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イノベーションを考える)『西表島の農耕文化』抜粋 稲作にとって品種の意味 と 生業の変化をめぐって
2025/12/07
安渓遊地ほか『西表島の農耕文化』(2007、法政大学出版局)からの抜粋で
https://ankei.jp/yuji/?n=362
初出は、安渓遊地 一九七七「西表島の稲作」『季刊人類学』九巻三号 でした。
B、稲作にとって品種のもつ意味
(1)品種数
いちどにどれくらいの在来イネ品種を作っていたかという質問には、五~六種類という答えが多かった。大正時代の祖納では、さらに減少して、家族が少ない家ではおいしいものをあれこれ作るが、田が少なく家族の多い家では、収量の多い《ハニジクルー》のほかは糯イネ一品種だけという例が一般的であった。田代安定の西表仲間村での記載に「米拾六石。●米(●は米+尺 という字 注41)拾五石、四品。餅米壱石、一品」(田代、一八八六b、三六頁)と記されているが、七戸一三人の廃村寸前の村で五品種が作られていこということがわかる。おそらく、この程度が集落としては最低限の品種数だったのではあるまいか。
多くの品種をもつことの意味を西表の人にたずねると、自分のもっている田に適するイネを作ってきただけだという答が返ってくる。昔の人は、なるべくイネの種類を多く作れといったものだという。このことは、一人の作る水田が、非常に分散していたという事実をあきらかにしておかなければ納得しにくいのであるが、異なる環境をもつ水田を何か所も耕作することが、それぞれに適するイネ品種をもつことになったのだと理解することができる。表六で述べた、西表と石垣でイネ品種の数が二二と、ほかの島よりも多く記録されたという事実は、イネをつくる人口の大小もさることながら、大きい島ほど、水田の分布する環境が複雑になるということによってまず理解されなければならないと考える。
このようにさまざまの立地にある水田を各人が分散してもち、そこに適したイネを作ることで、病害虫や旱魃のさいの集中的被害をこうむらないようにしてきたのであろう。一八世紀耕起の越中の国の『私家農業談』には、「農人は稲の数、早稲より晩稲まで、一四五種二十品も作るべし」(小野 一九六九、二九一頁)と述べて、一品種にのみ頼ることの危険を、作季の異なる品種を多く作ることによって避けなければならないとしている。ボルネオのイバン族も、各家族が作季と使用目的の異なる一五種類以上の陸稲品種をもち、これらのイネを一定の順序に従ってつぎつぎに播種しているという(佐々木 一九六六、三九五頁)。西表においては、台風による作季の限定がきびしいためか、在来イネはあまり作季の分化を示しておらず、あちこちに田をもつというのが凶作への伝統的対応策であった。いわゆる地割制度の八重山における実体ははっきりしないが、数年おきに貢納用の田の担当替えがおこなわれたという聞きとりがあり、このことも各人の田の分散を支えていたらしい。極端な例では、崎山の人の田が陸路片道四時間はかかる、鹿川の下田原にあるという例もあった。
(2)品種群に対する伝統的態度
西表の人は、まことにこまやかな目でイネをみてきた。そのこまやかさは毎年の種籾選びのときにいかんなく発揮された。高い気温のもとで、劣化しやすいイネ品種を、ことに糯イネを劣化から守るために払われていた努力についてはすでに述べた。このような選択のなかで、これまでとは変わった穂《ピンジリムヌ》(変わりものの意)をみつけると、これまでにない良いイネではないかと積極的に試作してみるのが常であった。
《ウしノー》という語尾をもつイネは、西表だけで四品種もあったが、このような選種の過程で分化していったものだろう。大正期に《ビッチャマイ》が《ハニジクルー》から選びだされたのも、昭和になって、台中六五号からやや晩生の「宇根一号」が選びだされたのも同じ事情によるのだろう。現在でも、新品種に対する熱意は大きく、祖納には、知人に頼んで、東京からいろいろな新品種の籾を送らせては作っている篤農家がいるが、自分しか作っていないはずの品種が、いつのまにか、田植えの手伝いにきた人の田に植わっていると苦笑しながら語ってくれた。今日ではこの熱心さは八重山独特のものであるらしく、名護の沖縄県農試の係員の語るところによれば、八重山の人は昔から、名護で奨励決定のための試験をしないうちに、イネの新品種を作ってしまうし、変な米をいろいろ作っては、すぐ自分の名前をつけるのだという。
C、生業の変化について──西表島の現状をめぐって
