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エッセー)野外調査から野良仕事へ(1994年7月)
2025/08/05
これは、広島KJ法研究会の『地平線』への投稿記事です。
うちにインタビューに来たいと言われる方には、なるべくワーキングホリデーとしておいでくださるようにお願いをしているのですが、その理由がわかるかもしれない文章がパソコンから発掘されましたので共有しておきますね。
掲載誌の『地平線』の紹介は、以下にあります。
https://ankei.jp/yuji/file/1104/001405_1.jpg
フィールドワーク フィールドワーク
野 外 調 査 か ら 野 良 仕 事 へ
大学教員 安渓 遊地
フィールド・ワークの光と影と
私のはじめてのフィールド・ワークは、イリオモテヤマネコで有名な西表
島でした。大学を卒業したばかりの私に、島の若者たちが投げかけたことば
は、「なに?調査だ?バカセなら毎年何十人もくるぞ」というものでした(
安渓、1992d)。宮本常一先生の「調査地被害――される側の様々な迷惑」
(宮本、1972)は、移動大学の仲間から教えられてすでに読んでいましたが、
これがかけだしのフィールド・ワーカー志願者への懇切な指導の始まりであ
ったことがわかるのに1年以上かかりました。
やがて、南島の稲作の歴史を学ぶために、田んぼの仕事を手伝わせていた
だいたりすることになっていくのですが、丸一日野良仕事に明け暮れた日な
どは、「フィールド・ワークってのは、文字通り田や畑で働くことなのかな
あ」と思ったりしていました。
その後、アフリカへ何度か行ったり、以前にも書かせていただいたように、
(https://ankei.jp/yuji/?n=417)
フランスに滞在したりしながら、論文を書いてきました。そんなガクモン中
心の生活が、今ではずいぶん様がわりしてしまいました。カーブをまわる転
換点になったのは、西表島の水田に農薬散布が強制されることに異議を申し
立てる文章(安渓、1986)を発表したあたりだったかもしれません。1989年
から実際に無農薬米の産直がはじまり、それが、いちおう軌道にのって、全
国の消費者のみなさんにお知らせできるようになる(安渓、1992b)までに、
さまざななできごとを経験しました。まだくわしくお話しする機は熟してい
ませんが、わりあいクールな学問の世界を踏み外していったことはまちがい
ないようです。
それと平行して、調査される側であった話し手が筆を執るという試みを始
めていました。理解ある出版社の好意によって、これまでに、西表島の3人
の方々による地域誌・自分史の出版のお手伝いをすることができました(山
田、1986、川平、1990、山田、1992)。
1990年に決定的なできごとにめぐりあいました。日本のある島で、フィー
ルド・ワーカーをはじめとする他所者のふるまいについてこっぴどく叱られ
たのです(安渓、1991b)。それまで、こちらの聞きたいことを聞くという
態度がどうしても抜けなかったのですが、語る側には、「語りたいことを語
り、語りたくないことは語らない」という当然の権利がある、という事実が
ようやく納得できたのです。
屋久島からの手紙
叱られたショックの中から、私の聞いた言葉をなるべく生の形で残すのが
先だろうと考えるようになり、屋久島の雑誌(電話09974・2・2055)に連載
させてもらうようになりました。私は、屋久島と種子島の間の物々交換の研
究を志したことがあって、そのためにしたフィールド・ワークを出発点にし
ました(安渓、1991d, 1992e, 1992f, 1992g, 1992h, 1993f, 1993g, 1993h,
1994b)。
1990年にフィールドで叱られて以来、私は、論文であれ、エッセーであれ、
