ルーツ)幕末維新長州真宗僧の新資料――地方の密偵としての香川葆晃の事績を中心に
2025/04/03
山口県立大学大学院研究報告 に書きました。
Keywords: 幕末維新、長州僧、浄土真宗、密偵、香川葆晃
はじめに
幕末の長州藩で倒幕の最前線に立った浄土真宗本願寺派の僧たちがいた。明治維新後は廃仏毀釈の嵐を押しとどめるために力をあわせた彼らの中で、島地黙雷(しまじ・もくらい)、大洲鉄然(おおず・てつねん)、赤松連城(れんじょう)、香川葆晃(ほうこう)の四人は「仏教界を守った維新四僧」あるいは「長州四傑僧」と呼ばれた(Ankei他、二〇一二、安渓・安渓、二〇一一)。この中で、香川葆晃は、筆者の母方の曾祖父(母の母の父)であり、龍谷大学の前身の大学林綜理を勤めた人物でありながら、これまでに残された史料は非常に少ない。
写真1は、皇居三の丸尚蔵館が所蔵する「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』」のうちⅡ類-6「神官僧侶」に収録されている上記四僧の写真である。
長州藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して、はげしく対立しているとき、海防僧と呼ばれた月性(げっしょう、一八一七〜一八五八)の遺志をついだ真宗僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい、と元龍谷大学教授で防府市富海円通寺の住職でもあった児玉識(しき)師は指摘し、具体的な史料を発掘して研究を進めた(児玉、一九七六、二〇〇五など)。
この報告では、葆晃の生まれた新潟県上越市の寺と住職となった山口県周南市の寺を訪れて、幕末から明治にかけての足跡を追った結果を踏まえて、幕末の『奇兵隊日記』および『毛利家文庫』で葆晃と考えられる人物が登場する文書の内容を検討する。
一、『仏教大辞彙』に見る香川葆晃の足跡
明治四一(一九〇八)年に現在の龍谷大学の前身である仏教大学で『仏教大辞彙』の刊行が企画された。大正三(一九一四)年から大正一一(一九二二)年にかけて刊行された四五〇〇ページを越える大著である。その中に「葆晃」の記事がある。昭和九(一九三四)年から昭和一一(一九三六)年にかけて刊行された『真宗大辞典』にも「香川葆晃」の記事があるが、内容は前者の抜粋である。
まずは、その内容を読み下してみよう。新漢字を用い、適宜[かっこ]の中に筆者の注釈を入れる。
ホウコウ 葆晃 真宗 本願寺派の勧学[学僧の学階の最上位]。初の名は大証、緇渓[しけい]と号し、香川を姓とす。越後中頸城郡竹直村[現在の上越市]真照寺に生まる。十一歳富永某に就て漢籍を学び、十四歳笈[きゅう]を会津に負ふ[親元を離れて勉学]。十九歳上京して本山の学林[京都東中筋花屋町上ルにあった西本願寺の学校]に懸籍し、苦学励精業大に進む。安政四[一八五七]年剃度。文久三[一八六三]年七月、得業[学階の最下位]を授けらる。当時国内内患外憂交〻起り幕府策の施す所を知らず。晃、資性剛毅、黙視するに忍びず。乃ち天下の志士と交り陰に陽に王事[勤王]に尽す。為に幕府の忌憚に触れ、捕吏の追躡[ついじょう、追跡に同じ]する所となる。葆、吏前に刀を抜て盤上の鉢を裁破して曰く、余を捕へんとする者は、亦斯の如けんのみと。吏、恐れて逡巡す。是に於て悠然として去る。然に其後、吏の為に欺かれ、縛せられて六角の獄[中京区六角通神泉苑町にあった牢獄]に投ぜらる。仍て[おって]一夕水門を潜りて脱獄し、長門の萩に走る。会〻[たまたま]同地に僧風改正の挙ありしを以て之を扶く。明治元年二月藩士の勧めにより周防富田[とんだ]の善宗寺[ぜんしゅうじ]に入山す。茲歳[このとし]鉄然、黙雷、連城等京に上りて本山改革を企つるや、晃、亦其議に与り、尋で[ついで]上洛して、尽瘁する所あり。已にして業、漸次其緒に就き、翌年七月本山より白銀五枚、輪袈裟一領の賞を受く。此冬東京に赴き、官の当路者[有力者]を訪うて宗政上の私見を陳ぶ。尋で一宗の行政に参与し、真摯事に従ふ。十年五月、二等執事となり、翌年三月議案局制規部委員長を拝命す。尋で特選会衆[とくせんえしゅ、本願寺の議会である集会=しゅうえ=の議員のうち、法主が任命する者]に補せられ、又執行[しゅぎょう]兼教務局長に任ぜらる。十七年、本山の職制更改の事あるや、二等執行兼興学局長となる。二十三年二月執行に任ぜられ、八月大学林[龍谷大学の前身のひとつ]副綜理本務取扱となり、翌年八月、同綜理を拝命す。爾来専心育英に従事し、恩威並び垂れて学徒を悉く悦服せしむ。二十八年其功に依りて香色衣体[こうしょくえたい]着用の恩典を蒙る。茲歳安居[あんご、元来は僧が雨季に托鉢を休んでする勉学の集会]に選択集を副講す。翌年顧問上首[法主の諮問機関の顧問会議長]に補せられ、三十年大学林綜理を辞して鹿児島別院輪番に赴任す。同年秋病を得て帰京するや、宗主、憂慮して措かず、直に侍僧を病床に派して慰問せしめ、又特に某医に命じて診療を加へしむ。是より先、同十五年学階輔教を受け、二十三年司教に進みしが、是にいたりて更に勧学を授けらる。十月十三日終に寂す。寿八十四。円珠院と諱す。後、同四十二年一月特に生前の偉功を追賞して特別賞与甲種を贈らる。
『仏教大辞彙』のこの記事が、香川葆晃の経歴の標準となって参照されている。例えば、国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00487644)には、「香川、葆晃、カガワ、ホコウ、一八一五〜一八九八」と載っている。しかし、いくつかの疑問がある。ひとつは、没年は日付まで明らかであるが、生年が明らかでないことである。さらに、京都の六角獄舎に入獄および脱獄して萩に逃げた時期もはっきりしない。慶応四年の、九月からは改元して遡って明治元年となる二月に善宗寺に入寺するまでの活動も、鉄然らの僧風改正の挙を助けたとあるのみである。
海防僧と言われた月性の私塾である時習館(清狂草堂)を柳井市遠崎に訪ねると、時習館に集った人々という展示の中に香川葆晃が入っている。月性は、安政五(一八五八)年に亡くなっているから、その前年に剃度して京都で修行中の葆晃が、月性の教えを時習館で受けることは難しかっただろう。しかし、安政三年に月性が大谷広如法主の招きで、本山に数ヶ月にわたって滞在し、後に『仏教護国論』となる文章を執筆した折には、学林の血気盛んな学生であった葆晃が、月性に面会してその勤王思想の影響を直接に受ける機会はあったものと考えられる。
二、山口県周南市の善宗寺訪問・香川葆晃の系図を見る
こうした疑問をいだいて、幕末維新の真宗僧の研究をしておられた防府市富海円通寺住職の児玉識先生の案内で、香川葆晃が住職であった政所山善宗寺[まどころさんぜんしゅうじ]を周南市に訪ねる機会を得た。二〇〇九年の三月のことであった。広壮な境内には「円珠院釈葆晃和尚」と彫られた大きな石碑があり、裏には「明治三十四年立之」と刻んである。いただいた寺の案内文には、「寛永二十[一六四三]年、第八代住職順真のとき、毛利輝元公の夫人、清光院殿の位牌が善宗寺に預けられて以後、毛利家とのつながりも深くなり、輝元公の次男・徳山藩主就隆公よりは、三十石の知行が扶持されたとも伝えています」と記されていた。
「葆晃のひ孫にあたります」と筆者が名乗って前住職・香川知行師に教示をお願いしたところ、秘蔵の「周防国富田 政所山善宗寺系図」その他の史料の閲覧を許された。その中で、長さ一〇メートル近い巻物の系図が目を引いた。これは、昭和一八年に山口県立大学の前身の山口県女子専門学校の校長に就任した善宗寺第一八世住職の香川静爾(一八八六〜一九六八)が作成したもので、その中の最も新しい記事は、昭和四一(一九六六)年の静爾師の叙勲の記事だった。そして、系図作成のための下書きとして少なくとも三種類の草稿が保存されていたので、それも見せていただいた。ひとつは、筆で『仏教大辞彙』の本文の平仮名を片仮名に変えて清書して、そこに万年筆で細かく追記したもの、いまひとつは、その両方を、日記の用紙に書き下したもの、そして最後は、罫紙に清書したものである。なぜかすべてが〝真宗大辞彙〟からの抜粋とされていたが、『仏教大辞彙』の誤記かと思われた。これらの下書きには、上記の「系図」では割愛された記事があるので、まずは、草稿から紹介したい。
その中で、善宗寺の第一六世住職であった葆晃についての記事は、やはり『仏教大辞彙』の記述をもとにしたものであった。ただし、いくつかの追補と訂正があり、とくに大きな違いは、葆晃の享年が八四歳ではなく、六四歳となっていることであった。
ところが、系図作成のための草稿の一番古いものと思われる香川葆晃の事績を和紙に毛筆で書いたものの冒頭を見ると、小さく添え書きで「天保九[一八三七]年正月生」と書かれていることが確認できる。その後の原稿や系図そのものの最終版には採用されなかったものの、これに従うならば、葆晃が没したときの年齢は数え年六一歳となるはずである。
以下は、『仏教大辞彙』には収録されていないエピソードである。
一夕旗亭に於て幕吏と議論し雨中吏の為に二階より庭上に擲下されて尚ほ腕力には屈するも議論には屈せずと傲語し雨に打たれつゝ動かざりしと。・・・・・・
かくて萩に入るや幕府の間諜なりと怪しまれて又野山の獄につながる。晃は獄中にて写本写経に日を送り史記を読むこと三度に及ぶと。かく一両年の在牢の間に嫌疑も晴れその人物をも認められ明治元年二月藩の勧めにより善宗寺を嗣ぐ。・・・・・・
