西表島)干立村の黒島英輝さんの一代記
2025/01/25
西表島の干立(ほしたて・フタデ)村の、黒島英輝さんの語りをお届けします。
黒島さんが青年団だった大正時代に、干しあがる字よりは、空にかがやく星にしようと決議されて、このおはなしを聞いた時代には「星立」だったので、それに統一してあります。
反骨一代 台湾・中国にしるしたある西表人の足跡
くろしま えいき
黒島 英輝 述
安渓遊地(山口大学教養部助教授)・
安渓貴子(山口大学農学部非常勤講師)共編
はじめに
編者のことば
編者がはじめて星立村の黒島英輝さんに出あったのは、西表島に通うようになって2年目の1975年ごろだったと思う。それから今日まで16年にわたって、たいへん親しくおつきあいををいただくことができた。この記録は、そうした長いつきあいの中で蓄積されてきた、黒島英輝さんからの聞き書きと、聞き取りノート、さらに、晩年お書きになっていた、思い出の記をまとめたものである。
初めてお合いしたころのことは、今も鮮やかに覚えている。片足の膝が少し悪いようだったが、エンジンつきのサバニを駆って浦内川の上流まで連れていってくださったことがあった。緑がいっぱいの星立の道をのんびりと自転車をこいでおられる姿が、今も懐かしく思いだされる。
おはなしをうかがってみると、ユーモラスな語り口のなかから、たくさんの修羅場をくぐってきた人だけがもつ剛胆さとやさしさが感じられた。地の文と会話とが、島の言葉と他所の言葉の綾織りのように、陰影をもって緩急自在に流れだしてくる話術も、みごとな芸の高みに達していた。夕刻、つつじの咲き乱れるこぢんまりした萱葺きの家におじゃますると、いつもにこにやかに迎えてくださり、「グシヌマンナ(一杯やらんか)」と言われた。少しばかりの泡盛をなめるようにして、その尽きることのない話の泉に聞きほれていると、いつしかあたりは夕闇につつまれ始めるのだった。
始めは、台湾から中国で野戦郵便局の局員として7年にわたる体験をされた英輝じいちゃんの話を聞くのが苦痛に思われる時もあった。それは、西表島のことが知りたいのに、いつの間にか台湾や中国の話になっていくということと、何度も同じ話が出てくるのではないかという気がしたからであった。しかし、今、のべ30時間におよぶテープをあらためて聞き返してみると、始めは同じように聞える話でも、2度聞けば2度だけ、3度目ならばそれだけ、そのたびごとに違う味わいが感じられた。すぐれた伝承をもつ人びとが、しだいに少なくなっていく今日、黒島英輝じいちゃんは、本当に得がたい経験と伝承を私たちに伝えてくださった。私たちの論文や報告の中にも、英輝じいちゃんのお話がなければ、けっして書けなかっただろうというものは多い。
この記録の中で、特に異彩を放っているのが、生い立ちの記とそれに続く海外での生活についての部分であろう。子供のようないたずら心と茶目っけを終生失わなかった人物が、そのいたずらの数々を天心らんまんに語る――そういう記録は、これまでの自分史などでは、なるべく触れないようにされてきた部分ではなかっただろうか。一見、ほほえましい自慢話のように思えるエピソードもある。しかし、そこに脈々と流れているのは、権威をふりかざす者を笑いとばす反骨のエネルギーである。ただの横着をした話と思える所もあるかもしれない。しかし、智恵を働かせて人をかつぐ能力をもつ人物が、最高の価値を与えられるというのは、世界の神話のなかではおなじみのモチーフである。みごととしかいいようのない、この人物を育んだのは、やはりあのふところの深い西表島の山野と海であったのだろうか。
編者のひとりの安渓遊地が、つつじが咲き乱れる英輝じいちゃんの家で、手に汗にぎる武勇談のかずかずと泡盛を楽しんでいる間、貴子はナサばあちゃんとよもやま話をした。この記録のなかに浦内村に生きたナサばあちゃんの語りが収録できたのは幸いであった。編者が2度のアフリカの旅を終えて西表に帰って来た時、西表に英輝・ナサご夫妻のお姿はなかった。ばあちゃんの病気の治療のため、石垣島の息子さんの家に移られたのであった。しかし英輝じいちゃんは西表の人間であり続けようとされた。住民票を動かさず、年金を受け取るためという名目で少なくとも毎月1回は生れ島星立に帰ってこれるようにしておられた。
石垣島のお宅に、子供連れでおたずねした時、子供がばあちゃんにクレヨンで絵を描いてあげると、ばあちゃんは「フーン、いいねえ。ばあちゃんもこんなに描いてみたいなあ」と目を輝かされたのが印象に残っている。年に2、3度の西表行きの行き帰りには必ずお寄りして、たとえ30分でもお二人とともにすごすのが、私たちの欠かせない習慣になっていった。
1986年ごろ、ちょうど山田武男さんの『わが故郷アントゥリ』(ひるぎ社、おきなわ文庫)が出たころから、英輝じいちゃんは手記を書き始められた。物を大切にする明治の人らしく、その原稿は日めくりのカレンダーをちぎったページの裏に書かれていた。それは、こんなふうに始まっていた。「私、黒島英輝の生れてから今日までの事を書き、また、星立村の成り立ちもみんな子や孫まで知らせたいと思って筆を取りました。じいさんの思い、しみじみ見てください。さようなら」波乱に富んだ人生の最晩年に、英輝じいちゃんのもたれた子孫への思いがこめらている、ということであろう。その手記の内容はすべてここに収録した。文の末尾に(原稿)とあるのがそれである。私たちは簡潔で凝縮した文体のじいちゃんの手記が、どんどんふくらんでいくことを待ち望んだ。じいちゃんの16歳のころからの口ぐせに「100歳という年までは聞いたことがあるから、自分は必ず102歳まで生きてみせる。90歳までは田んぼをつくる」というのがあった。だから、きっとまだ時間はあるのだと思って他の仕事にかまけてしまっていた。1990年の暮れにお会いした時、「うちも、やがて88歳のお祝いがくるぞ、うちの書いたものは、お祝いに間に合うようにあんたがまとめることになってるはずよ」とおっしゃった言葉が今も耳の底に残っている。
1991年4月23日、黒島英輝じいちゃんは病弱のナサばあちゃんを残して、帰らぬ人になられた。昨年の暮れに星立を想いながらおっしゃっていた「うちの庭のつつじ、今度もうんと咲いとったはずよ……」これが私たちの聞いたじいちゃんの最後の言葉であった。
聞き書きの部分をご本人に見ていただくことができないことが悔まれるが、英輝じいちゃんの令息であられる黒島英雄さんに元の原稿をお送りして、不都合な点がないかどうか目を通していただくことができた。また、星立の長老のおひとりで、沖縄の山野の植物などについての著作ももっておられる黒島寛松さんからは、骨折のため御入院中にもかかわらず、編者の誤りについての訂正と追補をお送りいただき、次のようなご挨拶をいただいた。お力添えに心から感謝を申し上げるとともに、つつしんで黒島英輝じいちゃんの御冥福をお祈りしたいと思う。
黒島寛松さんによる追悼の辞
黒島英輝は、私の最後のたったひとり父方の従兄であった。本人が自分の生い立ちで述べているように、幼少の頃から村落の「破れ者」であった。「破れ者」とは、方言の直訳で文字面からの感じは悪いが、まァ、やんちゃ者といった程度のことばである。言うことは正しいが、表現や態度がちょっと常識はずれみたいなところがあって、とかくうるさく、煙ったい状態になるので敬遠される。といって決して憎まれはしなかった。本人が言っているとおり、村落自治会の幹部を戦前戦后を通して20年も勤めているのが何よりの証拠。年をとってからは、角がとれてすっかり好々爺で、話好きで話せばいくらでもきりがないのだが、年を取りすぎて、自書の原稿にも録音にもその十分の一もいいつくされていない。私の知っている限り補足してあげたいが、病床に横たわる身で思うようにいかないのが残念。
ふつつかな従兄、英輝を光輝ある報告書に掲載して頂き、安渓先生御夫妻の御好意に満腔の謝意を表します。
従兄よ、以て冥すべし。 黒島 寛松
第1部 星立わがシマ
ウナリ崎の女神
昔、西表で神様がひとりだけ不足していることがわかりました。フチ(サンゴ礁の割れ目で舟が出入りする場所)ごとにひとりずつ必要な神様が足りないのです。
神様の集合場所は、浦内川の上流のカンビレーですから神様が全員ここに集合して相談しました。そこで、ある神様がヤマトゥへ行ってひとりお連れして来よう、といいました。「できますか」「できますとも。賭けてもいいですよ」ということで、その神様がヤマトゥへ行って探してくることになりました。
この神様は、長崎に上陸しました。長崎にも、神様の集合場所があったそうです。そこで、こんな話をしました。「西表の神の集合場所であるカンビレーという場所には、赤玉、シシ玉、勾玉というすばらしい宝がいっぱいございます」これを聞いて、ひとりの女の神様が「それでは、私が行ってみましょう」ということで話がまとまりました。赤玉というのは、方言でアハダンという赤と黒のきれいな豆(和名はトウアズキ)のことです。シシ玉というのはジュズダマのことで、星立ではウバンダンといいます。勾玉というのは、実はフチピ(シマオオタニワタリ)の若葉の先が巻き込んだものだったのです。女神は、これを見せられて、西表の神様たちにすっかりだまされたと知りました。あきれた女神は、帰りたいと思いましたが、船もなく帰る方法がありません。しかたなく、西表の神様になることになって、ウナリ崎に落着かれました。
ウナリ崎の神様はこういうわけで女の神様なのです。それで、稲穂が出てから初穂刈りの籾を乾燥して、玄米を神様に捧げるアルンダシの行事が終わるまでの期間、ウナリ崎の沖を女が通ることはできないとされていました。私が6歳の時まで、この時期だけは、女たちは、ウナリ崎の手前で舟を下りて歩いていましたよ。(1982年8月17日)
巨人マヤパダラの話
昔、西表にマヤパダラという巨人がいたといいます。星立から行って、浦内川を越えた所のカトゥラにある石にマヤパダラの片足の跡が残っています。この足跡は、つま先の方は、深くはっきりしていますが、かかとの方はよく見えません。まず、崎山のヌバンの崎を踏んで、カトゥラを踏んで、それから石垣島を踏み、宮古を踏みして、沖縄島の一番北のヤンバルの奥という部落の所を踏みました。今でも奥には、足の型が残った石があるはずです。沖縄の北の端を踏んだら、そのまま座って海に沈んでしまったといいます。これだけを聞きました。(1989年8月27日録音)
黒島英輝さんの発音では、マヤパダラのラの音は、鼻に息が抜ける鼻音です。ところが、次に載せた黒島寛松さんの伝承では、マヤパタラという名前になっています。星立から祖納へ行く途中にマヤパタラという地名がありますが、この巨人の名前と関係があるのかもしれません。
マヤパタラは、星立の裏のカナザヤン(金座山)に腰をかけ、片足はカトゥラ入口の絶壁、片足はタカラの浜のジーイリャの天井をふまえ、両腕を伸ばして浦内湾の魚を捕って食べたといいます。村人たちがマヤパタラの高さを計るため、浦内湾の最も深いところに立たせたら膝がぬれただけでした。次に舟浮湾に立たせたら、股のつけ根までたっぷりつかり、睾丸がぬれて冷え込み、疝気を病んで死んだといいます。これは、長兄の黒島寛良に聞いた話です。(1991年6月、黒島寛松さんによる)
浦内川の大洪水
イミシクに住んでいた人々が星立に下りて来たころは今と地形が違っていてカナザヤンとウマタヤンは離れていたといいます。また稲葉(イナバ)川は一方がタカラのジーイリャとナーニ崎のところに流れ出、もう一方は与那田(ヨナダ)川に出ていました。稲葉川は浦内方向へは流れず、アトゥク・浦内(ウラウチ)はウマタヤンとひと続きになっていたのです。およそ千年前に現在の浦内川の上流の稲葉川に大雨のため大水がでてあふれ、アトゥクには20間くらいの幅で洪水がおしよせ、そこが切れて新しい河口になり浦内港ができました。これより前の稲葉川は、一方はミナピシからクモッタ・フカンタ・マラントゥ・チクララーを通って与那田川に出、もう一方はウマタ・サーチ・タカラを通ってジーイリャに出ていたといいます。こうしてウマタヤンとカナザヤンは、離れ離れになりました。
