宮本学と自分学)追われる奇兵隊士への農民の言葉「このあたりの人もそう信じております。どうぞそういう世の中を早く作ってください。」
2015/08/28
松下村塾の柱の傷のことを書いたのですが、宮本常一氏にそのことを話した矢田部宗吉翁は、周防大島の小松町(もと大島町、笠佐島の向いあたり)の医家・杉原家の生まれでした。
僧月性の薫陶を受けた大洲鉄然(周防大島久賀の人)が創設した南奇兵隊(のちに第二奇兵隊と改称)に入隊した矢田部宗吉翁は、小銃隊士となり秋良敦之助に愛せられた、と宮本氏は書いています。
最近、防府市富海に通って、清水家住宅の古文書を見せていただいたり、お話を聞く機会がありましたが、杉原家とも姻戚関係にあったということを聞いていました。あるいは、こうした幕末にともに闘ったつながりがのちのちまで残っていたのではないかと思います。
(脱藩して倉敷へ行って代官所を襲撃し、長州に逃げ戻る中で、矢田部翁とその仲間の三人は、たくさんの人たちに命を助けられた。)
(引用はじめ)
三人は、命をかけてまで約束を守ってくれた渡し守親娘に対してただ感謝のみであった。その時百姓が言った。
「今に、天朝様の時が来る。このあたりの人もそう信じております。あなた方もそういうことに働いているとききます。どうぞそういう世の中を早く作ってください。渡し守の親父もきっと浮かばれるでしょうから……。」
翁は藩の境をこえた真実というものをそこに見た。密告すればいくらでも密告できたはずなのに、それをする者は一人もなかった。これはこの三人だけに限られなかった。武士に出会って捕らえられた者以外のほとんどが一応長州藩まで無事にかえっているのを見ると、かくの如き農民の黙々たる援助が、他の人々の上にもあったと考えられるのである。
(引用終わり)
未来社版『宮本常一集 23』36-37頁
いま、宮本常一先生がご存命であったら、戦争に向かわせるような政権を打倒しようという、若者たちをきっと応援しておられたとおもってシェアいたします。