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#中帰連)広中万石さんの証言 湖北省での実的刺突訓練 #山口県
2025/08/10
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安渓遊地は『中帰連』の購読会員でした。
実的刺突訓練
広中 万石
(元日本陸軍第39師団第233連隊第三大隊第十中隊 歩兵軍曹)
昨日は広島に原爆を落とされた日から80年。核兵器保有や日本軍は世界一紳士な軍隊だったなどと公然と語る者たちが国会議員に当選した。中国での軍隊生活を自宅で隠さず話して下さった広中万石さんは、初鹿野らに激怒していることだろう。加害の証言はなかなか得られないからこそ、初鹿野らの嘘八百が罷り通る。ちょっと長いけれど貴重な証言なので最後まで目を通してほしい。戦争はダメだ。人間を鬼にする。(←安岡さんの解説)
第三大隊護衛中隊として、第十中隊が中国湖北省宣昌県菫市(揚子江岸500戸ばかりの部落)付近の警備についていた、昭和17年10月頃の間のことです。
当時の私は陸軍兵長で、初年兵教育係助手をしていました。昭和18年2月のある朝、教官上野宣正見習士官(下松出身)の命令を受けた私は、初年兵二人を連れて第三大隊本部情報室に行き、係の下士官より中国人捕虜2名(40歳位)を受け取り、第十中隊(金龍寺)西側の演習場、農家の畑に連れて行きました。
すでに初年兵は軍装し、白い息を吐きながら、教官の訓示を受けているところでした。私は2人の初年兵を歩哨に立てて、捕虜にスコップを渡して、それぞれの穴を並べて掘るように命じました。
「我的老百姓」と手を合わし、許してくれと懇願するのを、私は「何をいやがる。悔しかったら、戦争に勝て‼︎」と小銃の床尾で小突きあげ、穴を掘らせたのです。
かたわらで、初年兵は一列横隊になり、ヤア、ヤァと気合いをかけ銃剣を突き出していました。しばらくすると穴が掘れました。
「教官殿、準備ができました。」と大声で報告し、「よおしッ」と教官の返事があって、助教の号令で初年兵が駆け足で来ると、穴から30メートルくらいはなれて一列に並んで止まりました。教官は初年兵に向かって、
「ただ今より、実的刺突訓練を行なう。日頃の訓練の成果をあげるように…。」
と言いました。
一列縦隊、銃を構えた初年兵に、助教と助手の私は交互に「突撃に進めッ」と号令をかけ、穴の前に立たせた捕虜に向けて、「突っ込めッ」と怒鳴ります。しかし、初年兵の手元は狂い、心臓部にはなかなか当たらないのです。捕虜はその度に穴に向けてひっくり返って、「我的老百姓、土匪没有‼︎」と必死に許しを乞うのをかまわず、「この野郎」と腕を引っ張っては引き上げ、引き上げ、銃剣の標的にまた立たせるのです。私は初年兵に「そんなことでお国のためになるかッ」と、手にした小銃で小突き、気合いを入れては号令をかけて突っ込ませました。遂に捕虜は綿入れのボタンを外し、血だらけになった胸をはだけて
「此処を突け‼︎」と二、三回指で指し、眼をつぶりました。最後には突かれ刺されて穴に倒れ込んだのを何人かして穴の上から突き殺しました。
初年兵の顔は、何しろ初めてのことで、その多くが青ざめていました。
残るもう一人の捕虜は、上野教官が、その軍刀の試し切りをすることになりました。約30人の初年兵は穴のまわり。囲んで立ちました。私は捕虜を穴に向けて座らせました。教官は軍刀に水をかけながら、「初年兵、よく見ておれ」と言うと、軍刀を捕虜の後ろ首に軽く当て、振りかぶると、大上段から「エイッ」と気合いもろとも打ち下ろしました。『がぶッ』と西瓜を割ったような音がして、血を噴きながら首が穴の中に飛びました。その後を追うようにすうっと体がのびて、首の所まで倒れて行きました。
何人かの初年兵が、死体を埋め土まんじゅうを作りました。上野教官は土まんじゅうの上に水をかけ、ススキのひと枝を取って立てると、軍服のポケットから、おもむろに数珠を出し、手首にかけると掌で揉みながら、お経を唱え出しました。
教官の上野宣正見習士官は、お寺の僧職の出身でした。
以下は補足の文章です。
※三光(殺光・焼光・槍光)
