![]()
イノベーションを考える)『西表島の農耕文化』抜粋 西表島 で #農薬散布 が始まった
2025/12/07
安渓遊地ほか『西表島の農耕文化』(2007、法政大学出版局)から抜粋しておきます。 https://ankei.jp/yuji/?n=362
初出は、安渓遊地 一九八六『エコノミスト』九月一六日号ですが、抜粋して上記の本に収録しました。
西表島で農薬散布が始まった――人にもヤマネコにも体内蓄積のおそれ
一、「原始の島」か
西表島は、九州から台湾にいたる島々のつらなりである琉球弧の最南端に位置する八重山地方最大の島である。その面積は東京の山手線で囲まれた区域のほぼ一○倍にあたる。イリオモテヤマネコが生息することが確認された時には「今世紀最大の発見」と騒がれ、最近は「最後の秘境・日本のアマゾン」といったキャッチフレーズで観光客を集めている。比較的豊かな自然を残すこの島に「原始の」とか「秘境」という言葉をあてはめたくなるのは島の実情を知らない都会人には無理もないことかもしれない。
しかし、五世紀以上にわたる歴史をもつ祖納のような集落があり、独自の言語と文化を育ててきた人々が西表に住んでいる。後述するように島の隅々まで住民は利用してきた。手付かずの自然は存在しないのである。島の全体にわたる地名を調べてゆくと、その総数は軽く一○○○を越えることがわかった。全島にぎっしり付けられた地名の存在を知ると、住民が昔から島の隅々までくまなく使ってきたことがよくわかるのである。長年にわたる住民による働きかけがあるにもかかわらず島の自然が比較的よく残されている理由の一つとして、伝統的な自然利用の仕方の特徴が挙げられる。それは、すべての生活活動が自然の資源を回復可能な範囲でのみ利用した点である。人口が過密にならなかったこともそのような利用の方法を可能にした背景である(一九八六年現在の人口はおよそ一五○○人)。
二、西表島の自然と風土
琉球弧の気候の特徴は、かなり多い年間降水量にもかかわらず、安定した降雨が望めるのは一二月から一月にかけての短期間であることと、繰り返し襲う猛烈な台風である。八重山の年間台風滞在時間の平均はのべ八○時間を越える。西表島は東部のわずかな台地を除いて全島が標高四○○メートルにおよぶ険しい山地に覆われ、そこを深い溺れ谷がきざんで複雑な地形を作りだしている。豊富で複雑な種組成をもつ亜熱帯林と独特の動物相は世界にも例を見ないものである。
一九六一年に最終的に撲滅されるまで西表島と石垣島の北部には悪性の熱帯熱マラリアが分布していた。このことも西表島の自然の歴史を考える時に忘れることができない。そして、沖縄が薩摩に征服されてから首里王府が八重山に課した人頭税制度は、耕地の広さにも豊作・凶作の変動にも関係なく定額を徴収する過酷な制度として明治三六年まで三○○年近くも続いた。水がないため稲作ができないサンゴ礁の小島にまで稲作が強制され、西表にくり舟で通う稲作が続けられた。マラリアの流行地への強制的移住政策もとられ、幾多の廃村がうまれた。
三、「ヤマネコか人か」から「ヤマネコも人も」へ
復帰直前まで西表島の森林地帯を東西に横切って建設が進められていた横断道路が、そのずさんな土砂の処理などから、環境破壊が大きいという理由で差し止められた時、「イリオモテヤマネコの保護と住民の福祉の向上のどちらが大切か」あるいは、もっと端的に「ヤマネコか人か」という議論がまきおこったことがある。西ドイツの動物学者ライハウゼンが人間とヤマネコが共存するためには西表島は小さすぎるからヤマネコを保護するために、住民を島外へ移住させるべきだという趣旨の勧告をして地元住民の憤激を買ったことは記憶に新しい。二度とこのような屈辱を受けないために、この際ヤマネコをみな殺しにしてしまおうという発言さえ聞かれた。
西表島の自然が今日の姿で残されていることは、決して自然の条件だけによるものではない。むしろ人間の側の条件がきわめて大きかったのである。苛酷な人頭税のもとで明治三六年まで居住の自由を持たなかった故に悪性の熱帯熱マラリアと戦わねばならなかった西表島の人々は、巨大な犠牲をはらってこの自然との共存をはたしてきたといえよう。このことを知ると、西表島の自然を本当に守ることができるのは、石垣島に駐在している役所などではなく、多大の犠牲をはらって島に住み続けてきた人々であることが理解できよう。いわゆる自然保護にしても、その自然のもつ観光的な価値をあてこんだリゾート開発にしても、西表島がほとんど無人の島であるかのような意識で進められようとしているものがあまりにも多かったし、現在も多い。