蓬莱米という水稲の新品種群導入によって、稲作という生業に大きな変革がもたらされたわけだが、その動因は何だっただろうか。筆者は、当時の反あたり七~八斗といういちじるしく低い収量と比較した蓬莱米の収量の高さが、最大の動機だったと考える。蓬莱米を受けいれることは、付随する新しい技術を受けいれることなしには不可能だったから、前述のような、大きな技術革新が引きおこされていった。たとえば、化学肥料が導入されると、どんなやせた田でも、ほぼ同じ収穫が保証されるから、水田を分散させておく必要はある程度失われることになるし、稲作に必要な道具類も増え、田ごとに田小屋が必要になると、むしろ、田を一か所に集中させるほうが有利になってくる。こういう経過で、多くの水田の交換が集落というワクをこえておこなわれた。交換にさいしては、不便さと土質に応じて、外離島の七反の田を、祖納の集落に接した一反の田と交換した、というような例も知られている。
収量についで重視されたのは、いわゆる「作りやすさ」(と食味)だった。脱粒しやすくいのししの食害も多い台中六五号は、山あいの田では在来イネに比べていちじるしく「作りにくい」イネであった。そのため、しばらくは在来イネを作りつづけていたが、やがて台中六五号の収穫が軌道に乗るにつれて、遠い山のなかの田まで作って収穫をあげる必要はなくなり、放棄される水田がふえていった。仲良川沿いにあった肥沃〔ひよく〕な水田が、一九四四年の大水害のあとにほとんど復旧されなかったのも、すでに仲良田が《ナカラダー》(肥沃な田の代名詞)でなくなっていたからにほかならない。
新品種導入の影響が、土地所有の形態にまで及ぶと、もはやあともどりすることのできない変化となり、生活全体に大きな影響を与えたこの生業経済における変革は、しっかり根をおろす。西表島という環境のなかでの二期作には、台風、虫害、土壌の高温障害などがあるが、種籾を取る必要に迫られて続けられてきた。しかし、一九七〇年ごろから種籾を、農協を通じて買う人が増えてきて、二期作をやめることもできるようになり、多くの人が二期作をやめた。このために、残された二期作田は、鳥害、虫害が集中し、少量では農協が買いとってくれないということもあいまって、現在では、祖納でまだ数人の人がやっているほかは、二期作はほとんどおこなわれていないという状態になっている。
深刻な過疎に見舞われている西表では、いま稲作をめぐる変革が再びおころうとしている。それは、ほぼ五〇年間続いた台中六五号に代わる、トヨニシキ、北陸九六号、九九号、西南糯五七号、鹿系一二〇〇号といった、さらに肥料反応の強い、短稈多収の新品種の導入であるが、それは同時に、農薬、除草剤、殺鼠剤〔さっそざい〕と機械化による労力の全面的な省略化をめざす変革でもある。実現すれば、蓬莱米導入の比でない大きな変化がもたらされることは確実であろう。
この技術革新に踏みきろうとしている農家が現在西表西部に二軒あるが、深田に、重い全自動脱穀機を入れても身動きがとれないといったことがおこっており、機械を補うためにやとった稲刈りの人手の賃金支払いで、せっかく広げた経営面積からあがる収入増が帳消しになったり、新品種トヨニシキにはげしいゴマハガレ病が出たりしているというのが実情である。農道の整備や湿田の乾田化、田一枚一枚についての潅漑排水路などの基盤整備事業に、政府が予算をつけてくれるきざしがない現状では(注42)、台中六五号にかわる新品種を求めてはいても、農業改良普及所のすすめる機械化を、多額の借金をしてまで実行することに踏みきれる農家はほとんどないのである。また、除草剤を使った田には、食用として用いていたミズオオバコ《カーラナズ》が完全に姿を消してしまうこと、農薬を使った田の下流では、ウナギ《オーニ》、ボラの幼魚《チクラー》などが死んでしまうことに気づいて、このような化学薬品の使用に危惧〔きぐ〕をいだいている人も一部にはあり、経済的理由もあって、田の草を手でとり、農薬は使わないという人もかなり多い。「普及所から、トヨニシキだけを普及するのでなく、田植え機も籾乾燥機も農薬も除草剤もみんなセットにしてもってくるが、とても導入しきれない」と語るのもこういった人たちである。
今のところ自動脱穀機はかなりの普及をみせているが、これ以上の機械化を進めるための、経済的・社会的背景が整っているとはいえない。しかし、もしこれ以上過疎化が進行するならば、たとえば、湿田は、昔、山奥の田を捨てたように放棄して、乾田だけで、機械化と経営規模拡大をおこなうといったことも不可能ではあるまい。
