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イノベーションを考える)『西表島の農耕文化』抜粋 台湾に稲を〝盗み〟に行った八重山農民たち
2025/12/07
アフリカ的イノベーションを考えるという勉強会で、あるエピソードをお話したら、たいへんみなさんから面白がられたので、
稲の場合、新しい品種が500キロも北の試験場からくるものでなかなか島の風土にあわないと感じていた農家が、台湾への〝観光旅行〟に行くものがたりです。
茶筒に隠したりして苦労して持ち帰った物語は、弘法大師が唐土から麦をふんどしの中に隠して盗んで帰ったという伝説(https://www.minakatella.net/letters/kishuzokuden101.html)なども想起させるものですが、庶民がそれをやったというところが違います。
初出は、安渓遊地 一九八七b、渡部忠世編著『稲のアジア史』三、小学館ですが、
安渓遊地ほか『西表島の農耕文化』(2007、法政大学出版局)から抜粋しておきます。
https://ankei.jp/yuji/?n=362
南島の農耕文化と「海上の道」
一、「海上の道」
A、今も生きている「稲の道」
一九八一年の秋、台湾の西海岸を旅行している男たちの一団があった。日本の最西南端の八重山(沖縄県八重山郡)の島々からやって来た農民たちである。観光目的のツアーであったが、もうひとつの目的は台湾の稲作を見学することであった。八重山西端の与那国島は台湾から一二○キロメートルしか離れていない。一方、五○○キロメートルも離れている沖縄島の名護にある農試から奨励されてくる新品種は、どうも八重山の風土に合わないものが多いようだ。その証拠に、五○年以上も前に台湾から導入された台中六五号が今だに栽培され続けているくらいだ。旅行のスケジュールを一○月にしたのも、台湾の二期作の刈り入れ時期に合わせるためだった。
かれらが台中市近郊の水田で見たものは、日本では見慣れない稲の一品種だった。台中六五号に似ている。しかし、それよりも草丈が高く、一穂の粒数が多く、粒がこぼれにくい。沖縄の農試から最近奨励されてくる品種は、どれも草丈が低く、八重山に多い湿田では作りにくい。しかも、少し湿気の多いところに籾を置くと味がすぐ落ちてしまう。台湾のこの品種は八重山にとって有望な稲だということを、畦に立った男たちは直感する。ぜひ自分たちの島でも試作してみたいものだ。みんながひそかに一穂ずつ摘みとる。袖にでも隠してなんとかもち帰ろうという魂胆である。そこへ田の持主が現れた――。そんなに欲しいのなら頒けてあげようということになり、籾を一升だけゆずってもらう。
この種籾をもち帰って、その年の暮れに始まる一期作にさっそく試作してみた。その結果、ワラが丈夫で台風に強く、雑草や病虫害にも負けず、八重山の風土によくあった稲であることがわかった。翌年の六月には収穫が始まったが、収量もこれまでの品種より多く、炊いた飯の味は驚くほどおいしいものだった。ついに台中六五号にかわる品種が現れたことになる。この稲は、島ごとで持ち込んだ農民の名前を冠して呼ばれ、またたく間に広まっていった。その後、農業改良普及所や農協が気付いた時には、この稲は八重山の島々に数十町歩も栽培されていたのであった(注44)。
島々を結ぶ「稲の道」は、このように今も生きている。そして、その道はけっして中央から地方へ、地方から辺境という向きにだけ開けているのではなかった(図20)
(3)タイプⅠの稲――柳田の「海上の道」仮説の復活
タイプⅠの稲の伝来の径路について、渡部は「必ずしもスンダ列島から島伝いに北上してきたという証拠はない。しかし、八重山諸島へは直接には台湾から伝わったと考えられるのではあるまいか」と述べ、そしてこの「より陸稲的」な「八重山在来稲の系統が日本の陸稲品種のなかにいくばくかの血を今日まで遺しているらしいのである」と付け加えている(渡部 一九八四a、八八~九〇頁)(注50)。
