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わが師わが友)#祖父江孝男 教授からの手紙 #伊谷純一郎 #泉靖一 #宮本常一 #杉浦健一 #岡正雄
2025/11/19
日本民族学会(現在の日本文化人類学会)の研究倫理委員会委員長という肩書で、民博の教授だった祖父江孝男さん(1926-2012)から連絡をもらったことがあります。原ひろ子さんが学会の会長のときでした。
委員会でアンケートをしたのだけれど、そこに私が書いておいた宮本常一先生の「調査地被害」という文章は、どこに載っているのか、という問い合わせでした。
コピーをお送りしてしばらくしたら、研究倫理をめぐるシンポジウムで話をせんか、というお誘いがあり、「いまは、西表島の無農薬米の宣伝しかできません」と答えたところ、それでけっこうです、ということになったのでした。西表安心米のスタートは1989年でしたから、してみると、1990年のことです。
そのあと、研究倫理委員会に加わらんかという誘いがあって、私は、第二期の委員になったのでした。
そういう経緯で、時々お話をする機会があり、山口大学教養部では、祖父江さんの『文化人類学入門』(中公新書)を教科書にしたこともありました。
1999年に葦書房から出版した、安渓遊地・安渓貴子『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』をお送りしたところ、じつに丁寧に読んでくださったことがわかるinformativeな(たくさんの情報が盛り込まれた)礼状が届きました。
伊谷純一郎先生 https://ankei.jp/yuji/?n=1049 が論文添削をバスの中でまでやっておられたという描写に驚嘆したことや、宮本常一先生との交流なども書き込まれた、貴重な証言というべきでしょう。人類学の歴史のひとこまとしてここに掲載させていただきます。
文字起こしでは、原文の、変換ミスのようなところは、[補足] {削除} を加えてあります。
このブログには、同じ本の送付礼状として、仲松弥秀先生からのお手紙も引用した文章を載せました。 https://ankei.jp/yuji/?n=114
安渓遊地様
安渓貴子様 2000.5.4.
『島からのことづて』お送り頂き、本当に有難うございました。早速全体を通読し
て、教えられるところが非常に多くありました。私も永年おつきあいのあった伊谷純
一郎さんについて、知らなかったいろいろな面を知ることが出来たのは、なによりの
幸いでした。そんなにバスのなかでも原稿のチェックをやっておられたとは正に驚嘆。
なお最近では放送大学でテレビ連続何回かのアフリカ特別番組を作って頂きました。
それにしても今西さんをはじめとして、京大特有の霊長類学の伝統は東京で全く生れ
なかったと思います。動物学にしても、東京では、白衣を着て顕微鏡を覗いていなけ
れば学問とは考えず、生態学は学問では{は}ないといみかたが古くから動物学者の間で
は存在していると思います。そして京都大学の特色である「雑学的強さ」という側面
たは改めて感心いたました。また伊谷さんは極めて気楽な服装でfieldに出られたそ
うですが、「百貨店」とアダナのついた貴方ほどではないにせよ、私は必要な参考書
を多くかかえてfieldへ行くので、泉さんからは「祖父江君ライブラリー」とからか
われました。泉さんは国内旅行はどこでも肩掛けのバッグひとつでした。
また泉靖一さん(厳密に言えば泉さんと当時都立大学助手であった私とが)北海道
でアイヌの人達に叱られた時期について、私の発言を引用して下さり(p.25)有難う
ございました。日本民族学会によるアイヌ総合的field-workがなされたのは1951年
で、そのあとに杉浦健一、泉等によるアイヌ研究が本格的に始ったのです。
なお私が本格的に全国の高齢者の聞書きプロジェクトを開始したのは1973(昭48)
で農林水産省生活改善課(1980年に入って婦人生活課と改称、課長も係長もすべて女
性というユニークな課)でしたが、もやは「改善の時代」でほないと「昔の生活の智
恵」の記録収集を大きな事業としようということで、宮本常一さんを委員長、私を副
委員長、これに石毛[直道]、米山[俊直]、原ひろ子等々が加わって、北から南までの全国47都道
府県各地の農林水産省生活改善普及員、生活改善指導員(すべて女性)の方々から十
年にわたって、高齢者から失われた衣食住の聞き書きを行ない、十数冊の報告書が{慣}[刊]
行されましたが、80年代なかばで予算が{な}なくなり立ち消えとなりました。宮本先生
ご逝去のあとは私が委員長となりましたが、この事業でなにより嬉し{い}かったことと
して全国各地の高齢者が喜んでくれたのは、す{か}っかりなくなくなっていた伝統食が各地
で復活したこと。しかしそれよりももっと喜んでくれたのは若者たちに話そうと思っ
ても、うるさがって誰も聞いてくれようともしなかった昔のしきたり、若い頃の村[の]よ
うすを普及員、指導員たちが熱心に聞き書きして、しかも活字にしてくれたというこ
とで、これはなんとも嬉しいこ[と]だったようです。ですから安渓さんたちの聞き書きも
お年寄りたちを随分喜ばせる結果になったのではないでしようか?
