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話者が筆をとる)与那国茂一さんの西表島干立村の記録「とぅべらま考――歌いつぐ干立村の心 」
2025/04/08
これは、西表島の与那国茂一さんの手記を、安渓遊地・安渓貴子が編集してまとめたものです。
集落で行われている行事にともなう芸能の歌詞についての独自の考察があり、それが公民館としては受け入れられないという判断となって印刷にはいたらなかったものですが、茂一さんがなくなられたあと、奥様の与那国美津さんに見ていただいて、内容的には「おやじが書いたものだから、いいんじゃないの」とご了承をいただきました。
このたび、二〇二五年三月三一日に干立公民館で「干立ゆいぴとぅ憲章」が制定され、その中の具体的な活動方針として、文化財の選定や方言の学習があげられていますので、地元民主導での干立研究の手がかりとして、https://ankei.jp/yuji/?n=3053 に追加する文献として、参考までに掲載いたします。
現在行われている行事の内容の変更を、という意見があったとしても、それは、著者の個人的な見解です。あくまで、学習の素材としてご利用いただければ幸いです。
作成にあたっては、与那国茂一さん、美津さんのご協力をいただきました。
西表島までの旅費などの経費の一部は、以下の科研費によりました。
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-07610314/
以下は冒頭部分のみですが、添付のpdfおよびワードファイルで全文をごらんいただけます。
トゥベラマ考――歌いつぐ干立村の心
与那国茂一(よなぐに・もいち)著
はじめに
私は、西表島西部の浦内川のほとりにあった浦内村で大正八(一九一九)年に生まれた。その村がしだいに人口が減り、ついに廃村になって以来、私は干立、祖納と移動して、祖納より軍隊に入隊して除隊後は干立村に本拠地を求めて生活している。
私が子供のころ、ある老人から「シマ倒し者」つまり、村を滅ぼした人間と言われ、はなはだしい場合は、「ユリフサ」つまり波に乗って流れ寄ってくる海草に例えて軽蔑されたことがある。しかし、思い起していただきたい。明治二六年に八重山を訪れた弘前の探検家の笹森儀助は、「人頭税」とマラリアに苦しむ西表島の人々を見て、八重山全体で遠からず一八か村が廃村となるだろうと予言した(『南嶋探験』)。その予言は、浦内村を含めてみごとなまでに的中し、一七か村までが廃村の憂き目を見たのであった。ただ一つの例外となった村、それこそが現在私の住む干立村なのである。
干立村が廃村にならなかったのは、さまざまな要因があったことと思う。しかし、もっとも大きな原因は、周りの村々からの移民を受け入れたという事実にあることは間違いないと思う。つまり、干立村は、まさに「シマ倒し者」たちが、節祭で歌われる「インヌ ササグサヤ ウラウラドゥ ユユル」つまり、海のささ草が浦々に寄りそってくるのを受け入れることで生き延びることができたのである。
干立に定住するようになって三〇年。私は節祭の「シチ歌」がプリントされて渡されるものを、毎年手にしているが、毎行事ごとに歌の語句や字の誤りや間違いが目につき気になるようになった。
公民館の幹部が前年のものを元に写してプリントするが、年若いせいで方言が良く判らないため過ちも起こるのだろうと、これまでは善意に解してきた。人間はえてして聞き違い、言い違い、さらには解釈違いも多い。しかも、一度思い込んだら「先輩からかく教わった」とかたくなにこれを墨守し自己の間違いや過ちを認めようとしない意固地さがあるのはどうであろうか。これでは年ごとに少しずつ違った字句が出てきてそれが重なっては将来大きな間違いのもとになるやも知れぬと思い、後世のため私が聞いてきたものを採録することにした。
私はもとより浅学非才で、学歴も高等小学校二年を出たに過ぎない。その任に非ずと卑下していた。しかし、今回、勇気をふりしぼって、民俗芸能の保存上ゆるされない誤りを質すために、あえて提言してみたいのである。駑馬に鞭打った小篇であるが、大方のご批判を期待している。
干立の歴史は主として大浜正演・黒島英輝両氏に聞き書きした。ずいぶん聞き落とし、聞き違いがあるのであるが今となっては致し方ない。今ではお二人ともこの世を去って亡く、ご冥福を祈るのみであることが残念でならない。
第一部 トゥベラマ考――干立につたわる歌をめぐって
トゥベラマ(干立村)
一、フシタティヌ トゥベラマ 干立村の夫婦石よ
スーリ タキバルヌ ミウトゥイシ 嵩原に居た頃より夫婦石と唱われた夫婦石よ
ヒーヨイ スーリ ユーバナウレ 睦まじくあれ(以下繰り返し)
二、ミウギシイナ トゥベラマ しっかり根着いて下さいよ