ですから、私の考えとしては、もと浦内部落とウマタヤンはひとつで、星立部落はこれとは別になっていたと思います。昔の星立は、タカラより北の方にいたのですから。
稲葉川がウマタヤンと浦内部落のトゥドゥマリのところに切れていったので、ミナピシ・クモッタ・フカンタ・マラントゥ・チクララーの方の水はバダリャから浦内の方向、つまり今と反対の方向に流れたから、その辺は田圃になったということです。そういう歴史のために、これらの田圃は浅くなったり深くなったりしています。その後タカラは北風のために砂が吹き上げられて高くなり、星立にいく所のアラシクとマラントゥも同じように高くなりました。サーチから上も水がなくなり皆田んぼになったとい言伝えられています。アトゥクが浦内と地続きだった証拠にアトゥクには墓が上の方にあります。これを見てもこの言い伝えは本当であると思われます。これは、養父の大濱正良から聞いた話です。(原稿)
神の魚と大津波
昔、魚を捕る人が海で魚を捕って、タカラの浜のジーイリャという洞窟に泊りました。刺身を切って、御飯を食べて、捕れた魚は、アマダといって魚の燻製をつくるあぶりこを作って干しておったそうです。その中に、格別大きな魚がいて「お願いですから海にかえしてください」と人間の言葉をしゃべったそうです。この魚は、神の魚であったということです。しかし、漁師たちは、この口をきく魚を海にもどしてやろうとはしませんでした。真夜中のこと、海がゴーゴー鳴って、なにものかが「シサレー、シサレー、シサレー」とあいさつする声が聞えて、海から白いものが上がってきました。「あんたは、旧の3日目が月の出る頃の高さの波をあげたら降りて海に来られるか、そうじゃない時は、10日目の日の月の高さだけ波をあげたら出られるか?」と聞きました。この白いものを、方言でインカプラーといいます。インは海、カプラーというのは、被り者という意味ですから、髪を被った海の神様ということでしょう。すると、アマダの上の大きな魚が、次のように返事をしました。「もし、10日目の月の高さの波をあげたら、人間は、みんな溺れ死んで、世の中にいなくなるでしょう。ですから、3日月の高さの波だったら自分はゆっくり降りられるし、人間も助かるでしょう」それを聞いて、インカプラーは、海に沈んでいきました。
このやりとりを、アマダに火をくべていた男ひとりだけが起きていて聞きました。あわててアマダの上をみますが、いつのまにか神の魚の姿は見えません。それどころか、魚はもう1匹もいません。それで驚いて、仲間をみんな起こします。「大変だ、あぶないぞ」と一部始終を話しました。「『自分が行ったらすぐ波を乗せるから』というていったけど、もう沖には白波が来そうな感じがするぞ、ああ危ない!山に上がろう」というてウマタ山にあがったそうです。それで、男たちは命びろいをしました。その時に津波は洞窟の上の崖の所まであがって波の花がはね返りました。それがタカラのナンダデチチ(波立て頂き)という場所です。
助かった人たちが、海辺に降りて行ってみると、こんどは海がガラーッとひいて、打ち上げられた魚がいっぱい死んで腐っておったそうです。今の星立の裏の所には、方言でチクラーという、ボラの5、6斤ぐらいのものがいっぱいおったので、ここは今でもチクララーと言っています。
その時、このアマダはタカラの田んぼのあったところをずっとながされて、はるか南側の山の斜面にひっかかっていたそうです。それで、そのアマダがあった場所をアマダウチというようになったと言い伝えられています。ウチというのは、ウツボの類のことですが、たぶんウツボみたいな大うなぎがのっていたのではないでしょうか。
このナンヌリ(津波)のあと、マラントゥの大きな田んぼに材木の大きなのが打ち寄せられていました。それで、そこをユリキウブァ~シ(寄木大マシ、~は、鼻にぬける音です)と呼んでいます。ここの田んぼは、浅い所は膝までしかないのに、深いところはとても深く、おそらく津波で埋ったのではないか、と思われます。タカラの私が作っていた田んぼも同じように浅いところと深いところがあります。また、ブリイユ(群れ魚)が入っていたという田んぼもあって、ブリマシというのもあります。ブリは群れ、マシは田んぼのひと桝をさす言葉です。(1982年3月22日と1989年8月27日録音。ブリマシについては1991年6月、黒島寛松さんによる)
星立村の始まり
私が小学校の2年生のころですから、大正2年の2月ごろに叔父であり、私の養い親であった大濱正良が星立部落の建ち始まりの話をしてくれました。フタデ(星立)部落の始まりは、タカラで、その後ナーニ、イミシクを移り移りして今の星立村は4番目の場所だといいます。
タカラ部落はタカラ浜の北のタイフチキの上の平地にありました。タイフチキというのは、今の人は間違ってタイフチなどといっていますが、海岸の岩が風化して、岩の全面にダニ(タイ)がついている(フチキ)ように見えるから付けられた地名です。タイフチキの上に住んでいた時は、ウファ~ピダが船着場で、そこからタカラ部落への上り道でした。水は海岸ばたで汲み、上に運び上げて使ったといいます。そもそもタカラ部落は浦内から移住して部落ができたそうです。
タカラ部落は船着場が悪く、ニシカジ(北風)に悩まされたので、ナーニ部落に移転しました。ナーニにいたときは、船着場をタカラの浜にしていました。
しかしそこも船着場が悪く水も不自由だったのでさらにイミシクに移り住みました。ここでは、南側に向いたところを船着場にしていました。ところが、浦内川の上流にある田んぼから稲を刈って舟で運んでくる時に、南風がよく吹くのですが、波がパタンパタンするために大切な稲束が濡れてしまいます。それと、イミシクも水の便が悪くてあまり良いところではありませんでした。
イミシクに住んでいた時は、アリバサ~というところから水をとっていたといいます。ここには今は、少し田んぼがあります。アリバサ~というのは、「東のバショウの下」という意味だと思います。そこは着物を織るイトバショウが生えた谷間でした。後に牧場にした時には、牛の水飲み場になっていました。いまでも2間ぐらいりっぱに階段のあとが残っています。
養父は言いませんでしたが、私は、タカラの前にも人がいた場所があるのではないか、と思っています。それが星立の人であったかどうかはわかりません。それは、今、浦内川の河口になっている所の西側です。地名でいうと、ナメラという海岸べりの場所の上の台地です。ここは、平坦地で、今はピサヤン(平たい山の意味)と呼んでいます。そこには、墓も残っていますから人が住んでいたことははっきりしています。しかし、ここは、北風の時には舟が付けられません。(原稿)
宇保屋兄弟が山を降りてくる
当時、イナバ川は、現在の与那良川とタカラのジーイリャ洞窟のある浜の2箇所が河口になっていました。今、星立になっているところはもとは川だったのですが、潮の回り方でしだいに砂が上がって、部落ができそうでした。その白浜の所が良い所だし、岬があるから南風でも波が静かで、イミシクのように稲穂を濡らすこともないと、と宇保家の祖先の兄弟2人がはじめてイミシクからここへ移りました。始めは何もない、砂浜の吹きさらしのところでしたが、しだいに木が生えて、砂がたまってきました。これを見て「下のカニク(砂のより集まった場所)部落に行こう」といって、ひとりまたひとりとイミシクから下に移りはじめました。こうして、ついに部落全員が移り、今の星立部落をつくったといいます。
水は、宇保の人はウイヌカーの水を飲みました。これは、部落でニンガイ(祈願)をして、宇保以外の人も利用する大切な井戸でした。部落の真ん中から道切りをして宇保に近い西半分はインヌシマ(西の村)といい、ウイヌカーから水をとり、東半分は、アンヌシマ(東の村)といって、与那田川を渡ったところにある、カビヤカー(紙屋井戸)を利用していました。しかし、満潮の時は、カビヤカーの所にいけませんので、みんなウイヌカーの水を利用しました。
トゥンシケの人は、元の御嶽のジンバイカー(「配膳をする井戸」の意味)の水、カネー(黒島寛松さんの家)の人は、部落の後ろの方だから、チャーネーカーの水を飲んでいました。チャーネーカーというのは、「茶いれ井戸」という意味で、その水は、チカサ(神女)なんかにお湯をわかし、役人なんかにお茶をいれる水として使われていました。後に、トゥヌシクヤーもカネーも屋敷の中に井戸を掘ったので、ジンバイカーの水もチャーネーカーの水も使わなくなりました。けれども、先祖が使わせていただいた恩という意味で、シチ祭の井戸のまつりのときには、トゥンシケの人はジンバイカーに、カネーの人はチャーネーカーにかならず酒と料理をだして祈願してもらっていました。
水道が普及して、あんな井戸の願いなんかしないでもいい、といって井戸をきれいにすることもやめていましたが、1981年に復活させて、今はシチ祭には必ずやっています。
御嶽は星立の上にあったので今では星立部落民はウイヌウガン(上の御嶽)と呼んでいます。また星立の前にある御嶽をフタデウガン(星立御嶽)と呼ばれています。これはイミシクからきた人が大勢集まったから宇保屋の人が建てたもので、村人は皆で一緒にこれを拝むことにして行事を始めたといいます。(原稿と1982年3月22日の録音)
宇保屋の兄弟と神様
イミシクが不便で困っているので、祖納岳の山かげ、カナザヤンの山かげで、台風が来ても安心しておれる、今の星立に住むのはどうかと宇保兄弟は考えました。
2人で話合い、兄がまず行ってみました。兄はフンシ(風水)を見て、良い所であると判断し、家を立てる場所を決めて印をしてきました。その夜、弟に話すと、弟も明日見てくると言います。兄が早く行ってみてきなさいと弟をそこへ行かせました。弟は、兄さんは家を造る場所がよくわかる人だからと思って行ってみると、今の川平屋敷の敷地の四隅にくいが立ててありました。そこで弟は、そこを切り払ってから山に行き、柱にする木を3、4本切って、今のウイヌカーの所へ運びました。その夜兄の家に行き、「兄さん、今日行って見てきました。山にも行き柱の木を切って山の下に降ろして来たましから、私の家を造ってから後で兄さんの家を造りましょう」と言いました。兄は、「いやいや、まず私の家を造ってからだ。おまえの家は後で造る」と言い、兄の家から造ることにしました。
翌日兄が行ってみると、自分が杭を立てておいた所を、弟が切り払いをしてありました。兄は仕方がないと思い、少し離れた所で風水をみて、今の宇保の敷地を切り払って自分の屋敷としました。その翌日から2人で家造りの準備をして、兄の家を造り、また、弟の家を造るうちに、ひとりふたりと他の人も移ってきて、やがて50戸の家が建ちました。そこで、宇保家の人は拝所を作ることを部落民に提案しました。部落民からムトゥウガンがあるからもうよいではないかという意見が出ました。宇保家の人は、「後の神(ムトゥウガン)は皆を抱いて守ってくれるが、敵は前からも来るから村の前には村を守る神が必要だ」と言って、皆を承諾させて前に拝所(フタデウガン)ができました。
フタデウガンのチカサ(神女)とチヂビは宇保家の内から選びました。ところが、祝の時にチカサとチヂビが座る位置が、フタデウガンが上にムトゥウガンが下になってしまいました。ムトゥウガンの人は士族であるので「士族が平民の下に座ることはできない」といって、宇保の次男の家である川平家へいき、「ムトゥウガンをあなたと兄さんとで拝んでくれ」といい、香箱、ヨチ(簪)、インザ(円座)、白い着物を渡しました。川平家の人がおるうちはよかったけれど、今はいなくなってもともとの士族の血筋の人もいないので、チカサに困っているようです。(原稿)
その他の井戸
アダヌカーというのも聞いたことはありますが、黒島寛松さんの田んぼの上にありました。あれは、私らは知らない井戸でした。あとから井戸をさらってアダヌカーというと聞かされました。これも今は埋まってしまっています。この湧き水を利用して、ちいさな田んぼをつくっていたといいますが……。
