山口県立大最終講義) 松尾洋教授(生活環境論・地域学・キャリアデザイン)、地球に住む者としての礼儀作法を熱くかたる RT @tiniasobu
2014/02/16
2014年2月17日訂正 男の子の誕生は、お父さん到着の1時間前ではなく1時間後で
した。
「国境とか宗教とか文化とかいうけれども、それより前に地球に住む者としての礼儀
作法というものがあるのではないかと思います。いまの環境破壊とか戦争とかの現実
を見ると、その基本的礼儀を忘れてしまった『人類の限界』のようなものを感じます。
それをブレークスルーする道を探さなければ解決はありえません。ですから『持続可
能』ということこそがキーワードになってきます。これが『生活環境論』でめざした
ところです。」
「大学の授業をパソコンのソフトに例えると、じつに多彩なソフトのように、多く
の科目がありますけれど、この『キャリアデザイン』の科目は、他のソフトが動く
ための基本ソフト(OS)的なものだと気付きました。」
「人間と自然のあり方を問い直して、人間としての疎外感を充実感に変えていくた
めには、どのような取り組みをこれからしなければならないか。それを考えるために
は、これまでの歩みを懐かしがるのではなくて、文明史的にとらえ直していかなけれ
ばならない。これが『地域学』の授業のめざすところです。」
松尾 洋教授 最終講義
家政学部、生活科学部を経て現在、共通教育機構でキャリアデザイン、インターン
シップ、地域学などを担当されている松尾 洋先生が平成26年3月末で退職されます。
先生のこれまでの歩みや研究などについてお話いただく、最終講義を行います。
この講義は公開授業となっていますので、在学生、教職員、卒業生、地域の方々もぜ
ひご来場ください。(以上は、山口県立大学のサイトからの引用です)
日時:2月14日(金) 12:50~14:10
場所:本館大会議室
講師:共通教育機構 教授 松尾 洋
演題:今まで・これから――大学入学してから今日までの経験したこと、修業した
ことに感謝をこめて
司会:赤羽 潔 教授
松尾 洋 教授 最終講義
山口県立大学で教員として30年と6ヵ月働きました。今日までつつがなく働かせて
いただき、家族とも無事に暮らして来られたことに心から感謝しながら、私がどのよ
うな道筋を通ってきたのか、それを簡単にお話しさせていただきます。
1.恩師
専門である化学を指導していただいた教授の教育。先生の講読は、大きなところか
ら細かいところまで実にていねいに教えてくださるので、授業が終わったあとには何
かが身についたという、とても深い満足感がありました。一方、助教授の先生は少し
変わった方でしたけれど、4年生とか修士の若造が人の論文を「間違ってる」などと
批判しているのを聞くと、「批判するならその間違っていると思う点を自分で解決し
てみせろ」と言われたものです。そんなことが駆け出しの学生にできるわけはありま
せんから、ぺしゃんこにされるというような日々でした。
2.実験
就職して大学の助手になって2年、ベンゼンに溶かした脂肪酸を水面に流して、ベ
ンゼンが蒸発すると、一層だけの脂肪酸の分子が水面にきれいに並ぶように、その単
分子膜の性質を調べるという実験に取り組みました。ところが実験しても実験しても
どうしても論文に使えるようなデータが出ない日々が続きました。「どうかね?」と
聞かれたら、とても内心は苦しいんですけれど、こういうたちですから、平気なふり
をして、実験条件とか体調とかさまざまないいわけを重ねていました。でも、あると
き、そんな逃げではいかんと気付いて、教授以下のそろった教室のみんなの前で「私
が悪かったです。申し訳ありません!」と平謝りにあやまりました。そうしたら、急
にあやまりだしたことに驚かれたものの「うまく行かないって、誰しもがそうだよ。
実は、君がそう言い出してくれるのを待っていたよ」と言われたんです。そのとき、
心の中に青い空と白い雲が浮かんできたような爽やかな気分がしてきました(笑)。
そうすると不思議なもので、それから一ヵ月ほど経ったころからどんどん論文に使え
るようなデータが取れるようになってきたんです。……このことから、スランプに落