この頃王政維新と尊王論に便乗して寺門の支配より(明治元年二月僧侶の諸神社の社務に服することを禁止す。明治二年十一月寺院整理令公布)離脱することを得たる神道家は時こそ来たれと廃仏毀釈の運動を起こし 政府を動かして仏教圧迫に乗り出し 先づ神道を国教の如く取り扱はしめ 僧侶を神職の下風に立たせて 神に奉仕せしめ 拍手を習はしむるに至れり。かくてこの波紋は全国に拡がり 我が徳山藩の於ても寺院併合の議起り 藩内の寺院を全部徳山岐山[きさん]々麓に移転を命じ その第一着手として藩内最大の伽藍なりし善宗寺本堂を大寂浄院と称せしめ 是を本坊としてその両側に諸寺院を併置し 寺町を造る計画の下にその移転を命じたり。・・・・・・
明治元年冬 葆晃は鉄然、黙雷、連城等と共に東京に赴き 各宗代表と共に時の要路に迫って廃仏毀釈の運動の暴挙たるを詰りその謬見を正し 説得尽力すること数ヶ月 遂に政府をして明治五年神祇省を廃し 教部省を置き 神仏分離し互いに相侵すことなからしむると共に 教導職として相携えて社会教化に努ることゝなりしも(この間晃は中教院少教正管事に任ぜらる)仝八年四月に至るや神佛合同布教を止め同十月教部省を廃止し教導職は政府の干渉を離れて自由に教化に従事することゝなれり。(ちなみに善宗寺本堂は解体の岐山々麓に堆積して風雨に晒さるること三、五年、漸く富田に引戻されて再建に着手して明治十一年漸く再建の工を終へたり)・・・・・・
「大学林総理を任命されるや、大学林の黌舎の改築を企画し、当時として初めて見る英国式の白亜の建物が京都に出現し、「東に慶応あり、西に大学林あり」と喧伝せられしと云ふ。・・・・・・
恰も此時明治天皇京都に駐輦せられし機会に内秘侍医橋本軍医総監[橋本綱常、一八四五〜一九〇九]に懇請して晃の診療を委嘱せられし等又以て宗主の親任の厚かりしを察せらる。晃又詩書を善くし緇渓又夢影と号し警世子とも称し屡々宗主の作詩の批正を嘱せられたりと云ふ。
これらの草稿をもとにした系図には、草稿にないことも書かれている。まず、野山獄への入牢の期間が、「一両年」ではなく、「両三年」に延びている。それ以外にも系図であるから家族のことが付け加えられた。善宗寺第一五世住職円順(生没年不詳、体が弱く四〇歳ほどで死去)の妻で、天保九(一八三七)年生まれの綾と結婚。このとき善宗寺には円順の側室(萩出身)の子で、のちに善宗寺第一七世となる則麿がいた。則麿は万延元(一八六〇)年一二月生まれであるから、この時数えで九歳である。明治五年に葆晃と綾との間に卓爾が生まれたが、則麿が学んだのと同じ豊前遠崎の東洋師学寮で勉学中に明治二九年、二四歳で溺死したと記している。系図には載っていないが、その下書きには、卓爾の前に「某」、則麿の前にも「某」と書いてあるので、どちらにも早逝した兄か姉がいたのだろう。そして、系図の最後の行に、「晃 有側室 ヨネ 一男三女 テイ ヒデコ 宗一 ヒサ」と記されていた。二女のヒデコ[本人は秀子と書いていた]が、安渓遊地の母の母にあたる。三女で神奈川県に住んでいた讃井久から香川静爾あてに、系図調べに協力するために古い戸籍謄本を送った手紙も保存されていた。
葆晃は、ほとんど山口の善宗寺にはもどらず、廃仏毀釈との戦いをはじめとして本山での仕事に多忙をきわめた。そんな葆晃の京都での生活を支えた女性がヨネであった。戸籍によれば、ヨ子(ヨネ)は安政三[一八五六]年八月晦日生まれ。葆晃の「妾」として入籍したのは明治一一[一八七八]年一月一二日、ヨネは二三歳であった。おそらくこのころ長女テイが生まれたものであろう(後述)。しかし、葆晃の死亡後につくられた戸籍には、すでにテイの名はない。その次の、遊地の祖母であるヒデコは一〇年以上の時をおいて明治二三年三月に、宗一は明治二四年八月、そしてヒサは明治二六年一一月に誕生している。葆晃が亡くなった明治三一年一〇月には、三人ともまだ幼かったのである。
また、善宗寺には、葆晃自身が、牢獄にあった時のことを語ったという証言が書きつけられた冊子が保存されている。安居での講義の原稿を綴じたものであるが、その表と裏の表紙に、以下のような毛筆の文章がある。ただし、入牢の時期や場所については書かれておらず、ただ「御維新前」とあるだけである。脱獄者がこのような冊子を持ち出すことはなさそうであるから、京都の六角獄舎ではなく、釈放された萩の野山獄中で書いたものと推定しておく。
表紙「此は拙者が牢中にて書きしもの君に付与とて香川師が円観老に手渡したるものなり 他冊は紛失 惜がなりと云ふて余に譲る 蓮光寺住職 桂宗謙 昭和三年明治節」
背表紙「此の冊子は昭和三年明治節に林円観老師持参して余に与ふ 是は香川葆光師御維新前入牢の時牢中にて記せしを円観我が直に拝受したりと云ふ
二伸 円観は高森町[現在の岩国市周東町]明専寺前住職当年八十八ヵ九ヵ 昭和十一年九月十七日」
島地黙雷についての評伝を著した村上護は、香川葆晃の京都六角獄舎からの脱獄は、元治元(一八六四)年七月の禁門の変のどさくさに紛れてだったのではないかと書いたが、特段の根拠を示していない(村上、二〇一一、一二〇頁)。この時、長州藩の急進派の久坂玄瑞らに率いられた緒隊が挙兵して破れ、久坂も自害する。みずから藩邸に火を放った長州藩邸の侍たちは、西本願寺に逃げ込んだ。京都の二万七五〇〇戸が焼失する大火の迫る中で、前年一〇月の生野事件(後述)で六角獄舎に入牢していた平野国臣(くにおみ)ら三三名の未決囚が斬り殺された。
京都の六角獄舎を脱獄して萩に逃れた葆晃は、長州藩士によって幕府の密偵の疑いをかけられ、野山獄に入れられてしまったと善宗寺第一八世住職だった香川静爾は書いた。そして「葆晃の以後の行動は詳らかでない。やがて黙雷とは盟友になるわけだが、どんな事情で出獄したか分からない」と村上(二〇一一、一二〇頁)は書いている。
三、新潟県上越市の真照寺訪問・葆晃の甥は高嶋米峰
生年や入牢の時期と期間など、解決できなかった疑問を残して、二〇〇九年三月、葆晃が生れた新潟県上越市竹直の真照寺へ向かった。一面に水田が広がる中に美しい独立峰の米山が横たわる景勝の地に寺はある。高齢の住職の高嶋正士師と奥様が暖かく迎えて下さった。以下は、高嶋師のお話といただいた資料の内容である。
まず、真照寺の沿革には、葆晃の享年は六一歳と印刷されていた(高嶋、一九七九、三九頁)。これが数え年なら、善宗寺の系図下書きの「天保九年生」と合致している。
明治始めにこの寺の住職となっていた高嶋宗明は、米山から妙高山の間では並ぶ者のない高僧として聞こえていた。そして、葆晃はその弟であった。明治八(一八七五)年、宗明六四歳の時に生まれた初めての男の子がいて、大円と名付けられた。この子が九歳になった明治一六年、本山の巡教使として新潟県に出張してきた弟の葆晃に対して、宗明はこの大円を京都に連れ帰ってりっぱな坊主にしてくれ、と頼んだ。この子が葆晃の家で一七歳まで生長し、のちに新仏教運動を展開し東洋大学学長もつとめた高嶋米峰(一八七五〜一九四九)となるのである。以下、いただいた『高嶋米峰小誌』から抜粋する。
米峰は、京都新町通りの香川葆晃の家から文学寮(後の龍谷大学)に通学していたが、夕方香川家の幼児を抱いて、よく文学寮々舎の門前に来て、そこに集合した大学生たちと歯切れのよい弁舌をもって議論をしていた。……「あのころは実に辛かった!」と後に米峰は自分の青春のみじめさを語ったが、実際京都に移ってからの辛苦は非常なもので、おちおち物を食べたことさえなかった。叔父葆晃の夫人は後韓国統監になった曾禰荒助の姉で非常なやかましい人であったからである。夜勉強していても「大円さん、いつまでもあかりをつけて起きていてはいけません。はやく寝なさい」と厳命する(高嶋、一九七五、六〜七頁)。
ここに登場する「非常なやかましい人」というのは、毛利家の武道にたけた「側室ヨネ」に違いない。曾禰(そね)荒助は、嘉永二(一八四九)年に長州藩家老職の宍戸潤平の三男として生まれ、フランス留学後は日露戦争時の大蔵大臣などを歴任して、一九〇九年から一〇年まで第二代韓国統監(正式名称は単に「統監」)をつとめ、その年病没している。前任は伊藤博文、後任は山口県立大学のある山口市宮野ゆかりの寺内正毅(一八五二〜一九一九)だった(井竿、二〇一一、一六四頁)。ヨネが前述のように安政三(一八五六)年生まれであるからには、文中、曾禰荒助の「姉」は「妹」の錯誤であろう。厳命することば「はやく寝なさい」は、おそらく米峰の翻訳で、遊地の母・芙美子(大正一三年当時五歳)の耳に残るヨネ(当時六八歳)の口癖は「早う、ぎょしなされい」だった。
以下は、芙美子が脳腫瘍でなくなる半年前に書きあげた手記「記憶のあるうちに」の中の祖母ヨネの思い出からの抜粋である。「おやめなされ! それは人の首を切る時の音じゃ」とヨネが言ったと芙美子は繰り返し語っていた。
祖母の家は毛利の次席家老というものであったらしく、一番心に残ることは次の様な話。或日、祖母が庭に面した小部屋でお習字をしていると、突然庭でバシッという鋭い音が聞こえ、思わず立ち上がり障子を開けてみると、寅次といわれていた中間の首がコロリと庭の苔の上に転がり、父親が刀の抜身を右手に下げ「見るでない!」と怒声をあげたので祖母は驚き一計駆けて台所に行き、泣きながら母に縋りつくと、母親は優しく祖母の背を撫で「理助は打首にされたのであろう」といわれた。お婆様は打たれたのが理助か正衛門か見分ける暇もなく駆け込んだので、母親への返事は出来なかったとの事である。後々の話であるが理助という中間は父の気に入りだったが、幾度も金銭を誤魔化し、その上女中を手当り次第孕ませる悪党だったので、祖母の父の勘気に触れ、打ち首にされたとの事だった(安渓芙美子、一九九九)。
晩年を葆晃ゆかりの西本願寺の近くで過ごしたヨネはこのあとまもない昭和二(一九二七)年一月二五日、宇治の五ヶ庄で亡くなっている。