スーカーというのがあります。これは、潮の井戸という意味です。田んぼをつくってイナバから星立に行ったり来たりしておるので、新しい米を刈ってくる時に拝むための、ビジリ(霊石)が必要だったのです。今の給油所のそばに大きなガジュマルの木があったので、そこにもたせかけるようにしてビジリを立て、そのそばに井戸を掘ったそうです。真水が出るだろうと思ったのに塩水だったので、スーカーと呼ばれるようになりました。この場所のすぐ上がアダヌカーで、あのあたりをスーカーヌチピ(潮井戸のそば)というのだけれど、今ごろの人は、チュッカーヌチピ、つまり、急須の尻というので、なんのことか分からなくなっています。
スーカーのビジリは、大正15年に暴風でガジュマルが折れて、その下敷きになってどこかへいってしまいました。そのガジュマルを取りのけたあとに道路を作りました。その後ユタに頼んで、なくなったビジリの石を捜してきてまた立ててあるという話です。それで、石3つのピヌカン(火の神)とひとつの所にたっています。
平得さんの家に行くところの大きいガジュマルがあるけれど、そこにもビジリがありました。アンネー(新城家)のフカイキ(福木)にもたせかけてありましたが、あれはどういう意味のものだったのかわかりません。(1982年3月22日録音)
豪傑ウーニファーの伝説
この話は、大正元年か2年ごろ、大濱正良から聞きました。
昔、星立にウーニファーという大変な力持がいたと伝えられています。この人は、饒平名(のひな家、屋号はアーレ)という家の生まれでした。
ウーニファーは、西表島から沖縄へ行く「ヤイマジシン(八重山地船)」の船頭でした。太さ4寸、長さは16尺もあるソー(竿)を手にして船を操る豪傑であったといいます。首里王府へ上納を納めるのにウーニファーがいなければ八重山の各島々の上納を集めてウキナー旅(沖縄への旅)をすることはできませんでした。
船は6反帆(6反の布で帆を張った船)という6人乗りの船で、上納米を3斗3升の俵で300俵積んで、琉球王府に年4回届けていました。ウーニファーは西表の上納米を船に積み込み石垣島へ着け、さらに石垣の上納米をも積み込んで首里の王府へ届けていましたので、彼がいなければ八重山の上納を納めることが出来なかったといわれたわけなのです。
そのウーニファーの使っていたという竿を私は見たことがあります。昭和の初め頃仲筋家(屋号、ナッチェ)の家を新築するときのことです。1本だけおかしい材が家の垂木として使われていたのです。何がおかしいかと言えば新しく切り出した材ではなくて、材木に古い傷跡があるのです。私は、この材はどうしたのかと問うてみました。そうしたところ仲筋さんは「これはウーニファーの竿だよ」と答えてくれました。どうして饒平名家のウーニファーの使っていた竿が仲筋家の家の建材に使われていたのかはよくわかりませんが……。
琉球の那覇港にウーニファーの乗った船が入港するとなれば、港では恐れながら彼の船の入港を待ちました。恐れながらというのは、進むのに邪魔になる船があると棹でその船の底に穴をあけて沈めながら入港するほどだったのです。
ある年ウーニファーが入ってくる姿を見つけて、那覇港の地船の船頭主たちは彼の船を入れないようにと港の入口を塞いでしまいました。それをもウーニファーは太さ4寸、長さ16尺の竿で入口を塞ぐ船をけちらして真っ先に港の中に入って行き年貢を王府へ届けました。いつもと様子が違うことに気付いたウーニファーは船シンカー(船員)にこう言いました。「自分は年貢を納めて無事戻れるかどうか分からないし、もし無事に戻るなら大声で歌ってくるから、その歌を聞いたら船のともをはなしてすぐに出港出来るように準備しておきなさい」と申し付けました。
男たちが辻(昔の遊郭)の女の家で酒を飲みながらウーニファーを殺す計画の打ち合わせをしていると、偶然にもそこの女がウーニファーとなじみの女だったのです。かれらはそれを知らずにすっかり話を決めてしまいました。そして、いよいよあと5日でウーニファーが入港するという日、彼等はこの女の家にウーニファーを招くことにしました。女は入港の日、港に待ち兼ねていてウーニファーにこのことをしらせました。
ウーニファーは年貢米を運びこみ納めました。そこに待ち受けていた他の船頭主らが彼を亡き者にせんとして策略をめぐらし、「わざわざ御苦労さん、是非一杯飲みつつ疲れなおしをしては」と誘いました。彼は辻の遊郭へ案内されて行きました。上納米を納付し、その夜8時までにというので、さっそく案内された所へいくと大勢の人が集まっていました。
既にウーニファーはその策略を感じとっていて、部屋に案内されると「ウン、これはいよいよ自分を殺すつもりだな」と思いました。ウーニファーは万が一のことを思って、柱を見、その上の桁をつかまえてみて「いざという時はこれをはずして武器にしよう」と考えてその下に座りこみました。
みんなは、酒を飲みごちそうを食べ始めました。「ごゆっくりと」と言いつつひとり減りふたり減りしていきます。するとそばで「ガチャガチャ」という音がしました。どうも刀のサヤが当る音のようです。これを聞いたウーニファーは、すかさず桁を片手で引き抜き、ひと振りすると天井のランプをガバラーと割って消すと、外へとびだしました。灯りを消された彼らは、真っ暗闇の中でたがいに切りあう始末です。
ウーニファーは前もって船子に申し合せておいた通り、辻から大声で歌をうたいながら那覇の港に着きました。船に近づくとますます高らかに歌をうたい、「錨を上げろ」と叫びました。船員たちもその歌を聞いていて出帆の準備をしていました。それは「私が大声で歌ってきたら船出の準備をしなさい。もし私の歌声がいつまでたっても聞こえなければ船員達だけで船出して帰れ」と聞かされていたからです。
船出して「すぐ西表に」と言うので船員達は「いったい何事ですか」とたずねました。ウーニファーはいちいち語って聞かせ、午後3時ごろ西表に無事到着したそうです。さっそく御嶽に参って手を合わせ、無事帰りましたと報告をしました。
この事件の1年後、ウーニファーの行方がわからなくなりました。家族は心配し部落中で探したところ、星立のアタネという場所でウーニファーの愛用していた杯が見つかりました。人々はウーニファーがここから昇天したものと信じ、そこに墓を造ってウーニファーを祀りました。その墓は入り口を石で門のように造り、かがんで出入りをするようになっていました。この場所は、暴風で砂が来たりして、墓が埋ったりもしていました。戦争中は、この墓は、盃ひとつしか葬ってないことですから、学校の生徒たちの避難所として利用されていたそうです。この石の門は、今はもう崩れています。(原稿と1986年4月7日の録音)
以下は、黒島寛松さんが、お兄さんの寛良さんから聞かれたお話です。寛松さんは、「民話伝説の類は、口伝えによるから、同世代でもこのような違いがある」と書いて不思議がっておられます。
ウニファーというのは、「鬼っ子」の意味で、怪力無双の怪童をいいます。ウニファーは、父は饒平名屋(通称アレー)の人、母は仲筋屋(通称ナッツェ)の人、つまり本室に子がなく、外腹に生ませた落胤でした。父は士族で、ウニファーを幼少の時分から引き取って育て、一人前の役人にするつもりで学問を教えました。ところが、本人は学問を好まず、もっぱら身体強健に専念し、文字を教えようと筆を持たせると両手で筆を握り、めちゃくちゃに書きまくるという状態でした。成長して何になりたいかと父がいうと、「船乗りになりたい」といいました。
7歳の時の大晦日に母方の庭掃除をするといって竹箒をかついで行ったまま、2度と帰らず、以後母方で成人するにいたり、幼少からの望みどおり貢納船八重山地船の船頭になりました。正しい氏名は伝わっていません。有若氏饒平名家に籍があったはずですが、同家の家譜が減失して不明となっています。
ウニファーにはこんな武勇伝が伝えられています。八重山から貢納物を満載して那覇の泊港(当時、那覇港はまだありません)に入港します。沖縄各地から同様の船が碇綱を錯綜してめいめい良い位置を求めて停泊しております。その中を「八重山地船のお通りだ。道を開けよ」とどなりながら、自慢の直径4寸、長さ16尺の水竿を以って群がる船を右へ払い左へ払い、当たりが悪いとボコッボコッと船の横の腹に穴があきます。
こんな具合いでウニファーは同業仲間の恨みを買ったらしいのです。月のきれいな番、辻遊廓からの帰り、浜辺に出ると、船かげから覆面したのが7、8名バラバラととび出して取り囲みました。とっさに帆柱を立てた船の傍へとび退き、主帆柱を引き抜いて逆さにし、3分の1ぐらいぐぐぐぐーッと砂浜に挿し込み、帆桁の横桟の太竹を引き抜き、両端を握ってねじり曲げて帯にしめ、帆柱を背に身構えて「さあ、来い!」とどなると、不逞の輩、ちりぢりに逃げた。おかげで無事帰島。翌年の同じ時期、また泊へ行って見ると、浜辺に挿し込んだ帆柱がそのまま立っていました。ありゃ、とんだ物忘れをして気の毒なことをした……と引き抜いて、ほうり投げてやった……と。(1991年6月、黒島寛松さんによる)
造船所だったと思われる洞窟
タカラの浜にあるジーイリャという洞窟は、昔の人が船を造った所だと思われます。イリャというのは、横穴の洞窟のことです。洞窟の所には、山からしたたり落ちてくる水をためるように、岩を掘った所があります。洞窟の天井に、斧で岩を削った跡が残っています。この斧の跡は今でも見えるはずです。これは、船を作る時に、天井が低いので削ったのだろうと思えるのです。(1982年3月22日録音)
昔の馬艦(マーラン)船は、舳(みよし)が低く、艫(とも、船の尻)が突き立って高いのです。そのため、高い所で鋸を引いたり、釘を打ったりするのに洞窟の天井につかえるので、ツルハシ状のもので天井を削ったあとが、今も歴然と残っています。(1991年6月、黒島寛松さんによる)
第2部 おいたちの記
戸籍よりもひとつ年上の私
私は戸籍上は、明治38年生れとなっていますが、本当は明治37年の夏に生まれました。その訳は、こうなのです。私の父は黒島英甫という名前で、私の生れる前の明治37年4月か5月ごろにすでに死去していました。父、英甫は石垣英護の長男でしたが、次男、英助がいたので黒島家(屋号ピサッサ)へ養子にやられたのでした。母も私を産んでまもなく死去しました。私は母の死後すぐに母の兄の大濱正良(屋号プーレ)・カマド夫妻に引き取られ、この2人を養父母として成長しました。
両親ともになくなった赤ん坊の私はうまく育てられるかどうかわかりません。なんとか生きて育つようだというので、半年ほどしてようやく出生届けを出すことになりました。体が弱いので1年遅らせて出そうということで、出生届を出したそうです。明治38年1月4日生と出してあります。義理の両親は「あなたは本当はタツ年生れ」と私に言い聞かせていました。
こんなわけで私の戸籍上の生年月日は実際とは異なっているのです。
養父母とは姓が違う
大正元年に西表尋常小学校へ入学した時まで、私は大濱正良を父と思っていました。ところが他の人から「この人はあなたの父ではなく叔父である」と聞かされました。その時私は「なぜ私の姓は大濱でなく黒島なのか」と不思議に思っていたので、父母に尋ねました。両親は「そんなことはない、私たち2人の子供だ。他の人の話は聞くものではない」と、こんこんと私に話されたので、2人は自分の親だとずっと信じていました。大正3年になってから、私はじつは石垣英甫の長男であり、石垣英甫は黒島英匡に養子入籍しており、それゆえ私は黒島英輝となっていることを知りました。(原稿)
昔話が大好きでした
私が3、4歳の時のことです。私は近所の年寄りのうちへいっては、いつも昔話を聞いていました。いま、ここまでお話してきた昔話はみんなそんなふうにして、小さい時から覚えたものばかりなのです。それを見て、「こんな子供が年寄りの話を聞いて、なんになるか」と言った人がいたので、私は、「いや、昔の話きいたらが(聞いてこそ)ものわかるよお」と返答したそうです。それで星立の人はみんな大変驚いたそうです。そして、こんなものごころついてすぐの子供があんな口を聞く、これは天才かそうでなければバカじゃないか、とみんなうわさしていたそうです。
