わが師)「あらゆるものをたべておいてください」――宮本常一先生にいただいた言葉
2005/06/11
・安渓遊地、2002『しま』日本離島センターに掲載されました。号数はちょっと失念
しています。
写真は、
http://masakazu-era.sakura.ne.jp/oshima2.htmlからおかりしました。
今西錦司門下の川喜田二郎先生の移動大学運動に出会って、私は、体で実地に学ぶ
フィールドワークという勉強の方法の魅力のとりこになった。そして、アフリカに憧
れて京都大学の大学院に進んだ。今西さんのあとをついでアフリカでの人類学調査を
指揮しておられた伊谷純一郎先生は、しかし、私にまず日本列島最南端の八重山・西
表島行きを指示されたのだった。一番近い人家まで道なき道をたどって八時間は歩く
という廃村調査が与えられた課題だった。
一九七四年六月、はじめて訪れた西表島で、廃村行きの準備をしたり、聞き取りを
したりしながら、私は、若者たちの集まる家に居候させてもらうことになった。泡盛
を酌み交わしながらいろいろな話がでる。ある若者は、私と同い年だったが、何年も
カツオ船に乗って世界を回ってから島に戻ってきたのだという。そして、明治三十六
年まで宮古・八重山の人々に移住を禁じて厳しい人頭税を課した被差別の歴史などを
語ったあと、大声で「おまえは、どこの出身か?まさか薩摩じゃあるまいな!」と詰
問した。私の母方は、鹿児島県大島郡加計呂間島の出であったが、「奄美ならまあよ
かろう」と許されたのであった。しだいにうちとけて話すうちに、島を「研究」に訪
れる「バカセ」たちの行状について若者たちは語ってくれた。その内容は移動大学で
読んだ、宮本常一先生の言葉を思い出させるものだった。「調査というものは地元の
ためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が
多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い(宮本、一
九七二)。」
実際に宮本先生にお会いする機会を得たのは、その年の八月、大山の香取で開かれ
た第十二回移動大学でのことだった。百八人もの参加者が寝泊まりするテント村と道
を隔てた広々した空き地の端の、見晴らしがきく場所に私は自分の小さなテントを張
ることにした。テントを固定するペグを打ち終えて、ふと気がつくと、ごましお頭の
がっしりした男の人がかたわらに立っている。手にはスコップがある。そして、やお
らテントの周りに溝を掘り始めた。あっけにとられている私を尻目に幅三十センチも
ある溝がどんどん掘られていく。スコップをふるいながら、こんな言葉が出た。「テ
ントを張る時に一番大事なのは、水はけだよ。縄文人も君みたいに、こんな舌状台地
の端を選んで住んだ。そして、斜面の下にゴミをどんどん投げ捨てた。だから、住居
址とは離れた所に遺物が集積して出てくる。」スコップにもたれながら、この人は私
がテントの中にリュックを入れ、テープレコーダやカメラを取り出すのを覗きこんで、
こうつぶやいた。「もっと丁寧に入れんと、テントが歪むがな……。ああ、こんなに
軽くてちいさい装備を見ていたら、また歩いてみとうなってきたなあ。」
これらの言葉を聞いて、やっと私は、大山移動大学の案内パンフの中に「講師・宮
本常一」と書かれていたことを思い出した。それでは、この人があの宮本先生だった
のか。その名前は、私の中では先に引用した「調査地被害――される側のさまざまな
迷惑」という、その後の私のフィールドワークを決定した文章の著者として記憶され
ていた。それから四半世紀を経て、妻とともにまとめた本の冒頭に「される側の声―
―聞き書き・調査地被害」を置いたのも、宮本先生の影響ぬきには考えられない(安
渓・安渓、二〇〇〇、このホームページの「研究」のコーナー参照)。
移動大学のキャンパスはちょうど川喜田先生考案の発想法の個人作業のまっただな
かだった。宮本先生がお得意の座談をくりひろげられる場が少ない時期にあたってい
たのだろう。おかげで私は、宮本常一先生にテントの溝を掘っていただくという思い