殺しつくす・焼きつくす・奪いつくすの意。日本軍の侵略に対する抗日戦が人民大衆の支持によって人民戦争として闘われるようになると、日本軍は抵抗の根源を破壊しようとして、占領地区住民の銃剣刺殺や斬首、強制連行、婦女暴行、家屋・農具・家畜・種子・食糧などの焼却や略奪など残虐の限りを尽くした。首都南京攻略では30万人の中国人を虐殺した。
中帰連の会員らは57年以降、自らの体験に基づき、中国侵略日本軍による残虐行為を明るみに出して批判し、犠牲となった中国人徴用工の遺骨返還、中国への謝罪訪問、歴史教科書改ざんへの批判、自衛隊海外派遣への抗議など、実際の行動を用いて日本で平和・反戦運動を展開したほか、中国との友好交流活動にも積極的に携わってきた。もちろん広中万石さんも中帰連のメンバー。
YYさんのコメント
その刺突訓練を拒み捕虜の縄をほどき逃がした方に渡部良三と言う方がおられます。(岩波書店発行「小さな抵抗」渡部良三著参照)
渡部さんは訓練を拒否し逃がしたばっかりに上官から手酷いリンチを浴びました、リンチの後顔は腫れ上がり鼻や口からは出血し流れる涙と鮮血で顔はグチャグチャだったと聞きました。上官室から出て兵舎に戻る際に廊下で中国人の苦力がすれ違いざまに小さな声でこう言ったそうです「殺さなかったあなたは大人(たいじん)ぞ」と。
コメントに応えて
山口県の広中万石さんの自宅でかつてお話を伺い、戦争体験記もいただきこのサイトに投稿した安岡です。
個人的な事ですが、10年前まで小学校で教員をしていました。生活綴り方と人権・平和教育を大切にしてきました。初めて教職に就いた時、3年生の国語教科書に「一つの花」(今西祐行)の文章が載っていました。ぼくはこの教材を使って子どもたちと戦争と平和について想像を巡らせる事ができると考え、いろんな角度からこの教材と向き合いました。しかし、教員を続けるうちに戦争被害体験だけでは、大切な事が抜け落ちていると思うようになりました。そうです、加害体験がすっぽり落ちているのです。
しかし、戦争体験者からは加害の話などなかなか聞けないし、チャンスもありません。そんな中で出会ったのが、中国帰還者連絡会でした。部隊が残忍な行動をし、終戦後はシベリアに抑留され、命からがらやっと日本に帰れると思ったら、中国の撫順戦犯所に逆送されます。全員死刑を覚悟したそうです。ところが、周恩来の指示で、鬼を人間に覚醒させるという方針のもと、自分たちの行なった罪業を全て語らせ、一人も殺される事なく日本に帰る事ができました。広中万石さんもそのお一人です。だから、広中さんは自分の罪業を隠す事なく語り、平和のために力を尽くし、町会議員として反戦平和に力を尽くしました。そういう魂のこもった自己告発の文章なのです。
南京大虐殺はなかったとか、日本の軍隊は理想的な軍隊だったなどと、まるで歴史に無知な人間が国会議員に当選するなんて腹が立って仕方がありません。ぼくが聞き取りさせていただいた中帰連のおじいさんたちもほとんどが鬼籍に入られてしまいました。読むのが辛くても、残してくれた証言は受け継いでいかねばならないと思います。あったことはなかった事にはできないからです。
関連サイト NPO中帰連平和記念館 https://npo-chuukiren.jimdofree.com/
貼付は、同サイトの 中帰連とは に掲載された碑文や文章のpdfです。
以下は、画像に示した 千葉中帰連碑文の テキストです。
碑文
第二次世界大戦の戦犯として中国に抑留された
私たち一千百九名うち千葉県五五名は
中国政府の思いもよらぬ寛大な処遇を受け
一人も処刑されることなく一九五六年以降釈放
され全員帰国を許されました
私達が侵略者として中国で犯した滔天の罪行は
被害者の心情を思えば思うほど深くして
なを重くとても償えるものではありません
私達は過去ヘの反省を込め帰国後中国帰還者
連絡会をつくり恒久平和を希求し
反戦と日中友好に努めて参りました
帰国四十年に当たり今在る我が身を想い
『怨みに報ゆるに徳を以て為す』偉大なる
中国人民に対し限りない感謝と謝罪の誠を捧げ
亡き先達の遺族と共に此の地に碑を建立し
永遠なる日中友好の誓いとします
一九九七年七月吉日
中国帰還者連絡会千葉県支部