それと、私は体もしだいに丈夫になって、体力がる元気の子供といわれていました。ところが、学校に行くようになると、みんなの手に余り、「この子はもう、大きくなったら監獄の主になる」とまでいわれるようになったのです。
「破れ者」といわれた学校時代
大正元年に西表小学校に入学し、大正6年に卒業しました。
私はやんちゃ者で、他の人が言う事を「そんなことがあるもんか」と返事をしたりしていました。大正元年4月1日より学校へ行くように通知書が来ていると養父母から聞かされました。「学校という所はどんな所か」と聞くと「学問をする所だ」と聞かされ、また「人間はみな学校で勉強し、運動や遊戯などをする所だからとても楽しい所だ」と聞かされました。それで4月1日から学校へ行く事になりました。入学式には祖納、星立、船浮、3部落の子供がたくさん集っていて、親子が大勢いました。10日ぐらいはおとなしくしていましたが、しだいに自分のわがままが出てきて皆からいじめられました。それで4、5人の生徒を相手に喧嘩をしたら、先生の所にひっぱっていかれて罰を受けました。
在学中に学校で受けた罰は、20回以上になるでしょうね。例えば、遊戯のときに、女先生の尻をまくったというので、職員室で罰を受けました。その罰は、片手の上に白紙をおいて、その上に水を一杯に入れた湯のみを置くのです。先生が見にきて、もし紙が濡れていれば、もう一方の手にも同じものを置かれます。私は、しゃくにさわったので、そっと湯のみを横において、職員室においてあった刻みタバコに急須の水をみんなかけておきました。靴音がすると、知らん顔でまた手に紙と湯のみを乗せて立っていたものです。
2年生になるともっと力が出ます。6、7人かかってきてもまた喧嘩しました。祖納と星立の生徒で喧嘩がある時は、いつも先頭に立って叩きました。それで、みんなからヤブリムヌ(破れ者)と言われていました。
ある日今度は生徒の前に立たされて罰されました。それで「家へ帰る」と言い、学校の窓から飛び出て家にかけて帰って、ふろしき包みを家に投げ入れて、後を見ると生徒たちが後を追ってくるではありませんか。私は、家の裏のアダンブラ(アダンの薮)へ入り、大きいブーブーキ(ハスノハギリ)の上にあがりました。下を見ると、生徒たちは石を取ってアダンブラへ投げこんでいます。それを私は楽しんで見ていました。
私がなかなか出てこないので、皆はあきて学校に戻りました。私はその後で木の上からおりて家に帰ると、学校から「生徒が学校の途中で家に帰ってきている」と養父母に知らせが来ています。養父母からおこられたので、「私は悪くない。彼らが悪いから、私に喧嘩をふっかけてくるから。私は売られた喧嘩を買っているだけだ」と言いました。すると養父母が「いや、おまえが悪い」とおこるので、私は黙っておこられていました。
こんなふうにいつもおこられてばかりで大正6年3月に第6学年を卒業しました。操行は、いい時で丙、普通は丁でした。歌も運動もたいていの教科は最低の丁でしたが、習字だけは、細字で丙をもらったことがあります。(原稿と1982年8月14日のノート)
田んぼと山仕事にはげむ
卒業後は、家で養父母のいいつける仕事をしておりました。私は言われた通りなんでもやりましたので父母も喜んでくれました。
その後は毎日田んぼに引っぱり出されていましたが、炭坑での仕事に雇う人が来たので、1日30銭の日雇いとなりました。浦内炭坑の測量部人として働き、主に道の伐採をやりました。一生懸命働きましたので、炭坑の方でも私をかわいがってくれました。大正7年、今の浦内橋のそばのミナピシにあった皆干炭坑にうつり、後は星立の近くの炭坑で測量の仕事をやりました。やがて測量技手は炭坑を辞めて、沖縄へ帰りました。それで大正9年には、私も仕事を辞めて再び田んぼの仕事にはげみました。
それから養父母は家を造るために稲葉の山からキャンギ(イヌマキ)の木を払いさげてもらい、仕事にとりかかりました。沖縄の人2名を頼み、稲葉にイヌマキを切りにいきました。角材も取り終り、家造りにかかって3ヵ月で落成しました。(原稿)
スポーツ万能選手だった私
私は少年の頃は相撲が好きでした。月夜の晩は、皆で星立の前泊の浜で相撲とりばかりしたものです。私も一緒に毎晩相撲を取っていました。青年時代は学校の運動会後、祖納と星立対抗の青年の相撲大会があり、私は星立青年代表でした。
祖納青年会と星立青年会ができてから、西表青年会の運動会が始められました。私は、槍投げ、巾跳び、3段跳び、棒高跳び、俵運び、走り高飛びなどに選手として出ました。槍投げは、90間から100間も投げました。走り高飛びは他の人が跳ぶのとは違った跳び方で跳んだので、私のは「飛行機跳び」と大評判でありました。(原稿)
村じゅうを相手に大喧嘩
あれは、16歳の時でした。はじめて星立村じゅうを相手に大喧嘩をしたのは。
ちょうど、コレラを防ぐためにまくための石灰を作るという村作業がありました。タカラの浜にみんなで集まって、若い者はウル石(サンゴ)をもってくる、年寄りは薪をひろう、という仕事の分担でした。星立からタカラまでは舟で行くのですが、私はひとりで大きい舟に乗りました。ところが、みんなは、二人ずつ小さい舟に乗ったので、私は、みんなより大分遅れて着きました。タカラの浜に着いてみたら、みんな一仕事終えて火にあたっています。仕方がありませんから、私ひとりでウル石をひろいました。私もようやく火にあたって御飯を食べていると、そこへ私よりも遅い人たちの舟が入ってきました。それで、私は、その人たちが舟2杯分のウル石を拾いおわるまでは、仕事を始めませんでした。
そうしたら、いきなり先輩の一人にビンタを張られたのです。私も黙ってはいません。たちまち、つかみあいの喧嘩になりました。そのうち、向こうが石を投げてきましたので、私も投げかえしましたが、大勢に石を投げられてはかないません。少しけがもしてしまいました。それで、舟を捨てて走って村へ帰り、祖納の警察に、暴力事件であると訴えました。これが、午後3時ころで、そのあと私は、家に帰って、水あびをしてから一番座で昼寝しました。
4時ころになったら、みんな帰ってきて、私の家の前に集合しています。「このバカが。寝ておるさ」などと言っているのが聞えてきます。そこへやってきたのが警察なものですから、みんな驚きました。私は、石で私に傷をつけたことについて、詫びてもらわんかぎり訴える、と言張って、とうとう詫びさせたということがありました。(1982年8月14日のノート)
16歳で選挙運動をする
私は、16、7歳のころまでは、腕白で手のつけられない子供として西表では大評判でした。16歳の時、村会議員の選挙があって、私がその運動に行くと言ったらみんなが馬鹿にして笑いました。それで、私は「あんたらより上手にできるさ」と言ってやりました。
星立からは2人立候補しました。私はひとりの候補を応援して、上原と浦内の票をまとめることになりました。いってみると、相手方の運動員が、こんな話をしています。「うちの候補は師範学校を出ているのに、あっちは尋常4年卒業。あれなんかなんにもならんよ」ほう、運動というのはあんなふうにするんか、俺もあんなふうにしてみようかな、と思いました。でも、16歳だけれど、私もよく考えていました。それで、こんな言い方をしてみました。
「同じ部落から2人出てていますが、私の応援するこの人は人物です。あちらの候補は若いけれども、これも人物は人物です。しかし、今まだ幼い子供がおられるので、村のためには充分に活動することができないでしょう」これを聞いていた内地の丸岡文太郎という人が、「ほう、あんた年はいくつ?誰がそういう風に運動しなさいと教えてくれたか。あんたは一方をくさすのでなくて両方ほめあげて、しかも自分の候補を応援しておる。あんたはようやっている」と誉めました。「ああ、そうですか。私は私が見て知っておる本当のところをいうただけで、村の人でもやっぱりそう思うはずですよ」といいました。
あの時、浦内と上原あわせて25票ありました。これをすっかりまとめることができれば勝てます。浦内と上原の人は投票に行く前に、いちおう、うちの陣営の家の前のフカイキ(福木)の下に集まって、お茶を飲んでから行きましょう、ということで手配をつけました。
いよいよ選挙当日、25名の人がピシャッと集まってきました。私はどうしようかなあと思って、自分でこんな工夫をしておきました。それは、封筒を25枚用意して、中に炭酸紙(カーボン紙)を入れて封をします。それを投票所へ行く手前のところで、ひとりひとりに手渡しました。そして、「筆でなく、かならず鉛筆で書いてください。その時、この封筒を下に敷いて書いてください」とよく頼みました。みんなお金でも入っている、と思ったかもしれませんが、それを投票が終わった人から回収して、ひとりでこっそり封筒を破ってみました。そうしたら、みごとに25票まとまって来ています。うちの親戚だけで星立から3票はあるから、当選は確実です。
私はすぐ「大丈夫、当選だ」といいました。ある人が、「いや人の心はわからん。開票がすむまではなんとも言えん」と私にいいましたが、私はもう結果を知っているのです。開票は翌日です。みんなは、石垣に出かけていきました。私は、誘われましたが、行きません。「それより豚でもつぶして、お祝いの準備を始めた方がいいんじゃないか」といいますが、誰も相手にしません。
開票の結果は、38票あったとおもいます。みんなが不思議がって、「どうしてお前は当選当選といって開票もしないうちからいばって歩いたか」と聞かれました。私は、「ああ、神様が教えたよ」といって澄ましていました。今から豚を殺していたんでは、料理は間に合わないということで、お祝いは翌日になりました。選挙がすんで2か月くらいして、ようやく真相を話しましたよ。(1990年12月21日)
雨乞いに参加する
私が16歳ぐらいの青年の時、星立で雨乞いがありました。その時、浦内川の上流のイナバへいって歌った歌を今も覚えています。
アミヌヌシ タボラリヨ ハリ ユーガナシ
(雨の主 賜われよ ハリ 世加那志)
イナバカーラ チキダショリ ハリ ユーガナシ
(稲葉川 突き出してください ハリ 世加那志)
ドロドロドロセ タボラリヨ ハリ ユーガナシ
(どろどろどろと 賜われよ ハリ 世加那志)
バダリャ ミナトゥ アカマショリ ハリ ユーガナシ
(渡し場の湊を 赤く濁らせて下さい ハリ 世加那志)
私は、雨乞いの中心人物の「雨の主」の役割をやらされました。普通の青年より、1年早く部落会に入会しており、いちばん年下だったので選ばれたのでした。「雨の主」は2人いて、イナバは私、タキバルの方は私の兄さんがやっていました。タキダキの雨乞い歌というのがあったそうです。イナバの山奥で体中をピトゥマシカッツァというかずら(和名イリオモテシャミセンヅル)とクーチ(和名トウツルモドキ)の細いもので覆われました。雨乞い石というところへ行って水をかけて、そのあとそのままの格好で星立の拝所までこないといけないのです。いったん脱いで、舟着場でもういちどかずらをかぶる、と申しましたら、「いやいや、その前のミナピシ道路に出た所で着けた方がいい」と言われました。こんな坂道をこの重たいかずらを身に着けては歩きたくないなあ、と思いました。私は短気者だから「そんなことだったら、私はもうやらん。外して捨てる!」といいました。どうしても歩けない、と言ったら先輩たちが交代交代で私をおんぶして、みんなでかついでくれました。道路に出て降りる時に私が思わず笑ったもんだから、みんな大変怒りました。御獄に来てからは、私と兄さんが参加者全員に水をかけました。歌のことは、祝女の司のばあちゃんなんかがうたいますから、詳しいことは私にはわかりません。(1986年4月7日と1989年8月27日録音)
牛の耳に判を入れる祝い
