田代安定)明治中期に田代安定が見た八重山のソテツ 『ソテツをみなおす』所収
2024/04/18
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コラム・明治中期に田代安定が見た八重山のソテツ
安渓遊地
一九七四年夏、私と妻は西表島の南岸の入江に面した鹿川村(かのかわ)の急斜面をさまよっていた。明治四四(一九一一)年に村人たちが立ち去った廃村の遺跡のフィールドワークをしていたのだ。ある日のこと私たちは、村の下側の海に面した急斜面の一画がソテツの純林のようになっている所に迷い込んだ。その後、八重山の各島を回ってみたが、あれほどの密度で多くのソテツが密生している場所に行き当たったことはない。
私たちは、廃村に残された植生から人が住んでいたころの生活を復原するという研究手法を開発中だったが、鹿川村のソテツ群落が、人間が植えたものだとは考えなかった。それから四〇年近い歳月がたった、二〇一一年夏に台北市内にある国立台湾大学図書館で資料を閲覧していた私たちは、博物学者であり探検家でもあった田代安定が一八八五(明治一八)年七月七日から翌年四月二七日まで一〇か月をかけて八重山の島々をめぐって作り上げた詳細な復命書「巡検統計誌」と出会った。これらは、与那国島を除く全集落について作られ、惜しいことに登野城村だけが現存しないが、三八冊におよぶ第一級の一次資料である(閲覧の方法などについては、安渓ほか二〇一四を参照)。
試みに鹿川村の部を見ると、そこに次のような記述があることに気付く「一 鉄蕉栽付敷地凡ソ三反許 但シ鉄蕉凡ソ一千五百本程」つまり、ソテツを植え付ける敷地が三反(三〇アール)ほどあり、そこにソテツが一五〇〇本ほど植えられているというのだ。私たちが迷い込んだソテツ林は、人間が植えたものだったのだ。
豊見山和行(二〇一四、一一〜二二頁)は、首里王府のソテツ政策のあらましを紹介している。救荒食として重宝なものであるとして毎年植えることを命じていた。一八七八(光緒四)年の文書によると、その数は沖縄島だけで七五万五一五一本にのぼる膨大なものであった。また、八重山では沖縄島で一人三〇本の苗を植えることが義務づけられていたのに対して、一八五七年の「翁長親方八重山島規模帳」には、一人一〇本のソテツを毎年植えることが定められていた。さらに、一八七四年の「富川親方八重山島農務帳」には、一世帯につき二〇本を植えるように義務づけられていた。
豊見山(二〇一四)が示した沖縄島のソテツ数の表は、特定の年の植付苗数である。一方、田代安定の史料は、明治一八年から一九年の踏査で田代が推算した現存の本数と考えられ、「凡ソ○○本」と表記されている。食用にされたり枯死したりする本数については、史料がないので何とも言えないのだが、田代が見て記録したソテツの本数を合計すると、記載のない村を除く三〇か村についておよそ四一万五八〇〇本となっている。それぞれの村の人口と戸数も田代は調査して記録しているから、少数の寄留民を除いた数を表には合わせて示した。
その結果、一人当たりのソテツ本数は、新城島下地村の四一七本から、桃里村の六 本、最下位が大川村の二本で、平均値は六五本となる。戸数割で計算しても上位と下位の順位はあまり変わらず、一戸あたり新城島下地村の一六六七本がトップで、下位は桃里村の一八本、さらに大川村のわずか九本までと幅が広くなっている。平均値は三一九本である。