四、慶応元年九月『奇兵隊日記』中の宗淵と葆光の密偵報告
幕末から戊辰戦争にいたるまでの長州藩の緒隊の記録を集成した『奇兵隊日記』(田村哲夫校訂、一九九八)は、刊本で本文二〇〇〇頁近くあるのだが、下巻の「叢書第二」の慶応元(一八六五)年九月の記録に、「宗淵 葆光 謹白」という文字がある。刊本の三〇四から三一〇ページまでが本報告で、そのあと三一九ページまで追加の報告が続いている。その内容は、同年八月に再度の密偵として収集した資料と、同年二月に遡る、伝聞資料による情勢の報告である。
報告は「覚書 去七月廿五日再度上京儀蒙命即日発途、八月八日着坂」で始まっている。そして、以下のように各藩の軍備の整えぶりを報告する。
「一 幕府を始メ諸藩より間偵之者二州へ続々相遣ハシ候由」と防長二州に送り込まれた密偵のうち、土佐藩の密偵が京都山崎で捕らえられたという情報である。その次は東本願寺が兵を出して幕府に協力しようと申し出たが断られたこと、奇兵隊第三代総管で、月性にも師事した悲運のリーダー赤禰武人(一八三八〜一八六六)が久留米藩士・淵上郁太郎(一八三七〜一八六七)とともに、四月に浪華で捕まったこと、刑場で梟首された者たちの氏名と年齢、前年(禁門の変のさなかに)興正寺で捕らえられた金剛隊の僧五人とその従者一人は、寺からいろいろお願いしても釈放されず、一人は獄死したことなど、「京坂潜伏中見聞之分奉申上候」というのである。
このように、前年の禁門の変によって「朝敵」とされた長州藩にとっての軍事上重要な情報を中心に、東本願寺の情勢や、金剛隊のことなど、僧ならではの情報も収集している。この「葆光」がのちの香川葆晃を指すことはほぼ間違いない。「葆光」は、葆晃とは少し字が違うが、前述の牢中での筆記録の扉書に「香川葆光師」と書かれていたように、通用する表記とされていたのだろう。宗淵(しゅうえん)は、葆光と同じく浄土真宗本願寺派の僧侶であろうが、ここではまだ詳細がわからない。
報告は「またまた新撰組浪士が[西]本願寺にやってきて、何かの嫌疑があると称して八月一九日に本山の家来である平井嘉平治という者を逮捕してしまいました。……我々のことも自然に発覚するかもしれない情勢となりましたので、やむを得ず八月二六日に京都を出て二八日に浪華を解纜[船出]しました。」で結ばれている。
『奇兵隊日記』の人名索引を見ると、「宗淵(一坂は「そうえん」と読んでいる)」あるいは「葆光」は、この記事で一回だけ登場する人物である(一坂、一九九九)。「再度」の上京なのだから、これ以前にも二人の密偵としての報告書は提出されたはずだが、『奇兵隊日記』の中には収録されていない。
五、慶応元年一二月『毛利家文庫』の中の宗淵と大証の嘆願書
毛利家の歴史記録を書き留めた膨大な『毛利家文庫』が山口県文書館に収蔵されている。その中に、宗淵と大証という二人の僧による藩への嘆願書の写しが「時事便覧」七五―一五六として含まれているので紹介しよう。大証が香川葆晃の幼名であることは、先に見た通りである。『奇兵隊日記』に収録された密偵報告書から三ヶ月後である。
ところどころに「元ノママ」などの注書きを残しつつ、毛利家編纂所の罫紙に写された嘆願書の内容をかいつまんで紹介する。毛利氏が阿保親王の末であることや、石山本願寺と織田信長の戦いの中で、毛利輝元が浄土真宗に支援した歴史から説き起こして、幕府の軍勢が朝敵となった毛利藩に迫る緊迫する情勢の中で、廃仏毀釈に傾く藩の中の意見を逆転させ、主戦論へ導くという内容である。二人の僧が、単に毛利藩の密偵として京坂の情報収集をしたのではなかったことが、ここからわかるだろう。その内容は、一年四ヶ月前の元治元年八月に防長七百ヶ寺が興正寺と西本願寺を通して提出した嘆願書が、朝廷に毛利藩主父子への寛大な処置を願った(時山、二〇一五)のとはうって変わって、仏教寺院を守り、毛利藩を守るという目標のはっきりした嘆願書である。宛先は、「御本殿御役人衆中様」となっている。
この嘆願書以前から、毛利藩内の真宗門徒の武装はすでに始まっていた。大洲鉄然は、高杉晋作(一八三九〜一八六七)が奇兵隊を組織した文久三(一八六三)年に大坂堺の剣道道場を閉じて長州に戻り、上関義勇隊に入隊したもののこれにあきたらず、翌元治元(一八六四)年、諸隊のひとつとして真武隊を結成。これには、真宗僧らも多数加わった。翌慶応元(一八六五)年には、真武隊を再編して南奇兵隊と名付け、さらに第二奇兵隊と改名して鉄然はその参謀となる。大洲鉄然、島地黙雷、赤松連城ら真宗僧侶は、この嘆願書から三ヶ月後の慶応二(一八六五)年三月には萩の清光寺に学校を開校し、フランス式の軍事訓練を開始した(森川、一九七〇、野口、二〇〇六)。
このたび、拙寺両人は、藩主宰相殿[毛利敬親藩主]の内々のご命令をいただき、一身を抛げ出して、京師まで潜入しましたので、左のように申し上げます。
そもそも毛利氏は、阿保親王の子孫であり、陶や尼子を滅ぼして十余州を支配した歴史があります。近年外国船が開港を迫るようになって、朝廷は攘夷を命ぜられました。毛利藩主父子は、天下に先駆けて下関で攘夷を敢行しました。ところが文久三[一八六三]年八月一八日の政変で毛利藩は御所出入りを差し止められ、三千余人が藩に帰国しました。京都三条と浪華の京坂両屋敷の留守居役は、村田次郎三郎と宍戸九郎兵衛[左馬之助]が帰国を命ぜられ、それぞれ乃美織江と北条瀬兵衛がこの任を引き継ぎました。翌元治元[一八六四]年七月一九日の戦い[禁門の変]のために朝敵の汚名を着せられた毛利藩を攻撃するために芸州[広島]に官軍が押し寄せたため、毛利藩では三人の家老を切腹させて恭順の意を示したものの、引き続き官軍の包囲は強まるばかり。
思えば石山の役で本願寺が信長の軍勢に包囲された時、河口の鉄鎖のためにあわや落城という危機に、天樹院毛利輝元公が三百艘の軍船を派遣して、兵糧をお届けくださいました。日本外史などの歴史書にも詳しくは書かれていませんが、石山からはほどなく六百艘をお返し申し上げたことは、籠城の記録にも詳しく載っております。その後関ケ原の役で、賊将石田三成の計略によって、毛利元就洞春公が大敗された時、充満する敵兵の中、興正寺に潜伏され剃髪して宗瑞と名乗られました。こうして、毛利氏は浄土真宗と契約されるはずでしたが、徳川氏からの十万石以上の大名は浄土真宗に帰依してはならぬという布告のために、やむなく、萩の城内の清光院を閉じて城下にあらたに清光院を開かれました。現在は、その末寺が長防二州におよそ八百ヶ寺を数えるにいたりました。
近年攘夷と騒擾の激しくなる中で、僧侶などは天下の遊民であり国の害虫のようなものだと言われるようになり、書を読む藩士の高杉、久坂、桂らは仏寺の破壊と神道の復古で藩論を統一しようとするに至りました。子の歳[文久四年、一八六三年]の正月には、そのことを国[毛利藩]中に布告されました。それを受けて我らは神速でこの布告を携えて上京し、同志の僧[佐田]介石に事情を話して許諾を取り付け、[改元して元治元年]七月末に三条邸へ莫大な進物を贈って善処を依頼しました。西本願寺の御門主様は、直ちに問い合わせの使僧を三条邸に差し向けられたところ、[同年七月]一九日の[禁門の変]の変動は、痛恨のことであり、また[いわゆる七卿落ちの]五卿が御所から禁足を受けた折には、莫大の黄金をいただいたことを感謝されました。我らは、天龍寺と宝積寺に集結した先程の過激の三魁らのことや、[禁門の変の]変動の折には織江以下三十人余の毛利藩士を西本願寺に潜伏させ、九死に一生を得て帰国させる手筈をしたことまで詳しく申し上げました。これで廃仏の動きは沙汰やみとなり、同年四月にはそのことが藩内に布告されました。
その結果、毛利藩内の慷慨の有志の人心をまとめるには、龍谷の宗教に如かずと決議され、[金山]仏乗と[大洲]鉄然の両人に、忠孝説話と尊王攘夷の大義について藩内で説教をするように命ぜられました。ここに至って幕軍が迫りすでに戦闘も開始されているところから、真宗門徒は、真俗二諦の理に従って、立ち上がる準備はできております。甚だ僭越ながら、藩主父子におかれては、虎穴に入らずんば虎子を得ずのたとえの通り、幕府と実戦の決議をお願いしたい。幕軍は数万で、わが藩は少人数ではあっても、勝敗は離間[団結力がないこと]にかかっております。いろいろな条件での講和を受け入れたとしても、たちまち反故にされて毛利藩の滅亡の命日を迎えることでしょう。石山本願寺を信長が大軍で遠巻きにした狼藉を絶たれた三百年前のことを現在からお考えいただき、手を束ねて時を待つことのないよう、八百ヶ寺の真宗門徒は、万死を冒してお願いを申し上げます。
六、慶応三年一〇月『毛利家文庫』の中の宗淵と葆光
毛利家文庫の中に、小口書に「宗淵葆光」と書かれたものがある。その中に、宗淵と葆光のことが書かれた二つの文書が収録されているので、以下に紹介しよう。一番目は、密偵として働いていた越後の葆光を、慶応三年四月から野山獄に入れていたが、聞き取りの結果、嫌疑が晴れたので釈放し、寺学校であずかることを許すという通達である。二番目は、当時の密偵の活動ぶりや脱線の有り様が生き生きと語られた聞き書きである。とくに、大坂の町人がどのように毛利藩の密偵を支援したかが、貸付が金額やその工面の方法まで含めて語られているのは貴重である。長文であるが全文をもとの文書の見開きごとに、原文と現代語訳に若干の注をつける。なお、解読にあたっては、当初は児玉識先生の、児玉先生が長逝されてからは、金谷匡人先生の全面的なご指導を受けた。
「宗淵・葆光」[山口県文書館所蔵毛利家文庫七五―一三四「雑載」所収]
越後
葆光
