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イノベーションを考える)アフリカの物々交換(20世紀末)と八重山の物々交換(20世紀はじめ)の対比
2025/12/07
アフリカの食と農のイノベーションを考えるという英語の本を出そうという企画が通って、執筆予定者のみんながZoomで相談するという企画が12月7日にありました。
そこで、青森のりんごの導入の苦労のことも、できたら取り上げてみたいという意見がありましたので、そりゃあいいね! と思いました。
そこで、アフリカと日本の対比の例をひとつ以下に載せておきます。
全文は、https://ankei.jp/yuji/?n=2761 にあります。英語のレジュメの部分が掲載されていますが、添付のPDFの本文は日本語です。
E、中央アフリカとの対比と今後の課題
西表島と黒島の交流関係を中心とする、大正期八重山の物々交換を、物々交換が現在も重要な役割を果たしている中央アフリカのソンゴーラの場合と対比させてみよう。現在生きて機能しているソンゴーラの物々交換市との共通点や相違点を明らかにすることによって、これまでの議論で見落としていたいくつかの問題点を明らかにできるであろう。また、この対比をとおして、小論の研究方法が今後の調査の指針として、あるいは伝統的経済の比較の枠組みとしてどの程度妥当するものであるかを探ることもできるであろう。
(1)ソンゴーラの物々交換の特徴
コンゴ民主共和国に住むソンゴーラと自称する人々の間でみられる物々交換の特徴(安渓 一九八四a、一九八四b)を、本章の冒頭の五つの設問にそって整理し、小論で報告した八重山の場合と対比させてみよう。
a 生態的基盤
熱帯降雨林の中での焼畑農耕を営む人々と川沿いで専業的漁撈を営む人々の間の交易である。交易の品目は、キャッサバ芋をはじめとする農産物と魚で、交易の頻度は毎週一、二回。物々交換専用の市がもたれる。生活必需品の物々交換を通した、異なる生業形態をもつ集団間の相互依存の関係は、生物種の共生にも似た関係をかたちづくるに到っている。
異なる生活環境を利用し、異なる生業形態をもつ隣あう集団間の物々交換は、八重山にも存在した。黒島の東筋の農民と伊古の漁民の間の物々交換関係は、漁民の主食を確保するためのひんぱんな交易という意味でソンゴーラの場合と基本的に共通している。魚を現金で売ることができる状況が出現する以前は、農業をおこなわない専業的漁民が生活しうるためには、こうした農耕民との共生的関係が不可欠であった。それに対して、西表島の稲作民と黒島の半畑作・半漁労民の間にみられた交易は季節的なものであり、その頻度はせいぜい年に数度であった。単に互いの集落を訪問しあうだけの八重山の方法と比べると、複数の集団の生活空間の接点に定期市をもつソンゴーラの交易は、より整った制度として確立されているように思われる。
b 歴史的諸条件と政治的状況
ソンゴーラの土地で、伝統的物々交換市の制度が存続している理由は、植民地政府による現金使用の強制や物々交換市への弾圧に対抗する防御の機構を作りあげることができた点にある。具体的には、現金使用を原則として禁止する物々交換市を、政府が作った現金使用の市とは別に隔離して開催し続けたのである。こうした対抗措置を可能にしたのは、裁判権をもつ伝統的首長をひとつの頂点とする政治組織の存在であった。
八重山の場合は、人頭税を納めさせるための低島から高島への通い耕作の開始が、島と島の生活環境と農耕文化の違いに基づく交易を不用にした。低島の灰にかわる化学肥料の導入などをきっかけに相互依存の体制はくずれ、やがてふたつの島の交流関係も消滅した。
c 参加者の社会関係
ソンゴーラの物々交換市にはほとんどの世帯から毎週一人は参加する。漁民の男と農耕民の女が出会う。このことは、農耕民から漁民への嫁入りが多く、その逆が少ないことと関係があるかもしれない。起源を異にする複数の集団が、このような相互依存の関係を通じて言語において同化してきた例は多く、熱帯アフリカの狩猟採集民であるピグミーたちが固有の言語を失ったのはこのためであろうと推定される。文化的な同化現象にもかかわらず、互いに依存しあっている交易相手とその生活様式について陰では「あんなにみじめな暮らしはない」などと陰口をたたきあうことが珍しくない。ソンゴーラの北東に住むムブティなどのピグミーが農耕民との間に保っている共生的関係(KAZADI 一九八一、市川 一九八二、安渓 一九八五b)においてもこうした対立はよく知られている。