牛の耳に判を入れて、ミシ(御神酒)をもってお祝いをする。その時の歌がありました。その歌は浦内と星立では違っていましたが、浦内の場合は、歌の最後にこういう文句がつきます。
ウナメマーヌ ブトー フサシカマ 雌牛の夫は雄牛だ
フサシカマヌ ウカリバドゥ ペーラス 雄牛は雌牛の背に上がって入れる
ペーラシバドゥ ハンジョウス 入れてこそ子孫が繁盛する
プーレ(大濱家)の人は、牛の願いをする役割でしたので、私は17歳でしたが、丑の日の牛の判つけの祝いの席に行くと、上座の方に座らされそうになりました。でも、「いやあ、下の方に座ってたくさん食べた方がいい」といっていつも若い人といっしょに下座の方に座りました。
浦内の牧場で牛の判を入れた場所は、今の浦内へ行く入り口に瓦葺きの家があるでしょう、そこへ行く手前から海岸へ行く道の向って右手にフカイキ(福木)が生えているけれど、そこでした。私は、牛を倒すのが上手だったので、「来年もまたおいで」と言われたものでした。8カ月ぐらいになる牛でも、耳をつかまえて首をねじって、後ろ足をひっかけておいて倒しましたよ。
牧場の垣根のことをシイとかウシマキといいますが、毎年1週間ほどかけてこの垣根を修理します。垣根は、高さ3尺ほど、幅は4尺ちかくありました。海べに面した牧場は、1尺おきに竹を立てて、それをクーチという蔓(トウツルモドキ)でしばりました。このクーチは、取ってきて1年間煙の当たるところにおいて、翌年使うようにしないと、すぐ腐りましたね。
垣の修理が終わったあとの祭をウシェキの祝いといいました。この時は、かならず牛を殺してキム・フク(臓物)をビジリの石に飾り、みんなでこれを食べてお祝いしました。星立は、ウマタヤンの下の所でやりました。簡単な小屋を作ってそこで、料理とお祝いをしました。この小屋をウシェキシャーといいました。女は、スーといって、酢と味噌で味をつけた野菜のあえものを作ります。あれは美味しかったなあ。
牛の耳判は、西表では終戦後入れなくなってしまいました。昭和8、9年ごろピロー病(ピロプラスマ病)がきて牛が全滅してしまったのです。牛の耳判の帳面があったけれど、田盛孫起のうちのおじいさんがあずかっていました。たぶんピロー病の時に全部焼いてすてたんでしょう。あんなものを残しておくのが本当であったと思います。(1981年1月6日)
ガラッパ(カッパ)の声を聞く
大正6、7年頃、私が学校を卒業したあとのことです。用事があって、夜の11時ころに星立から、祖納の方へ行くために、マヤパタラの道を通り、今の与那田橋のあたりまで歩いて来た時のことです。棧橋をわたってすぐに、海の方でジャブジャブジャブという音が聞えました。なんだろうと思ってみても、何も見えませんが、高い声で「ヒヒヒヒヒーッ!ヒヒヒヒヒーッ!」と鳴きました。あれはなんだろう、と先輩に聞いてみました。「それは、ガラッパだよ」という返事でした。昔の人の話では、ガラッパは人が手をとってつかまえようとすると、いくらでもその手が伸びるというじゃありませんか。そして相撲とろうという。だから、ガラッパが鳴いたら、絶対そこにとどまるものじゃない、といわれていました。ガラッパとの相撲に負けたら命が2、3年しかもたないといいます。(編注、薩摩の河童であるガラッパが西表まで出張していたような感じですね。)
昔の人は、海にスーサヌパー(和名アマモ)の花がいっぱい咲いて海いっぱいに浮く時にガラッパはよく鳴くといったものでした。ガラッパがこれを食べに来て、穴を掘って隠れるというような話をしていました。
この鳴き声は、2回経験しました。星立から祖納へいく途中だったので、この声を聞いたら、すぐ走って逃げました。これを聞いた人は少ないようでした。今では、もう聞えません。(1982年3月22日、1989年8月27日録音)
神の魚の捕り方
グーザーイユという魚がいます。この魚は一名カンヌイユ、つまり神の魚ともいいます。この魚は、4尺か5尺ぐらいある大きな魚ですが、普通の方法ではとれません(編注、こんなに大きくなるのは、ブダイの仲間ではカンムリブダイしかいません)。下手にやると、網を廻して捕ろうとしても、網を破られて、1匹も捕ることはできません。今考えたら、大津波がくるきっかけになった神の魚というのは、こんな魚だったんじゃないかな、と思われます。
網をもって魚の群れを巻いてとる方法で捕りますが、高い所から魚の群れを見つける役目の人が、この魚を見つけたら、まず、自分の首に手拭いを巻きます。これは、グーザーイユがいる、という合図になります。沖に2艚出ている舟からこの合図が見えたら、その後、この人が手拭いを取るまでは、いっさい口をきいてはいけません。「オイ」ともなんとも言わないのです。星立の人は、あんなことを知らないもので捕りきれないけれど、祖納の人はグーザー捕りは専門です。私らもあれを捕りに行ってしくじったことがあります。網も穴をあけられてしまいました。
この魚は神の魚ですから、網を海に入れていく時から、ひとりの人を舟の中に寝せておきます。しかも、手拭いで首にくくり、両手両足をくくってじっと寝かせておくのです。もし、この人が少しでも体をひねったら、神の魚は暴れ出すそうです。私ら星立の人間は、網を入れる時から一生懸命口をきかないで入れていきますが、網をまわすうちには、「おーい、あんたらの組の前からいくぞ!いくぞ!」なんてつい怒鳴ってしまいます。すると、それから魚は暴れ出します。あんな大きな魚が20匹から30匹も網の中に入るのですが、どんどん網に穴をあけて逃げていきます。
もしも、だれも言葉をいわないでいたら、グーザーイユは、網のところに体をよせて動かないそうです。それをそうっと網ごと抱き上げて舟にのせ、網をまた海に下ろして次のをのせるという風にして、網のなかにいる神の魚は全部捕れるそうです。もし誰も言葉さえいわなければ。これを2、3匹のせるのに成功したところで、「ああ、まだまだ、あんなにたくさんおる!」なんて言うたら、舟にのっておる魚もパタパタと暴れ出して海に落ちて逃げていきます。私も、そんなふうに海に落としてしまったことが1度だけありました。
私らがグーザーイユをとろうとして失敗したのは、崎山のヌバン崎の所でした。あれは、ヌバンに多いのです。どこにでもいる魚ではなくて、西表ではヌバンにしかいない魚です。(1982年3月22日録音)
アトゥク島の宝さがし
アトゥク島の宝さがしというのが大正時代とてもさかんだった時期があります。海賊キッドが隠した宝がある、なんていう噂であちこちを掘りました。その中でも、一番有力だと思われていたのが、アトゥク島です。だけど結局、これはなにもなかったそうです。ヤカンがひとつ出てきただけだったといいます。
アトゥクという島は、カンタカダル、つまり神高いといわれています。ここは、津波で切れるまでは、陸と続いていたらしく、高いところに墓のように石を積んだものがあります。
後に、宝探しの騒動が起こったとき、この島はあちこち掘られましたが、何もでませんでした。しかし、ある人がここで見つけたヤカンと釜をもって降りようとしたら、どうしても降口が見つからず、これらの品物をもとあった所に戻してようよう降りられたということは聞いています。
島のてっぺんは鍋の底のようにくぼんでいて、そこには14、5尺もあるまっすぐなフカイキ(福木)がたくさん生えていました。この木を前大二郎さんと切りに行ったことがあります。(1989年8月27日録音)
浦内村の十五夜の思い出
これは、浦内出身の家内ナサの物語りです。ナサと結婚してから、私も浦内村の十五夜に行って相撲をとったことがありました。
十五夜の晩には、茶碗に水を入れておいて、箸を渡して、そこに映る月を見ます。月がまっすぐ映ったら、みんなでトゥドゥマリの浜に出ます。子供からじいさん、ばあさんまでひとり残らず浜におりるのです。すると潮はガラーッとみごとに引いています。
山から浜におりていくところに、松と竹を立てます。男と女でひとつずつ立てて、それに砂をかけては、飛び越して浜に下りていくのです。この飛び越すのが競争でした。
みんなで学校の生徒みたいに並んで、歌をうたいましたよ。「コココデ コーコー ソギヤヌ ウスマイ ホイホイ ホイホイ」というような面白い歌をね。これは、ソギヤという家のいじわるなじいさんが杖ついて歩いてくるのを落とし穴に落とすという劇みたいなものでした。青年は相撲をとりました。年寄りの人なんか、酔っ払ってしまっていました。みんなで砂を掛け合いして、私(=ナサ)は、まだ若いので酒は飲まず、酔っ払ったばあちゃんなんかを担いでもどりましたが、あんなすばらしい祭が今はどこにもないのです。もう、浦内のことをわかる人も、私ひとりになってしまいました。(1986年4月7日録音)
第3部 台湾から中国へ
酒2本が結納
その頃、養父母の所にいて21才の時、妻をもらいました。その時ナサは19歳でした。
昔の結婚は結納金というものもありませんでした。ただ酒を2本もっていけばそれでよかったのです。
私は、この時、浦内で松の丸太を切る仕事をしていました。ある朝、私は、ナサの兄さんと両親がすわっているところをたずね、「お宅の娘さんを私の嫁にください」といいました。両親はびっくりして、「急に返事はできませんから、明日まで待って下さい」ということでした。翌日の夕方、まだ日のあるうちに行ってみたら、「嫁にやっても、あんたを育てた親たちとうちの娘が、はたして一緒に暮していけるかどうか」と言われたので、私は、わざと「それは、私の教え込み方しだいですよ」と頭から押えつけるような言い方をしました。親父は、しばらく(10月ぐらいまで)伸ばしてくれんかといいましたが、兄さんの口添えで、嫁にくれることになりました。兄さんは、こう言ってくれたのです。「この人は、評判は悪いが、こんなにもののわかった青年はいませんよ」
私が19歳ぐらいの時でした。この兄さんが、浦内から星立に引越してこようとしたとき、星立のみんなが断ろうとしたのですが、私は、これは、部落の発展につながることだから、といって承認させたことがあったのです。
ナサが井戸で水を汲んでいる時に、こう言って念をおしました。「苦労しても、苦労せんでも、それは、私の考えだ。もしも風呂敷包みをもって実家に帰ったら、もう2度と家に入らさんからな」西表の女は、喧嘩をするとすぐ実家へ帰るくせがあるのです。
酒は、3升出しました。結婚式の時「酒飲め」といわれましたが、当時の私はまだ酒をほとんど飲みませんでした。(1982年8月14日のノートと1986年4月7日の録音)
3度の徴兵検査でとうとう不合格に
人の背丈は23歳までは伸びるものですね。私は、徴兵検査の時には、5尺3寸5分でしたが、3回目の検査で兵役免除になったときには、5尺4寸を越えていました。
私は、3回も徴兵検査を受けています。だいたい、これは検査官たちが悪いのです。まず、1回目の検査の時、着替えて行ったら、「うん、君はりっぱな体格をしているから、甲種合格。しかも近衛騎兵だ。いい所にいったな」と誉めて、検査官は私の書類に近衛騎兵の判を押しました。それから、上間村長のところへ行こうとするうちに、その書類を戻せということになったのです。私も呼び戻されていってみると、「ああ、君は近衛騎兵のはずで惜しいけれど、19歳なるあっぱれ青年が志願をしているので、この青年を近衛騎兵にすることになった。君はただの騎兵になってくれ」ということでした。さっき押した判を消して、そのそばに普通の騎兵の判を押しました。
私は、これでやけになりました。それで、村長さんの所へ行って頼んでみました。「村長さん、今年は許してもらって、来年の検査をお願いするというわけにはいかんでしょうか。係とも話していただいて……」ところが、返事は「できない。君はもう決まっておるから。君のような身寄りのおらん者は、軍隊に入ってからそこで再役してずうっと兵隊をすればどうか」と言われました。「いや、私の養母が病気でおるので、それは困ります。つれてきた母を船から下ろしているときに、村長さん、あなたも来てごらんになった通りのいつまで持つかもわからない重病です。ぜひ翌年まわしにしてください、と早くからお願いしてあったじゃないですか。私は兵隊なんかぜったい行かんぞ!こんなやり方は人を馬鹿にしている。お前なんかは、何にもならん村長だよ!」とわざと検査官に聞えるように大声でいいました。