前述のライハウゼン勧告に対して西表島の伝統的集落の良識ある人々は「俺たちが水田を作ってきたからこそヤマネコは餌場が確保できたんじゃないか。これまでヤマネコを守って来たのは俺達なんだよ。」と批判した。西表の住民のすべてが戦後の移民であると考えたライハウゼンの誤解は単なる無知ではすまされないが、自然を本当に守ることができるのは、昔からその自然についての深い知識をもって、その保全にもあたってきた地元の人々であるという事実を認識していない点で二重に誤っている。「ヤマネコか人か」という発想でなく、「ヤマネコも人も」を目標にしないかぎり、西表島の自然保護が実を結ぶことはありえない。
現地調査の結果から、西表島の自然が人間の生活活動の歴史と密接な関係をもっていることがしだいに明らかになってきている。例えば、建材を採取する時には、島の最奥部まで出掛けたし、猪(リュウキュウイノシシ)を対象にした狩猟活動もかなり山奥まで利用してきた。湿地帯によく見られるサガリバナという木の群落の多くは、猪よけのために水田に巡らせた垣根が根付いたものである。島の西部にある国指定の天然記念物である星立自然保護地域のみごとに樹高のそろったマングローブ林も、実は大正時代に染料採取のためほとんど皆伐したあとに復活したものであるという。
西表島の土地利用の歴史を検討してみよう。現在までの調査からは、島の外から移入された土地利用形態のほとんどが、無残な失敗に終わったという印象が強い。具体例を挙げれば、大正時代にアダンという海岸に生える植物の葉を利用してパナマ帽子を製造する仕事やマングローブ類の樹皮から染料を煮詰める工場ができたが、取り尽くし等の理由で、いずれも二~三年で廃業のやむなきに至った。戦前まで続いた日本一過酷な労働で知られる西表炭坑が地元に与えた影響は、機織りなどの地場産業の急速な衰退と、標準語に触れることによる方言の喪失であった。復帰前まで続いたパルプ材伐採事業は伐採の後のリュウキュウマツ植林地がススキ草原に覆われるなどして失敗し、現在は中断されている。いずれも、自然の資源を回復不可能な速度で費消しつくしたという指摘が可能であろう。国有地が約八五%を占める西表島では、明治時代まで認められてきた入会地としての山林の利用の大半が制限され、復帰後はその制限が著しく強化された。その結果は、むしろ植生の単純化をもたらし、多様な環境を利用して生きてきた動物相にも必ずしも好ましい影響を与えていないのではないかと考えられる。
取り尽くそうと思えば取り尽くすこともできる自然の資源を、決して枯渇させないようにする社会的システムが存在したことも重要である。例えば、復帰前までは猪は売買するものではなく、親戚や隣り近所にただでわけあたえて共に食べるものとされていた。マングローブ帯に棲む大きなカニ(ノコギリガザミ)をはじめとする川の幸、海の幸も、島の人々が食べてまだ余るほどとれるならば売ってもよい、という考えかたが普通であった。
四、伝統的な自然資源利用の特徴
沖縄戦以前の西表島の農業は、稲作が中心であった。台風を避け、冬の安定した降雨を利用する稲作は、元来高温を好む稲を冬に育てるという特異な作季をもっている。一四七七年に与那国島に漂着した済州島民がすでに西表島でこうした稲作がおこなわれているのを見た。最近の研究では、この八重山の在来稲の品種はジャポニカでもインディカでもない中間型でインドネシアなどに多いジャバニカという品種群に近いことが明らかになってきている。鋤はなく、漏水防止や草の踏込みを目的として田を牛に踏ませる「踏耕」をおこなった。この技術も東南アジアの島々に広く分布しているものである。複雑な地形を反映して多様な立地をもつ水田に、二○を越える稲品種を分散させて作っていた。これは、凶作が個人に集中する危険を避ける伝統的な智恵であったと考えられる(安渓 一九七八)。人頭税として納めるための稲作の他には焼畑耕作もおこなわれ、一七世紀以後はサツマイモ、それ以前は熱帯系のヤマノイモであるダイジョなどを作っていた。このように、八重山の農耕文化には麦作や子芋型のサトイモのような北からの要素もあるが(安渓 一九八五a)、主要な作物の品種の性質は台湾と東南アジアの島々に共通するものであったことがしだいに明らかになってきている。