生業形態の違いや言語の壁を越えて通婚しあう中央アフリカの人々(TERASHIMA 一九八七など)と異なり、八重山の場合は、役人がマカニャーをもったことを除くと島を結ぶ婚姻関係はごく稀であった。そのため、集団間の融合は容易には起こらなかった。人の移動を妨げてきた大きな要因は、人頭税制度下での移住の禁止であった。このように、今日のソンゴーラの社会を形作るにあたって強力に働いた、共生的関係を通した言語と帰属意識の同化の力は、八重山では微弱であったように思われる。宮古・八重山で島ごとに大きく違う方言が成立した背景には、三世紀近くにわたる人頭税制度の中で、移住の自由を認めないことによって島々の交流を妨げ、《ユカリぴトゥ》と《ブザ》を対立させた政治的な力が働いていたことを感じる。
d 交換率の性格
ソンゴーラにおける交換率は、品目の組み合わせごとにほぼ定まっており、その日その日の需要と供給の状況によって変動することがない。交換率の標準は、品目ごとに決まった大きさの単位を一対一に交換しあうことで達成される。単位の大きさについての駆け引きは存在するが、両者の経験が互角ならば、標準から大きく逸脱することがない。同じ一単位とされる交易品を生産するのに要する平均的労働時間は品目ごとに大きく異なり、一単位の食品がもつ熱量には、一〇倍におよぶ格差がある。
八重山でも、交換率が固定制であったこと、品目がなんであれ、一単位どうしを交換しあったことは、ソンゴーラとの共通点であった。
e 生活全体のなかでの物々交換の位置づけ
物々交換の重要性の程度。ソンゴーラの場合、集落移転のため焼畑をもたず、ひんぱんに物々交換市を利用する漁民集落では、総摂取熱量の六割強が物々交換市に由来していた。物々交換と現金使用の均衡は、国内および国際的な経済の状況によっても影響される。
八重山では、畑作をおこなわない糸満漁民の集落のように、主食のほとんどを物々交換に依存した集落もあった。一方、灰と稲束の物々交換の場合は、いずれの集落も、基本的な食料は自給が可能であったので、専業漁民にとっての主食の入手の場合のように必須のものとはいえない。集落の全世帯がおこなったわけではなかったことも理解できる。物々交換の頻度の違いは、共生的な関係の強さとも結びついており、世界の物々交換経済の比較の基準のひとつとして使うことができると思われる。
贈与との関係。ソンゴーラの農耕民側は、多様な食品を少量ずつ取り合わせて贈り物にし、漁民からお返しに魚が贈られる。漁民にとっては、贈与で受け取る以外に入手し難い食品も少なくない。全取引重量の八割を占めるキャッサバ芋は、普通は贈与の対象にならない。贈与交換や事前に契約した取引がおこなわれるのを黙認すると参加者の間の平等な物々交換をそこなう恐れがあるとして市の監督が介入する場合がある。また、親戚・友人・他人という人間関係の親疎と贈与・物々交換・現金使用というやりとりの区別とは直接的に対応はしないが、深く結びついている。交易以外の目的で市にくる参加者もあり、その目的は友人・異性との出会いやヤシ酒を飲むことである(安渓貴子 一九八七b)。
(2)西表と黒島の物々交換の特徴
西表島と黒島の間の贈与交換については、六のCで述べたとおり、ソンゴーラと多くの共通点がある。比較的少量ではあっても、他の方法では入手がむずかしい品物(醤油の原料)が主であったこともひとつの共通点である。また、両者ともに酒の魅力は交易活動のもつ非経済的機能として重要であることがわかる。
限定目的貨幣の存在。ソンゴーラの物々交換市での魚は限定目的貨幣(いわゆる「原始貨幣」)であると結論された。農作物を前借りして、魚を後払いにあてることが習慣化しているが、逆は見られない。魚を持つものは、他のすべての品目を入手できる。しかし、農耕民にとっては魚はおいしい食物であるにすぎず、この「貨幣」は一方にしか使われずに食べられてしまう。
ソンゴーラ漁民の魚と同じように西表島の稲束は限定目的貨幣としての取り扱いを受けていた。その状況には、限定目的貨幣を受け取る側が、それを単なる食料と見なしていたことなど多くの類似点がある。腐りやすいソンゴーラの魚と西表島の稲束は、保存性に大きな差があったが、これは、湿潤熱帯(コンゴ民主)と湿潤亜熱帯(八重山)の生活の対比として理解できる面があるかもしれない。
こうして、八重山と中央アフリカ・ソンゴーラの間の地域と時代の差を越えた対比の結果、次のような暫定的な結論が得られる。
a 生態的な基盤が物々交換の背景に
異なる立地、異なる生業といった生態的な基盤があるだけで、そこに共生的関係が成立していると期待することは誤りである。ただし、逆に生態的基盤なしの緊密な物々交換関係を想定することはむずかしい(注133)。