宮本常一さんといえば有名な逸話があります。あるとき東京から和歌森太郎先生と
いうたいへん偉い先生が村へお調べにくるというので、役場では大騒ぎして村の長老
たちを大広間に集め、{若}[和歌]森先生は床柱を背にしてドッカと座って「お調べ」が半日
行なわれた。ところがしばらくして、和歌森さんよりもっと偉い、宮本常一という先生
がその村にやってくると言うことになった。役場ではもっと大騒ぎして長老を大勢集
めて待ったが、宮本先生はいくら待っても現れない。どうしたかと村中を調べてみた
ところ宮本先生は、既に村の畑に座込んで村の主婦の仕事を助けながら話を聞いてい
たというのです(もっとも過日、宮本先生ご自身からその話の真偽を、たしかめてみ
たところ、細部はちよっと違っていて、実はそこは漁村で、宮本さんは浜辺で網のつ
くろいを手伝いながら村人とはなしをしていたところだそうでした)。(この話のあ
と、同じく東京から調査に来る先生にも随分タイプの違う先生がいるということが村
で話題になったようです)。
宮本さんの農村への入って行きかたは「ヤア、景気はどうですかねえ」というよう
な調子で、農業を自分も指導していたからできるんですね。えらいもんです。(それ
た引き換え、ご存じと思いますが、さきの和歌森教授は松本清張の『落差』でスカン
{キャル}ダル事件の大学教授主人公に描かれ、岡正雄先生も熟読していました)
なお[P.]218で「シタジ」とありますが、これは醤油の東京下町方言だとばかり思って
いました(私は東京生れ)が違うのですか?。
またP.155には相手の「目を見て話す」ことについて記してありますが、実はアメ
リカでは黒人は相手に話しかける時には相手の目をジット見て話しますが、相手の話
を聴くときにはいつも目をみているわけではないのです、相手の顔を視野に入れてい
るがジット目を見るのではなく、視線を時々横へそらし、また目をもとへもどす。こ
れに対して白人のほうは相手の話を聴くときには相手の目をジットみつめます。あい
てに話しかけるときにはいつも目を見ているわけではなく、視線を時々横へそらし、
また目をもとへもどして知手の題を視野へ入れているが、ジット目を見るのではない。
このようだ白人と黒人には微妙な差があるので、白人に言わせると自分が話してい
るのに、黒人はこちらの目をちゃんと見て聴いていないと言い、これがまた誤解の元
たなるそうです。(以上はある言語学者の永年の研究成果ですが、同意するひとが多
いようです)
以上にながながと書きましたが以下にやや失礼とは思いますが御意見等々。
1)との本はすべて「です調」ですが、informantsのことばはもちろん、そのまま
「です調」でよいのですが、それの解説、しめくくり等々は「である」調のほうがし
っかり重みがあってよかったのではないですか。特にこの本に文をのせて貰ったひと
びとは「程度の高い学術的な本でもあるのだな」ともう少し、嬉しさと自信とがたか
まったのではないかと感ずると思うのですがいかがでしょう。
2)肩書きには「.......教員」とありますが、このようにかいてあるかたがたは、
時々あちこちにおられるようですが、これは「教授」などと書くのはいかにも権威主
義であり、あくまでも民主的に! ということで、大学でのとりきめですか? あるい
は個人の自由判断ですか? しかしその大学に属する以外の者にとって、著者ご当人が
助教授くらいの若いかたか、教授クラスの方なのかによって、内容を判断する上にも
体験の長さを知る上にも必要になってくるようにも感ずるのですが….、特に奥様の
伯うは「非常勤講師」として「非常勤教員」とはしていないのでちょ[っ]と迷います。外
国[国]とのcorrepondenceや、外国の本に載せる著者肩書きはどうされるのですか?
いろいろつまらないこと書きましたことをお許し下さい
ますますお元気ですばらしいご活躍を!
