島からのことづて)西表島崎山村の語り部・川平永美さんの不思議な話 RT @tiniasobu
2014/12/07
南のはて波照間島から—;—;西表島崎山村・川平永美さん
このお話の出発点は、列島最南端の波照間(はてるま)島です。今から二四〇年前
のこと、平和に暮らしていた島びとたちに西表島への移住命令がくだります。無人地
帯に新しい村を造るというのです。これは、薩摩藩の支配下にあった琉球国の宰相の
蔡温の政策でした。新しい村は、マラリアによって人口を激減させながらも、一九四
八年の廃村まで人びとはここに踏みとどまりました。今はなき崎山村の最後の語り部
が川平永美(かびら・えいび)さんです。川平さんは、宮古・八重山諸島に課された
苛酷な人頭税がようやく廃止された一九〇三(明治三六)年のお生まれです。八〇歳
を過ぎてから筆を執って、崎山村の伝承を記録に残し始められました。川平さんは、
数えで九七歳になられた今日でも新しい原稿を書いたり、篭を編んだりの元気な毎日
を過ごしておられます。お話を聞きはじめるとすぐに民謡や即興の歌が出てくるのは、
まことに歌の島のおじいちゃんです。
一九九〇年に、私たちの編集で、那覇市のひるぎ社から川平永美述『崎山節のふる
さと—;—;西表島の歌と昔話』が出ました。ここではそれ以降の原稿と一九
九二年の四月にうかがったお話を中心に、南の島に伝わる不思議の世界へご案内しま
しょう。
2014年現在『崎山節のふるさと』電子書籍化されていて、おきなわ文庫から入手
可能です。
http://ebookstore.sony.jp/item/BT000018511400100101/
夢で自分の退院の時期を知る
このあいだ、入院した時の話です。いつ退院できるかわからなかったのですが、あ
る晩、こんな夢を見ました。女の人二人が病室に入ってきました。ようかんを一本ず
つもってきて出してくれて「あんたはお医者から何も食べるなと禁じられているけれ
ど、このようかんでも食べなさいよ」というんです。私は「先生の許可なしには食べ
ません」と答えました。そこへ看護婦さんが入ってきたので、この女の人たちはパッ
と消えてしまいました。翌朝八時にお医者さんが入ってきて「あなたは、もう退院で
すからようかんでも食べていいですよ」と言われました。
竹富島の神様が見舞いに来られました
竹富島で偉い人というのは西塘さん(にしとう、首里王府に重用された一六世紀は
じめの人)で、ウガン(拝所)にも祭られているそうです。でも、私はその場所がど
こにあるかも知りません。ところが、前に入院した時に、こんなことがありました。
同じ病室に竹富島の人がいましたが、病室の入口から神々しい人が入ってきて、私の
枕もとで「自分は竹富島の西塘の神です。私の土地を相続している男が入院したので、
心配して見にきたが、いついつの日には退院できる。また、竹富島のどこどこに私の
土地があるけれど、本当にどこまでも自分のものと言えるのは竹富島の土地だけだな
あ。石垣島の字新川のあっちにも自分の土地があるけれど、今では自分のものとも言
えないから、はっきりとは教えない」とおっしゃいました。帰りがけには、看病にき
ていた娘さんの肩に手をおいてなにかおっしゃっているようでした。西塘の神様が帰
られたあと娘さんに尋ねると、全然気付かなかったというのです。翌日、目がさめた
病人にきいてみました。「これこれの所にあなたの先祖の土地がありますか」すると、
その人はとても驚いて「あなたは、竹富島に来たことがあるんですか、わたしの先祖
の西塘さんの土地がある現地と、あなたがきいた地名がきっちりみんな当たっていま
す」という返事でした。そして、この人は神様のおっしゃった日にちゃんと退院して
いきました。
私に話をされる神様は、方言をしゃべられません。標準語でしたよ。
いきなり仏さんが現れて
一昨日、あんたらに届けてもらった、このりっぱな本(西表小学校百年誌『西の子』
)に私の書いた文を載せてもらって、本当にありがとう。実は、昨日の明け方の三時
から四時ころに、いきなり仏さんが現れて「本家にこの本を持って行って一応線香を
あげてきなさい。おまえは、崎山村と網取村(崎山村の人々が移り住んだ村。一九七
一年廃村)の代表のようにこの本を一人もらってある。自分らもよく考えてもらった
と思ってうれしい」とおっしゃってパッと消えました。うれしくもあり、びっくりも
