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わが師)#伊谷純一郎 先生の #文章教室 #西表島 の #廃村 #鹿川 研究の場合
2025/08/23
安渓遊地が、京都大学の大学院(理学研究科)で指導を受けた伊谷純一郎先生が、どれほどの時間と手間暇をかけて、大学院生の論文指導をされていたか、を書き留めておきます。
貼付のpdfファイルは、1回目と2回目の校閲の例です。フィールドワーク開始1年後のKJ法による、研究内容の見取り図の図解もjpg画像では細部まで読みにくいので、pdfでも貼り付けておきます。
1975年、修士論文を書くことになって、指導教員の伊谷先生に日本語の実用文の作文技術の手ほどきを受けました。テーマは、西表島の廃村鹿川(かのかわ)です。
1.まず目次を書いて提出します。これが第一関門(貼付の図3枚目、校閲第2ページ)。これに合格すると、
2.目次にそって本文を書いては、できた分だけ順番に伊谷先生のところへ持っていきます。すると、数日以内に加筆修正されてもどしてくださいます。ごてごてしたわけのわからん文章を、順序を入れ替え、てにをはを直してもらうと、あら不思議スッキリしてきます(校閲第3ページ)。
3.まれには、「このページ書き直し」の指示があったり(校閲第3ページの上端)、論文のしめくくりで詰まったりしていると、1ページ分ぐらい先生が書いてくださることもありました。(校閲第4と5ページ)
4.全体が戻ってきたら、新しい原稿用紙に書いていって、また見ていただきます。
5.それが戻ってきたら、図表の入った投稿用の原稿を書きます。ワープロがない時代は、根気よく手で書いたのでした。
6.伊谷先生は、それらの修士論文等が、論文集として公刊されるように計らってくださることが多くありました。ですから、一冊の本を編むときには、いつもカバンの中に弟子たちの原稿を入れて、バスの中でまで校閲してくださっている姿を見かけたものです。
理学研究科ではあっても、人文系の内容が多いために、安渓遊地の論文はたいてい400字詰めで150枚を超えるものが多く、修士課程から博士課程まで7年間在籍して、西表島で2本、アフリカで3本の長めの論文を書きましたから、私の手元には、150枚×2回×5つで、およそ1500枚の原稿用紙が残っています。ずいぶんお手数をかけたものと思います。
噂では、隣の生態学研究室では、川那部先生が赤黄青のサインペンを片手に、「いいね」というところは青の、注意は黄色、だめだめは赤のマーカーを引かれるということでしたが、多くは赤と黄色のだんだらになり、青はほとんどない、という噂でした。
鹿川廃村の論文は、雄山閣から1977年に出た『人類の自然誌』の中に収録されました。それから40年を経て、『廃村続出の時代を生きる』(南方新社 https://ankei.jp/yuji/?n=2288)という本をまとめたときに、第一章に、この修士論文をほぼそのまま使わせていただきました。
1974年の6月にはじめて西表島を訪ねて、ほぼ1年が過ぎた段階で、KJ法による見取り図のようなものを作成しました。ここに、集まってきた具体的な情報を書き加えていくことで、論文が生まれてくるのですが、その過程での丁寧な日本語添削を伊谷先生がしてくださったことが、その後の研究論文執筆の基本の力となったと思っています。その意味で、『廃村続出の時代を生きる』の謝辞の最後に、伊谷純一郎先生にこの本を捧げます、と書かせていただいたのでした。








