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イノベーションを考える)やまぐちのリンゴと夏みかんの物語(安渓貴子)
2025/12/07
青森のリンゴは、経済的に困窮した士族への授産事業としてはじまったのだそうですが、敗れた会津藩をむつの斗南藩に転封した、長州の側の・萩の夏みかんにも同じような状況がありました。(『ある明治人の記録 改版 - 会津人柴五郎の遺書』中公新書 252))
安渓貴子が、ブックレット・ボーダーズ 10『知られざる境界地域 やまぐち』(https://ankei.jp/yuji/?n=2758)に書いたコラム「萩の夏みかんと徳佐のりんご」を紹介しておきます。
萩の夏みかんと徳佐のりんご
ボーダーを越えてきたやまぐちの特産品の物語。夏みかんは海に漂着したものから。徳佐りんごは、朝鮮でりんご農家だった友清氏が、戦後の引き上げの後、あらたな産地を作ったもの。
山口県の県花が夏みかんで、県道のガードレールは「夏みかん色」だということをご存知だろうか。また、萩といえば「夏みかんと土塀」のイメージが浮かぶほど夏みかんは萩を象徴する果実だ。学名はCitrus natudaiadi HAYATAといい、標準和名(図鑑にのっている名前)はナツダイダイである。夏みかんの実を収穫しなければ、前年の実と今年の実が同じ木になることから「夏代々」とも記し、萩では当初、橙又は夏橙と呼んでいたが、明治一七年夏みかんを大阪方面に出荷するとき大阪の仲買商人から「夏橙」の名称を「夏蜜柑」に変えるようすすめられ、夏蜜柑という呼び名が普及した。
山口の夏みかんの始まり
今からおよそ三〇〇年前、長門市青海島の大日比の海岸に流れ着いた蜜柑の種を、西本チョウが蒔いて育てたのが始まり。原木は昭和二年に国の「史跡および天然記念物」に指定。この実を「宇樹橘」、「ばけもの」、「ばけだいだいな」と呼んだ。
およそ二〇〇年前に楢崎十郎兵衛が大日比の知人から数個の実を送られ萩で種を蒔いたという。また、一八三三年に萩の杉彦右衛門が、大日比の苗を児玉惣兵衛にわけ与えて児玉蜜柑とも呼ぶ。
その後、児玉家がおいしいからと夏に一三代藩主毛利敬親公に献上したことから、御前九年母や夏九年母とも呼ばれた。
「聞き書き山口の食事」(二八五頁)には、昭和の始め頃には萩の城下町の屋敷内は柑橘だけでも夏だいだい、酢だいだい、ゆずきち(宇樹橘)、くねんぼが植えられて食卓を賑わしていたことがわかる。
夏みかんが萩の特産物となるには、小倉県(現在の福岡県)の県令(県知事)であった小藩高政が、萩に帰り、明治九年に藩からの禄を失い困窮した生活を送る旧藩士を救うため会社をつくり、夏みかんの苗木を配ったことに始まる。彼が明治二三年に建てた石碑には「当時、萩で夏みかんを作るものはほとんどおらず、人は私が夏みかんを植えるのを疑いの目で見たり、あざ笑ったりした」という意味のこと書かれている。しかし一〇年後には、夏みかんの木は萩の屋敷町を埋め尽すまで育ち、萩の特産物として北九州・広島・大阪、さらに東京へも出荷されるようになった。
やがて萩だけでなく他の地域でもつくるようになり、低迷した時期もあったが、工夫を重ねて戦後の昭和四〇年代に生産のピークを迎える。しかし昭和四五年のグレープフルーツの自由化を境に夏みかんの価格が低迷するようになり、甘夏みかん・八朔・ネーブルオレンジ等に品種を更新してきたが、輸入果実の氾濫や、消費者に好まれる甘くて食べやすい新品種柑橘の登場などで産地が徐々に縮小してきた。
夏みかんは、現在の山口では限られた時期に萩に出向かないと手に入らない。夏みかんの造り手が減り絶滅の可能性が出てきたので、平成二一年に萩・夏みかん再生地域協議会を設立し、夏みかん再生への施設として「萩夏みかんセンター」を造り、夏みかんを作る人の研修の場と夏みかんに関する情報を発信している。
※萩・夏みかん再生地域協議会「萩夏みかん物語」
https://www.city.hagi.lg.jp/soshiki/45/518.html
徳佐のりんご
山口線の鍋倉駅・徳佐駅一帯には、二〇あまりのリンゴ園が分布する。阿東徳佐は、高度三〇〇メートルを越え、年平均気温が一三度、降水量一九五〇ミリ、年によるがここ一〇年間でも五〇センチを越える積雪が見られる高冷地である。
徳佐りんご園の創設者の友清隆男は、一九一〇年(明治四三年)植民地・朝鮮で生まれた。慶尚南道蔚山で父親の経営する果樹園の手伝いをしながら果樹園について学ぶ。終戦と同時に本籍のある山口県防府市に引き上げた。しかし、りんご栽培への思いは断ち難く山口県内の気象データーを集め長野県飯田市の気象と近い阿東徳佐でりんご栽培を始めた。リンゴ栽培にに適した自然条件、国道や鉄道の沿線で流通に便利な地として三か所選んだ候補地の中から、最良の地として選んだのがこの阿東徳佐だった。
徳佐の鍋倉に入植したが、地元に受け入れられるまで色々と苦労があった。二代目達一郎がまだ子供だった頃、リンゴ園の息子ということで嫌がらせも受けたという。しかし今ではリンゴ農家がふえて、高原の阿東徳佐米と徳佐リンゴはこの地域の二大特産品である。
友清隆男の残した手記には次のように書かれている。「山を切り開いてりんごの苗木を植えていく仕事は大変なものでしたが、一九四九年(昭和二四年)には初めてのりんごが実を結び、りんご栽培をする農家もしだいに増えていきました。息子にりんご園を任せてからも、町内でりんご栽培の勉強会を開いたり、県外や海外に何回もりんご園の見学に行ったりしました。これからも、美味しいりんご作りの勉強をつづけ、お客さんに喜ばれるようなりんごを作っていきたいですね。」
略歴 -History-
昭和二〇年九月韓国慶尚南道 蔚山邑呂川里より山口県防府市に引揚げ
昭和二〇年一〇月~ 山口県内の各地の気象調査開始
昭和二一年五月 単独入村(阿武郡徳佐村鍋倉弥政久司氏宅へ寄宿)
昭和二一年七月 入植地へ住宅新設着工(手作り)
昭和二一年九月 家族同伴入村(鍋倉公会堂の半分を借り受ける)
昭和二一年一二月 住宅完成・移転
昭和二二年 りんご一二〇本植え付け(肥料は配給制で入手困難なため無肥料)開墾続行
昭和二四年 りんご初成り一二個、
りんご一五〇本植え付け・開墾続行
昭和三二年 観光りんご園開園、開墾完了
*(有)友清りんご園 https://c-able.ne.jp/~tapple/introduction.html
*ジョナサンのブログ
山口県の阿東徳佐でリンゴ園を開拓した人
https://ameblo.jp/agawahosoiioouan144000/entry-12077990081.html


