余市町史編さん室 2017)。このときの品種としてはアメリカ生まれの「ロール・ジャネット」と「ジョナサン」があり、それぞれ「国光」と「紅玉」として昭和30年代まで日本の代表的な品種でありつづけたものも含まれていました。
リンゴは品種の数が多く、アメリカだけでも2500以上が記載されており、ヨーロッパではその2倍に達するだろうとされています。日本でも官・民ともに力を注ぎ、相当数の品種が導入されました。しかし風土に対する適否、栽培の難易、嗜好の変遷などにより次第に選びぬかれ、明治40年以降は10品種くらいに限定されてきました(永沢 1976: 163)。上記の2品種のほかに、デリシャス、ゴールデンデリシャスなど、アメリカで選び出された品種を交雑親として多用して、後には富士・津軽などの品種も、アメリカのリンゴ品種から生み出されました。これは、アメリカの東海岸の気候がヨーロッパの乾燥気候と比べて、日本の気候と似ており、日本の環境に適応性が高く、また消費者の嗜好に合致していたのでしょう(阿部2010: 474-475)。
1.5山口県の徳佐リンゴの歴史
山口市阿東徳佐のリンゴ園は、山口県民にとって秋の「リンゴ狩り」や、春の「リンゴのお花見」を楽しむ観光地のひとつです。JRの山口線で新山口から益田・津和野方面行きに乗ると、仁保からトンネルをくぐれば山口市阿東です。列車は山を登り山々に挟まれた谷を走ります。高度が高くなると、秋の紅葉狩り、春の桜が楽しめる「長門峡」そしてやがて沿線に「リンゴ園」が見えはじめます。
山口線の鍋倉駅・徳佐駅一帯には、20あまりのリンゴ園が分布しています。阿東徳佐は、高度300メートルを越え、年平均気温が13℃、年間降水量1950ミリ、年によりますがここ10年間でも50cmを越える積雪が見られる高冷地です。
山がちで高冷地であることを生かして、徳佐市(いち)で果樹の栽培が始まったのは1897(明治30)年、後に村会議員にもなる椿角太郎(つばきかくたろう)が、約85アールの果樹園を造成し、リンゴ、モモ、ブドウを栽培したのが始まりです。しかし、鉄道もなかった当時は傷みやすいモモ(水蜜桃)などは、馬車では送れず、担いで運ぶしかなく、販路が開けませんでした。その後、1906年から、長門峡の河井清之進が、長門峡周辺の山林や畑を開墾し、1910年には、ナシ500本、リンゴ350本、モモ200本を植えました。リンゴは「国光」と「瑞穂玉」を植えましたが収穫が悪く、市場では歓迎されませんでした。一方ナシは、「二十世紀」に多少の被害を受けましたが、「長十郎」と「晩三吉」は順調に収穫し、東京へ出荷したものも好成績でした(波多: 301-302)。いまでも「長門峡ナシ」として夏には梨狩りの観光客で賑わいます。2025年に100周年を迎えるというナシ園もあり、開園当時からの樹もりっぱに残されています。一方、リンゴが徳佐で成功するのは第二次世界大戦後のことになります。
徳佐りんご園の創設者の友清隆男は、1910年に植民地・朝鮮で生まれ育ちました。釜山の北の蔚山(ウルサン)邑川里(ウップチョンニ)で父親の経営する果樹園の手伝いをしながら果樹園について学び、敗戦とともに本籍のある山口県防府市に引き上げてきました。しかし、りんご栽培への思いは断ち難く、気象データを集めて検討し、長野県飯田市など先進地の気象を調査したあと、中国山地を隈なく探し廻り、ふるさとの山口県内の徳佐にやって来たのは1946年でした。リンゴ栽培に適した自然条件、国道や鉄道の沿線で流通に便利な地として3か所選んだ候補地の中から、最良の地として選んだのが阿東徳佐の鍋倉でした。1946年6月に鍬入れを行い、翌年春には青森産のゴールデン・デリシャスの3年苗を植え付け、1948年には初なりが24個、1949年には300個結果して、木箱3箱に詰めて出荷しました(波多: 302-303)。
しかし、「西南暖地でのリンゴ栽培は非常識」とされていたことから、関係機関や周辺農家の協力や理解が乏しく、地元に受け入れられるまで色々な苦労がありました。二代目の達一郎がまだ子どもだった頃、りんご園の息子ということで嫌がらせも受けたといいます。しかし今ではリンゴ農家がふえて、国道9号沿いに次々とりんご園が見えるようになってきました。高原の町・阿東のお米と初秋から熟れる徳佐リンゴ、そして長門峡ナシはこの地域の特産品になっています。
徳佐リンゴの成功の陰には辛い歴史もあることを紹介しましょう。篠生(しのぶ)・生雲(いくも)・地福(じふく)・嘉年(かね)・徳佐の5村が合併して阿東町となったのが、1955年のことでした。町の基幹産業としてリンゴ・酪農・養鶏を打ち出しました。これにこたえてリンゴ栽培に参入した嘉年や篠生などの農家がありました。しかし、品種の選定の違いや豪雪による雪害、あるいは駅から遠くて観光リンゴ園には不向きといった状況から、失敗に終わったのでした(波多: 303)。