八重山から奄美にいたる琉球弧の在来稲品種は、元来タイプⅠと同じ形質をもつものであったと筆者は考えるにいたっている。明治期の沖縄島はタイプⅡの稲が主流になっていたが、これは、ある時期にタイプⅠの稲と交替がおこったためであろう。八重山以外で、おそらくは沖縄島のどこかでタイプⅠの陸稲品種が作られていたことは、沖縄島でもタイプⅠの「より陸稲的な」稲が栽培された時代があったことを示している。佐々木高明(一九八四、三一~三四頁)は、収穫後の刈り株が繁茂して再びつける穂を収穫する「ヒコバエ育成型」の稲作が近年まで八重山と奄美諸島に分布していたことを述べ、一五世紀ころには久米島(あるいは沖縄島の一部)にも同じ型の稲作があったことに注目する。ところが、同じ一五世紀には沖縄島の中・南部は稲作の先進地帯であって、より集約的な「二期作型」の稲作が開始されている。上江洲均(一九七四、一六八頁)は、稲の脱穀用具の分布が、八重山、沖縄島北部、奄美大島では短い竹管であるのに、沖縄島の中・南部、久米島などでは長い竹で作ったピンセット状のものであることを示した。佐々木の「ヒコバエ育成型」稲作と短い竹の脱穀具、先進的「二期作」と長い竹の脱穀具はそれぞれ結びついていると考えられる。松山利夫は、こうした脱穀具の分布は「あるいはある種の在来稲の普及と、なんらかの関連を示すのかもしれない。」と予想した(松山 一九八四、二九二頁)。かなり古くから南島全体に広がっていたタイプⅠの「より陸稲的な」稲の世界に、ある時沖縄島の中・南部を中心として松山が「ある種の在来稲」と述べたタイプⅡの稲が導入されたというのが筆者の解答である。
(4)自給から交易へ――一四世紀の沖縄島での大転換
それでは、その「ある時」とはいつか。この点に関して、三島格(一九七一、四頁)は沖縄島への漂流記を比較して、一三世紀中葉にサトイモ類を主食としていた島が、一五世紀には水田で牛を使い二期作をする島に変貌していることを示し、「約二世紀前後の間に、なにかが起こり、すべてが登場したという感じ」を強く受けると述べた。このころの沖縄島の経済と政治について生田滋はすぐれた論考を発表している(生田 一九八四、一一八頁)。一四世紀の後半から一五世紀の前半にかけて那覇には多数の中国人が逗留するようになり、明と東南アジアを結ぶ国際貿易活動に従事していた。この中国人たちに対して食糧を供給するための稲作が沖縄島で発展したと生田は考える。二期作もこの時期からはじまったのではなかろうかという。この生田の論考に基づけば、右記のタイプⅡの稲を沖縄島にもたらしたのもこれらの中国人であったと推定することができる。そしてこうした新品種がどこからもたらされたかという問題が残る。これら中国人の行動半径は、東南アジアから中国大陸にわたっていたのであるが、沖縄島のタイプⅡの稲のふるさとは、この当時の交易をつかさどる役所である市舶司が置かれていた泉州(福建省)周辺であった、という推定もある妥当性をもつのではないかと考えている(図21$参照)。
盛永と向井(一九六九、一六頁)は沖縄の在来稲の系譜について次のように述べた。
「この範囲ではまだ沖縄への稲の伝来についてはなんら具体的に触れうるまでには至らなかった。ただいえることは沖縄の在来稲は支那大陸中・南部の多数の稲に似、また台湾の山地稲にもずいぶん似ているということだけである。」
筆者は八重山の在来稲について設定した三タイプのそれぞれの渡来について考えられる点をいささかあらけずりな仮説として述べてきた(注51)。これによって日本の南の島々に通じていたいく本もの「稲の道」についての理解が少しでも具体的になればと願っている。
注
注44
この後、県農試の八重山支場でも台湾からこれに類する稲をとりよせて栽培試験中である。こうした八重山農民の進取の気性は昔からのものである。大正末年に、台湾で栽培が軌道にのった水稲内地種(いわゆる蓬莱米)が八重山に導入されたのは、農業技手仲本賢貴の努力のたまものであったが、そもそも大正一二年から一四年にかけて新品種の試作を続けて仲本技手を動かすきっかけを作ったのは、石垣島の一農民、仲唐英昌であった(賢貴の令息仲本賢弘氏の手記による)。
注45
なお、八重山の稲に関する島々の聞きとり調査でも「ウフシノー」という名前は得られていない。籾の着色がない稲で《シソー》という種類があったことはわかっている。「ウフシノー」は《ウフシソー》(大白の意味)という品種名の誤記であろう(安渓 一九七八、四九頁)。
注46
八重山は、首里王府へ人頭税として米を納めることを強制されていた。これは、籾でなく玄米による納付であった。したがって、八重山の籾の色の違いは、それほど問題にならなかったと考えられる。また、上納用であったと言い伝えられている稲の玄米はいずれも白かった。だから、八重山の赤米の多くは、地元で消費されたのかもしれない。