して、夜が明けるのを待ってすぐに本家にこの本をもって行って仏壇に供え、お線香
を上げてきました。本家の人も「わが家の名誉です」といって大変喜んでくれました。
私には、こういう時にはぴしゃっと仏さんが来られるんですよ。島にいた時にはあん
なことはなかったけれども……。こういう状態だからひとつ、今後もよろしく印刷と
か出版のお世話をお願いしましょう。
崎山村の創立(川平永美さんの原稿から)
波照間島から人を移して、西表島に崎山村を創立した当時のいきさつを申上げます。
皆様もおわかりの点が多いと思いますが、この話は、私が古老のじいさん、ばあさん
から聞いた話です。私が聞かされてきたとおり、これからお話してみたいと思います。
崎山村は、琉球国王様からの—;—;いわば天からの—;—;御命令
によって波照間島からの移民で創立されました。命令が出されたのは、宝暦五(一七
五五)年九月一七日で、お役人の与人(ゆんちゅ。首里大屋子〔しゅりうふやく〕に
次ぐ第二ランクの役人)には、崎山寛紹(さきやま・かんしょう)氏が発令されたそ
うです。その他のお役人の名前は伝わっていません。
まず、波照間島からの出発の準備です。お役人たちは一生懸命に用意をしておりま
した。島に残る村人は、別れと見送りのために浜に集まっています。西表島への移住
の団員は船に乗り込むことになります。皆、別れのあいさつをしております。目に涙
で話しております。
その時、乗船の命令が出され、団員は泣きながら船に乗り込みます。船が何隻だっ
たかは、わかりませんが、各船に一人のお役人が乗り込んでいます。残る村人も別れ
を惜しんで涙の別れをいたしました。あとは、出発の命令を待つばかりとなり、しば
らくすると、号令が下って船はいっせいに波照間島の浜を離れます。団員は船の中で
手を振り、村人も浜で手を振り、お互いに別れを惜しんで見ております。
船は波照間島を後にして、西表島をめざします。だんだんと遠くなる船に、村人は
泣く泣く村に帰りました。船の中で、人々は生まれ島を思い、波照間島に残してきた
父母、兄弟のことを思い、泣き伏しております。船は波照間島を遠ざかり、西表島が
だんだんと近づいてきます。やがて船は次々と西表島の間近にやってきます。船の中
の人々は、おもて面は笑顔で、心の中では泣きながら起きて見たら、白い砂浜が見え
ました。見たこともないような美しい島です。船は、ヌバンフチ(野浜津口)という
入江に入って行きます。
ヌバンの浜に着いた船の中で、人々は各自の荷物をもって上陸の準備をします。全
員が船を降ります。降り立った浜の、砂が厚く積もった土地に荷物を降ろしてほっと
すると、西の方に清らかな川が流れているのが見えています。皆は大喜びでこの川を
眺めております。
その時、「集まれ」との知らせがあり、与人氏のあいさつです。「われわれは、天
の御命令、国王様の御命令で新村を創立することになった。ついては全員が団結して
新村づくりのためにがんばってもらいたい」団員も、「がんばります」と答えます。
団員からのあいさつの中に「ここは無名の土地と聞いていますが、なんと呼びますか」
との問いかけがありました。「なるほど」と与人氏は答えて、「それなら、私の姓を
入れて崎山と命名しましょう」との言葉です。それから後は、この新村を崎山村と呼
ぶようになりました(編注。ただし、八重山ではこれとは逆に地名から姓をつける例
が多いと言われています)。
それからは、毎日毎日、新しい村を造るために働いておりました。そんなある日、
一人の女が、仕事をしながら突然に誰も知らない歌をうたいだしたのです。生まれ島
のことをうたった歌らしいので皆がこの女のまわりにあつまりました。これが、今も
歌われる崎山ユンタという歌で、崎山節という三味線の伴奏の歌のもとになりました。
お役人も何ごとか、と駆けつけて聞いておられます。どういうつもりでこんな歌を
するのか、という問いかけに女は「自分は何もわかりませんが、ただ生まれ島のこと
を思って歌が出ただけです」と涙を押さえて返事をしました。これを聞くと取り囲ん
でいた人々もみんな涙にくずおれてしまいました。これを歌った女の名前は、ナベマ
といい、柿本(垣本)という家の娘であったそうです。お役人は驚いて、この事を国
王様に報告しました。
その後、皆は力を合せて働きました。ところが、そうするうちに台風がやってきま
した。ヌバンの浜は、沖から山のような波が押し寄せてきて、大津波そのままに白砂
