フロッピーから)西表島にワニの足跡を追って
2017/03/19
大学の棚を片づけていたら、フロッピーの山。あけてみたら案外よめたりしました。これは、沖縄タイムスに掲載された元原稿のようです。
西表島にワニの足跡を追って(1)――聞き書きの面白さ
安渓遊地
昔、西表島に大きなワニがいたことを読者のみなさんはご存知だろうか。島の西南部にあった鹿川(かのかわ)村には、こんな話が伝わっている。
あるとき、鹿川村のウラブァ・の浜のアダンという植物の茂みの下に、大きな動物が寝たようなあとが五、六か所もあるのを村人が見つけました。砂に残ったあとからは、うろこがある動物のようです。村人は不思議なこともあるものだと思いました。そんなある日のこと、鹿川村の男たちは、誘いあわせて魚をとりにゆくことにしました。浜づたいにサンゴ礁を踏んでペーブ石(写真1)という大きな岩のそばまで行ったところのサンゴ礁のくぼみに、形はヤモリに似て人間ほどもある怪物がいました。干潮を待って、魚を酔わせる毒であるイジョーキ(和名モッコク)の皮をつぶしてくぼみに入れました。槍で突いてみると、この怪物は、毒に酔った風もなく、リーフの上に四足であがってきたのです。槍で突いても刃がたたず
、男
ちはわれがちに斜めになっているペーブ石の上に逃れました。ところが、この怪物は、ペーブ石の上にまでどんどんはい登ってきて、男たちはじりじりと高い岩の端においつめられていきます。海に落ちれば命はありません。そのとき、体が大きくて元気もある男が、魚を酔わせる樹皮をとったあとの丸太で、したたかこの怪物をなぐりつけました。ひるむすきに足元の平たくはげる岩をとってかわるがわる投げつけ、槍を打ち込んでとうとう倒しました。
怪物の重い死骸をひきずって村まで帰り、腹を裂いてみたら、卵がいっぱい詰っていました。「これが全部かえっていたら、大変なことだったね」と村人たちは顔をみあわせました。みんなは「これはピトゥファイムヌ(人喰い者)だから卵は食べられん」といいましたが、ある老人が「自分はもう長く生きたのだから、こんな珍しいものを食べて中毒して死んでも本望だ」といって食べてみたそうです。そうしたら、とてもおいしかったそうです。皮と肉は、お役人様にさしだしたということです。
これは、西表島にあった鹿川村の屋良部亀(やらぶ・かめ)さんと崎山村の川平永美(かびら・えいび)さんのお話を私と妻の貴子がまとめて、ひるぎ社のおきなわ文庫から出していただいた『崎山節のふるさと』に収録した話の一部である。鹿川村でワニを殺した伝承は、細部にいたるまできわめて具体的で、それほど遠い昔のこととは思えない。
(あんけい・ゆうじ、山口県立大学教員)
西表島にワニの足跡を追って(2)――古文書の世界から
安渓遊地
ワニは西表島だけでなく、奄美大島にもいた。幕末の奄美に島流しになっていた名越左源太(なごや・さげんた)という武士が、詳しい絵入りで、島での日常の生活を記録に残している。平凡社の東洋文庫に収録されている『南島雑話』(上・下)である。その記録の中に、人の背丈ほどのワニが生け捕られたことが絵入りで載っている(図1)。ワニは、海水中でも生きられるので、揚子江(長江)の河口あたりから黒潮に乗って琉球弧の島々に漂着するものがあったことは十分考えられよう。
西表島の西部の浦内川の上流には、怪物がいたという記録が残されている。「八重山嶋諸記帳」という古文書によると、稲葉院(現在の方言ではイナバ)と呼ばれるこの一帯には、水鯖(みずさば)という怪物がいて、酉(とり)の日と寅(とら)の日には人が立ち入ることはなかった。もしこの日にここへ近づくと、いきなり大風が吹いて大木をなぎたおし、水鯖が水面に浮き出て狂い巡るという。こういう場面に巡りあった不心得な人間は、高熱を発してだいたい三日ぐらいで死ぬものと島では相場がきまっている。
西表島の西部の干立集落では、浦内川のタカピシという水田地帯の近くに怪物が潜んでいたという伝承がある。ここを人間が泳いで渡る前にまず犬を泳がせて安全を確かめるのが常だったが、ある時、三匹の犬が次々に呑まれたことがあると伝えられている。