がけない光栄に浴したのだった。
夕日をあびた山麓をながめながら、修士研究として取り組み始めたばかりの西表島
での廃村調査について宮本先生に問いかけてみた。「文部省の資料館に明治中期の『
八重山嶋巡検統計誌』という一連の書類があるんですが、第三十五冊などというのが
あるのに、今では四冊しかのこっていません。私が調べている西表島の廃村・鹿川の
ものなどが見られるといいと思うんですが、どこかに残っていないものでしょうか。」
即座にこんな答えが返ってきた。
「あれは、田代安定が当時の山縣有朋内閣に提出した報告書でしょう。そのうちの
何冊かだけが『琉球共産村落之研究』を書いた田村浩さんから渋沢敬三先生の手に入っ
て、先生の祭魚洞文庫に収められたのです。田村浩という人は、渋沢先生の友達で、
沖縄へ赴任することになって『琉球へ島流しだ』としょげていたら、渋沢先生は『い
や、他ではできない研究をするまたとない機会だ』とはげまされた。田代安定の報告
の残りについては、あまり望みはもてないけれど、時間をかけて捜してみたらどうだ
ろうか。」
問わず語りに宮本先生は、沖縄のかかえる課題についても聞かせてくださった。島
を研究の対象にさせてもらう者は、その研究のテーマがなんであれ、島とその島びと
たちの運命に無関心でいてはならないし、いられるはずはない、という先生のお考え
があってこういう話をしてくださったのかもしれない。「地域がよくなっていくため
には、地元から良いアイディアが出なくてはいけない。沖縄なら例えばインドジャボ
クという木を薬用に栽培するとか、さまざまな可能性が埋もれているはずだ。自治省
は、こういうプロジェクトに金を出すよ。経済企画庁だったら、金はあまり出ないが、
逆に地元の言い分は半分以上通るだろう。」
廃村調査のあと、東南アジアにつならる西表島の古代的稲作と海上の道の研究をし
た私は、思わぬ商売に手を染めることになった。「本土なみ稲作」を目指して、西表
島で農薬散布が始まったのを見かねて、私は、地元の人とはかって一九八八年から特
別栽培米の制度を活用した産直の無農薬米「ヤマネコ印西表安心米」(問い合わせ先、
〇九八〇八・五・六三〇二)の企画・宣伝を担当したのである。ボランティアとはい
え、慣れない商売の道は、学問の道よりはるかに険しく、闇米扱いしてくる役所や持
ち逃げ常習の詐欺師との駆け引きなど、ひとつ間違えば一千万円単位の赤字を出しか
ねない真剣勝負の連続であった。
そのころ私が聞いた「される側の声」の中では、宮本先生の「地域がよくなるのは
地元からのアイデアで」に連なる思想が、次のように表現されている。「あなたも、
最近、どこかの島で『無農薬米の産直で地域おこし』とか言って旗ふってるらしいけ
ど、島の人間が独力でできるように育てていかなくちゃだめでしょ。今みたいな、船
をひっぱって岩ゴロゴロの山道を通すようなやり方が長続きすると思うのは、あなた
の思い上がりじゃないかしら。無理に無理を重ねて家族を泣かすような学問が何にな
るの。よぉく考えてね。よそから持ってきた智恵や文化で、地域が本当に生き延びら
れるわけがないのだということを。」
今、私の手元には宮本常一先生からの二通の葉書が残っている。どちらも、武蔵野
美術大学に先生が作られた資料室の展示を絵はがきにしたものだ。ひとつは、一九七
六年九月一日の消印があり、図柄は糸車だ。
暑中見まい多謝。私もこの夏沖縄へかけ足でいって来ました。ほんの二、三日の
旅でしたが、宮古、伊良部、石垣、竹富、西表を訪れました。モクマオウとギンネム
の木のはびこっているのにおどろきました。内地のセイタカアワダチソウよりひどい。
ギンネムをなんとかしないとどうしようもなくなるのではないかと思いました。朝の
うち石垣島を一周して、その午后の飛行機で石垣を経て、ナハから東京へかえり飛行
機を利用すると沖縄が本土へあまりにも近くなっているのに驚きました。
そして、先生がなくなられる半年ほど前にはこんな葉書をいただいている。一九八
〇年八月二十五日の消印で、しょいこの下にあてる「ばんどり」コレクションの絵葉