でも、そんなことを言っても聞き入れてはくれません。伊是名病院へ見せて、卵をもらってきて食べさせたりして介抱しましたが、母は、とうとう亡くなりました。そして、葬式から1週間目には、兵隊として沖縄へ行くことになったのです。ところが、沖縄を通過して熊本の6師団の前へ行ったところで、私は目まいがして倒れてしまったのです。師団の中にも入らないですぐ病院に入れられました。3日目に退院して、翌年回しということになりました。
翌年いっても、同じ騎兵になっていました。こんどは、沖縄へいったところで船に乗る時に目まいがしてまた倒れて、鉢嶺病院へ引っ張られて行きました。また翌年回しです。
3回目の時、私は考えました。「こんなにしておってもどうにもならん。自分の後輩に、使われることになる」それで、検査の前日の夕方、風呂桶にお湯をいっぱい入れて、長湯をしてから、当日は、湯のみに八分目まで醤油を入れて一気に飲んでから、観音堂まで走りました。1里の道の往復です。
醤油を飲むと体が軽くなって、目がちらちらします。先輩の人なんかあんなことをして兵隊に取られなかったたんだなあ、と勉強したわけ。渡し場まで走ればいいと言われたけれど、私は観音堂まで走りました。そうすると、体がフラフラして、目も見えない。検査所に行ってもフラフラしていました。検査の時、1歩ずつ前に出てだいぶ近づいてようやく見えました。「お前は、どうしてそうなったか。お前の目は人よりよかったのが、見えんということがあるか」と聞かれます。
軍医が出てきました。私の耳を見て「君は、耳もわざわざ壊している」と言います。「いや、私の左耳は、私が尋常2年生の時に、石筆で字を書いているときに、同級生が私の耳に石筆を押し込んで、それからこういう状態です。その同級生はここにいますから、どうぞ聞いてください。おい、稲福君、説明してくれ」といいました。そうしたら、「黒島君が耳がかゆいといって石筆で掻いているところを、私が押したので石筆の先が折れて耳に入ってしまいました。血が出たので、先生も大騒ぎして、医者の所へいってもなかなか取れなくてひと月もはいったままでした。それで、学校時代は片耳が聞えず、方角の聞き違いをしょっちゅうしていました」と稲福伊勢君が証人になってくれました。
「そうか。おかしいな。この前の第1回目の検査の時は、耳はよく聞いたんじゃないか」「あれは、いい方の耳を完全に押えないで首をまげて聞いていたのです」「体重も軽い。前よりこんなに減っている。あんなに急に人の体重が減るわけがない」ということでとうとう兵役免除になりました。だから、私は、体格は上等だったけれど、補充兵にもならないで、点呼にも行かないで助かっておりました。(1982年8月14日のノートと1989年8月27日録音)
分家して苦しい生活
大正6、7年ころは、一人前の男が1日働いて、80銭相当ということで米をちょうど1升もらいます。しかし、1升では家族の1日で食べるのがかつかつでした。またあしたも行って、働きました。田んぼは作っても、夏の2、3ヵ月食べるぶんしかつくりきれなかったのです。税金は昔は米でしたが、現金になっていましたから、どうしても現金を稼ぎに炭坑へ働きに行かなければどうしようもありませんでした。昭和7、8年ころまでは、ピーピーカーカーしていました。税金を払いきれないので、財産を差し押さえられる人が多くいましたよ。昭和10年ころから少し立ちなおってきたんじゃなかったでしょうか。(1979年5月15日録音)
24才の時に分家しました。分家の話が出てその年の内に養父母の家から分家したのです。家を出た時は何ももらわず、身ひとつでした。妻と共に、私が24才の9月25日に父の弟の石垣英助の所に行ってここに2ヵ月いてから、新城節さんの家に1ヵ月半くらい居て、黒島家宅地に掘立て小屋を建てて生活を始めました。何もなくてもピカピカの新生活でした。部落共心会幹部を13年もやりましたが、生活は困る一方でした。夫婦2人で一生懸命働いても何も残りません。それで、妻の実家の稲つきをし1日玄米2升もらうか、2日行き4升の玄米をもらってくるのです。また2人で畑を耕してイモを植えそれを食べるという貧しい生活をしていました。(原稿)
部落幹部を13年勤める
今の星立は、昔は干立と書いていました。この字では、干し上がるからよくないということで、字を変えたのは大正10年ぐらいだったと思います。私なんかの青年時代のことです。(1986年4月7日録音)
大正6年の4月1日に西表一心会の総会がありまして、そこで用達となり大正7年、大正8年、大正9年、大正10年まで用達をつとめました。大正10年用達を交代し、大正13年には衛生部長をやり、はじめて幹部になりました。衛生部長は大正15年までつとめました。
昭和元年、星立村は西表一心会より分立して星立共心会となります。それまで西表一心会は祖納・星立・船浮の3部落合同で一心会としていました。星立共心会会長は、新城寛忠が就任しました。幹事は小浜屋真、総務は黒島英輝で、この3名がが初代の幹事を務めました。昭和2年は会長が真謝永暉、総務は黒島英輝でした。昭和3年は会長が西表寛次になり、私は衛生部長になりました。昭和4年から8年まで会長は真謝永暉、総務は私がつとめました。昭和6年には、農事研修会のため、農事視察に西表代表で沖縄に出張に行き10日間視察して帰り、視察したことを一心会、共心会員に話しました。星立から私、祖納から大浜孫雄、上亀直哉、船浮から東若鶴一の合計4名が行きました。昭和12年も会長真謝永暉、総務黒島英輝。当時公民館の所から南へ向う道路や漢那家の角までの道も造らせました。また、昭和12年に部落の前の護岸も造らせ、いろいろの仕事にはげみました。昭和13年は幹部をしませんでした。(原稿)
台湾をふりだしに郵便局に勤務
村の人は、私の貧しいことを知らずに13年間も幹部にしたのです。用達からかんじょうすれば、18年にもなります。私は生活は苦しいけれど幹部の仕事を続けていました。しかし、考えてみれば、あまり会の奉仕の仕事ばかりで自分の事ができず、このままでは自分の家庭の生活はどうにもならないと気付きました。さらに、飼っていた牛が次々にピロー病(ピロプラスマ病)で死んだのにも、とても困りました。男は若いうちに都会生活をして、年をとったら農業をしなさい、というのが私の持論でしたから、このさい率先して島を出ようと決心しました。
そこで昭和14年、台湾へ出かけることにしました。西表を発って台湾の基隆に着きました。 当時、基隆には、家内のすぐ上の兄の松山松亀が住んでいました。
台湾についてすぐ松山兄が、私に履歴書のひながたを書けというので、書いて渡したところ、いつのまにかそれを役所にもって行ってしまったのです。それで、まず電化会社というところに入りました。ところがここに入ってすぐ、スレートにトタン板を釘止めするという仕事をするうちに、はしご2本をくくりあわせたものが壊れ、私は肥料の石灰窒素の上に落ちて、呼吸ができなくなりました。ようやく起上がって、私は危ない仕事をさせた係長を叩きましたよ。社長が飛んできて、風呂にいれろ、タクシーで病院へといって大騒ぎしました。3か月の賜暇というのをもらいました。まあ、今でいう労災みたいもんでしょう。
しかし、もうここで働く気はしませんでしたので、西表に手紙を書いて、「チチキトク」という電報を私あてに打たせて、それを口実にやめて、給料をただ取りしてやりました。
それから、人の紹介で基隆郵便局に入局することになりました。これが、私の郵便局勤めの始まりです。家を1軒借りて、長男の英雄は、入船小学校に入れました。
野戦局入り
昭和15年には逓信省の志願局に移りました。ここで郵便小包、軍事郵便をかねている内にまた昭和16年には特別志願局へ配置されました。昭和16年10月には総督府の命令で野戦局へ派遣されました。この時、家族は西表へ帰しましたが、昭和19年には疎開ということで、また台湾に来ておったそうです。
まず、3か月間、中国語の講習がありました。しかし、私は本を買って、1日行っただけで、あとはクーニャン(娘さん)に「これはなんていうの、なんていうの」と聞いて、自然に覚えました。言葉というものは、本なんか読むよりは土地の人に習う方が速いですよ。3か月の講習を終わって来た人が、私ほどはしゃべれなかったのを見てもそれがわかります。
昭和16年10月28日、南支郵便局を出発いたしました。同年11月10日、広東に着き、東山という町へ行きました。私は、郵便本部に配置され、第202局へ勤務することになったのです。早速、第202局分局へ派遣され郵便係長になりました。ここは山の中の局なので淋しく、局員は分局長以外に3名でやっていました。敵兵ははなはだしく多く、夜は襲撃がありました。部隊は落合部隊を本部とし、全部で4部隊ありました。
当時、野戦局に勤めていた八重山の人は、帰ってきてからほとんど早死しています。私を含めて3人くらいしか生き残っていません。
野戦局の局長と戦う
202局にいたとき、鹿児島県出身の局長と喧嘩しましたよ。この局長は、売店の兵隊をごまかして、酒を毎日1升びん1本ずつ買って、これを町にもって行って売っていたのです。イモもごまかして、運転手の前に隠してもっていってうっているわけ。ところが、これが発覚したとき、この局長は、こともあろうに私にその罪を押しつけようとしました。
この局長は、私を仏壇においやるようなことをしましたが、私は、この局長を尻の穴においやるようにして仕返しをしてやったのです。
局長と口論しているうちに、「あんたも台北からはるばる、妻や子を残してここに死ぬために来たんだろう」と局長がいったので、私は、「なにをいうか、私は希望はしない。私は、基隆から国の命令できているだけだ!あんた、こんな嘘のことを言うたら承知しませんよ。人をだましているのは、あんたじゃないか」と言って私は抜刀しました。しかし、いま切ったらつごうが悪いから……、と思って刀を上に投げました。そうしたら、局長は逃げていってそれっきり1週間も局に出てきませんよ。私もどうなったかなと心配になったけれど、私が探しに行くわけにもいきません。
それで、郵便長のところへいって説明して、「私は上官を侮辱しましたから、小倉行きになるはずです。内地に帰して下さい」と申し出ましたよ。そうしたら、局長がいなければ話にならないから、まず局長を探してこい、ということになりました。やがて届けを受けて憲兵総長がやってきて、私を連れて行きます。「おい、黒島、おいクロ。お前一生懸命探さんと大変だぞ。あれがもし自殺でもしておったら困るぞ」といわれて、こっちもだいぶ心配になりました。私は、名前が黒島で、色も黒いというのでクロと呼ばれていたのです。
どうせ、局長がつきあっていた女の所だろう、というのでまず慰安所をまわってみたのです。しかし、何か所行ってみてもその女の姿が見えません。5軒目までまわって、またもとの所へ戻ってきたところで、ちょうど例の女が出てくる所を見ました。それで、つけていって、ノックをしました。誰も出てきません。「おい、おい、憲兵と来た黒島だよ」と言ってパンパン戸を叩いて、入りました。ところが局長は、寝台の下に隠れていて、持物はなんでも隠してありましたが、頭がないので上着だけしまい忘れてありました。
「お客さんはどういう人でどこへ行ったの?」「将校さんです。いま便所へいっておられます」というので、「なんという名前の将校か。私は郵便局の勤務だ。隊長から下、中尉までならどの部隊でも全員知っている。なんという人か。名前を言え。槢槢よし、返事ができないなら、この上着に名前があるはずだ」と靴脱ぎ場へいって、上着をみました。「これはうちの局長の上着じゃないか。うちの局長が帰ったら、『1週間もこないものだから、郵便長の方から憲兵隊に捜索願いがでている。もう大変なことになっている』と言うておきなさい」当の局長は、寝台の下で震えながらこれを聞いているわけですよ。
