わが師)稲の道の研究を導いてくださった渡部忠世先生との会話
2024/03/20
恩師のお一人、渡部忠世先生が、2024年3月18日午後8時半頃に逝去されました。以下は、新聞報道の冒頭です。
渡部忠世氏(わたべ・ただよ=京都大名誉教授、作物学)18日午後8時半、老衰のため京都市の病院で死去、100歳。神奈川県出身。
通夜・葬儀等は以下の通りです。
通夜:3月20日(水)午後6時~
葬儀:3月21日(木)午前10時~
場所:いずれも、かもがわホール
中京区御池通木屋町東入る 075-253-0400
仏式で執り行われます。
渡部忠世先生から教えられたこと。
写真は、以下のサイトから借用しました。アジア太平洋農耕文化の会 https://www.asahi-net.or.jp/~cr1h-ymnk/SriLanka-tsunami.html
1976年、京都大学大学院の理学研究科の学生(博士課程1年目)だった時、農学部の渡部先生のところに、おしかけていって、西表島の稲作の勉強の手ほどきをお願いしました。違う学部でもどんどん教えを乞うのをよしとする垣根の低さこそが、宮崎駿さんのアニメ『天空の城ラピュタ』を宙に浮かせている飛行石のように京大の力の源泉でした。
安渓遊地・貴子「西表島に行ってきました。稲の刈り株から、芽が出ているのをサンプルに採ってきました。盛永俊太郎・柳田國男の『稲の日本史』(筑摩書房)を読んだら、ヒツジとか言うて、大事なものかと思いまして。」
渡部忠世「これは、台中65号だね。そんなに珍しいものじゃないがな(素人が複雑多岐な「稲の道」に迷うておるわい)。いま、僕は『稲の道』という本をNHKブックスから出す準備中(刊行は1977年12月)。八重山の在来稲のことは、僕も少しは調べたけれど、まだまだわかってないことが多いんや。」
何度もおしかけていきます。
渡部「在来稲に置き換わった蓬萊米の中で1番ひろまった台中65号。あれはもう50年も作り続けられてる品種や。だいたい日本の稲品種は平均すると15年で交代してきたから、例外的に長命な品種ということになる」
安渓遊地「日本の稲品種の平均寿命が15年ということは、嵐嘉一先生の『近世稲作技術史』(農文協・1975年11月)に書いてありましたね」
渡部「何!? 出たばっかりの本、もう読んだのか!?」
1977年、もう東南アジア研究センターに移られていました。
渡部「君なぁ、西表の水田雑草にスブタがあるって書いてたけど、あんまり見たことないが、君『スブタ』って知ってたのか?」
安渓「はあ。だいたい。(マルミ)スブタも、(ナンゴク)デンジソウも、ミズオオバコも、こっちでは絶滅危惧種ですが、それぞれ島の言葉では、ユノキ、ミチカビル、カーラナズ(川の野菜の意味、タークブ、田昆布とも)といって、西表島にはいくらもあります」
渡部「なあ、アンケイ君、(西表島の郷土史家の)星勲さんと話したか? 彼のいう言葉がさっぱりわからんのやが、君、あの人の話わかるか?」
安渓「はあ。だいたいわかります。いろいろ教えてもらってます」
渡部「アヌマーン・ラーチャトンというタイの碩学の書いた、稲作農民の民俗誌、こんど書く西表島の稲作の論文の参考にしたらいい。貸してあげよう」
(「理学部の動物学出の駆け出しの素人に負けてるやないか!」と農学専攻の大学院生たちが叱られて大迷惑したということは、〝被害者〟の一人からずっと後に聞きました。)
やがて東南アジア研究センターのセンター長になられるころ、高谷好一(たかや・よしかず)先生や、助手の田中耕司さんなどともお付き合いができてきました。
渡部「センター長になるとな、毎朝新聞で見るところはどこと思う?」
安渓「さあ、株式欄でっしゃろか? まさか」
渡部「お悔やみの欄や。センターに関係ある人の場合は、すぐに弔電とか手配せんといかんやろ」
たくさんある会議に出る前に、渡部先生が鏡の前に立ち、櫛で髪を整えるところなどは、自然人類学研究室では見かけたことのない光景でした。
安渓「ゼニトルマンは、みだしなみ大事ですよね」
渡部「それだけじゃない。僕は家を出るときは、ちゃんとワイフにキスしてから出るようにしているよ」
安渓「ははぁ! 見習います」
1984年ごろ、与那国島の稲作の、ユネスコ東アジア研究センターの調査に続いて、渡部先生が代表の科研費による種子島と対馬の旅でごいっしょしました。
渡部「こんどの科研、文部省に呼ばれてな。担当の職員がこんなことを言うのや。『これは研究というよりは学際的エクスカーション(遠足)ですね』というから、『はい、学際的遠足です』と返事したけど、通った」
