火薬庫)重営倉に入れられた兵士を脱獄させた幼女の物語(母の自伝から)
2024/10/22
『文芸山口』に投稿中ですが、大分県や沖縄の各地や、中学から大学まで過ごした京都府南部にも大きな弾薬庫が準備されているという状況の中で、7歳ぐらいのひとりの少女の奮闘記として記録にとどめておきたいと思います。
主人公の竜子(住んでいた竜吟庵にちなんで、たぶん「りゅうこ」と発音)は、幼い日の母芙美子がモデルで、ペンネームとしては、姓は芙美子の母親(文中では比奈)の旧姓を、名は長男の呼び名シンコをつかってました。
小説上の名前には、下線を引いています。脱走兵の二宮は本名だかどうだかわかりません。
もとのタイトルは、「寺男」でしたが、抜粋した部分には、「六助」と呼ばれる、もと強盗の寺男はほとんど登場しませんので、タイトルをあらたにつけました。
写真は、現存するもっとも幼い時期の母の写真で、裏に「十四才 芙美子 猫をいだきて いさゝか野蕃じみている」 とありますから、1933(昭和8)年ごろのものです。してみると、この自伝小説の舞台は、1926(大正15〜昭和元)年ごろの、宇治と京都ということになります。
小天狗竜子の武者修行(抜粋)
香川真子
これは、安渓遊地の母の芙美子が書いていた自伝的小説の一部です。
彼女は、京都市の南にある名刹・東福寺(本稿では「本福寺」)の塔頭のひとつ、竜吟庵に住んでいましたが、早くに父親をなくし、母親の比奈が医者の竹原と再婚するのを期に、もうすこし南の宇治市の黄檗山萬福寺の近くで暮らすようになりました。小学校に上がったばかりの竜子は、抜群の身体能力をもち、お転婆で通っていました。竜子をしつけることは、毛利家の武道を身につけた祖母のこゆきにしかできません。そんな竜子の「武者修行」が続いたある日のこと・・・・・・。
火薬貯蔵庫のある山は、陸軍の所属なので入山する時には特別許可証を必要とした。村の老人達は年に何度か許可証を貰って柴刈りに行く。最初、竜子はそんな老婆の一人に連れ立って山へいき、驚いた。山菜が多いのだ。山蕗、ぜんまい、わらび、たらの芽、彼女は夢中になって採集した。幾束も幾束もそれらを抱えて老婆にさし出すと、彼女は混乱したようにいった。
「ひゃあ、嬢さんどないして、おとりやしたんです。私らには一向見つからへんのに」
老婆はよろこんで、何度も何度もおおきに、ありがとさんといった。彼女はふと本福寺の管長さんを思い出し、上げたくなる。学校休んで朝から山菜つみ。午後には束にした新聞包みをもって電車にのる。電車賃がいるなどとは思ってもみないから、改札口も平気だし車掌も堂々としている子供には、不審を抱かないもののようである。彼女は久しぶりに管長さんに会い、修行の具合を尋ねられお互い満足して別れる。こゆきは管長さんに礼状をもらい、何が何だかわからない。
そのうち竜子は、許可証をもつ老婆につれだって衛兵のたつ入口から入るのが、邪魔くさくなった。というより、老婆を待っていてはいつでも好きな時に中に入れないのだ。それで馬ン場の山側の土堤から柵を越えて、中へ入る方法を見つけた。銃を脇に抱えた監視兵はいるが、そんな兵隊の目から逃れるなんて、竜子にはお茶の子さいさい朝飯前、木の幹にはりついたり、時には大枝の葉が小さい体を隠してくれる。監視兵は微かに子供の姿をみかけたと目を凝らして探してみるが、大概はざあざあ梢が風に鳴るばかりである。子供だと思ったのは、狐か狸のいたずらだと思い直し、以后は瞞されまいぞと心をとり直して、勤務に励むことになる。
「山の山の天狗さん、もっと風吹いてんか」
胸に祈念して呟くと、必ず吹く風。山の天狗はどうしても子供には甘いようである。ごうごうと吹く風は兵隊にみつけられそうになった竜子が、天狗に頼んで吹いてもらった。
だからいつか一度は、お目もじして高い鼻、赤い顔の天狗さんにお礼をいうのが礼儀だし、折目筋目はきちんとしたい。