それから、郵便長のところへ行って、「郵便長殿、おそらくあと2時間くらいで局長さんから連絡があるはずです。もし局長さんがこられたら私まいりますから、電話をしてください」といって、夕食を食べにいき、みんなと酒を飲み始めた時に電話がきました。飛んで行ってみると、局長は、私を内地に帰せといっているようです。それで、私は、郵便長の前で局長のやっていたことを洗いざらい話しました。局長が横流ししていた食堂もわかっていますから、こちらが強いでしょう。結局、局長のおちどということになりました。(1982年8月16日録音)
各地を転々と
昭和17年2月に本局である200局勤務になりました。月1、2回分局へ出張し、途中で地雷や襲撃を受けましたが、何ひとつ弾は当らず仕事はうまく行きました。
昭和18年6月10日に仏山にある220局に勤務しました。仏山局はのんびりした所で良かったのですが、大雨の時は、洪水で水の高さが5、6メートルまで上がるのが怖く思われました。
昭和18年8月ナンソウという所に分局を開局するために派遣されました。ここは、仏山からポンポン船に乗って1日の距離の場所でした。(編注、仏山から100キロメートルほど上流に南街という町がありますが、ナンソウというのは、あるいはこの町かもしれません。)
昭和19年2月には梧州という所に208局を開局するために派遣されました。また梧州に行き208局を開局しました。局長以下、あれこれの局員15名がやって来て立派な208局を始めました。まず、中支軍、南支軍の郵便取扱いを開始しました。中支軍の郵便を輸送しに桂林に出張し、桂林飛行場局に郵便を受け渡し終り、また梧州に帰りました。梧州から上流の桂林までは、船で1昼夜かかりました。
船で大きな川をさかのぼって行く時、日本人の船頭は、まっすぐ行こうとするんですが、あれは西表の川と同じで、川の中に溝がうねうねと曲って走っている、そこをよく考えて、ぬうように船を走らせないと、砂の盛り上がった所に突っ込んで座礁します。崖の下は深くなっているし、反対側は浅い。あんまりたびたび砂に突っ込むので、私が水先案内を買ってでて、「あんたは、始めての川なのにようわかるなあ」と感心されたものでした。
野戦局にいた時に、「おい、黒島君に召集令状がきているよ」と局長がおどかしますが、「何が、おれらは兵隊上がりだから、くるもんか」と言っていました。「いや、兵隊あがりがいくんだよ」そう言った局長がすぐ召集されました。あんなに私をおどかした罰があたった、と言って笑いましたよ。
昭和19年11月に200局本部付の通知書が来て転勤となりました。11月25日、200局本部へ着きました。11月26日には九龍214局へ行く事になり、同日付けで九龍214局に勤務することになりました。それからまもなく昭和20年8月15日敗戦となりました。(原稿と1989年8月27日録音)
給料の変化
昭和14年に西表を後に台湾へと旅立ったのですが、運が良かったのかすぐに仕事が見つかり、ずっと郵便局で働いていたわけです。初任給月36円と宿舎代5円もらって生活費には足りていました。月給はやがて45円にまでなり、野戦郵便局勤務前には50円もらっていました。野戦郵便局に行った時は月120円になり、給料が高いとうらやましがられたものでした。その給料も、130円となり、150円、200円と上がって、終戦近くには400円ほどもらっていたのです。終戦になって九龍、香港に行った昭和20年8月20日捕虜とされました。(原稿)
香港で捕虜になって
九龍で、捕虜になっていた時、他の人は、中国人からめちゃくちゃいじめれていて、かわいそうでした。道を歩いていても、茶碗を洗った水なんかを二階の窓からかけられたりしていました。でも、私はかわいがられていたので、タバコなんかよく中国人にもらっていました。
ここは、食べ物が少なくて大変でした。てのひらより小さいカンパン2枚と羊の肉の缶詰を匙1杯だけというのが食事だったこともあります。時々アメリカ人がパンなんかくれましたが、焼け石に水です仕方がないので、米を盗んできてこっそり炊いて食べたりしました。ズボンの中に隠してもってくるのですが、片足に1升5合ぐらいはいりますから、1度に3升ほどずついただいてきました。
行列で歩く時、イギリス人がついてくる時はこわかった。オートバイで追い立てられるけれど、いくら走っても車にかなうわけがないでしょう。飛行場なんかの掃除に行く時がひどくて、2里くらい走らせたんじゃなかったでしょうか。私は走るのが下手なので、列から離れてしまい、着いた時には仕事がだいぶ進んでいる、ということもありました。
イギリス人は、私のことをオードマン、オードマンと呼ぶので、これは人間ということかなと思っていたら、年寄りということらしいですね。私はこの時44歳でした。でも、走り幅跳びなんかをさせると、兵隊よりもよく跳ぶので、「いやあオードマン跳ぶの上手、オードマンさえあんなに跳ぶのに、おまえ、若いのが跳びきれないのか」といって、若いのが叩かれたりしていました。テーブルを置いて跳び越えるのも、私はパッと跳びました。跳べないで後戻りして叩かれている若い人もいました。(1982年8月14日のノートと1989年8月27日録音)
アメリカ軍の隊長にかけあう
九龍には、昭和22年までいました。捕虜たちの間で「瑞穂」という新聞が作られていましたが、ある日、その新聞にこういう記事が載りました。「前線にいた者は、軍人・軍属を問わず、あと5年間は捕虜とされるであろう」これはえらいことになったと思いました。郵便局員で捕虜になっていた者が40名あまりいましたので、二宮局長に頼みにいきました。そうしたら、「仕方がありません」という馬鹿な返事でした。
それで、私はアメリカ軍の隊長に直接文句を言いに行きました。インド人の兵隊が、待てと言って、やがて通訳が来ました。大将にあって、「もと判任官2等級、黒島英輝」と名乗りました。それから、「『瑞穂』によると、あと5年間は捕虜にする、とあるが、これは事実か」と問いただしました。そうしたら、大将が、「なに、郵便局員がいままで残っておったのか?早く帰れ」と言って、43名分の書類にサインしてくれました。次の次の便で帰れることになったのです。浅井係長なんか、本当に喜んでくれました。私は、あんな二宮局長はつれていってやらん、とみんなにいってやりましたよ。
それまでは、飯は湯のみに1杯ぐらい、汁も竹筒にちょっとしかもらえなかったのに、翌朝から弁当箱がみんなに届けられました。私は、「この弁当は、二宮局長にはやらん」といってまたがんばりましたよ。あさって帰るという日からは、1日に3つずつ弁当が来ました。この船は、昭和21年8月18日に鹿児島に着きました。局長は、鹿児島の人で、日本に着いたら分散会のために酒を5升と魚を買って出すと約束したのですが、この人は、いっこう出そうとしないので、うんと文句を言ってやりました。けっきょくイモ焼酎を2升とサンマ3匹で30銭のものを2円分買わせて、みんなで分けました。局長は、自分の家に帰ってしまいました。
私たちは、港から伊敷の連隊あとが宿泊所になっていた所まで歩いて行きました。道がわからないので学生に道をききながら行きました。私たちは13班に入り、私は班長になりました。この時、46歳になっていました。鹿児島で、未払いの給料をもらおうと思ったら、今はマッカーサーが出すなというので出せない。熊本に行け、といわれて熊本まで5人の人たちに行ってもらって、40何名か分の給料を取ってきたことがありました。鹿児島には、結局1年半もいたのです。(1982年8月14日のノート)
わが家に帰りつく
石垣に着いたのが昭和23年の4月13日でした。船からはしけに乗るのですが、ひきあげの世話をしていた役人が急に鬼の面になって、はしけ賃を人は50円、荷物は30円ずつ取るというのです。私は、下りて棧橋に人と荷物を並べてからまとめて払いましょうといって信用させ、全員が下りてから、「役人ともあろうものがこういう汚職をするということは、ただではすまさんからその積りでおれ!」とどなりつけたら、おどろいて逃げていきましたよ。
石垣では、星立の前大二郎君にパッタリであいました。彼は、配給品を取りに来て、帰りの船がないのでこまっていたのです。そこで前大さんと、西表に渡る船を探しました。石垣には2週間以上いました。米を5升もっていたので、泊めてくれる家があったのです。
ちょうど宮古の船がイモを石垣に売りに来て、おおかた積荷を空にしているのに出くわしました。私は、「二郎君、これは、船の連中との智恵勝負だから、私にまかせなさい」と前大二郎君にいって、船長に会いに行きました。
「せっかく、八重山まで来て、空船でかえるのもなんでしょう。どうでしょうか、西表へまわってから向こうで、薪を積まれたらどうでしょうか。西表は、木はもういくらでもありますから。それに、私はあっちの人間ですから石炭なんかも積ませるようにお世話をしましょう」と相談をもちかけて、この船の船長をうまくその気にさせました。
前大君のもっている配給品の運賃はただにしてくれることになり、私らの運賃は、石垣から西表までひとり700円ということで、話がまとまりました。ところが、西表の沖に船がさしかかったら、なんと「もう700円ずつ出してくれ」というのです。向こうも智恵勝負をしているのです。「どうしても出せというなら、お金は出すけれど、そういう約束違反をする人間には積荷の世話はしませんよ」と私は言いました。それでもかまわん、という返事だったので、お金を払って船を下りました。そして、すぐ、星岡炭坑の星岡さんのところへ行き、西表の石炭をあの宮古の船には絶対に積ませないようにという工作をしておきました。おかげで、とうとう手ぶらでかえりましたよ、あの船は。
西表についたのは、昭和23年の4月28日だったと思います。白浜について、星立のわが家に戻った時には、8時ころで、もうすっかり日が暮れていました。うちの英雄は、11歳になっていて、私のことをわかったけれども、英吉はわかりませんでした。英雄に「お父さんの柳ごうりをもて、英吉はお父さんにだっこ」といって家に入りました。あや子はロウソクをどっかから探してつけてきて、私の顔を見てひどく驚いて、家の中に二番裏座に隠れてしまいました。あや子がよちよち歩くころに台湾にいったのですから無理もありません。
うちの家内は、ちょうどウナリ崎の方までタコを捕りにいっていて留守でした。船の上で「二郎君、あそこでタコ捕りをしているのは、うちなんかの家内じゃないかねえ」と言っていたのが当たっていたのです。ランプもなく、小さなビンに油を入れて部屋を明るくして、家内を待ちました。夜の9時ころようやく家内は帰ってきました。野戦局にいるあいだじゅう別れて暮していたのですから、7年ぶりの一家だんらんでした。(1982年8月14日のノート)
家内の苦労
家内は、私の留守の間女手ひとつで、1町5反の田んぼを作っていました。そんなに苦労して作っても、供出というのがあるので、食べるのに足りないのです。もし、私があの時西表にいたら、あんな供出なんていうことはさせませんよ。「馬鹿やろう、死刑にするなら死刑にせえ!もし戦争に負けた時にはどうするか!?」って私は戦うつもりでした。中国にいた時も、日本人から死ぬ覚悟はできておるかというような扱いを受けた時は、「みんな殺すつもりか、今のうちに殺しておくという意味か、働く人がいなくなれば戦争はまけるぞ!」というて、戦いました。(1982年8月16日録音)
島に帰ってからしばらくは、ろくに食べるものもなく、みんなソテツの幹を切って醗酵させてデンプンをとり食べているような有様でした。私は、これを見て、たいへん残念に思い、これから西表でひとがんばりしようと決心しました。(原稿)
第4部 戦後の生活
こんどは会長に