スーリ タユギシイナ ミウトゥイシ 動揺してはいけません腰を据えて下さい
三、シマトゥトゥミ トゥベラマ 干立村のある限り
スーリ フントゥトゥミ ミウトゥイシ 島のある限り未来永劫だよ村人もそのようにありたい
トゥベラマ(浦内村)
一、ウラチムラ トゥベラマ 浦内村の夫婦石
ハーリ トゥユミムラ ミウトゥイシ 果報の村福徳の村の夫婦石(以下繰り返し)
二、ミウギシイナ トゥベラマ 身動きしてはいけない夫婦石よ
ハーリ ドゥギシナ ミウトゥイシ 動揺してもいけません
三、シマトゥトゥミ トゥベラマ 浦内村と共に島のあるかぎり
ハーリ フントゥトゥミ ミウトゥイシ 国のあるかぎり未来永劫だよ夫婦石よ
トゥベラマの解説
このトゥベラマの歌は、干立村、浦内村唯一の民謡であるといってよい。別に沖縄本島の「口説」を真似て、干立、浦内のクトゥキ(口説)があるが、これは、役人が自己の名声を上げるため作詞し唱わせたものと考えられ、そのほかにも、役人が作詞した干立村のありさまの他には調すべきものはない。干立のトゥベラマは門外不出と言ってお正月の祝日にのみ干立御嶽のトゥリムトゥ家である宇保家で唄われたもので、宴席や多数集会の場所で唄う事を禁ぜられていた。それで、一部平民実力者のみ秘匿伝承されて来ていた。階級制がなくなりシチ(節祭)が村の祭事として執り行われるようになって、一般の人々もこの歌の存在を知り唄うようになった。戦後の一時期迄秘密のベールに包まれていて伝承者以外窺い知ることができなかったのである。
浦内村にも大小のアトゥクを歌って表記のトゥベラマがある。干立のものに大層似ていて同一だと言っても差し支えない。浦内村建ても多柄村と同代と考えられ、ナメラ台地の多柄村がタカラの兼久地(砂の堆積地)とナンダディの高台に移動した際、一部が浦内村に移ったとの古老の話によれば、同時代に違いないと考えられるのである。
当時、カトゥラ潟原は漫湖であったようで、カシピダの崖は大小のアトゥクの島と地続きで、北側から伸びる砂地のイブの端はパナヌリの岸に連なっていたという。一七七一年のいわゆる明和の大津波で浦田川(現在の浦内川)の河口が現在のように開き、砂土が流壊して、アトゥクの両島が孤立してからトゥベラマと呼称されたと思われる。浦田川支流のタカラ兼久地及びナンダディ台地(多柄、干立と分離)は明和の津波にあい兼久地カニク (砂の堆積地)になり、ナーニ、イミシクを経て更に現在地に住み付くのは一七八、九年頃で与那覇在番が津波後の先島復興に尽くした時代と考えられる。トゥベラマを作詞歌唱された年代は伝承もなく不明であるが、右の情況から推測すれば干立、浦内両村とも同時代に唄われ始めたと考えられる。
トゥベラマ考――歌詞の考察
フシタティヌ トゥベラマ、スリ タキバルヌ ミウトゥイシ、ヒョイ スーリ ユバナウレ
この「フシタティヌ トゥベラマ」を、フシタティヌ トゥベラハマと唄う人がいる。トゥベラマを「ハ」を入れてトゥベラハマと唄うのは疑問である。「カギヤデ風節」の「キユヌフクラシャ」の様に「フクラァ」と唄えば「ラァ」と、「ア」の語音が残る。残った「ア」の語音をそのままに「シャ」と唄うように、「トゥベラァ」と唄えば「ラァ」の「ア」の音が残るから、「マ」と接続して唄えば「ハマ」とハの語音を挿入する必要もなく、「トゥベラマ」と素直に唄い継ぐ事ができる。「キユヌフクラシャ」はそのように唄っている。「ハ」音を挿入すれば今唄っているよう「トゥベラマ」と「トゥベラハマ」と二つの名詞になり、「トゥベラマ」が「トゥベラハマ」と改称される事になる。或いは「トゥベラマ」と「トゥベラハマ」と二つの呼称が昔から在ったのか?との疑問が残る。昔から「トゥベラ」と言い「マ」の愛称がついて「トゥベラマ」となって呼称されたに違いない。唄いにくいから、或いは語韻の関係で「ハ」を入れ「ハマ」として唄うというのは理由にならない。「トゥベラマ」と「トゥベラハマ」と二つの呼称が昔からあったとの伝承もない。普通、トゥベラーといっているのは、その証しである。
「トゥベラマ」を「トゥベラハマ」と改称し唄うとすればこれは由々しき問題であり、後世に誤った呼称を伝えるという取り返しのつかぬ大きなミスをわれわれが犯すことにもなりかねず、後世の者に対し申し開きが出来ない。
もう一つ見逃してならないのは「トゥベラマ」を、「トゥバイラマ」と「バイ」を殊更入れて歌っていることである。これは語を強くするためと思われるが、先に述べた「ハマ」のように早急に訂正し本来の姿に戻すべきである。間違いを改めるに憚ることはない。間違ったまま後世に伝えることの方が重大な責任になる。
名前の由来については、トゥベラマは名称で別に意味はないと思う。海中に独立してポツンと立っているものに対しての名称と思われる。