右御内用有之宗淵一同上国、被差登置候処、宗淵不所行之趣相聞、同同[ママ、衍]類之御不審を以、過る四月於萩揚り屋江被入置候処、此度別紙聞取書之趣ニ付而者、各別御不審無之付、揚り屋被差出、別紙願出之三寺請人として、南殿寺学校江可被差置哉
本紙之端に丁卯[慶応三、一八六七]十月廿七日筑前殿申達ストアリ
越後
葆光
右の者は、藩の内々の御用があって、宗淵とともに上京させられた。ところが、宗淵の不埒な所業の様子が聞こえたので、同類であるという御不審があるために、去る四月から萩の[野山獄内の]揚り屋に、入れられた。しかし、このたびの別紙の聞き取り書の様子であったので、格別の御不審はない。だから、揚り屋から出され、別紙の願い出をした三つの寺を身請け人として、南殿の寺学校に住まわせてよい。
[筆写したもとの文書には]本紙の端に丁卯[慶応三、一八六七]十月廿七日筑前殿に通知したと書かれている。
大坂江戸堀三丁目年寄近江屋文兵衛配下の町人八百屋房吉母志免申立聞口書
大坂江戸堀三丁目[長州藩大坂蔵屋敷の西側三丁ばかりの所]、町年寄の近江屋文兵衛の配下の町人・八百屋房吉の母志免[しめ]の申したての聞き取り書
宗淵
右中川一学変名仕居候事
越後国
葆光
右佐々木大証之同断
宗淵[しゅうえん]
右は中川一学という変名を使っていること。
越後国
葆光[ほうこう]
右は、佐々木大証と変名。[大証は葆晃の幼名でもある]
慶応元年九月頃、志免と葆光の初顔合わせ
一 宗淵殿儀ハ先年井原主計様一同登坂相成、志免得意之処、過ル丑ノ九月頃、葆光殿同道ニ而被罷越、御内用ヲ蒙リ密々登坂、道頓堀ひよふたん屋江滞宿之処、会津藩と同宿ニ相成、身を替し候もの事ニ而潜伏相頼、且又同志之柳道仙と申長崎医、近辺熊村屋伝助方ニ滞留、呼寄相成、段々咄も承り、年来御館入御高恩ヲ蒙リ候儀ニ付、不及乍ら御手伝仕度、咄合いたし、同夜道仙は罷帰り、両人ハ止宿、翌暁よりハ柳谷之観音寺江転宿相成、
一 宗淵殿については、先年に井原主計様とともに大坂に登られて、志免とは昵懇の仲であったところ、去る丑の年[慶応元年]の九月頃、葆光殿を引き連れておいでになられました。藩の内々の御用を命ぜられて内密に大坂に登り、道頓堀の「ひょふたん屋[ひょうたん屋]」に宿をとって滞在していたところ、会津藩[の侍]と同宿になってしまい、身を替わすために潜伏先を頼まれました。また、[同じ密偵の]同志で柳道仙という長崎の医者が、近くの熊村屋伝助方に滞在していたので、呼び寄せて、順次事情を承りました。長年にわたって[長州藩の]御館に出入りを許されるという御高恩をいただいておりますことですから、及ばずながらお手伝いをしたいと話し合いをいたしました。その夜、道仙は、帰り、宗淵殿と[葆光殿の]二人は、うちに泊まりました。翌朝の暁方からは、柳谷の観音寺に宿を替えることになりました。[柳谷観音寺は、長岡京でとても遠い。現在の天王寺区下寺町の柳谷観音大阪別院泰聖寺であろうか。長州藩の蔵屋敷の東南へ一里以上の距離がある。]
慶応元年一〇月、宗淵離坂
追々志め儀も罷越、四五日相立、葆光殿ハ京都探索之筈ニ付上京相成、宗淵殿・道仙ハ滞坂ニ而御国江報知之手筈ニ而、京町堀之橋本と申寺子屋江又々転居、左候処、葆光殿より志め方まで物音ニ相成候付、道仙事専ら京・大坂往来いたし、用弁相調、宗淵殿・道仙両人追々御国江下り候儀も有之、左候処、丑ノ十月頃火急ニ報知有之由ニ而、宗淵殿御国江被下候節、葆光方ニ金子差閊[さしつどい]居候ニ付、相渡置度、無間登り候付、弐拾両貸呉候様との事ニ付、用
志免もたびたび訪れて、四、五日もたった時、葆光殿は、京都を探索する手筈になっていたので、上京されました。宗淵殿と道仙は、大坂で、長州へ情報を伝える手筈になっていましたので、京町堀[きょうまちぼり、志免の家から一丁ほど南]の橋本という寺子屋へまたまた転居しました。そうしているところへ、葆光殿から志免方まで知らせがありましたので、道仙はもっぱら京都と大坂の往復をして、用事を調えました。宗淵殿と道仙の両人は、[京都からの情報を受け取り]たびたび長州へ下ることがありました。そうするうちに、丑年の十月頃に、大変急ぎのお知らせがあるということで、宗淵殿が、長州へ下られる時に、葆光殿の方で、お金が足らなくなっているので、[宗淵殿が葆光殿に]渡しておきたいと、[宗淵殿が]まもなく上京するので、二十両貸してほしいとのことでしたから、[宗淵殿を介して葆光殿に]用立てました。
慶応元年一一月中旬、道仙は大坂へ、宗淵は備前に留まる
達候処、其後宗淵殿登坂隙取、葆光殿より数度聞合せ有之、道仙も度々京都江も罷越、終ニ葆光殿大坂江被下、宗淵登り隙取、金子ニも差閊、且又報知事も数廉溜り候付、道仙御国江下り候筈ニ、咄合相成、折柄富海船居合せ、船賃之外御国着岸之上払方之筈ニ而、道仙儀ハ出帆致候、葆光殿ハ直様上京、其後十一月中旬、道仙帰坂いたし候処、宗淵殿ニハ御用有之、備前まで罷越、御用済次第登坂との手紙到来、然ル処其後一
ところが、その後宗淵殿は、なかなか大坂へお出でにならず、葆光殿から何度か問い合わせもありました。道仙も度々京都へ出かけていましたが、とうとう葆光殿が大坂へ下ってこられて、「宗淵がなかなか上京しないので、活動資金に事欠くし、集めた情報も何回分か溜まっている」というので、道仙が長州へ下るという手筈にすることで話し合いがつきました。ちょうど富海船[飛船]が居合わせましたので、船賃などは、長州に着岸したらその時に払うという手筈で、道仙は出帆し、葆光殿はすぐさま上京されました。その後、一一月中旬に、道仙が大坂に戻った時、[宗淵から]「[自分=]宗淵は御用があるので、備前まで来ているが、その御用が済み次第大坂に戻る」という手紙が届きました。しかるにその後いっこうに
慶応元年一一月末、志免の娘すへ金策のため奉公へ
向登坂無之、余程葆光殿差閊之由ニ而、在所越後江金弐百両仕登せ之手紙を調へ、志め方ニ而飛脚ヲ雇ひ、右金取帰せ候様頼越相成、心致候得共、遠路大金を持運び候儀ニ付、相調兼候付、於京都ニ心遣ひ相成候様返事致し候処、其後も宗淵殿登り無之、京都之方難捨置、金子入用之趣有之由ニ付、志め儀も色々心配候得共、調達出来兼、手段ニ絶へ候処、娘すへ事暫時之間勤奉公ニ遣し候ハヾ調達可相成との銀方
大坂に来られないので、葆光殿はよほどお金に困られたのでしょう、「実家の越後の方へ、二百両を準備して送ってほしいという手紙を準備したから、志免宅で飛脚を雇って、そのお金をもって帰って来るようにしてほしい」と頼まれました。承りはしましたものの、遠路大金を持ち運ぶことは、不調法ですので、京都でなんとかされてください、とお返事することにしました。ところが、その後も宗淵殿は、大坂へおいでにならないので、京都の方も捨て置き難く、お金が必要とのことでしたから、志免もいろいろ心配しましたが調達できかねて、手立てもつきたところ、娘のすへをしばらくの間、奉公づとめにやれば、調達できるだろうという金主
慶応元年一二月三一日、道仙と宗淵、京都から大坂へ
より気付も有之、娘江も其咄致し候得者、御国の為ニ候得者不苦申ニ付、天王寺屋喜助江取捌相頼、且十一月末方築地之塩林と申もの方江遣し、金四拾七両借受、右之内拾五両ハ世倅房吉持参ニて葆光殿江相渡、拾両ハ為替ニして送り、残り弐拾弐両ハ両三度ニ道仙江相渡、彼者より葆光殿江相渡たるニ而可有之、然ル所同十二月晦日之夜も宗淵・道仙両人志め方江来り、宗淵申候ハ、備前より一応帰国いたし候ニ付、登坂弥隙取、京都之方
からの助言もあったので、娘にもその話をして聞かせたところ「長州のためであればかまいません」と申しましたので、天王寺屋の喜助に斡旋を頼み、一一月末ごろに築地の塩林という者の所へ遣わして金四七両を借り受け、そのうち一五両はせがれの房吉が[京都へ]持参して葆光殿に渡し、十両は為替にして送り、残り二二両は、二、三度に分けて道仙に渡し、道仙から葆光殿に渡す手筈でした。ところが、一二月の大晦日の夜に宗淵と道仙の二名が志免の家に来て、宗淵が言うには、備前からいったん[長州へ]帰国したために大坂に来るのがいよいよ時間がかかり、京都の方が
葆光捕縛され、長州からの金も届かず
気懸り故、当家江も不立寄、着船直様道仙一同と上京いたし、葆光江相対、一ト通り咄合、両人とも風呂人ニ罷越候処、留守江捕人来り、葆光殿を相捕へ、連帰り候付、内江も不立入、直様逃げ帰り候事、其節娘すへ、勤メ奉公ニ遣し候趣相咄候処、御国より金子も持参致候得共、懐中衣類等まで葆光所ニ置、逃げ去り候由、娘も連返し不申而ハ不相済次第に候得共、今暫く辛抱仕候様との事、右之為体ニ付差閊之段相談有之、金拾
気がかりだったので、志免の家にも立ち寄らずに、着船後ただちに道仙とともに上京して、葆光殿に会って一通り話し合い、二人で風呂へ行った所で、留守に捕り手がやってきて葆光殿を捕らえ、連れ帰ってしまいましたので、家の中にも入らずに、直ちに逃げ帰ったとのことです。その時に、[金策がつきたので]娘のすへを奉公づとめに行かせたことも話しましたが、長州からお金も持参していたけれど、所持品や衣類まで葆光の所において逃げ去ったとのことです。娘も連れ戻さなければ済まないところですが、いましばらく辛抱していただきたいとのこと。右のようなていたらくなので、お金の工面のことで相談があり、
慶応二年正月、道仙と宗淵、人相書きつきで捜索される。越中僧行観加わる
八両貸渡、尚近辺徘徊[俳諧ヵ]師上田松友方江相頼、潜伏仕せ、其後島之内二條殿御子様御住職之寺江も潜居相成、両所ニ而廿日計も滞留之内、両人之人相書廻り、島之内江も捕人罷越候由、滞留不相揃ニ付、志め縁者間塚本村之治兵衛江相頼、潜居仕せ候所、無程越中之行観と申僧、兼而宗淵懇意之由、京都ニも居苦敷との事ニ而、志め方江来り候故、是又塚本村治兵衛方迄差越候処、去寅ノ正月末方、宗淵殿より