実際その山は宝の山だ。竜子の育った裏山は裾の方こそ椎や樫の雑木も生えているが、頂上に近づくと赤松ばかりとなり、松の生える山は大体土地が痩せている。実のなる木が少いということは小鳥も魅力がないとみえる。「かやっこ山」へ来て竜子ははじめて、小鳥も人間と同じほどいろんな種類と数があるのを知った。草丈もそこではのびれるだけ空へ向い。小さな体はかくれて了う。そんな叢に寝ころんで目を閉じると、日の出は暖かな毛布を何枚も重ねてくれる。傍の山桃の木には尾の長い鳥、嘴の尖った鳥、腹側を朱色に染め分けたるり色の鳥、薄紫の胴体を広げる鳥、大きいの小さいの、中くらいのと、様々の小鳥が次々と訪れては羽をつくろいさえずり、そして芽をつみ実をついばみ、又慌ただしく飛立つ。竜子はそうして何時間でも小鳥を眺めている。小鳥と自分を隔てるものは、何もない。自分は小鳥、小鳥は自分。彼らに羽があるのは自分に足があるのと同じなのだ。
小鳥達が或日、竜子になりたいと思えばその日から無数の竜子は生れるだろう。竜子が小鳥になろうとすれば、今すぐにでも羽根を羽搏き、彼らと自分が入れ替わるのではなく、小鳥は小鳥のまま、自分は自分のまま、小鳥であり竜子である。海だ、海がある。この山は海だ、私は海だ。彼女はまだ海を見たことはないが、知識としてもつ豊かな広がりと深さの青海原はそのまま今のこの私だ。手も足も胴も頭も大地の中へ融け入って、寝ていた自分は影も形もなくなった。
小鳥の自分は融けた自分を上からそっと眺めている。すると少し気味が悪くなり慌てて起上ると、もう少し奥へ、樹々の垂れ幕をめくってみることにする。
竜子が小鳥になる広場は「かやっこ」の端の方で、山は涯もなく深いように思われた。いずれ端から端まで丹念に調べてはみるつもりでいるが、何しろ監視兵が徘徊しているので油断はできない。尤も兵隊にみつからないように行動する時の、緊張と素早い身のこなしを彼女はどきどきするほど、面白いとは思っているが、それにしても見つかってはいけないのである。かやっこ山は陸軍の秘密の場所なのだ。彼女はそれでも、少しずつ行動範囲を広げて行った。
柿の実が熟れるのは十月である。木は相当丈高く十米位ある。その時期は柿を取る里人も多いので、咎められることもない。竜子は毎日、柿の木へ登る。鴉ほどではないが山鳩くらいの黒い羽をした椋鳥を手なづけようと努力している。最初は目に止まる小鳥達をみな友達にしようと思った。家に飼う雛の餌やお八ツのビスケット、米粒麦粒、小鳥の好きそうなものは一応撒いてみた。小鳥達は餌は啄むが竜子の思うほど人間になついていないせいか、彼女の身動きには敏感ですぐ逃げた。ところが椋鳥は餌にはそっぽを向くが、彼女がそこにいるのを許してくれる唯一の小鳥であった。騒々しい声と美しいとはいえない姿は気に入らぬが、心の優しいのは取り得だし、お互い妥協しなければ共存できないものである。
十月に入ると、椋鳥色をした椋の実が太い枝もたわわに垂れる。小鳥達は朝から晩まで次々とやって来る。朝は好機だ。結局、竜子を椋の枝として認めてくれるのはやはり椋鳥だった。その日は五羽ばかりの鳥がとりわけ熱心に実を啄んで、中には竜子の椋を握る手をつつく者さえ出てくる。彼女は嬉しくなって、食事をわけてもらうことにきめた。山葡萄より少し大きい薄墨色のその粒を口に入れる。美味しいとは思わないが、それで椋鳥が同僚にしてくれるならいくらでも食べる。おやお前さん、案外うまいもんだろ。五羽の椋鳥もよろこんであっちこっちから、ここがおいしいよ。こっちに沢山あるよ。やかましく呼びたてるものだから、気がついた時はもうお腹が苦しくなる程たべて了った。
その晩、竜子は劇しい下痢におそわれた。浣腸した竹原は便の赤黒さに、赤痢でもなし自家中毒とも思われないしと、首を傾げるのが竜子には面白い。
「おっちゃん、椋鳥病いう病気や」
「何だって、そんな病気ないよ。山で変なのたべたのだろ。全うな生活しないと罰があたるのだよ」
「椋鳥何ともなかったかしら。余りたべたらやっぱり、あれは毒やわ」