できるかぎり話し手か、その御遺族に見ていただくというステップを欠かさ
ないように努力してきています。もちろん、手紙を出してもうまく届くとは
限らない地域が、この星の上にはいくらもあることは承知しているのですが。
屋久島の雑誌への連載の中で、あるおじいちゃんの語りを収録しようと考
えたことがあります。簡単な骨格だけの原稿をつくり、お宅に届けました。
お会いしてから7年の年月が流れ、残念なことにおじいちゃんは、寝たきり
になっておられて、お会いすることができませんでした。
その後、おじいちゃんはなくなられてしまったのですが、短い前書きと、
後書きを添え、本文も雑誌に載せられる形に整えた原稿2部を、御遺族にお
送りしました。
しばらくたって、届けられた手紙には、おおよそ次のようなことが書かれ
ていました。――じいちゃんのことを書いてもらって、家族一同たいへんに
うれしく思っていること。ただ、あなたにお会いした時、すでにじいちゃん
は自分のしたことと息子がしたことの区別がつきにくくなっていたふしがあ
るので、家族で相談した結果、赤で印を付けた所だけは公表しないでいただ
きたい……。
なるほどな、いやあ、事前に見せてよかった、よかった、どれどれ、どこ
に赤がついているのかな。と返送されてきた原稿を見た私は、「はじめに」
と「おじいちゃんのご冥福をお祈りします」という内容の「おわりに」以外
の本文のすべての行が赤で消されているのを発見したのです。
私が、お礼状をしたため、連載の予定を別のものに差し替えたことはいう
までもありません。なるほどな、事前に見せて本当によかった、よかった。
最近のこと、ある知人がわたしのことをミニコミに書いてくださるという
ので、下原稿を読ませてもらう機会がありました。共感をこめてほめて書い
てくださってあるのですが、書かれる側としては触れてほしくないことが含
まれていました。わたしの文章からの長い引用もあり、出版社との関係で、
わたしの一存で公表を承認するということもできないのです。せっかくの好
意をふいにするのは申し訳がないので、屋久島式の返答をすることにし、当
分の間あなたのミニコミには載せていただきたくない、と書き添えました。
「過ぎ去った日々の、忘れていたようなひとこまひとこまがよみがえって
きて、たいへんになつかしく、ありがたく読ませていただきました。ただ、
プライバシーと著作権の関係で、玉稿の中の赤で印をしました部分は発表を
さしひかえていただければ幸いに存じます……。」
なぜ話者が筆を執ると面白いのか
近ごろ、妻と2人こんなことを語りあったことがあります。以下は、録音
しておいたテープから書き起こしてみたものです。なぜ私たちがこのところ
堅苦しい論文よりも聞き書きに魅力を感じるのかが伝わればよいのですが。
安渓遊地 「学者の論文じゃなくて、その元になる聞き書き、さらには『話
者が筆をとる』というか、それに近いやり方のもっている大きな可能性につ
いてのぼくらの夢を少し語ってみよう」
安渓貴子 「本当にこういうことがあちらでもこちらでもどんどん進んでい
けば、言っちゃなんだけど、人類学者はいらなくなるかもしれないわね」
遊地 「僕も失業。そうなったら、畑でももっと精を出してしようかな。で
も、今すでに、自分で論文を産むというより、助産婦業の方にさいているエ
ネルギーの方が大きくなってきている。始めは、論文に専念できないあせり
もあったけれど、今はこれでいいのだと思っている。そして、その失業にい
たる道を正しく準備できるかどうかというところが問題だな」
貴子 「だって、私は、西表島の料理と食事についてちゃんとやる人がいな
いから、やり始めたんだけども、やれどもやれどもやっぱり石垣島の宮城文
さんの『八重山生活誌』(沖縄タイムス社)を読むと、その記述の圧倒的な