追伸 放送大学は2年前に定年、今は客員教授ですが今年4月から大阪堺市のプー
ル学院大学大学院教授になりました。但し集中講義だけですから数週間行くだけです。
放送大学は当分、客員教授です 。 祖父江孝男
(署名)
補足0 シタジ は、「御下地」の略で、吸い物の基礎になる醤油や出汁のことと辞書にあります。必ずしも地域を限定した方言ではなく、富山県西部の高岡市でも醤油を指すのに使わないことばではありませんでした。
補足1 『島からのことづて』の著者対談の中に、以下の内容があります。https://ankei.jp/yuji/?n=117
◎こっぴどく叱られる
貴子 だんだん分かった気になっていて、ある島でガツンと叱られたのは、それか
ら一〇年もたってからのこと。
遊地 西表島での二年間の廃村調査を修士論文にまとめ(安渓遊地、一九七七)、
アフリカにもあなたと一緒に一年あまり行かせてもらえて、大学の文化人類学の教員
として雇われてから数年したころ、P子さんとP夫さんの住む島を訪ねた。
貴子 それまでは、調査「される側」の迷惑は「する側」の私たちが気遣っていれ
ば、最小限にとどめられるものだ、となんとなく思ってきたのよね。
遊地 川喜田二郎先生が学園紛争の中で創設された移動大学に出会った僕らは、一
九七三年、第一一回目の新潟県巻町角田浜キャンパスのスタッフとして勉強するなか
で、「調査地被害」という言葉を知った。宮本常一さんは「調査というものは、地元
のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合
が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが案外なほど多い」と書い
ておられた((宮本、一九七二)。だから、翌年西表島に行く時には、そのことをそ
れなりに気にはかけていた。泉靖一さんが一九四九年(放送大学教授の祖父江孝男さ
んのご教示によれば、これは泉さんの思い違いで実際は一九五三年)に北海道で強烈
に叱られた言葉もそのころ読んだことがあったかもしれない。
貴子 「おめたちは、カラフト・アイヌがどんな苦労をしているか、どんな貧乏を
しているかしるめえ。それにのこのここんなところまで出掛けてきて、おれたちの恥
をさらすきか?それともおれたちをだしにして金をもうけるきか、博士さまになるき
か!!」(泉、一九六九)という言葉ね。
遊地 そのとき、泉さんは「雷光に打たれたよりも激しい衝撃をうけ、ただあやまっ
て調査をせずに帰ってきた」と書いている。
貴子 P子さんとP夫さんの声に素直に耳を傾ければ、調査の実体は今でも酷いも
のだということがわかる。本当にびっくりした。
遊地 そして、調査地被害は過去の問題ではないし、自分たちも例外じゃないとい
うことを、痛いくらい気づかせてもらった。ショックで、そのあとしばらくは調査も、
学会発表もほとんどできなかった。
貴子 例えば、話した人の了解をもらわないで公表してしまう、というのは論文書
きをしていると常にあることだったから。
遊地 その反省に立って、この本のもとになった聞き書きでは、すべて発表前に話
者ご本人か、ご遺族に目を通してもらい、訂正してもらった上で発表するように務め
た。写真を載せる場合も、御本人の了解をもらうことを原則とした。まあ、固い言葉
で言えば、プライバシーと肖像権を侵害しないようにという当たり前のことだし(安
渓遊地、一九九二b)、忙しさを口実にそうした人権への配慮を怠れば、筆の暴力に
なってしまうということだろう(安渓遊地、一九九三a、一九九三b、一九九四a)。
補足2 第26回日本民族学会大会でのシンポジウム
1990年5月の第26回日本民族学会の研究大会で、研究者のモラルについてのシ
ンポジウムをするので、参加して話をしないかという誘いが祖父江孝男先生から
ありました。「いま私は、西表島のお米の宣伝しかできません」とお断りしよう
としたところ、「いや、それで結構です」ということでした。パネラーとして安
心米物語を映像入りで紹介して、購入をよびかけたところ、それを引き取って、
座長の祖父江先生は「西表安心米は、私もいただいておりますけれども、新潟の
お米と比べてもたいへんにおいしいお米かと存じます」というありがたいコメン
トをしてくださいました。https://ankei.jp/yuji/?n=207
補足3 祖父江孝男民博名誉教授の死亡を伝える記事(四国新聞)https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20121217000318
祖父江孝男氏が死去/「県民性」の文化人類学者
2012/12/17 12:53
文化人類学者で、「県民性」などの著書でも知られた国立民族学博物館名誉教授の祖父江孝男(そふえ・たかお)氏が15日午後10時ごろ、虚血性心不全のため東京都練馬区石神井町6の8の6の自宅で死去した。86歳。東京都出身。葬儀・告別式は19日正午から練馬区高野台3の10の3、東高野会館別館で。喪主は長男潤(じゅん)氏。
自宅で倒れているのを16日朝に家族が発見、死亡が確認された。
東大卒。明治大教授などを経て国立民族学博物館の創設に参画して教授に。専門はアラスカ先住民研究だが、文化人類学的な視点による日本人論でも知られた。1993年紫綬褒章。