浜にうちあげます。打ち上げた波は、雨のように村の上に降りそそぎ、とても人間の
生活ができません。また、冬には北風が吹きつけます。船の出入りも思うにまかせま
せん。それで、ヌバンから他の場所に移転しようということに話が決まりました。
お役人は、移転先を調べてまわります。港の東の方にウラナーという所があります。
傾斜もゆるく、地形も平らで一見とてもよい所のようです。ところが、よく調べてみ
たら昇るお日様を拝めない場所なのです。日の出を後にしては村は建ちません(風水、
フンシが悪いのです)。それで、そこをあきらめてまた別の場所を探しました。今度
は、港の西の方が移転の候補地になりました。そこは、急傾斜で、とても人が住むこ
とができそうもない坂の土地ですが、お日様の出る場所に向かっているから、とても
いい場所だということになりました。ここに移転することに決まり、屋敷は段々につ
くるということに話がまとまりました。ヌバンに何年住んだかは判りませんが、移転
のために皆がてんてこまいをすることになりました。
段々屋敷をつくるために働いている時、国王様からの命令がきました。それは、りっ
ぱな歌をつくったナベマさんに記念品を贈り、褒美としてナベマさんが生まれ島の波
照間に帰るようにとりはからう、というものでした。こんな歌を次々にうたいだされ
たのでは、村人の間に波照間島に帰りたい思いがつのって大変だと心配されたのかも
しれない、ということでした。
生まれ島に帰るナベマさんを、浜で皆が見送って、田畑づくりに一生懸命にとりく
みます。ところが山猪が農作物を食い荒らしてとても困ったことになっています。お
役人にこのことを申し上げましたら、お役人は国王様に報告しました。国王様の命令
では、村々島々の人夫を繰り出して山猪の垣をしなさいということでした。それで、
山猪よけの垣を造ることにしました。
村の南側のパイタ川を出発点に、裏の海のピサイシ(平石)という大きな岩のとこ
ろまで、猪垣を造ることになりました。長さは約四キロメートルあります。人夫は毎
日毎日がんばって石を積み、一日一日と垣は伸びていきました。その時、平良仁屋(
たいら・にや。仁屋は農民の肩書)という村人が、人夫の食糧として米俵で何十俵か
寄付しました。さっそくお役人は国王様に報告して、すぐに平良仁屋は筑殿之(チク
ドゥン)の位をさずけられました。
その後、崎山村では農作物が山猪に荒されることもなく、豊作にめぐまれ、団員は
精を出して働き、生産にはげんだとのことです。
これは、私が育った崎山村のじいさん、ばあさんから聞いた話です。おしまい。(
一九九四年八月受け取りの原稿から)
鱶にまたがって波照間島から崎山村へ
大正一〇(一九二一)年、旧暦の七月二四日のことでした。私が仲間と仕事で山の
中へ出かけると、山の中の田のあぜに男が裸で寝ていました。何も言わないのですが、
腹を減らしているようすなので、急いで村に使いをやり、ご飯やお茶、それと着物も
用意して行きました。この男は、持参したご飯やお茶を見る間に全部平らげてしまい
ましたが、それでも一言も声を出しません。着物を着せて歩かせようとしますがどう
しても立ちません。不審に思って調べてみると、両股の内側が真赤にただれていまし
た。急ごしらえの担架で浜まで運び、舟を回して内離(ウチパナリ)島にあった巡査
駐在所に連れていきました。照会したところ、相当の日数がたってから、波照間島に
行方不明者が一人いるとの申し出があり、関係者がやってきて連れて帰ったといいま
す。その話によると、この男は垣本松という人で、口が不自由でありました。お盆に
魚捕りに出たまま行方不明になっており、波照間島では死んだものとあきらめ、捜索
を打ちきり、その家では四九日の焼香も済ましていたそうです。台風後の西表島まで
の二二キロメートルもの荒海をどうやって渡ったのか誰もその事情がわかりませんで
した。ところが、波照間島出身で琉球政府八重山地方庁長だった仲本信幸(なかもと・
しんこう)さんに聞いたところ、不自由な口で「自分はサバ(さめ、鱶)に乗って西
表島まで行きました」と話したといいます。わたしは垣本松さんの内股の真っ赤にた
だれていることを見ているので、それは本当のことであろうと思いました。この人は
あの崎山ユンタを歌って島に戻された垣本ナベマの子孫にあたるのです。この事件が