金十八両を貸し渡しました。なお、近くの俳諧師の上田松友に頼み、その家に潜伏させ、その後、中之島の二条家のお子様がご住職の寺にも潜伏になって、両方の場所で二十日ばかりも滞留されるうちに、両人の人相書きが回り、中之島の中にも捕り手がやってくるので、それ以上留まれず、志免の縁者の間柄の塚本村[中之島の北へ一里ほどの大阪市淀川区塚本]の治兵衛に頼んで潜伏させていたところ、ほどなく越中の行観という僧がやってきて、かねてから宗淵の懇意だそうで、京都にも居りづらいというので、志免の家にやってきたので、これまた塚本村の治兵衛の家に行かせました。去年の寅年[慶応二年]の正月末ごろに、宗淵殿から
宗淵らの無理な借金と勝手な行動
相談之趣ハ、京都より公卿方御両人家来四人召連、密々御国江御下向之筈、就而者金子入用ニ付松友方申談調達呉候様との事、色々咄合候得共、不相揃ニ付、松友妻一同塚本村より罷越、宗淵殿江相断候得者、御国之為是非心配候様、不相調節ハ身柄切腹之外致し方無之との事、両人とも当惑いたし罷帰り、種々心配、松友妻漸く六拾両調達いたし、貸渡申候、然処右三人追々ニ無遠慮他行相成、於引受ニハ不容易心遣ひ、折柄差閊出来、滞
相談があり、京都から公卿の方がお二人、家来四人を連れて、ひそかに長州へ下られる手筈なので、ついてはお金が必要なので、[上田]松友に相談して調達してくれるようにとのこと。いろいろ相談しても工面ができなかったところ、松友が妻とともに塚本村からやってきて、宗淵殿に[用立ての]断りをいれたところ、「長州のためにぜひなんとかしてほしい、調えなければ、自分は切腹するしかない」とのことで両人[松友夫妻]は当惑して帰りました。[その後]いろいろ奔走して、松友の妻がようやく六〇両のお金を調達して貸しました。ところが、右の三人[宗淵・道仙・行観]は、しだいに勝手に出歩くようになり、引き受け側[治兵衛]としても容易でない心遣いをして、お金も都合がつかず、
慶応二年三月、宗淵の無心を志免断る
留相断候ニ付、志めより南、安治川二丁目木津屋三右衛門方江相頼ミ、潜伏仕候へ共、手狭ニ付、三右衛門より薩摩堀之秋田屋百蔵方江相談、潜居相成、左候処、同三月頃又々宗淵殿より松友方江道仙ヲ以金三拾両借用之儀被申越、入用之趣ハ、葆光儀獄より揚り、本願寺江御引渡相成、連帰りとして可致上京之処、向々江挨拶事も有之、手きれひニ取揃不申而ハ御国之恥辱との事、下地六拾両之貸金も有之、相断り候得共、宗淵殿立腹之体も有之、
滞留を断ったので、志免から今度は南の[大阪市西区の]安治川二丁目の木津屋三右衛門の家に頼み潜伏させましたが、手狭のため、三右衛門から薩摩堀[いまは埋め立てられた運河・薩摩堀川の]秋田屋百蔵の家に相談して潜伏しました。そうしているところへ、同年三月頃、またまた宗淵殿から松友の家へ道仙を遣わして、金三十両を借りたいと言ってこられました。何にいるかといえば葆光が、牢獄から出されて[西]本願寺に引き渡されることになって、連れ帰るために上京のおりには、いろいろのところへ挨拶もあるので、手綺麗に取り揃えなければ、長州藩の恥となるということでしたが、もともとの六十両お貸ししている件もあるので、お断りしましたが、宗淵殿は立腹された様子でした。
掛け軸を質入れして工面した金を宗淵に貸す
是まで之心配無になると被相考へ、乍併、志め口入ニ候ハヾ、品物成とも貸渡可申段相答候由ニ付、志め者松友方江咄合、弐幅対之掛物借受、懇意間江預ケ置、金弐拾四両之松友方より宗淵殿江貸金ニ相成候処、此外銀方ニ而も宗淵殿借金被致候由ニ而、金遣之様子彼是承り合候へ者、京都祇園町ニ而宗淵殿付合之芸子大坂より連下り
[松友は]これまで奔走したことが無になると考えられましたので、私、志免の斡旋でもあるので品物なりとも貸渡そうとのことでしたので、志免は松友宅へ話し合い、掛け軸2幅を借り受けて、懇意の仲へ預けて、合計金二四両を松友の家から宗淵殿への貸金となりました。このほか、金貸し方にも宗淵殿は借金をされたそうで、金遣いの様子をかれこれ伝え聞き合ってみると、京都祇園の町で宗淵殿の付き合いの芸子を大坂から[大坂へ]連れて下って
慶応二年三月、志免から宗淵への帰国の勧め
候もの有之、密々連出し百蔵方引宅ニ隠シ被置候由、葆光殿入牢後ハ京都之探索も調兼、旁心底崩れ、放埓之儀も不少由ニ付、滞留相成候而ハ御国之御不為と相考、追々帰国之儀相進め、八ケ間敷申入候へバ、却而面倒ニ思われ候哉ニ而、志め事罷越候而も留守様被申、相対無之儀も度々有之、猶予相成候内、右之芸子尋方之儀、抱主より役筋江相頼候哉、夫よりして宗淵殿其外潜伏所厳敷詮議、三月二十五六日頃百蔵方江捕人罷越候処、程好逃去り、熊村
きたのがいて、密かに連れ出して百蔵宅に隠して置かれていたそうです。葆光殿の入牢の後は、京都の探索も手立てがないこともあって本来の気持ちが崩れて、ふしだらな行いも少なからぬそうで、このままとどまっていても長州のお国のためにはならないと考えて、たびたび帰国を勧め、やかましく申し入れたものですから、かえって面倒に思われたのか、志免が行っても、居留守を使って会われないことも度々あって、ぐずぐずしているうちに、右の芸子の捜索を抱え主からお役人方面に頼んだか、それから宗淵殿やその潜伏所をきびしく詮議されて、三月二五、六日頃に百蔵の家へ捕り手がやってきたところ、うまく逃げ去って、熊村
慶応二年三月、道仙捕縛され志免と息子も取り調べ
屋伝助方江被罷越候へ共、彼方江も捕手向ひ候付、塚本村治兵衛方江潜居被相談候得共、断り候付、終ニ山崎海道とんだニ居候正助と申もの、元御屋舗ニ而飯焚仕候者ニ付、彼者方江宗淵殿芸子召連れ被忍候由、道仙儀ハ新町之茶屋ニ隠れ居候を召捕れ、行観儀ハ如何相成候哉、存知不申、然ル処、同夜志め并世倅房吉共々被相捕、且又百蔵其外懸り合し者、於会所ニ糺方相成候へ共、宗淵其外御国之御用ニ而登坂之存知不申、兼而懇意之客ニ而留メ候段申出相済候処、
屋伝助の家に移ったのでしたが、そこへも捕り手が向かったために、塚本村治兵衛の家へ隠れ住まわせてほしいと相談しましたけれど、断ったため、ついに山崎街道富田[現在の高槻市富田か]に住む正助という者が、御屋敷[長州藩大坂蔵屋敷あるいは京都藩邸]で飯炊きをしていた者だったので、その家へ宗淵殿は、芸子を連れて隠れたそうですが、道仙は新町[大阪市西区、遊郭があった]の茶屋[上方で、芸者を揚げて遊ぶ所]に隠れているところを召し捕られ、行観はどうなったものか存じません。ところが、その晩に、志免とせがれの房吉ともども召し捕られて、百蔵そのほか関わり合いになった者たちが、町役人の事務所で取り調べをうけましたが、宗淵その他が長州藩の御用で大坂に来ていたことはぞんじません、かねてから懇意のお客なので、お泊めしただけと申し出て、それで済みましたが、
宗淵はあちこち徘徊して捕縛されたうわさ
いづれも志め方より相頼ミ滞留仕せ候儀ニ而、不大形心痛仕候、然ル処宗淵殿儀、正助方ニも居苦敷、芸子召連、備後まで被罷越候由、其後風聞ニ承り候へバ、彼地ニおいて右之芸子ハ売捌ニ相成、其金を以又々上方江登り、徘徊致され候ニ、いづれよりか捕方相成たる由、此外様子承り不申候事
どなたも志免の家から頼んで滞留させたものでしたから、大変な心痛をいたしました。ところが、宗淵殿ときたら、正助の家にも居づらくて、芸子を連れて、備前まで行ったそうです。その後の風の噂では、備前でこの芸子を売りさばいて、その金でまたまた上方へ登って徘徊していたところ、どちらからか捕縛されたそうで、そのほかのことは聞いておりません。
葆光殿の仕事は京都での情報収集
一 葆光殿儀ハ京詰ニ而、二條殿諸太[大]夫之由亀鶴と申方江潜伏、彼地之様子探索相成、追々宗淵殿江通達相成、往返ハ専ら
一つ 葆光殿は、京都に詰めておられて、二条殿の家司だという亀鶴という家に潜伏して、京都の様子を探索しておりました。たびたび宗淵殿へ情報を伝えて、[大坂との]行き来はもっぱら
慶応元年一二月、京都で葆光入牢
道仙相運び候由、左候処丑之十月頃、宗淵殿御国江下られ、用金持登相成候筈之処、隙取候内本願寺家来西村某とか申仁、葆光殿江金子借用之儀相談有之、御国之御用ニ而登り居候段、内実存知居候仁故、貸渡不申而ハ障りニ可相成との心得ニ而請合相成候処、宗淵殿登坂隙取、就而ハ西村江不都合ニ相成、夫より彼仁立腹いたし、内訴いたし葆光殿被召捕候様子ニ而、其後いづれの手江被召捕候哉、聞繕として道仙殿上京、其節
道仙が運んでいたそうです。そして、丑年の一〇月ごろ、宗淵殿が長州へ下られて、必要なお金をもって上京する手筈のところ、手間取っている間に、本願寺の家来の西村某とかいう人物が、葆光殿へお金を貸してもらえないかという相談がありました。長州藩の[密偵としての]御用で上京したことを知っている人物なので、貸さなければ支障があるだろうと考えて、うけあったところ、宗淵殿が大坂に来るのが遅れて[金がなく]、西村にとっては不都合となって、そのためにこの人物は立腹して、内密に訴えました。葆光殿は、捕らえられた様子で、その後どこの手に召し捕られたかを聞き集めるために道仙殿は上京して
慶応元年一二月、道仙京都で虎口を逃れる
途中ニ而右西村ニ出逢、態と宗淵殿之様子を尋候得バ、於自宅為咄合可致身柄立寄候、先方有之、無間帰宅可致との事ニ付、留守江参り可相待段約束いたし、相別れ候而、道仙虎口を遁レ、直に丹波海道通り大坂ニ帰り候処、西村事直々内訴いたし候由ニ而、伏見其外江騎馬ニ而追懸ケ候者有之由ニ候得共、道筋違ひ、危き場を遁レ候段、道仙より志め江相来候儀も有之、然ル処去寅ノ十二月廿五日頃、葆光夜中志め方江来り、去十二月
