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徳地町と県立大学の提携)岩田学長の講演「大学と地域貢献」のあらまし
2004/10/02
徳地町における岩田啓靖(いわた・ひろやす)山口県立大学長の講演
2004年9月30日、徳地町文化ホールにて。
調印式に引き続き行われた講演。参加者は、徳地町住民を中心に約200名。
テレビ4局、新聞3社などが取材しました。
要約筆記および段落わけ。
安渓遊地(山口県立大教員・とくぢ大好きサポーターズ)
◎田舎の人間として
岩田です。おはようございます。
このたび、徳地町と山口県立大学という二つの異なる組織の友情にみちた連携
協力が実現する運びとなり、またこうした「大学と地域貢献」というお話をさ
せていただく機会を与えていただき、たいへん光栄に存じます。
30分程度お話をさせていただいた後、徳地町で実際に活動している学生およ
び教員たちによる報告が続きますので、そちらをお楽しみにしていただきたい
と存じます。
今日は台風一過の、まことに気持ちのよい日です。
私は9月の生まれですが、今月満66歳になりました。
社会から”老人”として大切にされたり保護されたりするそういう年齢になり
ました。
私は、島根県の山あいの町で育ちましたので、徳地町の風景にはたいへん親近
感があります。きよらかな川や緑なす山で過ごした少年時代を、なつかしく思
い出します。
少年時代は、きらきら輝く宝ものとして、その風景と結びついています。
教育をうける時期だけは、町にでましたが、職を得ましてからは、やはり田舎
で暮らしてきました。
私もそろそろ今の学長の任期がまいります。奥津城(おくつき)どころとして
の北浦の寺の和尚として過ごしたいということを、楽しみにしております。
田舎の人間だということを自己紹介として申し上げておきたいと思って、こう
いうことをお話しています。
ですから、徳地町の方々の経験や思い、喜びや悲しみや、幸福や不幸、たとえ
ば争いや風水害などの経験も、みなさまと共有できるという気持ちでおります。
おなじ山口にすごす、ひとりの個人として、みなさまがたと友としての思いが
通いあえば、これにまさる喜びはありません。
◎教育と研究の最高機関としての寺
さて、今日の本題ですが、県立大学が、なぜ徳地町に来るの?という疑問にお
答えしたいと思います。
日本では、教育の最大の場は、もともとお寺でした。政治的あるいは経済的な
支援をうけながら、教育の場となってきたわけです。
例をあげれば、東大寺というのは、今の国立の大学、東大にあたるような教育
と研究の最高の機関でした。
そこでは、祖先の供養をしてお線香をたいたりすることは、いわばオプション
としての存在で、大切なのは、知の追究の舞台だったのです。
我が国では、島国として、世界のさまざまの最先端の知的な財産を受け入れる
ことが非常に重視されてきました。江戸時代を迎えて鎖国になって、その状況
はかわりましたが、元来は、韓半島や大陸からのさまざまな新しい知識や文化
を取り入れ、どん欲に吸収してきたのであります。
その最先端にたったのは、意欲ある若い人々でした。僧侶の資格や形をとるか
否かは別としましても、独立した知の専門家としての資格があるかどうかを判
断し、その資格を与えるところ、それが戒壇(かいだん)でした。
その試験に合格したものは、すぐれた知を体現するものとして尊崇をうけ、地
域のリーダーとしての役割を果たすことも多かったのです。
源平の争乱の中で、東大寺が消失し、そのことを深く憂えた重源が、全国を勧
進してあるき、建築材料や資金の調達をしましたが、時には地域の人達に非常
な負担をかけながら、ついに東大寺を再建したのでした。
そのことが、徳地の方々にとって、ひとつのリージェンド(神話的伝承)とし
て、地域の誇りの源泉となっていることに、私は深い敬意を表するものです。
◎大学の歴史
さて、お話がお寺の方にずれてまいりましたが、そもそも大学というものは、
ヨーロッパで生まれました。その母胎は、教会の中で勉強をするという部分が