あった当時、波照間島では昔、崎山村の村建てのときに道切りの法で泣く泣く崎山村
に連れていかれた人々との関係が、いろいろと取りざたされていたということです。
(この項は川平、一九九〇『崎山節のふるさと』から抜
粋しました。)
女の姿をした木の精
大きな桑の木には、方言でシーといって、木の精がついていることがあります。昔
話にも魚捕りを手伝ってくれるかわりに魚の目をくれという桑の木の精の話が出てき
ますよ。
—;—;ほう、沖縄のキジムナーや奄美のケンムンが西表島まで遊びにきた
んでしょうね。
桑の木でなくても、例えば隣の家の門のそばにフカイキ(和名フクギ)があるでしょ
う。ブロック塀にはさまれているあれです。この木の精は女の人の姿をしています。
私はそれを二回見ました。でも何も言いきれずにただ立っていただけで、二回ともす
ぐパッと消えました。私は隣の家の主人に、あそこで立ち小便なんかしたらいかんよ、
と話してあります。
網の目で魔物を防ぐ
明治の末に廃村になった鹿川村に一人残って住んでいたじいさんに聞いた話です。
鹿川村の後の崖の途中に人ひとりがやっと通れる細い道がついています。その斜面に
りっぱな黒木(和名リュウキュウコクタン)が生えていました。狭くて斧も使えない
ような場所なので、ある人が—;—;音楽好きの人だったでしょうね—;&
#8212;これを倒してサンシン(三味線)をつくろうとしてノミで根を切ることにしま
した。昔は鋸もないでしょう。半分ほど切ってその日は終わり、翌日来てみると不思
議なことに切り屑がみんなもとのように付いて、傷もありません。そこでこの人は家
に帰って網を作り、それを帽子みたいに被って切ってみました。そうしたら、翌日ま
で切られたままで、ようやく切り倒すことができました。切った材を斜面の下の海に
直接落として、三味線の柄をつくったら、すばらしくいい音が出たそうです。
カカリムヌと方言でいいますが、祟るようなものには、網が一番いいと言います。
目がたくさんあるでしょう。人を迷わせるような魔物は、それを怖がるわけです。だ
から、例えば病人のある家には、外に網をまわしておけといいます。万一亡くなった
ときには、出棺したらその場所に戸を横にして網をかぶせておきます。これは、死ん
だ人の霊(マジョヌ)が惑わされてまた戻ってくるのを防ぐためです。
洞窟の主へのあいさつ
木にはシー(精)がいますが、石にいるのはヌシ(主)と呼んでいます。イリャー
(洞窟)にもヌシがいます。洞窟に泊る時には、こういう言葉を方言で唱えてお願い
するものです。「私どもは、ここに今、どうしても避けられない仕事があります。天
からの命令、お上からの命令がおりましたので、こうしてここにやってきて泊ろうと
しています。ですからこの洞窟の主(イリャーヌヌシ)も私たちをお守りくださり、
りっぱにこの命令された仕事をさせてくださって、体を健康にお守りください。」
仕事が無事完了したら、今度は、お礼の言葉を述べて洞窟を出ます。その言葉は、
こんなものです。「フコーラ(ありがとうございます)。よくお守りくださったので、
私の思った事も通り、神様のおっしゃる通り、お上のいう通りりっぱになしとげるこ
とができました。神様もお上もありがたいと思っておられます。私どもをお守りくだ
さってありがとうございました。」
鹿川湾の奥には大きな洞窟があります。あそこに泊るときには決ってこんなふうに
いいました。
安東丸事件
あの鹿川湾の洞窟にはね、こんなことがあるんですよ。こんどの戦争中に内離島の
成屋(なりや)村跡の浜で難破した朝鮮の船がありました。アントン丸といったか。
その乗組員たちは、西表島にいた兵隊たちからひどくこき使われて、食べるものもろ
くにもらえないので半死半生になっておりました。私らが弁当を食べていると「ごは
んチョーチョー」といって来ました。兵隊に見つからんように弁当を分けてあげる島
の人もいましたが、たいがいは、あげなかったですね。ところが、終戦になったから、
こんどはあの人たちを誰もいない鹿川湾の洞窟の前の田んぼあとに放り出したんです。
食べる物もないし、雨ざらしでしょう、みんな死んでしまったんですよ。小野大尉が
兵隊を連れて行って死骸を埋めたということです。そんなことがあってから、あの洞
窟に寝るのが怖くてねえ……。
幽霊の火を見る行事
島で大きな祭というと、シチ(節祭)ですが、この時に幽霊の火が見えることがあ