竹原も比奈も、とてもこの子は手に負えぬとあきれるばかりである。
元来、山育ちだから椋の実の過食ぐらいは一晩も下痢すれば翌日は、けろりとして了うが流石に少しは懲りて、椋鳥追うのだけは止めた。そのかわり、かやっこ山をもう少し奥へ漂い、木立のたれ幕をそっと打ち上げてみようと思う。
竜子はそのうちこの山になにかが隠されているのに気づいた。山の傾斜を利用して貯蔵庫は作られているらしく、見たところ土手らしく見せかけているが、それらにはいずれもコンクリートの扉がついて番号が書かれている。山の大半は土手に仕上げた無数の火薬の倉庫である。土手と土手の間は鬱蒼と茂る木々に藪われ、そのまま黄檗山の麓の林に融け込んで、そこに大量の火薬が仕舞われているとは誰も知らないことだろう。陸軍がどの様子なのか知る由もないが、火薬の危険性は竜子だって知らされている。巨大な危険物を内蔵する軍隊というものは幼い少女にさえ重苦しい圧力を加えるものらしい。
それが火薬庫だとはっきり意識した日、竜子はもうこの山へは再びもぐり込むまいと決心して、正門への道とは反対の谷へ下って行った。そこは彼女の初めての場所である。多分馬ン場の奥へ出る筈と大体見当をつけて、細い道を辿っていると空耳だろうか。唸り声が聞える。彼女はハッと身構え、それから周りを見廻して、一番安全な場所、木へ上り腰かけて下をみる。熊や猪でもないらしい。降りて来た時は足許に気をとられてわからなかったが、道から少し外れた木立の中に半分を土中に埋めた煉瓦造りの小さな建物。唸り声はそこからだ。怖いと思うよりは好奇心の方が優る。竜子はすぐ木から降りて引返した。入口の鉄格子には錠がかってある。中はくらくてわからない。格子に手をかけ覗いてみると、いきなりその両手をぐっと掴まれた。竜子は慌てて引抜こうとする。
「嬢ちゃん。何か食べ物もってないか」
返事もできないほど驚いた彼女は、手を振り払って一目散、山をかけおり柵をのりこえた。二日たち三日過ぎ、忘れようと思うのだが「何か食べ物もってないか」その言葉は耳について放れない。担任の有川先生は男の先生だが、教え子の状態には細かく気のつく人で、お転婆娘で有名ではあるが、熱心に授業をうける竜子には眼もかけている。それだけに彼女の放心状態は気がかりである。
放課後、竜子は有川先生に居残りを命ぜられた。
「心配事でもあるのとちゃうか。いつもの竜子らしうないよ。先生にいうてごらん」
「何か食べ物もってないか」
「え。お腹へってるのか。お昼、辨当たべなかったのかい」
彼女は夢中で首をふる。ああそうかと思い当たる。驚く先生に目もくれず、家へ走って帰り、文句いうおかねばあを拝み倒して、お握り作ってもらいついでに、柿やあられもくすねて、かやっこ山の裏側から例の建物へ忍びよった。
「お腹へってたんでしょ。お辨当上げる」
建物の暗闇に蹲っていた男は、そっと躙りよると、扉の間から手をさしのべていった。
「誰にもみつからなかったかい」
「うん。竜子色んな術知ってるから、人にはみつからへんの」
「君、竜子っていうのかい。僕は二宮、ほらあの二宮金次郎と一緒の名前だよ」
そういう間も彼はガツガツした感じでお握りをたべている。
「おじちゃん、どうしてここにいるの。ここから外へ出られへんの」
「ここは重営倉いうてな。軍隊の監獄だよ。おじちゃんは何も悪いことはしてないが多分、間もなく銃殺される」
二宮という兵隊の髯に埋まるその頬を伝わる涙の意味はわからないにしても、大きな男の人が泣く。それは思いがけない衝撃だった。
見てはいけないものを見ているような後ろめたさ。後じさりにそこを離れる竜子に、二宮は声をかけた。
「竜子ちゃん、お握り美味しかったよ。亦、来てくれるの」
「うん」
竜子は殆んど上の空。あの錆びた鉄の扉がまるで、自分の胸にびっしり嵌めこまれたように重苦しい。
その夜、こゆきは竜子から重営倉とか銃殺とかの意味を聞かれて戸迷い、この子はまあ何を考えているものやら、と久しぶりに孫の顔をしみじみ眺める。
