わが師)#堀田満_先生をしのんで #Hotta_Mitsuru_#奄美 #植物 RT_@tiniasobu
2018/12/15
植物分類生物学者の堀田満先生が2015年7月8日になくなられて、追悼文集がでました。 以下のものなどは、学会誌に載った公式のものですが、私のごく私的な追悼文を掲載しておきます。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bunrui/16/1/16_KJ00010238506/_pdf
私が京都大学理学部に入ったときは生物学をやるつもりだった。人生は思ったようにはならないもので、5月からほぼ不登校になり、2年生は文学部でラテン語に明け暮れていた。3年生でもういちど生物を、できればフィールドに出られるような勉強してみたいと思ったとき、ホッタマンという新しい先生が来られたという噂を聞いた。初めて堀田満先生の研究室を教養部に訪ねた時、ちょうどできたばかりらしかった保育社のポケット図鑑を見せて下さった。「この中の地面に置いてあるタコノキの実の写真。陰がないやろ。どうやって撮ったと思う? それから一枚だけ、色があせてる写真があるんやけど、どれかあてたら、この本を上げよう」と言われた。タコノキの方は、照明ですか? などと答えてみたがどれも外れ。正
解は
真っ二つにして切り口を下にして伏せてあるのだという。恐らくトンガ諸島で撮られた写真だったと思うが、学生をちょっと斜めから挑発するような堀田先生の雰囲気が好きになって、ちょくちょく遊びに行った。自分で撮った植物の写真などを見てもらい、批評していただいたこともあった。
修士課程に進んで、西表島の地域研究をするようになった。研究のテーマは廃村、在来稲ときて、次がサトイモ科になった。廃村では文学部考古学教室に、稲は農学部の渡部忠世先生に、そしてサトイモはやっぱり堀田満先生に習いにいった。こうした越境がやすやすとできることこそが京都大学の力の源泉だと思っている。堀田先生からは、文化人類学の分野で、栽培植物と野生植物のことをほとんど知らぬままにさまざまな仮説を立てることについての、手きびしい指摘を受け、身が縮む思いがした。ようやく仕上げた論文が『農耕の技術と文化』誌に載るに際して、堀田先生は懇切なコメントをつけてくださった。初めて研究室でお会いしてから13年がたっていた。
鹿児島大学理学部長をしておられた時に訪ねた時、全教員のシラバスの版下をAppleのコンピュータで細かく仕上げるというやりかけの仕事を見せて下さった。その時はただ先生のマニアックなまでのこだわりに感心しただけだったが、のちに、自分もいろいろな本を版下から作るようになって、ひとめ見たときの美しさを大切にしておられた心配りのたしかさを痛感している。
鹿児島短大の学長室にも、研究所にもお訪ねした。「どうにも力が入らへんのや」といいながら、あれこれのご教示を下さることは、以前と変わらなかった。そしてご病気のために研究室を閉じ、施設に移られてからもお会いする機会があった。妻の貴子と二人、終始変わらず本当に暖かく応援してくださったことに心から感謝している。
短い映像もあります。 https://www.youtube.com/watch?v=-WsCKPASzo8
2012年6月25日 鹿児島市内の 西南日本植物情報研究所にて
堀田満先生を研究所にたずねて、絶滅危惧種としての分類学者の現状を訊いてみたのですが、軽くかわされました。