西表島の伝統的農耕文化は、多様な自然のもつ資源を利用する生活活動の一環として位置づけなければ十分に理解することができない。戦前までおこなわれた自然資源利用の種類を列挙してみよう。マキ(牧場)ではウシを飼うが、これは前述の踏耕に用いるのが最大の目的だった。山地では猪の狩猟と有用野生植物の採取がおこなわれる。海とマングローブ帯と渓流部では魚介類・海藻類を採取する。これらの活動が農耕活動と密接にからみあっているところが西表の大きな特徴である。この多くが今日まで続けられている(安渓 一九八四e)。
五、「本土なみ稲作」と農薬の一斉散布
一九七二年の沖縄の「本土復帰」以来、沖縄産の米については品質を問わずに一律の値段で買い取るという復帰特別措置が実施されてきた。この特別措置が来年から切れることになり、一昨年からは仮等級制を導入して値段の格差をつけるようになった。AからDまでの四ランクのうち、最下級のDランクは来年からは等外米つまり買い取り対象にならない。稲の単作を長年続けてきた西表の伝統的集落の農民たちは大きな試練に立たされることになった。一方、島の東部に集中する平坦な台地上でサトウキビ栽培が、西部に戦後入植した集落ではパイナップル栽培がおこなわれているが、いずれも国際価格の低下と円高できわめて苦しい経営状態にある。
西表西部の伝統的集落である祖納・星立では仮等級制施行一年目(一九八四年)はほとんど農薬や除草剤を使わないこれまで通りのやり方でAとBランクが過半を占めた。石垣島にある農業改良普及所からは、農薬の一斉散布をすることが強く指導されたが、この年も次の年(一九八五年)も農薬を使わない農家が多かった。ところが一九八五年は落胆と怒りの年になった。農民の目には前の年と同じ品質と映った米が軒並みDランクになったのである。そして、一九八六年の三月の田植えの時期には、改良普及所・農協・食料庁から職員が派遣されてきた。かれらは、田植え終了のお祝の席でポスターを配った。そこには、「カメムシの一斉防除でウマイ米を」とかかれており、沖縄県の全稲作集落ごとに昨年の米のランク付けがグラフにして表されていた。農薬の一斉散布をしなかった集落にC、Dランクが集中していることは明らかだった。カメムシ類が吸った米は斑点米になる。斑点米が少々まじっても精米して飯にすると区別はできないが、豊作で米が余る年には等級を低くする口実にされる傾向がある。このあと行われた説明は、農薬の一斉散布をしない限り来年から等外米ばかりになることはまぬかれないと思わせるような内容であった。
おそろしいことには、農薬のもつ急性・慢性の毒性についての説明はこの席では一切なされなかった。多くの農民は、農薬に対して漠然とした不安は感じていたが、具体的な知識をもつ者は少なかった。ある青年は、たくさんまけばそれだけよく効くと考えた。かれは、マスクもせず普段着のまま素手で農薬をまいた。またある青年は、田植えを明日に控えたまだ雑草も生えていない田に除草剤をまいた。ある老人は、農薬をまくことは消毒であり、体にもいいと信じていた。農薬を散布したあと、中毒で三日も寝込む人が出た。これは、一斉散布以前に個々の農家がおこなった農薬散布の例である。
後日、私はこのポスターに盛られている政策を補助金を通して支えているはずの農水省のトップクラスの意図を東京の友人を介して確かめてもらった。その結果、ある役人は「沖縄ではいまどきこんなことをやっているのか」と絶句したという。すでに「本土」では一斉防除や大規模基盤整備事業(いわゆる土地改良)の反省期がかなり前に訪れているのに、一律の本土並指向が末端ではおこなわれていることが彼を驚かせたのである。
西表の場合、谷間に散在する水田に農薬を散布することになる。田の周辺は、樹木に覆われた山地かマングローブ帯である。農薬散布の影響が水田だけにとどまらないことは明らかであろう。農薬が天然記念物の動植物にどの程度の影響を与えるかの予測はこの報告の主題ではないが、生態系の食物連鎖の頂点にあるイリオモテヤマネコが、体内に農薬を蓄積した小動物を食べることによって破滅的影響を受ける可能性が大きい。もっとも心配されるのは海と川から日常のおかずを採取するという生活様式をいとなむ住民の体への農薬の蓄積である。西表の海は一年中休むことなく海藻や貝や魚やエビなどを提供してくれる。石垣島の白保の住民がいうようにまさに「海の畑」である。元来、農業は多彩な生活活動の一部であった。海藻から上がる現金収入はほとんどの「農家」にとってもきわめて重要である。生活の一部としての稲作にだけ近視眼的に目をやって農薬を投入しようとする考えには大きな誤りがあり、危険が潜んでいる。