すごさにうちひしがれちゃう。自分が西表の人の目で書くことなんかとうて
いできない。で、やっぱり比較みたいなことになってしまう。できないなあ、
できないなあ、と思いながらもやっているんだけど。西表の料理と食事自体
も、現在、目に見えて壊れていっているんだけども、誰か女の人がその気に
なって書き出したらすごいと思う。その手伝いだったらしますよ、という気
がしています。私がやるのなんかはるかに及ばないと思う。かりに、私がよ
く知っていることだって及ばないと思う。学者を越える学問ができるのは、
島に生きてきた人なんだもの」
遊地 「こういうことは、僕らもできる範囲でお手伝いしたい。沖縄では今、
名護市なんかで中村誠司さんたちが旗をふって、『字誌』づくりという活動
がずいぶん盛り上がってるね。自分たちの手で自分たちのシマの記録を作ろ
うという動き。そういうのが出てくれば、読んで面白い、しかも優れた民族
誌・民俗誌も出てくると思う。最近買った、前田正敏編・著『のどかな里――
大正・昭和期の沖縄』なんか小さい本だけど、密度が濃いし、読んでて発
見も多くて非常に優れているね」
貴子 「あの手のでいいのよね、大げさに考えないで」
遊地 「そういうのがどんどん出てくれば、学者先生方は、それをもとにあ
れこれ比較して論文なりをおつくりになればいいんじゃないかな」
貴子 「ヤマトゥンチュ(大和人)がぱっと沖縄を訪れて、はあっと驚いた
ことや感じたことなんかを面白いから書いておられるんだけど、それは、た
いがい私なんかから見たら、どこかやっぱりおかしいし、どこか必ず間違っ
ていたり、ピンぼけだったりするわけよね。新鮮な驚きという点については、
いいんだけど。ひとつのデータ提供みたいな顔して書いておられるのを見る
と、私が書いてもやっぱりそうなっちゃうんだろうな、と思う」
島びとの感じている地球レベルの自覚
遊地 「ぼくらが企画・編集させてもらった、沖縄・西表島の山田武男さん
の本(『わが故郷アントゥリ――西表・網取村の民俗と古謡』ひるぎ社、電
話098・884・4321)の中で、ぼくがとても感動したのは、そのあとがきの冒
頭部分だったな。
『人類社会は、土から否応なくあらゆる物質を取り出して科学文明をつく
りあげ、現在に至っています。地球はいまや人類の吐き出す汚物の処理に苦
痛を感じています。現代、庶民はことごとく離島して都会へと流れ去り、小
島の発展はその犠牲とされました』
というような地球レベルの自覚とでもいうべきものが、島に生きてきた人
の実感として生じておったということね。どこかで勉強されたことかもしれ
ないけど、彼の最晩年のいちばん言いたかったことを自分自身のことばで表
現されたものだから、貴重だと思う」
貴子 「私、鳥取大学の津野幸人先生から『小農本論――誰が地球を守った
か』(農文協)を贈っていただいて、今とっても感心して読んでるところな
んだけど、その中でも津野先生のおじいちゃんの話が印象的だった。昭和19
年の冬、中学2年生の愛国少年だった津野先生は特攻隊を志望して予科連に
合格。その時、〈片田舎の一介の老農夫〉であったおじいちゃんが、かわい
いお孫さんを兵隊に行かせまいとしていった言葉が、こんなものだったのね。
『日本は負ける。お前らみたいな子供までが死ぬことはない。明日これで小
指を切れ。小指がのうても百姓はできる。』そして牛のかいばを切る押し切
りを指さした。当時、国際的な情報を一切もたないおじいちゃんよ。大本営
発表なんかの圧倒的な世論工作に抗して、日本は負けるということが的確に
判断できた根拠というのが、なんと古いアメリカ製の剪定鋏だったというの。
もらって20年にもなるのに、バネはびくともしないし、切れ味も新品同様。
『百姓道具にこれだけのええ鋼鉄を使う国なら、兵器も日本のものとは較べ
もんにならんぞな』とおっしゃったんだって。