注47
島ごとの聞きとりに食い違いがみられるとして渡部は次のようにいう(渡部 一九八四a、七九頁)。
「また、ダーニャマイ(ダネーマイ)は、西表島でも石垣島でも比較的美味であったと語られているが、表三の与那国島のダニマイ(上と同種である)では、まずいので専ら酒造米として利用されたということになっている。
半世紀余の経過は、このように記憶の齟齬をも生じかねない年月であるかに思われる。(後略)」
これは作物の調査に限ったことではないが、明らかに同一の語源をもつ名称であっても、集落が違えば別のものを指していることは多い(安渓 一九八四c、三二一頁)。例えば、西表島西部の在来稲に《アハガラシ》(赤カラス、黒い籾をもつ赤米)、《ッスガラシ》(白カラス、黒い籾・白い玄米)の二つがあり、これらは《ガラしマイ》(カラス稲)と総称された。ところが、石垣島ではこの後者の品種は知られず、《ガラすぃマイ》と言えば赤米の品種であった。このような事情を踏まえると、厳密に言えば渡部の「ダニマイ(上と同種である)」という記述も、一抹の不安なしにはできないはずである。
また、農学の常識では理解しがたい聞きとりがあるとして、渡部は、次のような疑問を呈している(渡部 一九八四a、七九頁)。
(イーニマイは)「稈が丈夫で倒伏しにくかった」点から考えると、これもブルの形質の一部を備えたものと思われるが、「一穂の粒数は少ない」と言われれば、典型的なブルとはいえないという困惑がある。
明治から大正にかけて、八重山の在来稲の変異の幅はそれほど大きなものではなかった。西表島にはおそらく前述のⅠとⅡの二つのタイプしかなかったと筆者は考えている。渡部がここに引用しているのは在来稲の形質の一覧表に対する注釈的部分である。《イーニマイ》は、一穂の粒数が多い(ブル的な)八重山在来稲のなかで比較的「一穂の粒数は少ない」という評価を受けていた、という意味をもつ資料であると筆者は考えてきた。つまり、聞きとり資料によって生態型にあたるような大分類を試みるのはやや本末転倒であって、そもそも聞きとり資料は、農学による資料を補い、より細かい分類を考慮するために使うべきものであろう。
注48
西表島の在来稲のうち、大昔からの稲と言われているものが二つある。それは、《イーニマイ》と《ダニャーマイ》である。また、昔からの稲と言われているものは、《ピッツマイ》、《イヤマイ》、《アカブザマイ》、《ッスムチマイ》である。《ッスムチマイ》以外の五つの稲はいずれも濃く着色した籾をもち、想像力をたくましくすれば、この論文の論旨からしてタイプⅠの稲ではなかったかと推定される。
注49
國分直一は、宮古・八重山が「イネ・ムギを導入して弥生型生業をもつようになるのは、一三世紀以降のことであろうとみられている。」と述べている(國分 一九八六、二六九頁)。
注50
石垣島での伝承は、上古、アンナン、アレシンという国からタルファイ、マルファイという兄妹の神が稲の種子を携えて移住し、稲作を始めたと伝えている(喜舎場 一九五四、三六七頁)。これが今日のベトナム付近にあたる安南を指すのなら、こうした遠隔の地からの直接的に導入された品種もありえたことになる。また、導入時期を示す伝承もある。オヤケアカハチの反乱(一五○○年)ころの女性で、のちに八重山初代の最高位神職大阿母(方言で《ホールザー》)に就任したターダヤブナリィが、首里への往還の旅の途中、アンナン国に流され、そこで稲と粟の種子をいただいて石垣島に帰りついたという(石垣 一九八四、三○八頁)。
注51
この結論は、高谷好一が沖縄の在来稲のタイプの設定と導入時期をめぐって述べた推定といくつかの点で一致する(高谷 一九八二、一八頁)。とくに、沖縄島での稲作の本格的な始まりを宋代以後に一気に増大する外国人を主体とした「都市人口のための一種の商業的稲作」の展開と重ねあわせる議論は、生田(一九八四、一一八頁)の所論とも合致して説得力が高い。また、江戸期以降には薩摩から多くの日本稲が導入されたと高谷は主張するが、この北からの波が八重山に及んでいないことはほぼ確実である。日本稲の栽培が八重山と同緯度の台湾で成功するのは大正一○年ころであり、磯永吉が若苗の移植による不時出穂の防止という技術を確立して栽培が軌道に乗るまでには、三○年近い努力が必要だったのである(安渓 一九七八、八二頁)。
(初出、安渓遊地 一九八七b、渡部忠世編著『稲のアジア史』三所収、小学館)