悪いことをした兵隊に与えられる重い仕置きが重営倉で、鉄砲でうち殺すのが銃殺だと教えられると、竜子は固く決心した。何も悪いことしてないと言っていた兵隊さんを、何とかして助けて上げよう。
翌日、学校から帰るとすぐ食べないで残したお辨当を持って、再び重営倉へ急ぐ。
もとは学生だったが、共産主義者として特高に睨まれたため、徴兵延期も許されず軍隊へ入ってからは、思想改革を毎日迫られ、挙句不敬罪に問われて重営倉入りになっている。幼い女の子に喋ってみたところでどうなるものでもないとは思うが、二宮は話さずにはおれない。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らぬ。人間はすべて平等である。学校に奉安殿をたて、子供達に最敬礼させるような国は滅びて了うのだ。天皇陛下が悪いとはいわぬにしても、それを利用する軍隊や警察は人民の敵なのだ。
「僕のいうことはまだ君にはむつかしくてわからないだろうな。けれども君主制が正しい考えをもつ僕ら共産主義者の敵だという言葉だけは、覚えているんだよ。僕は多分、軍隊に殺される。だけど大きくなった君達はきっと僕の後につづくだろう。竜子ちゃん、僕の言葉を忘れるのじゃないよ」
噛み砕くように話す二宮の言葉の意味は、朧にしか理解できないにしろ、彼の銃殺される理由が、盗みや殺しなどのいやしい所行によるものではなく、考え方とか心の持ち方とか、出来事以外の何かもっと大切なことらしいのはわかる。心が体より先にとび出しているそのせいで、終始奉安殿への敬礼を忘れる。その度、きびしく叱られ、竜子も奉安殿は嫌いなのだ。何故に建物にお辞儀しなければいけないのか。不思議でもある。
二宮の話を聞く合間にも監視兵は近づいたが傍までは来ず、離れた所に立止まり透し見をする様に腰をかがめ、剣を鳴らして立去る。
「奴らは僕が怖いんだよ。僕の言葉の真実があいつらの虚構に充ちた権力の生を脅かすものだから、傍へも寄れないのさ。覚えておき給え、いかなる権力も真理には遂に勝つ能わず。食事も殆んど与えずに、こんな重営倉にぶち込んでおいても、奴らは僕を恐れている」
竜子はこの場合、軍隊という国家権力に潰えさろうとしている二宮の志を伝え得る唯一の同志である。
「兵隊さん正しい人なのに、どうして銃殺されるまでここにいるの。竜子お辨当毎日上げてもええけど、でもなんで逃げ出さへんの」
お話をきいている間中胸を掠めるのはその不審だった。悪いことをしていないのに、殺されるまでずっと手を拱いているのはおかしいと思う。竜子の見て来た多くの小動物は、自分の身を守るために一生懸命闘った。
「こんな煉瓦、金槌で叩き壊せる。手伝ってあげる。逃げたらええに」
小さな女の子の思いがけない言葉。二宮はふと希望の灯を見た。そうだ。逃げられるかもしれない。もしシャベルと金鋸と民間服、それに少しの食糧と金銭があれば。然し鉄格子越しにしゃがむ子は余りにも小さすぎた。
「僕のいったことだけ忘れないようにしてくれればいいのだよ」
「簡単と思うけどな。こんな監獄。それ人事を尽して天命を待つ。おのれの能う限りの力は動かしてみるものじゃ。おわかりかのう」
いつも祖母にいわれるその口調を真似て励ますが、二宮は瞬間、頭の先から爪先へ鋭い矢の射込まれるような激しい戦慄を感じ、思わず竜子の手を強く握りしめた。
「今の言葉は誰かにいわれたの」。「うん」子供は小さくうなづいた。「お祖母ちゃん、いつも竜子にそういうの」全くその通りだ。よし逃げ出そう。この子の力を借りて、出来るだけやってみよう。自分の部隊が原隊へ帰るまで、まだ五日ある。その五日のうちに。
そのころ火薬庫は、奈良と京都の連隊が二週間ずつ交代で監視に当っていた。二宮も部隊の交代と同時に原隊へ戻り、そこで軍法会議に附され、刑は確定する筈である。