途中でさきほどの西村に出会いましたので、わざと[知らないふりで]宗淵殿の様子を尋ねてみたところ、[西村の]自宅で話し合いをするために立ち寄ることになりました。[西村は]先に用があるがまもなく帰宅するからとのことなので、留守宅に行って待つと約束して別れました。道仙は虎口を逃れて、ただちに丹波街道沿いに大坂へ帰ったところ、西村はすぐに内密に訴えたそうで、伏見その他へ騎馬で追いかけた者もあったそうですが、道筋が違ったため危ういところを逃れた、道仙から志免方に来られたこともありました。そうして去る寅年の一二月二五日頃、葆光が夜中に志免の家へ来て、去る一二月
慶応二年一二月末、葆光本願寺の太鼓楼から脱出の経緯
入牢いたし、其後本願寺江御引渡ニ相成、太鼓楼之囲江被入置、厳敷番有之候得共、番人之内ニ手伝呉候者有之、漸ク囲を抜出、逃ゲ帰り候付、直様御国江下り危[度ヵ]との事、左候処、春以来宗淵殿之所業振、彼是咄合ひ、且又同人江追々金子用達候次第、尚娘すへ勤メ奉公ニ遣シ候趣等松友妻江代筆相頼、北條様江い細[委細]之余り掛申上候処、当度幸助と申者を以金百両之辻送り方被仰付、尤幸助
牢に入って、その後本願寺に引き渡しになって、太鼓楼の囲いの中に入れ置かれて、厳しい見張りがありましたが、番人のうちに手伝ってくれる者もあって、ようやく囲いを抜け出して、逃げ帰ってきたので、すぐに長州へ下りたいとのことでした。そこで、春以来の宗淵殿の所業のありさまをかれこれ話し合い、また宗淵に何度も金を用立てたこと、娘のすへを奉公勤めに行かせたことなどを松友之妻に代筆を頼んで、北条様[慶応元年十二月の嘆願書に登場した北条瀬兵衛、慶応二年五月に伊勢華=いせさかえ=と改名、当時藩当職手元役]に、掛け金[貸してある金]の詳細を申し上げたところ、このたび幸助というものに合計百両を送るように仰せ付けられました。いっぽう幸助
葆光、宗淵の所業を聞き仰天する
より内談之趣有之、証文取置、右之内五拾両貸渡、残り金を以娘も連戻シ度候得共、宗淵殿江貸金仕候者いづれも請方不得仕内、娘を連返シ候而者、銀方江義理も不相立故、外用ニ遣払候段、相咄候ヘハ、葆光殿仰天被致、昨年之金子返済も不致、剰へ芸妓ニ迷ひ、放埓之次第、左程之人物とも不知、大事を申談候段、甚以残念との事、然ル処、在所江仕登せ金申越候得共、無間入牢いたし、尚此度脱
からの内輪の話で、証文を取って、右の[百両の]うち、五十両をお貸しして、残りのお金で娘を連れ戻したいと思うところですが、宗淵殿へお金を貸した人がいずれもお返しいただけないでいるうちに、[自分が]娘を連れ戻したのでは、[他の]金を貸した人への義理もたちませんので、他の用に払ったことを、お話しましたら、葆光殿は仰天されて、去年のお金も返さずに、おまけに芸妓に迷って好き放題をするとは、それほどの人物とも知らずに大切な話をしたことは、まったく残念と言われました。そして、故郷へ送金を頼もうとしたのに、まもなく入牢してしまい、このたび
慶応二年一二月末、志免の娘すへようやく奉公から戻り葆光も長州へ
走ニ付而ハ、右之詮議をも不得仕、然れども娘を其儘ニ差置候而ハ御国江之申訳も無之、差向処、前断百両之内を以、是非とも請戻シ呉候様との事ニ付、世話人天王寺屋江も葆光殿より咄合相成、元金之内壱ヶ年相勤メ候丈ケ日割ニして、残元三拾七八両程返済辻ニ候処、急速調達出来兼、不足金七両程ハ葆光殿懇意先ニ而調達相成、払済之上、同二十七日娘も連戻シ、葆光殿ニも出帆下向相成候事
脱走してきたので、このことを調べて明らかにすることもできないけれども、だからといって娘をこのままにおいておくのは、長州藩への言い開きができないので、とりあえず、先に言った百両のうちから、ぜひとも受け戻してくださいとのことでしたから、世話人の天王寺屋へも葆光殿から話し合いがされて、元金から一年勤めただけを日割りにして、残りの元金三七、八両ほどが返済の合計になりましたが、急には調達ができませんでしたので、不足する七両ほどのお金は、葆光殿が懇意の方から調達できて、皆済のうえ、同[一二月]二七日に娘も連れ戻し、葆光殿も出帆して[長州へ]下られました。
葆光の密偵としての精勤ぶり
右宗淵殿其外潜伏中ハ、別而御国より入込候者詮議厳敷、太概夜中為深更往返相成候処、如何程之風雨も無厭奔走、不容易苦心ニ就而ハ感心致し難渋ながらも御為筋と而已存知詰、追々金子用達候処、委細ハ去夏、松友妻江代筆相頼ミ、北條様江申上、其後手控書類とも所持仕居候而も、万一幕より詮議ニ逢ひ候節ハ煩之儀ト相考、不残焼捨候付、只今ニ而ハ、貸金尚余り置候も、都度々々覚不申候、此如御聞済被仰付度、奉存候事
右ハ八百屋房吉母志め申分聞取被仰付、前断之通申出候、以上
打廻り
有吉昌平
十月
右の宗淵殿その他が潜伏中は、とくに長州から入り込む者の詮議が厳しくて、大概は夜中も更けてから来たり帰ったりされて、どれほどの風雨もいとわず奔走されて、容易ならぬ苦心については感心しておりましたので、困難ではありましたが、大切なお客様だといちずに思って、次々とお金も御用達しておりました。詳しいことは昨年の夏に松友の妻に代筆を頼んで、北条様[前出]に申し上げ、その後手控えの書類も所持しておりましたが、万一幕府からの詮議にあう場合は、面倒なことになると考えて、残らず焼き捨てましたので、今ではお貸しした金が他にもありますけれど、毎度覚えておりません。この通りお聞き届けられたく存じます。
八百屋房吉の母志免の申し分を聞き取るように仰せ付けられましたので、以上の通り申し出いたします。以上
打廻り[当職の耳目役]
有吉昌平
[慶応三年]一〇月
この聞き書きによって、密偵の活動資金を私的に使い込んでしまう不行跡の宗淵とはことなり、葆光が密偵としての活動に精勤していたことがわかり、釈放してよいことになった。その前の段階で、次の願い書が、葆光の同志の僧侶から提出されていた。
御願申上候事越後真昌寺葆光儀、過ル四月揚り屋禁錮被仰付、罷帰ヵ候処、当秋已来持病之痔痛差起、追々療養相加候得共、幽囚中万事不如意勝ニ而、病症追々相募、甚難渋之趣、不忍聞次第ニ御座候、仇之千萬、奉恐入候得共、南殿寺学校まで引請、介抱仕度奉願候、勿論保光中諸事謹慎申付、医師之外者他人相対等決而為仕間敷、猶全快之上ハ亦渡御返し仕、可奉待御裁許ニ而、右困難之旨趣被聞召、別出格之御詮議を以、拙寺共江御預ケ之振ニ被仰付被下候ハヾ、千萬難有奉存候、此如宜敷被成御沙汰可被下候様、奉願候、以上
お願いもうし上げますこと
越後真昌[照]寺の葆光は、去る四月に野山獄の揚り屋に禁錮を命ぜられて[上方から萩に]帰ったところ、この秋から持病の痔の痛みが起こり、たびたび治療をいたしましたが、幽囚中は何事も思うようにはなりませんので、症状が次第に強くなり、大変困っているというようすで、気の毒に聞いたことです。たくさんの恨みがあるところ、恐れ入りますが、南殿の寺学校で引き受けて、介抱したくお願いをもうしあげます。もちろん、葆光には何事も謹慎を申し付け、医師のほかの者に会わせることは決して致しません。なお、全快したならばまた[獄に]お渡しいたしてご裁許を待つべきですので、右のような困難の趣旨をお聞き届けいただいて、特別のご配慮をもって、私どもの寺へお預けいたくことを命じてくださるならば、まことにありがたく存じます。このようによろしくご裁定くだされますよう、お願い申し上げます。以上
大島郡久賀村
覚法寺
鉄然 花押
佐波郡徳地島地村
妙誓寺
黙雷 花押
熊毛郡光井村
真福寺
仏乗 花押
この願い書の三人は浄土真宗本願寺派の僧侶で、大洲鉄然と島地黙雷はよく知られている。仏乗は、先の嘆願書にも鉄然とともに登場したが、光市のウェブページから引用しておく。
金山仏乗(かねやま・ぶつじょう、一八二五〜一九〇二)。光市光井の浄土真宗真福寺の第一〇世。海防僧月性に学び、俗論派を鎮静するために、周防国内を巡回して説教にあたり、真宗一派風儀改正にも活躍した。維新後は西本願寺へ入り、内事局長、財務局長として宗務に専念した。
同志の僧たちの助けもあって、慶応三年一〇月末に何度目かの入獄から出ることができた葆晃は、数ヶ月後の慶応四年二月に善宗寺の住職になる。覚法寺・明誓寺・真福寺をはじめ、長門周防に末寺が一三〇もあった周防の国最大の寺である(村上、二〇一一、一〇七頁)。それを毛利藩が勧めた理由は、何だっただろうか。学僧としての力が評価された、密偵としての活躍の報償や、誤って半年も投獄した代償のいずれでもなく、慶応元年一二月の嘆願書に宗淵と葆光が書いたように、来たるべき幕府との最後の戦いに備えて、長州南部で真宗門徒の力を結集できる戦略的拠点の司令官としての役割が期待されていたのではないかと考えられる。
善宗寺の系図とその下書きにある、京都の六角獄舎から脱獄して葆晃が向かった萩で、幕府の密偵の疑いがかかって野山獄に投獄されたというのは、あるいは、密偵になってから宗淵の不行跡のとばっちりで半年投獄されたことを指しているかもしれない。密偵であったことを葆晃自身が表沙汰にしなかったために、入牢の期間が実際より長かったとされたのではあるまいか。
この聞き取りに応えて長い供述をした志免は、毛利藩の大坂蔵屋敷出入り商人のおかみとして、娘や息子も動員して、密偵への経済的支援や潜伏先の確保のために人脈を駆使して奔走している。葆光らの密偵としての活動の内容はなかなか複雑で、しかも宗淵と葆光にわけて書かれているため、一読しただけでは理解が難しいが、整理すると明治元年に葆晃が香川姓を名乗るようになるまでの「空白の数年間」の動静はほぼ以下のようになるだろう。
丑・慶応元(一八六五)年
七月二五日、宗淵・葆光、再度上京の命令を受け即日出発(以下三行、本報告の第四節)。
八月八日、宗淵・葆光、大坂着。密偵としての情報収集開始。
八月二六日、宗淵・葆光、新選組から逃れて京都発大坂へ。二八日大坂から舟で帰国。