友清りんご園は、明治末から朝鮮慶尚南道に移住した営農家で、リンゴやナシの栽培経験が長かったことも成功の背景にありそうです。友清隆男の残した手記には次のように書かれています(友清りんご園のウェブサイト)。「山を切り開いてりんごの苗木を植えていく仕事は大変なものでしたが、昭和24(1949)年には初めてのりんごが実を結び、りんご栽培をする農家もしだいに増えていきました。昭和32(1957)年に息子にりんご園を任せてからも、町内でりんご栽培の勉強会を開いたり、県外や海外に何回もりんご園の見学に行ったりしました。これからも、美味しいりんご作りの勉強をつづけ、お客さんに喜ばれるようなりんごを作っていきたいですね。」
1.6 農業の近代化とわたしたちの暮らし
リンゴが、中央アジアで栽培化されて、西にそして東に伝わり、それを携えた人の暮らしや思いとも深くかかわりあいながら、世界のそれぞれの土地を旅して、山口までたどり着いたことが見えてきたと思います。
リンゴだけでなく、栽培植物はすべて、旅先の環境にあったタネが選ばれ、そこに暮らす人のもつ好みや食べ方の技や知恵、工夫によって変化し、あるいは旅先の植物との交雑も起きて多様性を増し、その土地固有のタネとなります。これを在来種と呼びます。
人類が農耕を始めて数千年から1万年、人類が栽培していた植物は400種あまりと、アメリカの作物進化学者ハーラン(1984)がリストアップしています。これらの作物のそれぞれを、人々が持ち運んで多様な品種として利用してきたことは、アメリカでのリンゴの品種が数千あったというところで述べました。
ところが、20世紀後半に始まった農業の近代化によって、リンゴに限らず、作物の品種の多様性の3/4が失われてしまいました。米国では20世紀にトウモロコシの品種の9割以上が失われ、現在栽培されるのはほんのわずかな品種です。日本でもイネの品種が20世紀はじめに明治政府が集めたところ4000あったものが、現在は900品種に集約されています(久田2021: 7)。それどころか、お米の品種名を「コシヒカリ」の他にいくつ思い浮かべることができるでしょうか。そもそも、なぜ店には片手の指よりも少ない品種しか見当たらないのでしょう。それは、大量流通が可能なように、少数の品種が選ばれている結果、多様性を大きく失っているのです。
栽培植物の品種こそは、生物と文化の交わる多様性の精華です。その多様性を、味や経済性といった指標で集約していくことは大きな危険を伴います。原産地のアンデスでは2000を超える品種があったジャガイモを、ヨーロッパでは少数の品種だけ選んで植えた結果、悲劇を招きました。1845-1849年にアイルランドを襲い、100万人が餓死し150万人が海外に逃れたジャガイモ飢饉は、多様性を失ったジャガイモの「疫病」の蔓延が引き金となりました。
Covid-19と中国の食料爆買いに加えてウクライナでの戦争によって、お金さえ出せば買えると思い込まされてきた、外国からの食料が輸入できなくなってきています。野菜の種子は90%外国産で、化学肥料もほとんどが輸入という現状では、食料の自給率は、政府の発表する38%よりもはるかに低いことがわかりました(鈴木、2022)。
東京のような過密と山口県の阿東のような過疎ではなく、人口を適切に配置すれば、この国で1億5000万人の食料が自給できる、と農学者の津野幸人(1991)は試算しました。
先人の努力で山口県に根付いた、リンゴやナシを食べながら、世界史の中での栽培植物の歩みと食料・エネルギーの自給の大切さを味わってみてください。
【参考文献とウェブサイト】
Chen,et.al,2021 Plant Biotechnology Journal 19, pp. 2206–2220 doi: 10.1111/pbi.13648
阿部知幸2010「リンゴ」鵜飼保雄・大沢良編著『品種改良の世界史・作物編』悠書館、pp. 64-485.
内山幸久2013「日本における主要果樹生産の展開」『地理空間』6(2): 83-94.
久田徳二2021「世界からタネが消える」『タネを守ろう!』日本の種子を守る会。
鈴木宣弘 2022『世界で最初に飢えるのは日本――食の安全保障をどう守るか』講談社。
津野幸人 1991『小農本論――だれが地球を守ったか』農山漁村文化協会。
永沢勝雄 1976『果物のたどってきた道』日本放送出版協会。
農商務省農務局編纂課編 1952(1888)『農務顛末』第1巻、農林省。
ハーラン・J・R 1984『作物の進化と農業・食糧』学会出版センター。
波多放彩1970『阿東町誌』阿東町。
ポーラン・M 2003『欲望の植物誌――人をあやつる4つの植物」八坂書房。
余市町史編さん室編 2017『余市町史』通史編No.4 (明治1)、余市町。
ワイルダー・L・I 1983『わが家への道――ローラの旅日記』岩波書店。
友清りんご園 https://c-able.ne.jp/~tapple/introduction.html(2023年4月30日最終閲覧)