b 物々交換の盛衰の要因は多様
物々交換経済が栄え、あるいは滅びる要因は、地域により時代により多様である。その消滅をいちがいに現金経済化の結果とかたづけてしまうのは一面的すぎる。
c 物々交換が支える共生的関係の多彩さ
共生的関係にある集団間には、アフリカのソンゴーラやピグミーのように言語の同化が起こる場合がありうるが、通婚が妨げられるなどの理由で、こうした変化を経験しない場合もある。こうした、共生的な相互依存関係が民族集団の形成にはたした役割に注目し、比較研究を行うことが今後に残された課題であろう(注134)。
d 交換率変動の要因の解明が重要
交換率にはなんらかの標準がある場合が多く、それは、品目ごとに決まった大きさの単位を一対一に交換することで達成される。交換率の長期にわたる変動があるか、あるとすればそれは何と連動しているか、という設問は、物々交換経済の研究においておそらくもっとも重要なものであるが、長年にわたる克明な記録によってしか答え得ないものであろう。
e 「貨幣」を生産する側の優位性
ある品物が限定目的貨幣として使用されるようになることは、その品物を供給する側が、相手との社会関係において優位に立つこと(あるいは優位に立ちたいと願うこと)と関連している。限定目的貨幣の使用により強められる優位・劣位の関係を、贈与交換が一時的にせよ中和する場合がある。ただし、初穂を持参するといった上下関係の確認の機能をもつ贈与もあるので、贈与と限定目的貨幣使用(さらには現金使用)を単純な対立の図式として理解することは適当でない。
伝統的経済活動を、生態的基盤と歴史的諸条件・政治状況の制約の中で営まれてきた社会生活のひとこまとしてとらえようとする上述の研究の方法は、現在生きている物々交換の実体をとらえるために用意したものであったが、過去の経済活動の復元研究にもおおむね有効であったと思う。
日本の南島研究には、多くの放置された課題がある(例えば、安渓 一九八四e 一九八六e、一九八七a を参照)。琉球弧における経済人類学的研究の未開拓の分野を指摘して、小論のしめくくりとしたい。琉球が東アジアと東南アジアを結ぶ貿易国として活躍した時代の遠距離の交易については、古文書による研究が盛んにおこなわれてきた。しかし、琉球弧内部の交易については、あまりにも多くのことが解明されていない。沖縄島の南部を起点として、島の北部から奄美諸島の南部までを活動の範囲としたヤンバル船や、種子島から沖縄島への交易の旅であった琉球旅など、いわば中距離の交易活動の実態、さらに小論で扱ったような近距離の隣りあうしマ(島と村落の双方をさす)どうしの交易と交流は、今ならまだ聞きとり調査による研究が可能である。時代を下って、沖縄戦で貨幣経済が消滅したあとの島々でドル紙幣がひろく使われるようになるまでの期間におこなわれた、物々交換を含む交易活動の変遷の(例えば石原 一九八二のような)記録も、理論的にも重要な側面を含んでいる。さらに、現在各地に見られる市を詳しく見ることによっても、多くの発見が可能である(例えば、安渓他 一九八二、 石毛・ラドル 一九八七)。
私は、八重山の物々交換の研究に引き続いて、琉球弧の伝統的物々交換経済の地域差を明らかにし、島々を結んだ交流の網目の全体像を把握することを当面の目標にしている。すでに、八重山の北に連なる多良間〔たらま〕島、沖縄島北部の今帰仁〔なきじん〕村と国頭〔くにがみ〕村、奄美大島と加計呂間〔かけろま〕島、種子島と屋久島の各地で予備調査を実施し、その報告を準備中である。その中で、本報の範囲では答えることができなかった、なぜ稲束が貨幣として選ばれるのかという点をも論じてみたいと思う。今後は島と島の交流だけでなく、山の民・平野の民・海の民などの交流についても同様の視点から研究を進め、世界の物々交換経済についての知見も参照しつつ(注135)、東アジアにおける物々交換経済についての理解を深めたいと願うものである。
謝辞。私を温かく迎え入れ、辛抱強く話相手になってくださった話者の方々に深く感謝申しあげます。石垣金星氏を会長とする地域研究会「西表をほりおこす会」と浦添市立図書館の高良倉吉氏には、資料の入手にあたって多大の御援助をたまわりました。一九八三年度と一九八四年度の野外調査は、文部省特定研究「生物の適応戦略と社会構造」補助金により、一九八五年度と八六年度の野外調査にあたっては、財団法人日本生命財団の研究助成金 (研究課題「西表島の自然環境と人間活動の歴史的変遷に関する生態人類学的研究」) を受けました。


