講義から)がんばるという重い病気__RT_@tiniasobu
2020/12/25
がんばるという重い病気
ある学生が、こんな詩を感想用紙に書いてくれたことがあります。1990年ごろのことです。鬼頭秀一さんとのディベート授業の記録から抜粋します。http://ankei.jp/yuji/?n=1627
自分は、幼稚園の時から
「勉強しなさい」と言われて育ちました。
それは、人よりもいい小学校へ行くためでした。
そして、小学校の時には、
人よりいい中学校へ行くために勉強しました。
高校に行って、人よりいいかどうかしらないけれど、
偏差値のつごうで◎◎大学にきました。
僕の人生のこれからを考えてみると、
いい会社に就職できるように大学ではがんばって、
会社に入ったら、人より速く出世できるようにがんばる。
このあとは、定年になって、
そのあとはええーっと。
そうだ!
僕の人生の最終目標は
「人より1ランク上のりっぱなお墓」だ!
(引用終わり)
よりよい明日のために今日を犠牲にするという生活を続けるかぎり、このレポートの発見した「1ランク上への発展」の道筋をはずれることはとても困難のように思われます。しかし、それは「私ってこれでほんとにシアワセかしら?」と思いながら追い立てられ続ける一生を過ごす道でもあります。岡庭昇は、産業兵士=社畜というきびしい言葉を使ってこういう道を批判しています。つまり、日本人の生活は量的にはいちじるしい拡大を見ました。しかし、「生活の質(quality
of
life)」という観点から見た時、ちっとも満足が得られないというのが多くの人の率直な印象でしょう。そして、私たちの生活は、他の多くの「いのち」を踏みつけにして始めて成立しているのです。
安渓は、環境問題は、基本的に人権問題として理解できるという立場をとっています。例えば、熱帯林の伐採と環境の汚染は、地球の大気に与える影響もさることながら、まずはそこを住み家としてきた先住民族の「くらしといのち」の重大な侵害であるという事実から入るべきだと考えるのです。わたしたちがなにげなく買うカラーボックスや、ビル工事などで大量に使い捨てにされているコンクリートパネルなどは、安価であるために熱帯材が主として使われています。そういう身近な風景の向こうに、ゆたかな熱帯の森に生きてきた人々や、動物植物などの多くのいのちたちが傷つけられていることが見えますか。その感受性をもつことができるようになって始めて、大学まで来て環境問題を学んだ意味があると思うのです。
(抜粋終わり)