九月頃、葆光、宗淵に伴われて大坂の町人志免に面会(次の項目とともに八月のことか)。
九月頃、宗淵は中川一学、葆光は佐々木大証と変名。長崎医「柳道仙」が連絡役として加わる。
九月、宗淵・葆光の密偵報告書(本報告の第四節の『奇兵隊日記』)。
一〇月、葆光らの活動資金底をつく。志免二〇両を宗淵に貸す。宗淵は葆光に金を渡さず、大坂から長州へもどると称して備前にとどまったか(宗淵の「不所業」の始まり)。
一一月、葆光、いよいよ金がないので越後の実家の寺に飛脚をしたてて二〇〇両を取り寄せたいと志免に申し出。金策のため、志免の娘すへ年季奉公へ出し四七両貸す。
一二月一日、宗淵・大證、真宗八百ヶ寺の戦争協力嘆願書を藩に提出(本報告の第五節)。
一二月、葆光、西本願寺の寺侍の西村某に密告され京都で捕縛。道仙は葆光の動静を探るため上京、西村に出会いかまをかけたところ追手がかかるが虎口を逃れる。
大晦日、宗淵と道仙の二名が志免の家に来て葆光の捕縛の様子と長州からもたらした資金を失ったと語る。志免一八両貸す。
寅・慶応二(一八六六)年
正月、道仙と宗淵、人相書きつきで捜索される。宗淵・道仙潜伏して大坂を転々。
正月末、宗淵、志免に公家の長州下向について無心、俳諧師の松友から六〇両貸す。宗淵ら勝手に出歩くようになり潜伏先を追い出される。
三月頃、宗淵、葆光が獄から西本願寺に渡されるので、その挨拶に必要と、松友方へ三〇両を無心。断ると宗淵立腹、松友方の掛け軸を志免の昵懇に預けて二四両用立て松友から貸す。宗淵貸金屋からも借金。京都祇園の芸子を、抱え主に無断で大坂へ連れ下ったことが判明、志免から厳重に帰国を勧めるが宗淵居留守を使う。
三月二五、六日頃、百蔵方へ捕り手が来るが宗淵逃げる。
三月末〜四月、道仙大坂で捕縛。志免と息子房吉も召し取られ町役人の事務所で取り調べ。宗淵らの用向きは知らず、なじみの客だから泊めたのみと申し開き、放免される。
四月~夏ころ、宗淵、芸子と備前に行き、芸子を売った金で上方に帰り徘徊中にいずれの方からか捕縛されたとの噂(宗淵は密偵と芸子拐かしの別々の罪状で追われていた)。
夏、志免、北条瀬兵衛に松友妻の代筆で手紙を送る。藩から一〇〇両の弁済をうける(志免の記憶するだけでも志免と松友から一六九両を貸しているからまだ大赤字である)。
一二月二五日、葆光、西本願寺内で新選組の見張る太鼓楼からの脱出に成功し志免方に来て宗淵の不所業を知らされ仰天。話し合って送金された一〇〇両のうちから三〇両余と、葆光のつてで不足の七両を借りて志免の娘すへを請け出す。すへの働きは一年で約一〇両。
一二月二七日、葆光大坂から長州へ(おそらく藩の詮議を受けるためだろう)。
卯・慶応三(一八六七)年
四月四日、葆光、宗淵の同類とみなされ、野山獄の揚り屋(お目見え以下の武士、僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容)に入獄。
秋より後、鉄然・黙雷・仏乗、葆光の痔の治療のため出獄嘆願書。
一〇月、大阪で長州藩から志免への尋問。
一〇月二七日、志免からの聞き取りで葆光の「不所業」の疑い晴れ、葆光は清光寺の学校預かりへ。
辰・慶応四・明治元(一八六八)年
二月一日、藩士の勧めで葆晃善宗寺住職に、香川姓となる。
七、慶応三年一〇月『毛利家文庫』の中の「長崎医・柳道仙」をめぐって
香川葆晃の長女は、長崎へ嫁に行った、と筆者の母で、ヨネの次女秀子(系図ではヒデコ)の次女であった芙美子は話していた。それ以上のことは何も語らなかったが、現在残されている手がかりの中で、葆晃と長崎をつなぐものがあるとすれば、この長崎医・柳道仙しか思い当たらない。しかし、これが密偵としての変名であるなら、インターネットなどで探しても手がかりが見つかる可能性は低い。もっとも、宗淵と葆光は、仲間である志免に対しては変名でなく本名を用いていたわけだから、柳道仙が本名であっても差し支えはないはずだが、大正時代に出た『長崎県人物伝』(長崎県教育会編、一九七三)の医者の部には、そして全体の中にも、楊はあっても柳という姓の人物は見当たらない。
芙美子の連絡先メモの中に、長崎市観善寺があったのを唯一の手がかりに、連絡をとり、二〇二四年一二月に長崎大学グローバルリスク研究センターを訪問したのを好機に訪ねてみた。さだまさし(二〇〇三)の小説『解夏(げげ)』にも〝勧善寺〟として登場する、樹齢八百歳というクスノキがある浄土真宗本願寺派の寺である。
観善寺前住職の立花文英師ご夫妻が時間を割いて対応してくださった。見せていただいた系図は、四八年間も住職を勤めて、昭和二五[一九五〇]年に、八四歳で遷化された第一四代方外師が作成したもので、方外の「室 清亮院貞吟 明治十一年生、明治三十九年十月五日逝、享年二十九歳 至今三十六年」と記され、以下の説明があった。「京都在住香川葆晃長女貞子、葆晃老師山口県富田善宗寺前住職為本願寺元老。」
葆晃は、長女のテイが誕生するので、明治一一(一八七八)年にヨネを入籍することにしたのだろう。京都の大谷本廟の勧学谷に並んで立つ離言院(りごんいん)黙雷と円珠院葆晃の墓の近くに、葆晃の側室であったヨネの眠る墓がある。その正面に刻まれた文字「清亮院貞吟」が、観善寺住職の立花方外の坊守を勤めたテイ(貞子)の戒名だったことも明らかになった。
以下は、前坊守の京子さんによる、第一五代の文夫師の坊守であった、きみさんから繰り返し聞かされた貞子の思い出話である。
方外さんが顔も見ないで結婚することに決まった貞子さんは、はるばる京都から駕籠に乗って嫁入りされました。五人の子どもに恵まれたけれど、若くして結核で亡くなられました。小倉のお寺へ嫁に行かれた五番目の秀代さんは葆晃さんをたいへん尊敬していましたので、戒名にも葆の字を入れました。
幕末の文書では「葆光」と書かれることが多かった香川葆晃と長崎を結びつけたものは何だっただろう。今のところ、手がかりは、前述の大坂の町人房吉の母志免の供述に出てくる、「長崎医・柳道仙」という人物しかいないようである。
葆光が京都で集めた情報を、大坂の宗淵につないだり、活動資金を葆光に届けたりしていた道仙は、危ない橋を何度も渡って、慶応二(一八六六)年三月に大坂で捕縛されたことしか分からない。なぜ、長崎の医者が長州のために命をかけて密偵として働いたのだろうか。このたび長崎を訪れた際に調べて考えたことに触れて、今後の研究の課題としておきたい。
長崎で道仙といえば、医師・新聞人・政治家・書家として活躍し、「長崎を作った男」と言われる西道仙(一八三六〜一九一三)がすぐに思い当たる。若い頃の密偵としての活動を、香川葆晃が表立っては言わなかったように、仮に西道仙が、「柳道仙」その人であったとしても、そのことを示す資料の発見は難しいだろう。幕末の長崎の医者で、長州藩や勤王思想に強い関心があり、命がけでの行動も辞さないという人物はそう多くないだろうと思われる。「柳道仙」についてほとんど資料がない中で、以下は、西道仙と香川葆晃を結んだかもしれない状況証拠の探索である。
天保七(一八三七)年に、西道仙は、天草で生まれた。高山彦九郎の後を追って、その墓の側で自刃した曾祖父道俊の影響を受けて、道仙は若い頃から勤王の志士に憧れたという。嘉永五(一八五二)年六月、祖父松仙、父元良を相次いで亡くした道仙は、八代で漢方医として修行中、戸原卯橘(とはら・うきつ、一八三五〜六三)と知り合った。戸原家は、秋月藩の藩医の家柄で、戸原は、各地で医術の修行に励んだが、次第に勤王思想に傾倒し、行動を共にする中で、西道仙と意気投合した。文久三(一八六三)年八月、長州への「七卿落ち」を知った戸原は脱藩して、沢宣嘉(さわ・のぶよし、一八三五〜七三)ら七卿に仕えるべく、七卿が滞在する周防の三田尻を訪ねた。これに同行した西道仙は、母親危篤の知らせでやむなく天草に帰る。一方、戸原は、同年一〇月、筑前藩士平野国臣(一八二八〜六四)らと沢を奉じて但馬で生野の変を起こすが、破れて自刃した。
西道仙は、同年、長崎に居を移して医者を開業するとともに、私塾を開く。同い歳の坂本龍馬に送った詩が残されている。ところが、慶応元年六月に、自宅が全焼して、家財と蔵書をすべて失う。翌年は、妻と弟を失っている。その後、明治元年に沢宣嘉が長崎裁判所総督に赴任するまで、西道仙の動静は途絶えている。新潟で生まれた葆晃と天草・長崎の西道仙が、勤王思想と長州藩という時代の共通の引力によって、京坂で密偵として行動をともにした可能性があるだろう。
慶応元年六月に、自宅と蔵書を火災で失ない、生活の場と収入の道を絶たれた西道仙は、積年の勤王の思いを遂げるため長州に向かい、八月には長州藩の密偵として大坂に現れたのではないか。葆晃が、密偵としての変名に自分の越後での幼名の大証を選んだように、密偵としての変名に、西道仙が長崎で用いていた字をそのまま使った可能性がある。遠隔の地での変名に、自分の使い慣れた名前を使うことは、いざという時に自然に返事ができるという利点がある。想像をたくましくすれば、姓としては、西道仙が二年前に断腸の思いで別れた直後に、勤王の志士として壮絶な死を遂げた刎頸の友である戸原卯橘の弔い合戦のつもりで、「卯橘」の合字として「柳」を名乗ったのではなかったか。翌年には妻も弟もなくしたのであれば、「柳道仙」が密偵としての活動に長く従事できたのも頷ける。この想定は、西道仙の評伝(長崎県教育会編、一九一九、長島俊一、二〇〇四、長崎史談会編、二〇二〇)にもまったく登場しないものだが、今後検討に値する仮説としてここに提示しておく。引き続き、香川葆晃と、系図によれば、明治三七(一九〇四)年一二月七日に、太田覚眠(一八六六〜一九四四)を宿泊させたという長崎の観善寺の立花方外第一四代住職を結んだ人脈についても史料を探してみたい。