ち込んでいるときには、自分自身がその穴からはいだそうと努力しないかぎり、解決
というのは見えてこないんだな、ということに気付かされました。
また、単分子膜の理論曲線と実験結果が少しずれていました。どうしてそうなるの
か判らないのですが、その時、「失敗を覚悟で、普通は暗黒で行う実験に光を当てて
みてはどうだ、30分ほどの実験を1回失敗するだけじゃないか。」こう言って助言し
てくれた人がいたんです。それもそうだと思って、思い切って光をあてて見ることに
しました。すると水面に赤い小さな点々があるのが見えました! しだいに広がって
いくけれど、最後まで不均一のままでした。つまりこの系ではきれいな単分子の膜は
できていなくて、それが実験がうまくいかない原因だろうと判ったのです。このこと
から、きれいな単分子膜になるような物質の場合はいいけれども、それが難しい物質
もあるんだということに気が付きました。その物質を中心に実験を進めていた研究室
のみなさんには、勇気をだしてそのことを伝えました。
3.アメリカのバッファローでの体験
ニューヨーク州のバッファローに勉強しに行かせてもらった時の経験です。たいへ
ん寒い夜に、駐車場に車を入れようとしたら、満杯になっていてなかなか車が入れら
れないんです。なにごとかと思ったら、寒いのに夜間教室で学ぶために詰めかけた熱
心な市民たちの車でした。その学ぶ意欲というか行動力に圧倒されながら、こりゃ日
本人もうかうかしておったら負けるぞと強く思いました。
4.大韓航空機撃墜事件に遭遇しかける
国外研修でカナダのケベック州に単身で出かけていたときのことです。日本で子ど
もが産まれそうだというので、1983年9月1日の大韓航空007便で帰国する予定を5日ほ
どくりあげて早めに帰国することにしました。予定した便を変えようと、何度も電話
するんですが、旅行会社とつながりません。実は毎日空けているわけではないオフィ
スだったので、そうとは知らないで電話をしていたわけです。ようやく電話がつながっ
たら、日本までの便が空いていないというんですよ。ともかく日本の近くまで行けば
なんとかなるだろうと楽観的に考えて(笑)、韓国まできました。当時は金浦空港か
らの便ですが、福岡空港までの空席がなかなか取れません。やっと、スチュワーデス
の座る席ならあるが、ただしお金は払って下さいよ、という条件で乗れました。あわ
よくば、スチュワーデスの隣でと思っていたら、それはありませんでした(笑)。そ
うやってなんとか帰ってきて、産院に直行です。私がついてほんの1時間ほど後に男
の子が産まれたんです。そして、そんな生まれたての子どもを部屋から出していいの
かと思うまもなく廊下に待っている私に赤ん坊を抱かせてくれました。
それからまもなく、私が乗るはずだった飛行機が、領空侵犯のため宗谷海峡サハリ
ン近
海でソ連軍機に撃墜されるという事件がおきました。私は、子どもが生まれたおかげ
で命びろいをしたんです。こういう経緯で子どもの名前を衛(まもる)と名付けまし
た。今日は、学長のほかは誰も聴衆がいなくて部屋ががらがらだったらいかんな、と
思って(笑)、母親とともに、この席に来させています。こうして命が助かったのが、
山口女子大学(現在は山口県立大学)に赴任する一ヵ月前のことでした。このときか
ら――あまりそんなふうには見られていませんが――、私は、このまもられた
命を大切に、人のために尽くす生き方をしようと決心しました。
5.専門を変える
山口女子大学では、被服管理学と被服衛生学を教えることになるのですが、これま
での専門とは違って、さっぱりしっくり来ませんでした。また、教材として深く掘り
下げたものではなくても膨大な資料を準備しなければなりませんでした。階段教室で
の授業でしたが、内容が乏しく、しかもあまり教員自身が理解していない状態で教え
ていることを学生たちから見透かされているように思われて、授業後は、いつもとて
も落ち込みました。とくに被服衛生学は難しかったです。お医者さんが書いた教科書
では簡単に結論が述べてありましたが、接触性皮膚炎なんてどうしても理解できませ
んでした。そこで、とにかく一番やさしく書いてある本を読むことにしました。厚さ