サバというのは、今の方言では、鱶(ふか)のことであるが、鹿川湾での伝承から、浦内川にもワニがいたと考えてみるのも面白い。
西表島の自然や人と仲良く旅をしたいと願う人々のための『西表島エコツーリズムガイドブック』(問い合せ先、西表島エコツーリズム協会、電話098085589)の一部を執筆させていただいた時、私はこんな想像をめぐらせていた。
西表島の語り部・川平永美(かびら・えいび)さんが、この四月に渡してくださった新しい原稿を読んで私は躍り上がった。西表島のワニをめぐる私の想像を裏付ける証言がそこに書かれていたからである。
西表島の崎山出身の川平永美さんは、人頭税が廃止された明治三六年のお生まれである。今年は満で九四歳になられるはずである。
篭を編んだり、散歩をしたりする悠々自適の時の合間を縫って原稿を書くのが一九八〇年ころからの川平さんの習慣で、それは今も休まずに続いている。お話をきいていた時とは違って川平さんの原稿には、鹿川村の人々にしとめられたワニがもともと浦内川の上流のマリユドゥの滝壷にいたという伝承が書き留められていた。話者自身が筆をとる――これは、私たちが今とりくんでいる課題なのだが――このとりくみを通して通りいっぺんの聞き書きでは得られないような深い記述があらわれるのである。
(あんけい・ゆうじ、山口県立大学教員)
西表島にワニの足跡を追って(3)――話者が筆をとる時
川平永美述、安渓遊地編
鹿川村でワニを退治した話
昔、西表島の鹿川村にあった話を書きます。これは、鹿川村の古老のじいさんばあさんから昔聞かされた話です。ワニ魚退治したとの話を私は聞いております。まずこのワニ魚はどこから来たか、はっきりわかりません。ワニ魚は初めにイナバ川にムルユド(注。祖納の方言ではマリユドゥ。マリュード等というのは誤り。MA・RI・YU・DUと4拍で発音)と言うクモリ(滝壷)がありまして、深さも深いクモリでこの大きなクモリに住んでおったらしいです。それから次第に下の方に行き、浦内川に下りて、川からたどりついて、海に出て行ったのです。
浦内川の、海に出るところに白い砂浜(トゥドゥマンの浜)があります。その砂浜にうろこのある大きな生き物が寝たらしい跡がありました。それから祖納村の前にある外離島に行き、そこの白い砂浜にも寝た姿を写して行きました。それから網取村の西の白い砂浜にも、また、崎山村の西のヌバマの白い砂浜にも寝た跡がありました。それから、崎山村の裏海岸のペブと言う所に大きな岩がありますが、その岩のそばにクモリ(サンゴ礁の池)があります。そのクモリにおったそうです(図1)。
ある時、鹿川村の人たちが魚取りに来てそのクモリに網を入れて潮の引くのを待っていました。山の上から魚を見る人の指図でクモリの中に網を入れたところ、網の中にヤモリそっくりの大きな姿が見えました。そこで「急いで村に帰ってヤリやモリやいろいろな道具をとって来なさい」と言いました。潮の引くのを待って、われ先にヤリで突きましたがうろこが堅くてヤリは折れてしまい、道具はことごとく皆折れてしまいました。ワニはあばれ出し、皆おどろいて走ります。ワニは後から追っかけて来ます。にげる所がなく走りまわり岩上までも追いつめられました。
そのうち大久様という人が後から流木の丸太棒でたたきましたら弱ってたおれたから、皆でたたいて退治したとの事です。大久様が力持ちだったからよかったです。このワニを村に持っていきましたところ、鹿川村にはよく旅人が来ますから、旅人がワニと教えたとのことです。
こうして、話者が自ら筆をとることによって、口だけで伝承されていた世界と古文書の世界をしっかりと結びつけることが可能になったのであった。これまで、調査する側に一方的に聞きただされるだけだった「聞かれる側」「調査される側」が自ら筆でをとるとき、本当の意味での住民参加の地域史づくりが始まるのではなかろうか。
川平永美さんをはじめとする西表の島びとたちは、そうした取り組みがいかに実り豊かなものであるかを教えてくれているようだ(写真1)。
(かびら・えいび、石垣市在住)
(あんけい・ゆうじ、山口県立大学教員)