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調査されるという迷惑)「研究成果の還元」はどこまで可能か を読んでいただきました #文化人類学会 #民族学会 #研究倫理 #KJ法
2025/08/10
1992年に、『民族学研究』57(1):75−83に書いた 「研究成果の還元」はどこまで可能かという文章は、『調査されるという迷惑』とその増補版(みずのわ出版)に収録してあります。
もとの雑誌でのネット公開(https://www.jasca.org/publication/jjca/jjca_index.html)は、1996年以降なので読めませんが、部分的には、関西大学の大学院の日本語(!)の入試問題(https://ankei.jp/yuji/?n=3077)で読めたりします。
https://note.com/naxkaxta/n/n8b8c3f01ccc6 というブログで紹介してくださっていました。
以下部分引用。
本書は、調査者・取材者に対して「ではどうしたらいいのか」……というよりも、「ではどうしたときにだめだったのか」という実例を――著者の失敗談とともに――中心に紹介する一冊となっている。そのあたりの潔さ。俺は信頼できると思った。
相手の都合を考えない失礼な取材をする、借りた資料を返さない……。調査地に対して無礼を払う人たちについて、調査対象者がどんなふうに感じているのか、といった発言の生々しさもいい。
(発言例の引用は省略)
その他、紹介されるエピソードはどれも明け透けで、ギョッとさせられる調査者の蛮行も少なくない。
とはいえ、失敗談ばかりがとりあげられるわけではなく、調査者・取材者にとって“どうするべきか”の指針が示される箇所もある。なかでも良かったのは、《「研究成果の還元」はどこまで可能か》という章だ。
「研究成果の還元」
文化人類学の調査においてはそうした課題が――免罪符のように――検討されることがあるらしい。実践の難しさはさておき、俺はその考え方が気に入った。
それでは、今、われわれに何が可能か。実情の複雑さにもかかわらず、理念としての解答は明確である。ある長老研究者は、こう言っている。いわく、基本は、調査対象に対する人間としての誠意と友情を貫くこと。ほかは自ずから枝葉にゆきわたる。調査の許可、好評の承認、成果の還元。これらなしにフィールド・リサーチはゆるされない、と。さらに、私の言葉を付け加えるならば、する側の一方的な略奪の構造を変えていくように、ひとりひとりの研究者が努力し、その力をあわせていけるようなネットワークをつくること。しかし、このような理念を繰り返し唱えるだけでは事態は容易に変化しなかった。自分の研究活動を反省することは痛みをともない、その痛みを踏まえた実践には時として大きな勇気がいる。(←これは原文からの引用)
基本は、調査対象に対する人間としての誠意と友情を貫くこと。ほかは自ずから枝葉にゆきわたる。
“当たり前”といえば“当たり前”な帰結だが、仕事をしていると成果を追い求めるあまり、そうした“当たり前”が頭から欠落してしまうことがある。という事実を再認するだけでも有用な一冊である。自戒・自省を繰り返しながらやっていくしかないのだ。
紹介していただいた安渓遊地のコメント
ブログを書かれた なかた さん(出版社→(略)→Webメディア記者/文春オンライン主催の「あなたが書きたい『平成の名言』と『平成の事件』は?」で最優秀賞。週刊Gallop主催の「週刊Gallopエッセー大賞」で最終候補ノミネートなど。)ありがとうございます。
私が執筆した文章は、日本民族学会の研究倫理に関するアンケートの結果を、第二期の研究倫理委員会で読んで、委員が分担してまとめた報告の一部だったものです。会長であっても閲覧を許さないほど厳格に管理された回答の文章で、しかも結果を公開することがあると予告せずにとったアンケートですから、すべての文章は、直接引用ではなく、形を変えて「地の文」として執筆しています。
多様な意見を読みやすくまとめながら、委員会としてのあるべき姿の討論も踏まえた形になるようにするためには、質的な統合法であるKJ法の精神を借りてまとめ上げたのだと思いますが、今手元には、図解が残っていません。