私は、戦前13年間も幹部をさせられましたので、もう、こんなことはないだろうと思っていましたのに、今度は星立の部落会長にさせられて3年間つとめました。その任期の間に、簡易水道をつけ、与那田橋をかけさせることができました。これで私の仕事は終わりだろう、と思っていたら、また老人会長にさせられて、これは15年間もつとめました。老人会長は、妻が病気になったのでようやく免れました。(原稿と1982年8月16日録音)
猪とりの罠かけ
マーレー川を越えて、ニシダ川のてっぺんにいったら、「ナビヌフタ森」という山があります。藁でつくっててっぺんにちょんまげみたいな取ってをつけた鍋の蓋みたいなあんな形の山でした。ここに終戦後行ったら、家の柱にするキャーギ(イヌマキ)がいっぱいありました。でも、かついでくるのに1日1本しかできないので、もっと近いところではつりました。かどかどに指1本の幅くらい皮がのこっても、4寸角とれればそれでいいのですから。
このナビヌフタ森へは、イノシシの罠かけにしても、朝5時半ころ出かけても、晩の6時ころにしか戻れないのです。あんまりきついので、1度だけかけて、もう罠は撤去しました。ワイヤー罠のかけ方は、宮良孫文さんに教えてもらいました。戦前から、サバ(鱶)を釣る糸で猪の首をくくるヌビフリバナ(首くくり罠)は、ありましたが、足をくくる改良型が習いたかったのです。しかし、実地には教えてくれず、口だけであらましを教えてくれました。穴を掘るということさえ習えないので、自分でいろいろ工夫してみました。うまく、できそうになったので、「よし、ワイヤーを探さなければいかん」と考えて、イナバのうちの田小屋にいた台湾人の作っていたワイヤーの罠が100本ほどあったので、本人がいないのをいいことに10本ぐらい外してかけてみたら、早速にくくられるの。
それから、ワイヤーを買ってきて掛けました。肉の値段もずいぶん上がっていたけれど、安く売りました。高く売っている人たちに文句を言われたものです。小さい猪がとれたって、「今日はだめでした」としか言いません。自分の食べる分がなくなるから。
(1982年8月16日録音)
住民が保護しなければ山の木はない
中国から帰ってきてすぐのことです。田んぼをしながら、森林保護組合長になっていました。ちょうどそのころ、サンゴ礁を焼いて石灰をつくる人たちが星立にきていました。裏の松を取って焼いているのを見て営林署が盗伐だと文句をいいました。「組合長さん、どういうふうにしたもんでしょうかね」私はいいました。「あれなんか、マキがないというから、根っこからは切らずに枝ばらいしなさい、といってとらせました」「それじゃ、枝を切らしたのはあんたがやったことですか」というので、私はいばって演説しました。あのころ野戦局がえりなので、野戦気分がまだあったのです。「この山の木は、住民が保護しなければ、今ごろは1本もないですよ。住民が保護してきたから、今でもあるんじゃないですか。だから、枝は切って、上の種を落としてまた作ればいい、ということで切らしました」と。(1982年8月16日録音)
マチウス隊長にかけあう
戦後の炭坑は、白浜でも星岡(亀彦)さんがさせていましたが、これはまもなく中止になりました。その後、マチウス隊長が来て、中野部落で石炭を掘って、浦内に運んでいましたけれど、あれも経費の関係か、やめてしまいました。マチウスのあとはどうなったか、もうわかりません。
彼らは、幕舎をつくって、そこでパンを焼かせて食べていました。マチウス隊長は白浜におって、いろいろ尋ねるんです。私は、部落会長だから行って説明せんといかんのです。部落民はみんなで何名ぐらいおるか。何十戸あるか。とこれだけ聞いて、帰して、また翌日呼んで、それじゃ家庭に働く人が何名、学校へいっている者は何名おるか。と聞いて、また帰すのです。こんどは、これらの働く人は、それじゃ1人あて何反歩田んぼをつくっておるか。と毎日すこしずつ聞くわけで、あのやり方には腹が立ちました。
マチウス隊長にかけあって「こんどの戦争で私の家はひどいことになっている。木を伐採して家を建てるように許可してくれ」というつもりでした。しかし、そんなふうにやれば、部落の人が「こやつ、部落会長の地位を利用して、自分の木をまず切っている。村のことはしないで」といわれたら困ると思って、それで、まず公民館をつくるからということでマチウス隊長にかけあいました。木が500本必要です、と言ったら、「設計してこい」と言われましたので、大工に言って「なるべく余分に木がいるように」と指示して設計図を書かせました。これは、多めに申請している、という人もいましたが、うまく払い下げさせることができました。(1979年5月15日録音)
組合で酒をつくった
酒つくりをするのは、大正5年ころから各家で自家用としての許可をもらってやっていました。ところが、戦争から帰ってみたら、昭和17、8年ころから、私のおじさんの黒島正善が自分のいうことを聞く者だけを集めて星立酒屋というのを作っていました。それを知った私は、「そんな馬鹿なことがあるか」と反対しました。そして、私の姉むこの新城寛忠と西表酒屋というのを祖納に作りました。その時の許可をもらうお金をつくるには、こんなふうにしましたよ。
まず、戦前は浦内鉱業所の炭坑主であった野田(小市郎)さんのところへ姉むこが野田さんの知り合いといっしょに200円というお金を借りに行きました。ところが断られたので、「それでは、こんどは私が行って戦ってこよう」と言って、野田さんに会いに行きました。そうすると「君が金は借りて、この金の返済問題はどうするか」と聞かれました。それで、こう返事しました。「いや、私は、こうこうで営林署から4、5、6、7の4林班は私の名義として書き替えて、買ってあるんだから、あんたは製材所をしている。うちらは、金を借りたなら、明日からすぐあそこからどんどん木を切り出して、あんたの製材所に納めて金は返済する」と言いました。「それじゃよろしい」ということで、野田さんは300円貸してくれました。
このお金を石垣に送って、許可をとらせました。さあ、それから約束通り営林署の立ち合いでみんなで伐採しては製材所へ納め、組合つくってから1週間たたないうちに300円の借金は返してしまいました。
そのあと、「祖納の君たちは、祖納でやりなさい。ぼくは星立で分離をしてきてやるから」といって、星立の姉の家で酒を作りました。その後、祖納の人たちは自分の酒屋をつぶしてしまって、また星立で合同してつくっていました。銘柄の名前はなく計り売りで、住吉部落から2斗瓶単位でどんどん買いに来ましたよ。(1979年5月15日録音)
酒つくりの組合員は、多い時には、星立で20名あまりにもなりました。カネー(黒島寛松さん)の酒屋とは別に、やっていました。14、5年続いたと思いますが、封緘制度というのが始まって、ピシャっとやめました。カネーの「星の光」という酒は、その後も続けていましたが、2年ほどで欠損が多くなってやがてやめましたよ。もともと、うちは、年に3斗ほどしか酒をつくりませんでした。麦の配給があったとき、これでビールをつくろうとしたけれど、うまくできないで焼酎ができてしまいました。それから50歳ほどの時に、米の酒を作り始めてやみつきになりました。それ以前は飲まなかったものでしたが……。
封緘制度というのは、酒カメとビンに封をするものなので、それまでのように許可の他に余分に酒をつくることができなくなったのです。だいたい1年30石ということで許可をとっても、50石はつくっていました。米さえたくさん作れば、自分のもうけですよ。米が足りなければ、サツマイモと黒砂糖でもつくりましたよ。住吉部落ができてからも、こちらからばかり買っていました。これは、もと炭坑主だった野田さんがひいきしてくれたせいもあるでしょう。
野田さんは、浦内で70歳余りで死にました。病気だったそうですが、惚けて、自分の便なんかをいじっているから近づいたらだめといううわさでした。ピトゥヌバチでしょ。人の罰をかぶった。あの人は、最初人事係で、炭坑夫をうんと叩いたらしいのです。(1982年8月16日録音)
おわりに槢槢青年たちへ
ほれて通えば
英輝「うち若いころは、おやじが私に田草をとってこいというと、田草はとらんで田んぼの上の山に登って、木の下でグアラグアラ寝てからに、夕方、顔を洗って水あびてそしらぬ顔して帰ってきたもんよ」
ナサ「ピラチカ(怠け者)だよこの人間」
英輝「なにが、うちのやったことない仕事たいていないはずど。部落に100の仕事があれば、そのうち60か70くらいの仕事まではやってみたはず。良いことも悪いことも……。うちのばばあ、私に惚れてよ。浦内から星立までわざわざ1里、4キロの道を歩いて通うてきとるからなあ、それも夜に」
ナサ「ヘーッ!自分でがあんなにして1里の道を浦内まで歩いてきたのに、みんなうちに被してるよ、これ」
英輝「(笑い)私は、また祖納に若い女ひっかけてとるからよ」
ナサ「ヘーッ!鼻がかゆいよ。」
英輝「祖納から星立に女を連れてきたら、とうにもう家に来てこいつは待っておるのに。だから、また祖納まで女を連れて歩いて戻って……。そうしてから、私が浦内に来ないと言ってよ、『祖納に女がおる、星立に女がおる』ちってもう、りんきして、満潮の時は舟に乗って、星立の近くのサーチまで漕いできよったぞ、これ」
ナサ「ター(誰が)?」
英輝「ウラガー(おまえがだよ)」
ナサ「トゥホイ(ちゃんちゃらおかしい)!なあにが、自分こそ浦内川を泳いで渡ってきよったくせに(一同爆笑)」
(1979年5月15日録音)
山の木の柴結い歌
種子取祝いにうたうユングゥトゥの中にとっても面白いものがありました。題はヤマヌキヌシパユキウタというんですが、歌のあらすじは、こんなものです。
村の用達に好きな娘ができました。そこへ石垣島に上納の俵を積みに行くという仕事がきてしまいました。なんとか行かずに済むように、幹事にも頼みますが、とうとう何カ月か留守にしなければなりません。その間に、娘は他の人の女になっていましたとさ。
これを劇にしたててみたいと思っていましたが、台湾にいったのでできませんでした。今の青年たちにやらせてみたいなと思っています。歌はみんなおぼえていますから。
ヤマヌキヌシパユキウタ(山の木の柴結い歌)
ウブヌガヤ シパユキ スルイマルギ シパユク
大野原のカヤを刈る時は、よく揃った束になるように選びなさい
ヤマヌキヌ シパユキ ムトゥバフミ シパユク
山の木に印をつける時は、根元を見て印をつけなさい
ミヤラビヌ シパユキ チムバミリ シパユク
娘を将来の妻にと思うときは、心を見て決めなさい
チムバミリ アダスヌ シパバユキ アダスヌ
心を見てこそ決めなさい、ススキの葉でシパを結って決めなさい
チクブザヌ シナダヌ サチブザヌ タクマヌ
娘に村の用達が目をつける、幹事が言い寄る
ユルシヒリャ チクブザ キムザイヒリ サチブザ
許してください用達さん、かまわないでください幹事さん
ユルスクトゥ ナラヌヨ キムザイクトゥ ナラヌデ
許すことはできない、かまわないわけにはいかない
というふうに長くつづきます。(1982年8月18日録音)
ホラの勝負
無口な人をフチムッカーといいます。それに対して、よくしゃべる人をムニユマーといいます。私なんかのようなムニユマーも珍しいと思います。話が大きい人には、「ウレー、アティンガルン ムニ ガンドゥ イウ」といいます。あいつは、本当かうそかわからんことばかりいう、という意味でしょう。いうことが大きい、まあいうたらホラを吹くというのは、ウブムニスーともいいますね。
ホラは、祖納では新盛行雄さんが一番と言われていました。星立では、私が一番。こんな話をして、ホラ勝負をしました。「ああ、私が稲葉から帰ってくる時に、台風で大きな臼が飛んできたよ。私の頭に当たりそうだったから、かがんだら、そこにクモの巣があったのでそれに臼は引っ掛かったよ。やっぱりクモの巣は強いなあ」と私がいうと、みんなが笑いました。それで、私が祖納・星立で一番のホラ上手ということになりました。だから、これまでお話してきたことも、ひょっとしたらみんなホラかもしれんわけですよ。わっはっはっは。(1982年8月18日録音)