佐原真・大林太良・佐々木高明・高谷好一・応地利明・飯島茂・生田滋・松山利夫・田中耕司・高谷紀夫さんらの、錚々たるメンバーの末席に入れていただいて楽しんだ「学際的遠足」は、歩きながら、あるいは宿舎で寝食をともにしながらの会話がまたすばらしく贅沢で面白かったのです。
渡部「なあ、アンケイ君、 京大のグラウンド、農学部グランドっていうやろ。 あれなんでか知ってるか。京都帝国大学ができるとき、もともと『穀物干場』という名目で文部省に申請したらしい。それでな、僕が就職した当時の農学部の助手の仕事というたら、穀物が実ったらそれを食べに来る鳥たちを、棒で追い払うことなんや。僕は、大学を卒業したけれど、就職がなくてなぁ。太秦(うずまさ)の撮影所に入った。そこでシナリオ書きの修行をさせられながら、大女優の山田五十鈴さんの付け人をしてたこともある。」
安渓「映画のシナリオ書きの修行というとどんなものでしたか?」
渡部「それが大変なんや。『これで市電に乗ってこい』と言われて、運賃だけもらって、一周りしてくるんや*。そしたら『今見てきたことを、原稿用紙20枚に書け!』と言われる。ええーっ!? 頭真っ白で1枚も書けんで。『もういっぺん行って来い!』で、また一周しても書けん。3べん目にもなったら、もう、乗っている人の服装やら、ようすやら、目ぎらぎらになる。
そうやって見て書く訓練から始まったから、いまごろ論文を書いてても、つい筆がすべるな。それでも、指定された枚数の最後の行に「。」(マル)を打つ自信はあるな。
君は、最近ワープロやらいうのを使うらしいが、ずるいな」
1984年に、法政大学出版局から『南島の稲作文化』という本が出て、この学際的な遠足の与那国島を中心とした成果物となります。
渡部「なあ、アンケイ君、西表島の稲作の論文を柱に、一冊本を出したらどうや? 文献目録も出したから薄い一冊になるやろう」
安渓「ありがとうございます。畑作のことやらまだ調べてみたいこともありますから、ちょっと早いかなと思ってます。」
1987年3月から7月にかけて、小学館から渡部先生らの編集で『稲のアジア史』全3巻が出ました。
渡部「これは、『稲の日本史』の続編のつもりで付けたタイトルや。なあ、次は君らの時代に『稲の世界史』をまとめてくれよ」
2007年に安渓遊地他編著で『西表島の農耕文化』(法政大学出版局)から出しましたが、時すでに遅し、ちっとも売れませんでした。渡部先生の宿題は、はて、いつになるでしょう?
*注
田中耕司さんが聞いたバージョンでは、太秦での経験として、京都市電に乗る以外に、京阪電車で三条駅から淀屋橋までを往復して、車内の様子からストーリーを作る訓練があった、とのことです。
Wikipedia から 著作目録
単著
『稲の道』日本放送出版協会 NHKブックス 1977
『アジア稲作の系譜』法政大学出版局 1983
『アジア稲作文化への旅』日本放送出版協会 NHKブックス 1987
『産業および生業としての農業』放送大学教育振興会 1989
『日本のコメはどこから来たのか 稲の地平線を歩く』PHP研究所 1990
『稲の大地 「稲の道」からみる日本の文化』小学館 1993
『日本から水田が消える日』岩波ブックレット 1993
『農業を考える時代 生活と生産の文化を探る』農山漁村文化協会 人間選書 1995
『農は万年、亀のごとし』小学館 1996
『稲にこだわる』小学館 2000
『百年の食 食べる、働く、命をつなぐ』小学館 2006
共編著
『食用作物学概論』小合龍夫、栗原浩、前田和美共著 農山漁村文化協会 1977
『東南アジア世界 地域像の検証』編 創文社 東南アジア研究叢書 1980
『中国江南の稲作文化 その学際的研究』桜井由躬雄共編 日本放送出版協会 1984
『南島の稲作文化 与那国島を中心に』生田滋共編 法政大学出版局 1984
『稲作文化 照葉樹林文化の展開』上山春平共編 中公新書 1985
『稲のアジア史』全3巻 責任編集 小学館 1987
『現代の農林水産業』編著 放送大学教育振興会 1993
『もち 糯・餅 ものと人間の文化史』深澤小百合共著 法政大学出版局 1998
『農耕の世界、その技術と文化 8 (農耕と野生と馴化の植物群)』監修 農耕文化研究振興会編 大明堂 2000
『モンスーン・アジアの村を歩く 市民流フィールドワークのすすめ』編著 家の光協会 2000
『日本農業への提言 文化と技術の視点から』編著 農山漁村文化協会 2001
『環境・人口問題と食料生産 調和の途をアジアから探る』海田能宏共編著 農山漁村文化協会 2003
『アジアの村を歩き続けて アジア太平洋農耕文化の会の十年』山田和生共編著 アジア太平洋農耕文化の会 2004