三ミリほどの図解の本を読みました。そして、水ぶくれとはどういうものか、やっと
分かったような気がしました。それからは、授業の際に「君たちは知らないでしょう
が」と冗談を言いながら説明できるようになりました。
6.さらに食生活へ
家政学部の食生活科学科では、たまたま津野幸人(つの・ゆきんど)という人の『
小さい農業』(農文協、1995年)という本に出会いました。江戸時代の中頃から今日
までを視野に入れて、伝統農耕の原理を現代社会に活かすという内容の本でした。具
体的には、農のエートスを探る、農耕という労働の本質、定住を貫く戦略などが取り
上げられていました。こういう分野は初めてだったので、興奮して読みました。そし
て、5年くらいこれを授業で使って学生に勉強させました。10年以上経った後に、内
山節(たかし)さんの『共同体の基礎理論――自然と人間の基層から』(農文協、20
10年)を読むようになって、津野幸人さんの世界の重要さが改めて分かって来ました。
その頃の学生たちは、すばらしい熱意を持った学生たちでしたが、なかなか社会の理
解が得られないのか、就職が難しくて気の毒で悩みました。
成績が悪いと、その科目を落とすことになります。学生も大変ですが、教員の方に
もたいへん葛藤があります。必修の科目を落とした学生は、また同じクラスにでてく
るわけですから。でも、再履修すると学生たちは、奮起するのか2年目にはすばらし
く伸びて、良い成績をとってくれていましたが、食生活科学科の終わり頃になると、
その伸びしろがだんだん少なくなってきました。なかには、3回再履修しても、4回
してもほとんど成績の変わらない学生も出てきました。
7.植物を育てながら環境を教える
そのあと生活科学部に名前が変わって生活環境を教えるようになって、ただの机上
の学問を教えるだけでは、伝
わらないだろうと感じて、それまでやったことのない、植物を育ててみようという気
持ちになりました。ブーゲンビリアとかサボテンを育てはじめましたが、下手だった
のでよく枯らしました。サボテンはあまり水をやってはいかん、というので少しずつ
やるようにしていましたが、これは突然ぐしゃっと枯れるんですね(笑)。そうなっ
たら、量販店のナフコとかに走っていって安いのをまた仕入れてきたりしていました。
また、環境を教えるためには、自分なりの環境についてのしっかりした理念を持た
なければ、授業に魂が入らないだろうと思いました。その当時、私が非常に気に入っ
た本が、北野康さんの『化学の目で見る地球の環境――空・水・土』裳華房、1992年)
でした。隕石の中に46億年前の宇宙の痕跡が入っているなんて、わくわくしましたね。
薄い本ですが、授業に使うには難しい本でした。
8.地球に住む者としての礼儀作法
国境とか宗教とか文化とかいうけれども、それより前に地球に住む者としての礼儀
作法というものがあるのではないかと思います。いまの環境破壊とか戦争とかの現実
を見ると、その基本的礼儀を忘れてしまった「人類の限界」のようなものを感じます。
それをブレークスルーする道を探さなければ解決はありえません。ですから「持続可
能」ということこそがキーワードになってきます。これが『生活環境論』でめざした
ところです。このことについて、内山節さんはこう言っています。「だから今日の共
同体への関心は、過去への思いとしてではなく、未来への探求として展開していくこ
とになった。自然と人間が結びなおし、人間と人間が結びなおしていく。そういう社
会のあり方を共同体としてつかみ直す意識が、広く展開するようになったのである。」
9.楽しくて仕方がなかった共通教育の8年
大学の改組・法人化の流れの中で、私も、専門とは違う科目を担当しなければなら
なくなり、共通教育の担当者になった人たちに声をかけると、自分の専門ではないか
ら、と辞退される方が多かったですが、私は、全体の世話人でしたから仕方なく片っ
端から引きうけていました。「地域学」「キャリアデザイン」「インターンシップ」
「ボランティア」等々の科目です。
まず「地域学」です。これは、何のためにやるかというと、高度経済成長をへて、
人間としての充実感を、共同体のなかで感じることがひじょうに難しくなってきた。