書だ。
まえに西表のすぐれたレポートを送っていただいて拝読して、すごく感激して手
紙を出そうと思ったら、アフリカへいっていることに気がついてそのうちかえって来
るのだからと思っていたらもうちゃんとかえっていることを暑中見まいで知り、さて
私の方は例のごとくうろうろしていて何もかも事がはかどらずこの夏もおわりが近付
いています。何も彼も後から後から気のつくことばかり、貴兄の場合は今のうちにウ
ンと貪欲にあらゆるものをたべておいてください。
宮本先生が御存命であったら、現在私たち日本人が向きあっている環境問題等の状
況をどう見極めただろうか。全国各地の離島地域で進められている公共事業等の大型
施設整備にともなって周辺海域が受ける生物の多様性やその生態系への影響はどうで
あろうか。宮本先生のふるさとの周防大島の近隣にも大規模なプロジェクトがひかえ
ているようである。足下の身近な自然環境についてはどうか。山も畑も田んぼも人の
手が入っていない荒れ地が目立ってきた。経営が成り立たず島の生業が失われゆくこ
の状況に対してどのような意見を述べられたであろうか。
最近よくそんなことを考える。例えば、宮本先生のふるさとの近くの周防灘の長島
の海は、日本の浅い海としては最高の自然の豊かさをもつ場所であることが明らかに
なっている(日本生態学会中国四国地区会、二〇〇一)。
地元主導の自然との共存こそが自然保護であると考える私は、現地生物調査や自然
保護を考えてもらうためのシンポジウムの企画などに協力している。昨年、長島で開
いたそんな会のひとつに、宮本常一先生の奥様のアサ子さんがご近所の方々と参加し
てくださったのも、望外の喜びであった。
最近は、妻とともに屋久島にも行かせてもらっている。全国から集まる大学生と地
元の高校生を対象に、今西さんの流れを汲む屋久島研究者たちと地元の自治体が協力
して夏に実施する一週間あまりの「屋久島フィールドワーク講座」の講師として招か
れるのだ。私たちが担当する「人と自然班」のもっとも重要なテーマは、宮本先生が
指摘された「される側の迷惑」をめぐる「イバルナ学者」であり、もうひとつはバイ
オリージョナリズム(流域の思想)と現代に生きるアニミズムを中心とした「イバル
ナ人間」である。さらに昨年は、トヨタ財団等の助成金を得て、アフリカと屋久島の
交流も実現した。宮本先生も旅されたケニアと内戦のさ中のコンゴ民主共和国で地元
の森を守ろうと文字通り懸命の努力している四人の仲間たちを「フィールドワーク講
座」の時期に合わせて招き、地元のエコツアーガイドや森林保護活動家たちとの交流
もできた(屋久島の雑誌『季刊・生命の島』五九号、電話〇九九七四・三・五五三三)
。ともに学ぶ内容に島という地域から地球の未来を構想する「イバルナ日本人」が加
わったのである。
アフリカやフランスでの暮らしを経て、わが家は山口市の山村に移り住んだ。西表
島にならった無農薬米が作れるようになって十年。私は、自分の興味の広がりや、や
るべきことが自分の能力を越えるのではないかと感じて途方にくれることもしばしば
であるが、そんな時、私は、宮本常一先生の言葉を思い起こしてみる。「ウンと貪欲
にあらゆるものをたべて」「(地元の人達に)仲間だと思われればいいんじゃよ。」
そのたびに、宮本先生の語り口とあのくしゃくしゃの笑顔がよみがえり、新しい力が
湧いてくるのを感じるのである。
引用文献
・安渓遊地・安渓貴子、二〇〇〇『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』葦書
房
・安渓遊地・安渓貴子、二〇〇二「あなたが屋久島の未来だ――アフリカからのこと
づて」『季刊・生命の島』五九号
・日本生態学会中国四国地区会、二〇〇一「長島の自然――瀬戸内海周防灘東部の生
物多様性」『地区会報』五九号
・宮本常一、一九七二「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」『朝日講座・探
検と冒険』七、朝日新聞社(一九七五『現代日本民俗学Ⅱ』三一書房に再録)