ソテツを食べる人数に応じて苗を植えるのは合理的ではあるが、明治時代の八重山の場合、一戸あたりの人数が多いのは子どもが多いか高齢者がいる場合であって、一戸あたりの人数が多いからといって、植えさせる本数を機械的に増やせば、結局働き盛りの戸主とその妻の負担が重くなってしまう。また、明治三六(一九〇三)年まで続いた人頭税制度のもとで、熱帯熱マラリアのある「有病地」からの移住の自由を与えられていなかった、西表島や石垣島北部の村々では、一戸あたりの平均人数が二人未満という疲弊した村もあった。このような場合は、人数の頭割りで毎年植えるべきソテツ苗を決めれば、一人暮らしの場合は一戸で一〇本しか植えなくてよいことになる。これでは疲弊した村が飢饉に対してますます脆弱になることも危惧される。ソテツ苗を植え付ける本数を首里王府が一人一〇本から一戸に二〇本に変えたのは、こうした村ごとの一戸あたりの人数の格差の拡大という現象になんらかの形で対応しようとしたものではなかっただろうか。
八重山の島ごとの上納品の違い(新城島のジュゴン、黒島の粟、その他島々の米)や、一七七一年の大津波とそれ以後の人口の減少の程度によって、ソテツの消費と王府からの植付け命令の遵守にどのような差異があったかなどの詳細な分析などは、今後の課題である。
引用文献
安渓遊地・安渓貴子・弓削政己・今村規子 二〇一四「国立台湾大学図書館・田代安定文庫の奄美史料――『南島雑話』関連資料を中心に」『南島史学』八二
豊見山和行ほか編著 二〇一四『琉球・沖縄学における先端的研究領域の開拓——文理融合型研究を目ざした実践的研究プロジェクト成果報告書』琉球大学国際沖縄研究所
掲載された本の紹介です。在庫あります。
https://borderink.com/?pid=87812196
安渓貴子・当山昌直編(奄美沖縄環境史研究会)
A5判 182頁
奄美沖縄における多彩なソテツ利用
命を支えた先人の知恵に学ぶ
「ソテツ地獄」という言葉がジャーナリストによって作られ、日本中に知られるようになってから、長い時が流れている。しかしソテツこそが人々を飢えから救って生き延びさせてくれたものだという意味で「ソテツは恩人」とも呼ばれている。
ソテツを食べた記憶をもつ人々が少なくなり、正しい毒抜きの仕方、おいしい食べ方、年中行事の中のソテツ、琉球王府時代のソテツ政策、空中写真からみたソテツ利用や近代沖縄の新聞、ソテツの美や文化に至るまで幅広い分野にわたりソテツを検証。
奄美沖縄の人々の生活を支えてくれたソテツの賢い利用について、それを利用してきた人々の経験に耳を傾け、安全な食糧による地域自給の確立と地域文化の尊厳の確保という課題に迫る。
●目次
はじめに
第一章 南島の自然と文化
日本のソテツ
暮らしの中のソテツ
奄美・年中行事のなかのソテツ点描
ソテツの三つの毒抜き法
◇コラム◇先史時代のソテツとドングリ
第二章 激動の歴史の中で
琉球王府による蘇鉄政策の展開
「蘇鉄かぶ」のこと ―久米島の古記録から─
◇コラム◇明治中期に田代安定が見た八重山のソテツ
空中写真から復元するソテツ利用
第三章 もうひとつの未来へ
近代沖縄の新聞にみるソテツをめぐる事件
◇コラム◇国境を越えるソテツ
琉球列島の里の自然とソテツ利用
◇コラム◇横井庄一さんを生き延びさせたナンヨウソテツ
ソテツの「美」を愛でる
ソテツ文化の継承──もうひとつの未来へ
資料 世界のソテツ類
あとがき
索引
執筆者紹介
●著者紹介
執筆者紹介(五〇音順)
安渓 貴子(あんけい たかこ)
愛知県生まれ。生態学専攻。山口大学・山口県立大学非常勤講師。理学博士。主な著作に、安渓貴子 二〇〇九『森の人との対話――熱帯アフリカ・ソンゴーラ人の暮らしの植物誌』アジア・アフリカ言語文化叢書四七:一~六一四頁 東京外語大AA 研、安渓貴子 二〇〇三「キャッサバの来た道―毒抜き法の比較によるアフリカ文化史の試み」吉田集而・堀田満・印東道子編『イモとヒト』平凡社 二〇五~二二六頁、ANKEI Takako 1990 Cookbook of the Songola, African Study Monographs, Suppl.13:1-174 京都大学、など。