りました。方言ではマジョヌタマシ(魔物の魂)と言いますが、崎山村から一里も離
れた網取村まで、ずうっと幽霊の火が繋がって見えることがあるそうです。家の中で
「あっ、火が見えた!」といったら、叱られました。若者がみんなで行って、できれ
ば墓の見える所に行って木に登り、火が今年はどういうように出るかを見きわめるの
です。ぱぱっ、ぱぱっ、と丸い小さな青い火がたくさん走るのをよく見ました。幽霊
の火はかならず青い色です。赤い火は人間の火です。その見え方でいろいろの占いを
するのですが、そのやり方は私にはわかりません。
霊火を指差してはいけない
また、幽霊の火を見ても絶対に指差してはいけません。もし指差すとどこまでも追
いかけてきます。
こんな話が伝わっています。三名の魚捕り上手が海で夜釣りをしている時に、幽霊
の火が見えたそうです。たまたまそれを指差してしまった男にその火がずーっとつい
てきました。みんがばらばらの方向に逃げて舟からあがっても離れないのです。とう
とう便所の所へ逃げて、中にいる豚を突き起こして泣かせたら、とたんにぱっと消え
たということです。
便所の女神の威力
ある時に神様をいろいろの場所に配置することになって、便所(フールヤ)にはど
の神様が行くか、となった時に飛び切り美人でまた位も高い女の神様が希望して便所
の神様(フールヤヌカン)になられたそうです。それで、便所の神様は特別に力の強
い神様で、ほかの神様にお願いしても通らない願い事は、便所の神様にお願いしたら
通るといわれます。これは、ユタ(職業的な霊能者)も話していたことですよ。
火の神に向かって御飯を食べるな
もうひとつ大事な神様は、火の神(ピヌカン)。この神様は耳が遠いので、ニガイ
(祈願)をするときには声たかく唱えないといけません。また、なるべくは火の神に
向かって御飯を食べるなともいいます。口を動かしているのを火の神様が見て、自分
の悪口をいっていると思われると大変だからです。でも、今は食堂が台所にあること
が多いので、火の神に向かって食べる家も多いですね。
産後の注意
お産のあと一週間以内の女を、シラヤヌピトゥ(産室の人)といいます。八日目が
過ぎないと、足を海につけることも、舟に乗ることもできません。これは禁じられて
きました。このことを破れば天気がしけて舟の事故が起こるんです。
春から夏にかけての一時期、崎山村の西のヌバンの崎を女は通れませんでした。網
取村から石垣島に行くとき、島の南まわりの航路をとればここを通ります。それで、
陸路を鹿川村まで歩かせて、そこから舟にのせたものです。北まわりの場合は、ウナ
リ崎の所を通れませんから、やはり途中で降ろして上原村まで陸路を歩かせたもので
す。西表島ではヌバン崎とウナリ崎は、神高い所です。
昔は男女に限らず、誰一人海に行ってはいけない、山にも入ってはいけないインドゥ
ミ・ヤマドゥミ(海止・山止)という時期が、旧暦の四月と定められていました。
蛇をいじめたら
私の学校時代のことです。網取のすぐ東のウチタバルという所で子供たちがトゥカ
ラという大きな蛇(和名サキシマスジオ)を棒でいじめていた時、ホーッと猫のよう
な声をあげてかまくびをもたげて追いかけてきたそうです。恐ろしくなって逃げたけ
れどどんどん追いかけてくるので、一人が物陰に隠れて首の所を叩いてようやくやっ
つけたそうです。私は見なかったけれど、翌日学校でみんなが話していました。
—;—;私(遊地)も、鹿川村の廃村調査のとき、道に大きなトゥカラがい
たのを思わず刀で切り殺しました。しばらくして、後を歩いていた伊谷純一郎先生に
「君のズボンに蛇の首が噛みついているぞ!」と言われて飛び上がったことがありま
す。実際は何も付いてはいませんでしたが、「喰わぬ殺生をするな」という先生の教
えでした。それ以来、蛇でもクモでもムカデでもなるべく殺さないようにしています。
なるほど。網取村の前に長くのびているサバ崎の途中の浜のひとつのプーラという
場所では動物を一切殺してはいけないと言われていますよ。
—;—;それは初めてうかがいました。あそこは、雨乞いをしたりする神
聖な場所だったですね。永美じいちゃん、どうも、いつもとっても面白いお話をあり
がとうございます。
おわりに
川平永美さんは、現在は石垣島にお住まいです。私どもは、西表島に行く前後に必
ずおうかがいして、そのご長寿にあやからせていただくようにしています。いつまで
もお元気な川平永美さんのご健康に乾杯!