人間と自然のあり方を問い直して、人間としての疎外感を充実感に変えていくために
は、どのような取り組みをこれからしなければならないか。それを考えるためには、
これまでの歩みを懐かしがるのではなくて、文明史的に捕らえ直していかなければな
らないんです。授業ではそういう深い意図をなかなか言えませんから、山口県のどこ
そこでは何があった、というような表面的な事例紹介に終わりがちですけれど、そう
ではなくて、未来に向けて「地域」がどのようにあるべきかを、問い直すというのが、
この科目の目指してきたところです。
「地域学」では、学長特別補佐の三好猛先生に助けられました。三好先生は、理論
的なレベルが高く、非常に温厚な方で、もと県の総務部長で実務能力がものすごかっ
たです。私は自分には実務能力がある方だとうぬぼれていましたが、桁が違うんです
ね。しかも、私からみると、三好先生の提案されることと私のイメージすることが80%
ぐらいオーバーラップしていると感じていました。三好先生の提案をすぐに「はい、
そうしましょう!」と答えられたのは、何も考えていなかったからではなかったんで
す。一人でやる授業も悪くはありませんが、他の人たちのいいところから学ぶという
ことが大切です。人の悪いところを指摘するのはつまりません。いっしょにやってい
いところを学びあうんです。そうやって、三好先生と、5年間ごいっしょして「地域
学」の制度設計のところから実際の展開まで、いっしょに次々にものごとを進めてい
くのが本当に楽しくてありがたかったんです。
担当していた「生活環境論」も楽しいし、「地域学」もいまお話したように楽しく
て仕方がない、そして、もっと楽しかったのが、「キャリアデザイン」の科目でした。
始めの2年ほどはなかなか調子がつかめませんでしたけれど、平成20年からの5年間は、
もう楽しくて楽しくて仕方がないほどでした。人の成長そのものと向き合う授業なん
ですね。これは本当に大切な科目だと思いました。大学の授業をパソコンのソフトに
例えると、じつに多彩なソフトのように、多くの科目がありますけれど、この「キャ
リアデザイン」の科目は、他のソフトが動くための基本ソフト(OS)的なものだと気
付きました。ですから、土日も大学にきて、研究室にこもってなるべく人と話をしな
いぐらいにして勉強を続けました。この5年間は、もう死んでも良いとおもうほど楽
しかったです。「給料もらってて良かっちゃろか?」と正直思ったぐらいです(笑)。
しかし、こんなに大切な「キャリアデザイン」科目の受講学生の割合は、残念なが
ら6人に1人ぐらいでした。私がやめたあとも、こんな重要な授業を今後、非常勤にま
かせるようではいかんと思います。また、学生に課題を与えたり発表させたりもする
ので、普通の座学の90分の枠では入りきらないことが多かったのです。人生に役立つ
ような学びをゆっくりと伝えるのが適切な内容もあるため、例えば120分ぐらいでき
るようなフレキシブルな時間設定があっているかもしれませんね。さらに、教員同士
が和気あいあいと自分の考えを述べるような、共同で担当する授業であってもいいか
と思います。人間60年も生きてくれば、いろいろな経験をしていますから、誰でもこ
の科目は担当できるはずだと思います。ですから、できれば60歳をこえたいろんな先
生が生きた教材となって、互いに言いたい放題で進めて、学生と教員の距離を縮める
ような仕掛けがこれから必要でしょうね。
そのほかに、「インターンシップ」では人見英里先生に助けられ「ボランティア」
ではほとんど藤田久美先生におまかせした状態で教室の後ろに座っていました。これ
らの授業を通して、大学内での勉強はもちろん大切だけれど、やっぱり外に出て行く
こと、地域の教育力を活かすことも非常に大切だなあ、ということに気付かされまし
た。
18 歳、19歳の学生たちは、自分が何をしたら良いのかわからず、不安だという意
識をもっています。実践経験が少ないし、また、発展途上でもあるから、自分が何を
したら良いのか分からないのです。そこで、「やりたいと思ったことはどんどんやり
なさい。考えるんじゃなくて、まず行動しなさい。」と言いたいですね。考え込んで
ばかりいないで、まずはやってみて、その結果から判断したらどうですか。それは実