安渓 遊地(あんけい ゆうじ)
一九五一年富山県生まれ。母方は加計呂麻島西阿室出身。人類学・地域学専攻。山口県立大学国際文化学部教授。理学博士(京都大学)。主な編著に、安渓遊地編著 二〇〇七『西表島の農耕文化――海上の道の発見』法政大学出版局、宮本常一・安渓遊地 二〇〇八『調査されるという迷惑』みずのわ出版、湯本貴和編、田島佳也・安渓遊地責任編集 二〇一一『島と海と森の環境史――日本列島の三万五〇〇〇年』文一総合出版、など。
上江洲 均(うえず ひとし)
一九三七年沖縄県久米島生まれ。名桜大学名誉教授。久米島博物館名誉館長。主な著書に、上江洲均 一九七三『沖縄の民具』慶友社、上江洲均 一九八二『沖縄の暮らしと民具』慶友社、上江洲均 二〇〇八『沖縄の祭りと年中行事』榕樹書林、上江洲均 二〇〇七『久米島の民俗文化──沖縄民俗誌』榕樹書林、など。
木下 尚子(きのした なおこ)
一九五四年東京都生まれ。日本考古学専攻。熊本大学文学部教授。文学博士(九州大学)。主な著作に、木下尚子 一九八九「弥生定形勾玉考」『東アジアの考古と歴史』同朋社、木下尚子 一九九六『南島貝文化の研究―貝の道の考古学』法政大学出版局、分担執筆、一九九八『続・暮らしと環境』山口県史編纂室、木下尚子 二〇〇九『13~14世紀の琉球と福建』平成一七~二〇年度科学研究費補助金基盤研編著究(A)(2)研究成果報告書、熊本大学文学部、など。
当山 昌直(とうやま まさなお)
一九五一年沖縄県那覇市生まれ。動物学専攻。沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員。主な著作に、当山昌直・安渓遊地編 二〇〇九『聞き書き・島の生活誌①野山がコンビニ 沖縄島のくらし』ボーダーインク。安渓遊地・当山昌直編 二〇一一『奄美沖縄環境史資料集成』南方新社。当山昌直・安渓遊地 二〇一三『奄美戦時下米軍航空写真集』南方新社、など。
豊見山 和行(とみやま かずゆき)
一九五六年沖縄県宮古島生まれ。歴史学(琉球史)専攻。琉球大学法文学部教授。博士(歴史学・名古屋大学)。主な著書に、豊見山和行 二〇〇四『琉球王国の外交と王権』吉川弘文館。入間田宣夫・豊見山和行 二〇〇二『北の平泉、南の琉球』中央公論新社、など。
早石 周平(はやいし しゅうへい)
一九七四年大阪府生まれ。母方は徳之島崎原出身。霊長類学専攻。鎌倉女子大学教育学部准教授。理学博士(京都大学)。主な著作に、早石周平・渡久地健 二〇一〇『聞き書き・島の生活誌④海と山の恵み 沖縄島のくらし2』ボーダーインク、など。
前田 芳之(まえだ よしゆき)
一九七二年、大阪から瀬戸内町手安にIターン。造園業の芳華園を経営。樹木医。環境省および鹿児島県の希少野生動植物種保存推進員。鹿児島県文化財保護指導員、瀬戸内町文化財保護審議会会長。奄美の「森の番人」。「奄美大島におけるカンアオイ類の分布と生活史」の研究で理学博士。
町 健次郎(まち けんじろう)
一九七〇年与論島生まれ。民俗学専攻。瀬戸内町立図書館・郷土館学芸員。博士(学術・琉球大学)。主な論文に、町健次郎 二〇一〇「明治期における奄美大島開闢神話」『沖縄民俗研究第28号』沖縄民俗学会、町健次郎二〇一一「大正・昭和期における奄美大島開闢神話」『沖縄民俗研究第29号』沖縄民俗学会、など。
盛口 満(もりぐち みつる)
一九六二年千葉県生まれ。沖縄大学人文学部こども文化学科教授。珊瑚舎スコーレ夜間中学校講師。主な研究テーマは、琉球列島における植物利用の聞き取り調査、身近な自然の教材化の研究など。主な著書に、盛口満 二〇〇九『ゲッチョ先生の野菜探検記』木魂社、盛口満 二〇〇一『ドングリの謎』どうぶつ社、盛口満 二〇〇七『ゲッチョ昆虫記』どうぶつ社、など。
