香川真子)虫話し 抜粋
2024/03/29
母の書いた自伝風小説の中に、18歳ぐらいの 虫めづる子 が ゆうじという名の次男坊として現れます。
遊地は、もともとは 涌地 として届けたそうですが、その字は使えないと戸籍係ではねられて、使える字にしたのだとか。??は、とりあえず読めなかった字ですが、おいおい直します。
私には息子が二人いるが長男はもう大学を出ると、もう一人前だとか称して家を出て行ったので目下のところ大方の相手は次男がしてくれる。次男は因果なことに「湧地」などという名前をつけられて、私は〝湧地〟なんてまるで温泉を連想して了うのでもっぱら「ゆうじ」とひら仮名でよぶことにしているが本人や、それを名づけたお上人は断固として「湧地」と漢字でよび合っている。何でも「地湧菩薩」という佛さまがおられて地面からひょこひょこ湧いてこられるらしいのだが。〝ゆうじ〟の方はちゃんとした母胎から産まれたので「地湧」ではなく「湧地」となったものらしい。然し名は体を表すの例えに違わず彼も亦地面から湧いたもの、一人として無類の虫好きなのである。虫に限らず、ありと凡有る生あるものが好きだといっていいのかも知れない。尤も彼は大学で生物とか動物学とかを専攻しているそうだから、生きて命あるものを愛するのは当然かとも思うが、彼の場合は少し度が過ぎる。
小学六年位の年頃からここに住みついているのでお決まりの甲虫、鍬形虫、黄金虫、玉虫、紙切虫などを飼うのは仕方がないとしても、部屋の中へ黙って這入ってくる守宮、百足の類と同居しているのには私も腹にすえかねる。然しゆうじにはゆうじの理由があるらしい。守宮や百足という〝こわもて〟は天井に巣をかける雀の羽ダニ、毒蛾、蜂などを退治してくれる手兵のようなものだという。しかもそういう虫達こそ先住民族で私らは一種の租借人種なのだから、かのマヤ文明やアステカ文明を破壊したコンキスタドレスとなることは許されない。一匹の百足や蛇にクレゾール原液をふりかけて焼き殺したい誘惑をぐっとおしこらえることがゆうじとの平和共存のために課せられた私の繋縛なのである。ゆうじはこういう。
「お母さんは虫のどこがいやなんだろ。形がこわいなんて理由にならない。虫から見れば人間こそ異形のもの、悪息羅刹、恐るべき殺戮者そのものだよ。お母さんがきゃあーという度に虫達はそのかよわい心でおびえ戦き慌てふためいて逃げ出さずにおれないじゃないか。自分の側からばかり見ないで虫の心になってみればあれらがどんなに人間を怖れているか少しはわかる筈だけどなあ」
こんな風に下手に出られると、どこかしらで論理をすりかえられていると思いながら何とはなく妥協して私は??、と遠くから虫共に声をかけて姿を消してもらわねば仕方がない。全くゆうじと来たら私の次男でいるよかジャイナ教の教主にでも就任した方がいっそ相応しいというものだ。
彼のキライなものキンチョール、蚊取線香、ゴキトール(そんな名前のゴキヤン殺しがあればだが)、中性洗剤、これらは虫の生存の大敵だという理由からである。その他動物植物、すべて人間の生活を快適にするという近視眼的視野から自然のなりたちの環を切ることはいずれは人間の生存をおびやかす遠因となることなのだそうである。私が一匹の虫を殺すことは自然界の食物連鎖の一角を崩すことにもなるのだという。人間が末長く生き長らえるには他のすべての自然生存を脅やかすことなく共存しなければならない。などなどと四六時中説教されては私としてもあえて虫退治する訳にはゆかなくなる。かっくて我家に於ては花畑の花でさえ、剪って卓子に飾られる晴れがましさには縁遠く、あたら花の命をムザムザと、畑の中で立腐れという仕末。花は花としてただなすこともなく季節の間中畑の中で咲いておればいいことになる。薔薇なんて剪ってもらいたくてウズウズしているから、散り始める一寸前頃、四五本剪って食卓なんかに飾っておく。すると学校から帰って来たゆうじは思いなしか憂鬱そうな表情になって思えるのはありがちな私のひがみからだけでもなさそうである。
以上のべて来たような理由から私は山へ散歩に出かけても雑草一本さえ気分の赴くままひきぬくという訳にもゆかず大いに不自由を感じるが、平和のためには欲望を押さえ、自己主張もほどほどに分を弁えねばならないことは上は国家間、下は家族間に於ても原則としては異らない。然し私としては大いに不満である。そこで彼のいないところで一席ぶってみる。
「ゆうじのいうことは正しいように見えて実は間違っている。もし彼が首尾一貫するなら彼としては肉食は拒否しなければならない。のみならず野菜に於ても、彼の好む菠薐草のおひたしなども、根っこから引ぬく絞首刑、次で熱湯で茹でる焚刑、包丁で刻む剪首刑、あらゆる惨虐をふるったのち食卓に載る。然るに彼は文句もいわぬばかりか人の倍ほどパクパクたべるというのはどういうにも論理性に欠けるところがある」
私はそういって彼以外の家族の顔をねめつける。
「まあそういいなさんな。山川草木悉有佛性というがな、若い身空であのようにものの命を尊ぶことを本性としてもっているのをわれわれ親としてはよろこぶべきじゃないかね。勿論ジャイナ教というのは佛性を尊べば尊ぶ程禁忌が多くなり遂に自分の生命を否定せざるを得なくなって衰えて了ったのだが、湧地の場合も観念が定着してしまうと自家撞着に入ってどうにもならなくなるところを、幸いにも彼は若くて食欲旺盛で、そこまで思い至らないのが私ら親の救いにもなっているのだから、余りそんなことを問題にしない方がいいよ」
そういわれればその通りで反論の余地はない。でもここでも私は何か論理をすりかえられている感じから抜け出せないが、自己主張はしないことにする。生きるということはどこかで誰かが何かの形で我慢しなければならないことなのだろうと思うことにする。然し、折さえあればゆうじの所謂「極悪非道」「無役の殺生」というのはともすれば私のこころを揺ぶる。虫を見つけると万一噛みつかれたらと本能的に殆んど反射神経的に思うのだろうか。何かしら叩きつぶしたいようなこわいような一種の不安に陥って了う。けれどもここ十年、全く虫共は奇妙に私のみならず家族の誰一人として噛みもさしもしないで仲よく共存しているのが現実とあれば、私としても文字通り虫も殺さぬ優雅なくらしを、これからも続けねばならないことだろう。