本報告に述べた稲作はみごとに環境との調和をみせる一連の生業活動の一環としておこなわれてきたものであるが、今日では西表の伝統的な生業形態を村落共同体として残しているのは、干立、祖納、古見の三集落だけである(注43)。もし、稲作を、西表の自然環境のなかで長年続けられてきた生業のなかに位置づけることなく、近代化の名のもとに、大型機械や農薬などの導入を進めるならば、あの豊かな自然環境と深い伝統に根ざした村落社会の荒廃がひきおこされるにちがいないという危惧を筆者はいだくのだが。
謝辞。この研究をおこなうにあたって、終始暖かいご理解を示され、未熟な筆者へのご援助を惜しまれなかった、八重山のみなさん、ほんとうにありがとうございました。心からの感謝の意と敬意を表します。石垣市立八重山博物館は、館所蔵の農具の実測と写真撮影を許可してくださいました。玻名城泰雄さんと、入伊泊雪子さんからは、伝統的生活の写真の提供を受けました。八重山農業改良普及所は、土壌分析用設備の使用を許可され、石垣忠浩さんは、実験の指導をしてくださいました。丸杉孝之先生(琉球大学)、外間政彰さん(那覇市史編集室長)には貴重な資料を閲読させていただきました。山田鐵之助さんは、ご尊父故山田満慶翁の口述筆記録の引用を許可してくださいました。沖縄県農業試験上名護支場は、沖縄在来イネ品種八種を提供してくださいました。梅景修先生(京都府立大学)からは水稲品種「瑞豊」を、京都大学農学部育種学教室からは「旭」を、それぞれ提供していただきました。京都大学農学部作物学教室の渡部忠世先生と森脇勉先生は、イネについて門外漢である筆者に、基本的な問題点についてご教示くださいました。ことに渡部先生からは強い激励をたまわりました。池田次郎先生、伊谷純一郎先生をはじめとする京都大学理学部自然人類学研究室のみなさんには、ゼミナールでの活発な議論を通じて、きびしいご批判をいただくことができました。ここに記して、以上すべてのかたがたに、筆者の心からなる謝意を表します。なお本研究は、研究費の一部を、文部省科学研究補助金(担当者、伊谷純一郎)によって進めました。
注37 この結果、全八重山で、一九二五(大正一四)年には、一万四九〇〇石の米を産出していたのが、一九三八(昭和一三)年には、一期作だけで、三万〇六〇〇石の収量を得るにいたった(喜舎場 一九五四、三七二頁)。
注38 現在では、《ユイマール》が大規模におこなわれているのは一期作の田植え時のみという状態である。一九七八年、三月七日、フカンタにおける田植えに筆者も参加したが、筆者をのぞいて、祖納の男性二六名、女性二名、青年三名が加わっていた。
注39 『耕作之書』から引用。苗代一坪あたり、田の質に応じて籾を二合五勺から三合播いて強健な苗を作り、苗代期間を九五~一〇〇日にすべきであるのに、このごろは上田、中田、下田にかかわりなく、坪あたり六合播きして細い苗をとるため、このように長くかかると諫めている(伊波 一九七四)。この一二〇日という苗代期間はたいへん長いものであり、にわかには信じがたいような値であるが、『沖縄の民俗資料第一集』(琉球政府文化財保護委員会 一九七〇、一~三五九頁)から、在来イネの作季の記載のある一六地点について、その苗代期間をみると、地域ごとにまとまりがみられ、沖縄島北部国頭地方と久米島で一〇〇~一三〇日とやはりきわめて長く、沖縄島のほかの地域では七〇~一〇〇日とそうとう長く、宮古では二〇~四〇日と短いが、八重山では、四〇~七〇日となっている。例外は、二期作をしていた沖縄島首里儀保村の三〇~四〇日という値だけであった。
注40 ただし、台湾の在来イネの作季を示す明治末の資料(台湾総督府 一九一〇、四八~四九頁)によると、一期作の播種期はおおむね、一二~二月、収穫期は六~七月となっており、当時の八重山在来イネの作季とほとんど変わらない地方が多い。二期作をしている点は異なるが、主期作の作季に注目する場合、八重山と台湾はひとつにグルーピングされるようである。なお、できれば、東南アジアについても一九〇〇年ごろの資料の比較によって論ずるべきであろうが、それは、現在の筆者の手にあまる仕事であるようだ。
注41 《サクマイ》(粳米)の意であろう。
注42 一九七八年になって祖納のミダラ田原の基盤整備事業を実施することが決定された。客土はおこなわず、農道をつける程度であるらしいが、その結果は、今後の西表開発の一つの試金石となるだろう。
注43 明治以降、西表では少なくとも一一の集落が廃村となり(安渓 一九七七、三~二頁)、現在ある集落の多くは、戦争中から始まった移民によって成立した集落である。
(初出、安渓遊地 一九七七『季刊人類学』九巻三号)