西表島の山田武男さんの自覚も、それと同じことじゃないかな、と思う。
ひとつの土地にしがみついて、その土地を本当によく見つめて生きてきたし、
今生きている人というのは、その自分の土地を深くみつめたという物差で世
界がちゃんと測れるということ。今、何が世の中に起きているのかがわかる。
自分の土地を深くみつめ続けてきた厳しい目、それが実は世界を本当に測る
物差であると思うわ」
津野先生にひかれて第三種兼業農家志願
昨年度は、まる1年間、鳥取県の大山のふもとの海辺の村に住んでいまし
た。鳥取大学農学部の津野幸人先生のお世話で、30軒あまりの兼業農家がほ
とんどの村の中に、家族で暮すことができたのです。家主さんに田の1部と、
クズが生い茂る遠くの畑も借りました。クズの根との格闘を見かねた村の方
々が近くの畑を貸してくださって、次々とお借りするうちに、いつのまにか
畑は4か所にもなっていました。現金収入には結びつかないけれど、時には
学生さんたちにも来てもらって、かなり熱心に土にとりくみました。津野先
生によると、こんなのを「第三種兼業農家」というのだそうです(安渓・安
渓、1992)。また、定年退職してから始める場合「シルバー第四種兼業農家
」と称している人もいるようです。
白銀の大山のもと
日本海側で育った私は、いつか息子に長い、本当の冬をプレゼントしてや
りたいと思っていました。それが、鳥取県を選んだ理由のひとつだったかも
しれません。そして、村で暮した1年間は、予想をはるかに上回る、たくさ
んのすばらしいできごとに満ちていました。
神々しく輝く白銀の大山を背に、ゆたかにうねる日本海をのぞみ、さわや
かな風に吹かれながら畑に立つとき、この土地のほんとうの豊かさを感じま
した。いつも季節のいろいろな食べ物を届けてくださる村の方々にかこまれ
ていたためか、この感じは滞在中ずうっと続いていました。
大樹の多い地方でした。私は、椎の巨木の下へ行って、樹にあいさつをし
てから、落葉の中で30分くらい昼寝をさせてもらうことが何度かありました。
人としてないがしろにできない、しかも、大きな精神的エネルギーを必要と
する仕事――たとえば某有名作家の筆の暴力を許さない「立松和平対策事務
所」の所員としての活動(安渓、1993a, 1993b, 1993c, 1993d, 1993e, 199
4a, 木戸・安渓、1993、立松、1993)など――の前後には、よくお世話にな
りました。元気を回復させていただいたお礼のしるしに、土笛で「隣のトト
ロ」などの曲を吹いて帰ってくるのです。
野となれ山となれでは先祖に申しわけがない
大山との別れの日が近づくころ、村の役員の方々を招いて酒をくみ交わす
機会がありました。近くの廃材捨て場から拾ってきた丸太を、妻と2人、暇
にまかせてのこぎりでゴシゴシ切って作った椅子に腰をおろすと、男たちの
話は、こんなふうにはじまりました。
「田んぼや畑をゴミ捨て場にして、そこにこんな立派な木を捨ててしまう
ということは、なんといってももったいないなぁ」
「生きとる以上は、物の心、人の心がわからにゃ」
「ゴミ捨て場にはせんまでも、丹精こめたナシの木を切るのをみると涙が
出ますな。畑が草山になるのは見ておれん。田畑を荒して、野となれ山とな
れでは、そこを耕してこられた先祖に対して申しわけがないですけぇなぁ」
「そう、そう。百姓をやっとるのは、その気持ちが根底にあるだけぇ。家
の若いもんには、そんなに大赤字を出すような農業をやってもらうより、家
で寝ておってくれた方がよっぽどいい、なんていわれるけど……」
「土地をもっとる限りは生かしたいですけぇなぁ」
「それに、もうからんからと土地を放棄しちゃえば、将来大水や地滑りな
んかの災害が起こらんかということも心配します」
「すべての公務員は、少なくとも1年間は農民の生活を経験してから、仕
