音を楽しむ)幻想即興曲 Ⅰ(昭和20年、内モンゴルでバイオリンに出会った母の日記)
2024/12/09
2024/12/09 訂正 この日記の5年後に『主婦の友』の「婦人の実話」に入選して発表された冒険譚「がむしゃら人生」https://ankei.jp/yuji/?n=2314に合わせて、ベルギー系の哲学修道院の院長のお名前を、常守義先生に訂正します。日記ではあいまいだった記憶を原稿として書く時は、応募のことは言わなかったとしても、必ず夫に確認しただろうと思うからです。
2015/09/26 改訂 地名を追加しました。
2016/03/31 訂正 年号が1年ずれていました。タイトルも交響曲にまちがえていました。
2024/01/30 訂正 ダルハン旗 → 厚和 に訂正しました。
私が物心ついたころには、毎日バイオリンの練習にあけくれていた母の日記の中に、こんな一節をみつけました。わが家のバイオリン熱のルーツが中国大陸での経験にあったことを彼女は生前語りませんでしたが、次の一節が彼女の切なる願いを示しています。
題して「幻想即興曲 Ⅰ」
……ありがたう院長さま。私はもう悲しみません。貴方のそのバイオリンは、バイオリンをかなでて下さったやさしいお心は、いつでも、いつまでも、私に希望をもつことを教へていてくださるでしょう。太々(タイタイ)は言葉に出せない感謝の目を柔らかな院長の面ざしにそそぐのだ。そして十二年。芙太々は今二人の息子と共に懸命にバイオリンを習っている。慕母に悲痛した若い日の自分と、慰めてくれた常先生のやさしい心をなつかしみ乍ら。そしていつの日にか二人の子供達が音楽を味わえることの尊さを体得できることを祈り乍ら。
昭和20年、私の両親は内モンゴル、厚和(今日のフフホト)に住んでいました。母は、どうせ負けるとわかっている戦いに動員される日本での生活にいやけがさして、ひとり内モンゴルまで行ったのに、そこでもまたヒコクミンと呼ばれてしまいます。その悲しみを、僧院の院長さまがバイオリンでいやしてくださいました。院長さまの下の名前は記憶がさだかでないらしく、本文中の字が定まっていませんが、中国人の神父様で、僧院の中ではラテン語で話しておられたとのことです。ここでは初出の名前に統一してあります。添付のpdfファイルは、もとのままですので、以下に全文をはりつけておきます。
幻想即興曲Ⅰ 安渓芙美子
ポプラ木立にかこまれた中国の奥地にある大きな修道院。常宋我先生はこのカソリック修道院の院長だった。そして芙太々(タイタイ)は修道院の教師をしている日本人の妻君、彼女は女性だから修道院の中には入れない。夫の安先生は日本人だからという特権は何につけ行使することをいやがった。彼女はもう八ヶ月もの間、一度も建物の中へは入らず、外塀に接した番人小屋のような住居に起臥していた。戦争はもう終わりに近い。芙太々は毎日夫と一緒に竹槍かついで日本人小学校の庭へ「くんれん」にゆく。惨めな竹槍ダンス、馬鹿馬鹿しくなって途中で止めると居留民団のヒゲが詰らぬ顔を怒りに赤くして「ヒコクミン」と怒鳴る。ああもう竹槍ダンスより外に国民というスグレた代物にはなれない時節なのか。
太々は悲しくなって泣く。ご飯を炊くのもいやになる。乾上がった安先生はムクレてどこかへいって了う。ああ、こんな異国の涯になど来るのぢゃなかった」。優しい母の面影が胸の底に漲る。腹も充たさず、喉も露さず、太々は大きな赤毛の犬の背に滂沱の涙。ものいはぬ異国の犬だけがあたたかな思いをゆったりした図体にただよわせて空しい太々のこころをあたためてくれる。
「太々、ションマース?」不図ふりむくと常守義院長。
「? ?」芙太々には中国語不明白。「フンフン」、院長さんはうなづいて地面に字をかく。「慕母?」 ええ、そうなの、お母さんに会いたい、お母さんお母さん、慕母、ああ本当に慕母なの、お母さん、お母さん、お母さんどうして私こんなところに来て了ったのでしょう。もう何もかもいや、お母さんお母さん、お母さんに会いたいよう、お母さん、おかあさあん、太々は自省心もはづかしさも忘れて、お母さんででもあるように常先生の胸に顔を埋めてお母さんお母さんと泣き叫ぶ。小柄な常先生は優しく背中などをなでていたが、そのまま手をひいて建物の中へ彼女を案内する。「女人禁制」の掟が乱れた太々の頭を掠める。彼女はおそれて立ち止まる。「没関心、来来」かまいません。よっていらっしゃい。院長先生は居間の小卓に彼女を座らせて、どこかへ出かける。
「アッ、バイオリン」 やがて出てきた先生の右手に抱えられた一丁のバイオリン、
「そうバイオリン」 先生はゆっくりケースを開くと暫く目を閉ぢ、思いを調える。流れ出した調べ、高く、低く、ゆるく、はやく、技𠈓も優れ音色も豊かに、先生はいつまでもひきつづけていた。かなしみにあれ狂った芙太々の心もいつしか和み、不図生きるよろこびにも似たおもひが芽生える。
ありがたう院長さま、私はもう悲しみません。貴方のそのバイオリンは、バイオリンを奏でて下さったおやさしいお心は、いつでも、いつまでも、私に希望をもつことを教えていて下さるでしょう。太々は言葉に出せない感謝の目を、柔らかな院長の面差しに濺ぐのだ。そして十二年。芙太々は今、二人の息子と共に懸命にバイオリンを習っている。慕母に悲痛した若い日の自分と、慰めてくれた常先生のやさしい心をなつかしみ乍ら。そしていつの日にか、二人の子供達が音楽を味わえることの尊さを体得できることを祈りながら。
解説。これは、『バイオリンのために――母と子の記録』と題された、一九五六年十二月二日の母の日記に挿入された思い出です。時は昭和二〇年、場所は、内蒙古の厚和の町。今日のフフホトでした。(安渓遊地)