験と同じで、体を動かすことが先で、気付きがあと。小さな自己を分析するだけでは
なくて、外にでて実践を通して自己を大きくしていく方がはるかに現実的で、たくま
しく育つと思います。このやり方について、首をかしげる学生たちもいます。これに
ついては、学生と教員がもっと胸襟を開いて、十人十色の学生たちの思っていること
を、教員と共有していけばいいのではないか、と思っています。
以上が、共通教育担当時代の私の心象風景でした。皆様からは、憎まれたり、いつ
も苦虫をかみつぶしているようにみえても(笑)、私自身は楽しくて楽しくて仕方が
ありませんでした。
おかげさまで、この30年間あまり、この職場で働かせていただき、また家族全員が
つつがなく暮らすことができました。ほんとうにありがとうございました。
10. 「笑顔のヒロちゃん」と言われる未来をめざして
退職後のこれからのことは、まだ始まっていませんので、現在は白紙です。これま
でいま申し上げた5つの分野で、いろいろと修行したり踏まれたりしてきました。
これからは、私は、勉強したくても諸事情によりできない若者によりそっていくよ
うなボランティアをしてみたいなと考えています。そして、それを始める前に、でき
たらコンビニのセブンイレブンででもアルバイトの修行をさせてもらって、いい笑顔
とサービス精神を身につけて、「笑顔のヒロちゃん」といわれるようになってから(
笑)、微々たる力ではありますが、社会とつながり、お役にたちながら死んでいきた
いと思っています。(拍手)
11.フロアからの声
社会福祉学部の学生がまず発言しました。
「松尾先生の授業をとった6人にひとりの学生です。専門の授業で、どんどん知識
は増えても、なにか満たされない気持ちでいたとき、『キャリアデザイン』とか『地
域学』の授業を受けられたことは、自分の成長にとって本当に良かったと感じていま
す。松尾先生、ありがとうございました。」
司会の赤羽教授の指名により、家族を代表して三男の衛さんからのねぎらいと感謝
のメッセージがありました。
終わりに、江里健輔学長・理事長の言葉がありました。
「私が赴任したときは、松尾先生は、共通教育機構長で、これはご自分の専門とは違
うし、辛い立場の仕事だろうなと思っていました。しかし、今のお話をうかがって、
楽しくて楽しくて仕方がなかった、とうかがって、私は涙がでるほどうれしかったで
す。よい教員とは学生にたくさんの御馳走を準備できる人ということではないかと思
います。そして、松尾先生はそうした御馳走を実にたくさん準備してくださった。こ
れから山口県立大学は永遠に続きます。そしてその教職員は、学生達とともに、輝く
一番星を探し続けていきます。本当にありがとうございました。」
盛大な拍手のあと、バレンタインデーのチョコレートと持ちきれないほどの花束が
贈られました。国際文化学部長の岩野雅子教授は、「キャリアデザインが国際文化学
部の学生にとっては、とくに大切な科目であるという認識で、履修を強く勧めるよう
に新しいカリキュラムを作っています」という感謝の言葉を花束に添えました。
講義後、共通教育の事務室では、歓談がしばらく続いて松尾洋教授との別れをおし
んでいました。
会場に駆け込んでみたら、おもしろかったので勝手に書きとめた人
(ここに掲載するにあたっては御本人の校閲と了承をいただいています)
公立大学法人 山口県立大学
地域共生授業担当
教授 安渓遊地(あんけい・ゆうじ)
〒753-8502 山口市桜畠3丁目2番地1号
山口県立大学国際文化学部
おまけ
大学の教職員のMLでシェアしたら、事務職員のおひとりから 以下のような感想がと
どきました。
松尾先生の講義メモ、ありがとうございます。
内容も書き起こし方も素晴らしくて、涙がでそうになりました。
当日、何度か会場近くを通りがかったのですが、仕事の都合で参加できず、
会場外に置いてあった配布資料をこっそり持って帰ったり、
記念撮影の様子を見かけたり、と不審な動きをしていました。
息子さんに「衛」と名付けられたお話は、以前松尾先生から伺っていたのですが、
その衛さんご本人も来られていたのですね。
あらためて素晴らしい講義のシェア、ありがとうございました。