事にかかるべきだと思うとります。そうすれば、人間の原点からもっとちゃ
んと考えるようになるはずじゃないでしょうか」
なぜ農という営みを続けているのか。その問いに、こんなにも明快に答え
てくれる人々に会ったのは、はじめてでした。私は、屋久島で聞いた言葉と
も響きあうものを感じとっていちいちうなずいていました。
「……減反していくと、やがてはきっと食糧戦争になります。今の日本の
ように世界中から物が来ることを、いつまでもあてにしてはいけないと思い
ます。食べものは、いのちを支えるものでしょう。もともとお金では買えな
いはずの物なんですよ。」(安渓、1992g)
将来は孫たちも通る道だから
大山のふもとの村での話の続きです。若嫁さんたちのよりあいで、こんな
話題が出ました。最近、上流部の開発が行なわれて、小学校の通学路の1部
が大雨のたびに濁流に洗われるようになった。小さい子供を通わせるのが心
配だから、水路を整備するように、働きかけていこうというのです。その時、
よその町から嫁に来られた30代はじめのお母さんの言葉に、私たちはたいへ
んに感激しました。
「将来は、私らの孫たちも通る道なんだから、今のうちにちゃんとせんと
いけんよ。みんなで議員さんを動かそう」
道ひとつをどうするかについても、若い人たちが率先して、今の利益だけ
でなく、孫の世代に感謝されるような賢い選択をすることができるかどうか。
それができる地域だけが、今日まで伝えられてきた自然と人の豊かな関係を
将来にわたって保っていくことができるはずです。
それにしても、土地を荒せば先祖に対して申しわけない、子孫に対して環
境を守っていく責任がある、という自覚はどうやって生じ、世代を越えて伝
えられているのでしょうか。先祖代々住んでさえいれば、自然にそういう生
きかたになるのでしょうか。逆に、よそ者は、いつまでたってもよそ者にす
ぎず、世代を越えた智恵とは無関係な存在なのでしょうか。
実は私の住んだ村では、18世紀の半ばごろ、なんらかの理由で在来の村人
のほとんどが追い払われる、という事件が起きたそうです。あちこちからの
移住者によって村は再建されるのですが、数戸の家だけは追い払われずに残
されました。田への水をどう引くか、それぞれの田の必要とする水はどのく
らいか、といった水利についての知識のある人たちまでいなくなったのでは、
稲作も不可能になるからだったというのです。
自然とつきあう方法がきちんと伝承される。そのことさえ保証されるなら
ば、地域の環境を守ってゆく智恵と知識はよそ者にも開かれています。そし
て、その伝承をわがものとした人はすでに「よそ者」ではないのです。それ
こそが、この島国の村々が長い命を保ってきた秘密ではなかったでしょうか。
私たちは、鳥取から山口に帰って、勤め先から15キロほど離れた山口市の
北部の山がちの地域に引っ越しました。そして、小さい果樹園のついた家と
1枚の田んぼを借り、堆肥を安く買うために、農協にも入れてもらってしま
いました。
このようにして、わが家の暮しは、フィールド・ワーク(野外調査)中心
の生活からフィールド・ワーク(野良仕事)重視の生活に次第に重心がうつ
っていくということになってきているようです(安渓、1992a)。そして、
これまでのようにフィールド・ノートに書くだけでなく、自分の体に刻み込
むようにして得たものの大切さを一歩一歩確認しながら、自分の内と外の自
然を取り戻すことを、若者たちとともに模索していきたいと願っています。
引 用 文 献
安渓遊地,1986 「西表島で農薬散布が始まった――人にもヤマネコにも体内
蓄積のおそれ」『エコノミスト』 9月16日号:78-83
安渓遊地編,1991a 「橋をかける① 種子島への魚の行商――上屋久町一湊
・斉藤熊彦さん聞き書き」『生命の島』 屋久島の雑誌 22号:13-20