中核をなしたものです。ケンブリッジもオックスフォードもそうです。若い国
アメリカでも牧師や神父が大学を建てていくという歴史がありました。
我が国では、そのような自然な流れが信長や秀吉によって、政治的な力によっ
て押さえ込まれることになりました。
その後、富国強兵をめざすために、国家の是とするところを追究する場として、
大学が育ちました。その中で、国立・公立の大学が中心となって教育や研究が
すすめられる、という流れがありました。しかし、もともと、大学というとこ
ろは、国家を背負うのではなく、私立を宗として始まった制度だったことを忘
れてはなりません。
我が国では、そうした国家主義的な動きの中で大学という制度が作られたがた
めに、足下の地域にある生活に目を注ぎ、そこから地域の未来をきりひらいて
いく、というような方向はむしろないがしろにされてまいりました。世界に目
をむけ、人類の普遍的な知を求める傾向が強かったわけです。大学が「象牙の
塔」といわれたゆえんです。
◎地域の復権
高度経済成長の結果としての古い基準が崩れていくといことが進んでおります。
たとえば少子化です。高校を卒業する人たちが半分になれば、大学の数は半分
になって当然、という考えもあるでしょう。あるいは、大学全入時代を迎える、
などといわれる現状になってきて、さあ、どうするかというふうにいわれたり
もします。
しかし、それはひとつの錯覚です。制度が30年も前の社会のあり方に対応し
たものだとすれば、身の丈にあわなくなった服を着替える必要があります。太
っていたおやじの服を、「素材がいいんだから着ろ」といわれても、にあわな
いし、機能的でも美しくもない。
改善というのは、いわば空気銃の発射のようなものだと思います。努力をかさ
ねて、圧力が高まったとき、ついに臨界点に達してぽーん!とはじけるんです。
われわれは、テロとか温暖化とかBSEとか、さまざまな困難にであうと、も
う世界はほろびるんじゃないか、などと思ってしまうんですが、そうではない
んですね。
21世紀になって、これまでに準備されてきた新しい変革というものが具体的
に水面の上におどり出てくるのです。
突然、大学が変わり始めたのではなく、古い制度のままつっぱってきたという
誤りに気づいて、いよいよ動きはじめた、ということです。
学校の定員が減るとか、閉校になるとか、職を失うということを心配するより
も、さびていく制度上の廃物にすがりつくのではなく、資源や焦点が移動する、
喜ぶべきこととしてこの変化を理解すべきだと考えております。
徳地や山口県からすぐれた人材を引き出して、東京で生かす、というパラダイ
ム(考え方)は古いのです。方言はだめですよ、均質性を確保して日本全体を
高めるという手法ももはや古いのです。それではもう活力を生み出すことがで
きないのです。
地域ごとに差異が尊重されることが、すばらしい進歩、あたらしいおしゃれな
生活のイメージとして、熟成していくべき時がきています。それが、地方分権
という概念の向かうところなのです。
◎地域に活力を注ぐ大学・地域に育てられる大学
大学もまた、地域の活力、生活力を大切に育てていくということをひとつの目
標とする時がきました。
地域を愛し、地域の先祖から地域の子孫にいたる長い時間軸のなかで、地域の
中でがんばってくれる、そういう若者を受け入れて育ていく、ということを
「教育」と「研究」にならぶ、大学の第三番目の課題すなわち「地域貢献」と
して推進していかなければならないのです。教育と研究はもちろん大切ですが、
それだけでは独善になってしまいます。
これらの3つの活動がバランスして発展していくということを大学の未来の姿
として取り組んでいきたいのです。
行政の線引きがどのようになろうと、徳地という地域社会というキャンバスに、
イチローがグラウンドの上の芸術家とニューヨークタイムズで絶賛されたよう
に、そのような道をわたしたちも、皆様方とともに探し求めたいと思います。
はなはだ粗辞でございましたが、これで終わりとさせていただきます。(拍手)