一九八六年三月、祖納の前泊の浜に異変が生じた。ほとんど取れなくなっていたパモリ(イソハマグリ)が舟溜まりの浜で小一時間で鍋に一杯取れるほど大量に発生したのである。隣家からおすそわけをいただいて味噌汁を炊いた私は、貝が強烈な機械油の臭いを放っていることに気付き、すぐに捨てた。おそらく、水洗便所などの普及による海の汚れと関係があるのだが、臭いでわかったことは幸いだった。これが農薬であれば、気付かずに食べたに違いなかったのだから。
西表の住民はすでにかなりの量の有機塩素剤を体内に蓄積している可能性がある。マラリア撲滅のためアメリカ民政府がおこなった屋内へのDDT水和剤の残留噴霧のためである。一○年以上にわたって毎年少なくとも二回、家の内部がすべて白くなり、食卓の上にぽたぽた白い液が落ちるほどDDT液の吹き付けがおこなわれた。現在でも古い木造家屋の天井などには白い部分が残っていて、そこから採取した粉は鼻を突く臭いを今も放っている。このような環境に住むことを余儀なくされた人々の体内にどれほどの化学物質が蓄積しているのかという点を解明する検診が島の人々の健康維持のためにぜひ必要であると考えられる。その結果がシロと出ないうちはマラリア撲滅を真に祝うことはできないだろうし、農薬の使用にも他の島の住民以上に慎重にならなければならないはずだ。このような事情を踏まえてみると、いま、西表島の稲作が実におそるべき岐路に立っていることに気付くのである。
六、有機農業への道
八方塞がりであるかに見える西表島の稲作に、かすかながらも希望の光があるとすればそれは、農薬を用いないことを積極的なセールスポイントにした稲作であろう。すでに西表島と石垣島には無農薬玄米の産地直送をおこなっている青年たちがいてそれなりの収益を上げている。斑点のついた西表の無農薬玄米を私も食べているが、見掛けの悪さにもかかわらずじつに美味しいものである。三才になる愚息は、無農薬玄米を食べ始めてわずか二か月で「茶色いごはんの方がいい」といって、白い飯を好まなくなったほどである。稲作そのものよりも売りさばきに労力の半分以上が費やされるという。安定した販路の確保が最大の問題である。現在の沖縄県の米の自給率はわずかに三%程度にすぎないことを考えてみると、このような農業を広めることは農協の対応いかんでそれほど難しいことではない。すでに、沖縄のある生協から大量に西表の無農薬米を買いたいという打診が来ているという。
現在、日本各地の先進的な地域で農薬を減らす農業が進められている。福岡県では最近一○年で農薬の使用量は約半分に減った。このような低農薬・無農薬稲作をバックアップしているのがその地方の農協である。農薬なしの農業はありえないといった旧態依然とした考え方を農協の職員自身がいかに乗りこえていくことができるかどうかに多くがかかっている(荷見・鈴木 一九$$)。
八重山の稲作は昭和の始めまでは、東南アジアの島々と共通する点を多くもつものであった。昭和の始めに台湾で栽培に成功した内地種(蓬莱米)を導入して今日の姿になった。現在も、農民達が独自に台湾から病害虫に強い多収品種を導入して広め、県の農業試験場や農協を慌てさせたりしている。もっとも遅れていると考えられていた西表の稲作がもっとも先進的な稲作になる可能性を秘めていると思う。九州以北でおこなわれているようなタイプの農業をモデルにした「本土なみ」指向は亜熱帯気候下の西表島の自然と人間の双方に荒廃をもたらすことを危惧するものである。
このような困難な状況の中にあって一部の心ある人々の手で模索され始めている運動がある。この運動が目指すところは、西表島の自然と文化を守り育て、地場産業を興していくことである。その精神を私なりに要約すると、①住民が主体となった自然環境の保全と回復可能な自然資源の節度ある利用②伝統文化の継承と新しい地域文化の創造③地元主導の地場産業の振興を通した地域のゆるやかな発展、などが挙げられる。具体的には、豊かな原材料と水を生かした染織り、手漉き和紙などの手工業、無農薬玄米の生産と産直による稲作の見直しなどの進展が注目される。西表島の「開発」の現状は決して楽観を許すようなものではない。地元民をせいぜいガードマンか民俗舞踊ショウの出演者としてしか利用せず、地元を潤すことがほとんどないリゾートホテルの建設も進められようとしている。だからこそ西表島の自然と人間の共生関係の再生をめざす運動の前進が期待されるのである。さらに、石垣島の白保空港反対運動などの他の地域の運動とも連帯していくことができるならば、機械文明の危機的な閉塞状況の中にあるわれわれの未来にもひとつの希望となるに違いない。
(安渓遊地 一九八六『エコノミスト』九月一六日号から抜粋)