八、まとめ
幕末維新から明治にかけて活躍した長州の浄土真宗本願寺派の僧侶の中で、ほぼ忘れられている香川葆晃の密偵としての活動に焦点をあてて、これまで注目されていない史料を紹介した。これによって、松陰先生をはじめとする武士にもっぱら脚光が当てられる維新史の中で、月性をはじめとする僧侶の果たした多面的な役割の理解が進むきっかけのひとつともなればと願っている。
まとまった著作をほとんど残さなかった香川葆晃の最後の出版物は、『本願成就文講義筆記』である。これは、明治二八(一八九五)年、真宗木辺派の本山錦織寺の安居での香川葆晃の講義録である。明治三一年一〇月一三日の葆晃の死去のあと、急いで編集印刷され、同年一二月三日、京都の興教書院から発行された。編集人は、山口県吉敷郡小郡村、河野方賢となっている。序は、漢文で円通道人(赤松)連城が弔辞を書いた。そこには、ほとんど四〇年に及ぶ友であった緇渓道人こと香川葆晃を悼み、病いの床で再起できないとさとった葆晃が、後事を自分と水原虚谷に託したとある。虚谷は、水原慈音(みずもと・じおん、一八三五〜一九〇八)の号である。叔父の超然(ちょうねん)とともに勤王僧として活動した近江の真宗本願寺派円照寺住職だった。私が購入した古書には、奥付に紙が貼ってあり、そこには、「十月十三日 圓珠院葆晃 満中陰志 香川宗一」とある。葆晃とヨネの間に生まれたまだ幼い長男が喪主だったことがわかる。
筆者の手元には、ヨネが大切に保管していた、香川葆晃あての四〇通余りの辞令が残されている。次の報告ができるようであれば、その内容を紹介したいと考えている。
なお、フィールドワークにかかわる研究倫理については、宮本・安渓(二〇二四)に示された、調査される側の迷惑についての配慮を最大限に払いながらお話をうかがい、執筆した。
謝辞
親しく胸襟を開いていろいろのお話を聞かせてくださり、資料を提供してくださった浄土真宗本願寺派の善宗寺(周南市)、真照寺(上越市)、観善寺(長崎市)の関係者のみなさまに心から感謝いたします。葆晃の事績を調べるならまずは『奇兵隊日記』にあたれという樹下明紀先生のご教示が、この研究をスタートするきっかけとなりました。近世真宗史研究の課題と方向性については、児玉識先生の励ましを受け、『毛利家文庫』の文書の解読にあたっては、元山口県文書館副館長の金谷匡人先生からほとんど共著というべき懇切なご指導をいただきました。研究費の一部は、安渓遊地を代表者とする科研費基盤研究(C)24520067「幕末維新期の長州真宗僧に関する史料と口承による総合的研究」を使用しました。
本研究について開示すべき利益相反関係 なし。
引用文献・引用ウェブページ
安渓芙美子「記憶のある裡に――大正時代のある子供の生活」(一九九九)https://ankei.jp/yuji/?n=132
安渓遊地・安渓貴子「越の国巡礼――幕末維新長州僧の足跡をたどる旅」『季刊東北学』三〇号、一六六〜一九三頁(二〇一一)
安渓遊地他「明治初期に仏教を救った山口の四傑僧――島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城・香川葆晃の研究」『山口県立大学学術情報』五巻、三一〜五一頁(二〇一二)(英文)
一坂太郎『定本奇兵隊日記・人名索引(修訂版)』マツノ書店(一九九九)
岡村周薩『真宗大辞典』鹿野苑(一九六三、初版一九三七)
香川静爾「政所山善宗寺系図」善宗寺(一九六六頃)
香川葆晃『本願成就文講義筆記』興教書院(一八九八)
児玉識『近世真宗の展開過程』吉川弘文館(一九七六)
児玉識『近世真宗と地域社会』法蔵館(二〇〇五)
さだまさし『解夏』幻冬舎文庫(二〇〇三)
高嶋雄三郎『廿七回忌・生誕百年記念 高嶋米峰小誌』著者発行(一九七五)
田中彰監修・田村哲夫校訂『定本奇兵隊日記』下、マツノ書店(一九九八)
時山弥八『もりのしげり・増補訂正』マツノ書店(二〇一五)
長崎県教育会編『長崎県人物伝』臨川書店(一九七三、初版一九一九)
長崎史談会編『賜琴石齋西道仙――その生涯と事績』長崎史談会(二〇二〇)
長島俊一『西道仙――明治維新後の長崎を駆け抜けた快男子』長崎文献社(二〇〇四)
野口武彦『長州戦争――幕府瓦解への岐路』中公新書(二〇〇六)
仏教大学編『仏教大辞彙』冨山房(一九一四〜一九二二)
宮本常一・安渓遊地『調査されるという迷惑・増補版――フィールドに出かける前に読んでおく本』みずのわ出版(二〇二四)
村上護『島地黙雷伝』ミネルヴァ書房(二〇一一)
森川地聞『維新百年・傑僧大洲鉄然の生涯』久賀町役場(一九七〇)
New Materials on the Shin Buddhist Priests of the Chōshū Clan at the End of the Edo Era: Focusing on the Activities of Kagawa Hōkō as a Local Intelligence Agent
ANKEI Yuji(Emeritus Professor at Yamaguchi Prefectural University)
ankeiyuji@gmail.com
The aim of this paper is to examine historical materials that show the political and military roles played by Buddhist priests during the civil war at the end of the Edo era, when the Tokugawa shogunate was opposed by various clans. They overthrew the old regime and ushered in the Meiji era, when the emperor reigned. During the Edo era when today’s Yamaguchi Prefecture was known as the Chōshū clan, Shin Buddhism priests belonging to temples in the clan's territory set up a new school for monks to learn both liberal arts and French style martial arts to prevent Buddhism and temples, which were linked to the Tokugawa shogunate, from being destroyed. This study focuses on one of the priests involved in this movement, Kagawa Hōkō, and aims to clarify the reality of previously undocumented espionage activities using three historical documents. The third document is a transcript of an interview with the wife of a merchant in Osaka who was a supporter of the Chōshū clan’s espionage activities. It provides specific details about how the spies raised the funds they needed, how they communicated their information, and how they evaded the authorities by moving from one hiding place to another. There was also a monk, a spy mate of Hōkō, who abandoned his espionage duties and instead spent the money on sake and geisha. He ended up abducting a geisha and ran away, which led to Hōkō being imprisoned by both the shogunate's Shinsengumi and the Chōshū clan on two separate occasions. After this, Hōkō and his comrades became responsible priests at the heart of the administration of the Shin Buddhism Hongwanji sect in the Meiji era, and he became the president of a university established by the sect, but in his twenties, he was involved in military activities like this. This is a new and interesting specific case that has previously been undocumented.