翌日は都合よく、土砂降りである。お年玉で貰う小遣いを貯めている素焼きの達磨さんを割ってみると、四円二十一銭入っていた。用心深く、隣のU町まで出かけて金鋸と水筒を買う。一円二十銭だった。家へ帰ってこっそり衣桁にかかる竹原のセーターと洋袴を手に入れる。準備OK。
日曜日、比奈は夫の洋袴が行方不明になったのをいぶかる。おかね婆はごみ捨て用のシャベルが見当たらないと、庭中探している。金槌や合財袋の紛失にも気付くだろうが、おかね婆は「魔がさした」といって厄払いにどこかへ出かけてゆく。家中の少し騒がしい気配を布団の中で聞いている。昨夜はおそくまで二宮と話していた。木枯らしがざわざわ木々を鳴らしていたのは、天狗さんに頼んだおかげに違いない。
「土掘るのは音がするでしょ。天狗さんにね。山の山の天狗さんもっと風吹いてんかいうて頼むと、きっとごうごう吹かしてくれはる。その間に掘ったらええ」竜子の言葉に二宮は深く頷いて、必ず呪文を称えようといった。天狗さん、どうぞあの兵隊さんを助けて上げて下さい。
「竜子、お前さん昨日の夜、さてどこへお出たのじゃ」
空想に耽る竜子の布団を捲るこゆきの目は鋭かった。
「一寸お友達のとこへ、かやっこ山など行ってへん」
それで祖母には竜子が夜、かやっこ山へ出かけたことは一目瞭然。
「かやっこ山に夜何があったのじゃ。さ、言ってみなされ」
曽つてこの孫が、哀愁を籠めてこんな風に自分を瞶(みつ)めたことがあるだろうか。目瞬きもせず見上げる竜子の目の奥に、計り知れない暗い戦きの翳が見えると思うのは僻目か。足許にぞっとする冷えを覚え、こゆきは崩折れるように枕元へ座る。
「さ。何があったかいうのじゃ。かくしだては無用のこと。お婆さんには皆、言いなされや」
祖母にどうせつかれようとも、これだけはいってはならない。〝誰にも何にもいわないように。竜子ちゃんが喋れば、僕はきっと殺されるから、喋らないと約束してくれるね〟二宮は何度もそういって確かめた。だからこれだけは、いくらお灸を据えられても喋ってはいけない。
「さ。言いなされ。皆喋って了うのじゃ」
「・・・・・・」
「お前さんはかやっこ山で何をしでかした。誰にも言いやせん。さあ言うておしまい」
祖母にこう迫られては、竜子にはもう持ちこたえられない。可哀さうな兵隊さん、私のために死んで了う。彼女は泣きながら、重営倉に入れられた二宮が銃殺されるので助ける手伝いをしたことや、二宮の話したすべてを打明けた。何という大それたことを、思いに余る重大なことをして了った孫が、こゆきには空怖ろしい。これは竹原に相談したものだろうか。もはや箭(や)は放たれているものを、軍が相手では竹原とて何ほどのこともできまいものを。そうじゃ、これはもはや口を拭うているより外、何の仕儀もありはせぬ。とつおいつ思案を巡らせた挙句、こゆきは竜子に固く口止めすることにした。
「よいか、お前さんのしたことは私ら皆の首がとぶほどの恐ろしいことじゃ。けれども出かしたことはとやこういうまい。お前さんは、今日以后あの山へ再び行ってはならぬし、このことはお母さんをはじめ、唯一人として人に喋ってはならぬ。それが守れるなら私は話を忘れよう」
「はい。お祖母さん。誰にもいわないし、もう山へも行きません」
固く固く誓う。祖母さえ黙っていてくれるなら、二宮はうまく逃げ出せることだろう。竜子は大きく溜息をついた。
二宮は脱走しただろうか。
それから暫くしてこゆきは、一通の封書を受取った。差出人は本福寺の管長である。至急おめもじしたき用件有之即日お越しを乞う。封書の内容に思いあたるものは何もなかったが、管長さんもお年を召して久しぶり世間話の一つもしようと思われてのことであろう。
土産物の菓子や菜を携えてこゆきは出かける。久しぶりに見る住みなれた竜吟庵も訪れ、ついでにその主の六助の様子なども知りたいものだと、そんなことも些やかな期待をもって出かけた。
老師はいつもいる管長室ではなく、開山堂の客殿へこゆきを案内した。磊落な様子はなくて何か屈託した老師の雰囲気がこゆきには異様である。
「わしは今日、貴方に小天狗の話をしようと思いましてのう」
(続く)