屋久島産業文化研究所 上屋久町
安渓遊地,1991b「される側の声――聞き書き・調査地被害」『民族学研究』5
6(3):320-326 日本民族学会
安渓遊地,1992a「田舎ぐらしの輝き――フランス・ブルターニュの乳しぼり
農家に滞在して」『耕作者』2:4-5 日本耕作者会議
安渓遊地,1992b「無農薬米の産直が始った――島を出た若者への手紙」『エ
コノミスト』7月21日号:76-79 毎日新聞社
安渓遊地,1992c「『研究成果の還元』はどこまで可能か」『民族学研究』57
(1):75-83 日本民族学会
安渓遊地,1992d「バカセなら毎年何十人もくるぞ」『新沖縄文学』94号 沖
縄タイムス社
安渓遊地編,1992e 「橋をかける② 探しあてた縄文杉――上屋久町宮之浦
・岩川貞次さん聞き書き」『生命の島』23号:21-30
安渓遊地編,1992f 「橋をかける③ おじいちゃんの民宿――南種子町平野
・日高留哉さん聞き書き」『生命の島』24号:25-34
安渓遊地編,1992g 「橋をかける④ 小さい花に生まれたい――上屋久町楠
川・大石浩さん聞き書き」『生命の島』25号:25-34
安渓遊地編,1992h 「橋をかける⑤ 嫁にいくなら島間の町に――南種子町
島間の方々と語りあう」『生命の島』26号:43ー53
安渓遊地・安渓貴子,1992「農は楽し――『第三種兼業農家』見習い日記」
『耕作者』5 日本耕作者会議
安渓遊地,1993a「やさしい叱りとばしとこわい『ほめ殺し』」『シサム通信
』22号:13-14 アイヌ民族とともに生きるシサムの会
安渓遊地,1993b「人がほろびるなら学問でほろびる」『シサム通信』23号:8-
9 アイヌ民族とともに生きるシサムの会
安渓遊地,1993c「与那国で筆の暴力――立松和平氏の執筆姿勢を問う」『八
重山毎日新聞』11月4日号
安渓遊地,1993d「取材される側の人権は?――立松和平氏に問う」『八重山
日報』11月16日号
安渓遊地,1993e「立松和平氏、沖縄で筆の暴力」『週刊金曜日』第6号:5
安渓遊地編,1993f 「橋をかける⑥ 小さい時から牛や馬が好き――上屋久
町椨川(たぶがわ)・日高長八さん日高甚七さん聞き書き」『生命の島』27号:2
9-37
安渓遊地編,1993g 「橋をかける⑦ おはなしがごちそう――上屋久町宮之
浦・中島キヨさん本溜ケサさん聞き書き」『生命の島』28号:23-32
安渓遊地編,1993h 「橋をかける⑧ 野も山も海も川も神々の住い――上屋
久町宮之浦・中島キヨさん本溜ケサさん聞き書き」『生命の島』29
号:25-34
安渓遊地,1994a「立松和平氏の『まれびとの立場』の盲点」『週刊金曜日』
第9号:34
安渓遊地編,1994b 「橋をかける⑨ 屋久島へ魚を捕りに――南種子町下立
石・立石助也さん聞き書き」『生命の島』30号:57-65
川平永美述 安渓遊地・安渓貴子編,1990 『崎山節のふるさと――西表島の
歌と昔話』 (おきなわ文庫) 第52冊:1-198 ひるぎ社
木戸宏・安渓遊地,1993「立松和平式『見せかけの善意』にご用心」『シサ
ム通信』31号:18-19 アイヌ民族とともに生きるシサムの会
立松和平,1993「まれびとの立場」『週刊金曜日』第7号:32ー33
宮本常一,1972「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」『朝日講座・
探検と冒険』7,朝日新聞社
山田武男著 安渓遊地・安渓貴子編,1986 『わが故郷(シマ)・アントゥリ――
西表島網取村の民俗と古謡』 (おきなわ文庫) 第27冊:1-264 ひ
るぎ社
山田雪子述 安渓貴子・安渓遊地編,1992 『西表島に生きる――おばあちゃ
んの自然生活誌』 (おきなわ文庫) 第63冊:1-230 ひるぎ社


