わが師)頭があがらないわけ・恩師を叱りつける
2023/12/04
伊谷純一郎先生
1974年、京都大学大学院理学研究科動物学専攻の大学院生として、自然人類学研究室に所属することになった私は、伊谷純一郎先生の指導を受けました。
薮くぐりのことを伊谷先生は「ジャンジャン」と呼んでおられました。修士研究として私が西表島で鹿川村の廃村調査をしている時に「ジャンジャン」を口実に三度も西表島まできてくださいました。
荷物は極限まで少なくし、軽い靴をはき、厚鎌を片手に軽々と進んで行くのが先生のスタイル。私は、目覚まし時計まで持って行って「百貨店」のあだ名をたまわりました。
「ジャンジャン」のさなか、岩がごろごろ重なる急な沢を登ったり降りたりしながら、ある所で先生は小さな滝壷をへづりながら「ここは君には無理や。横から廻れ」とおっしゃったのです。僕は横着をして、大きな原子令三さんや足の長い伊谷先生の踏んだとおりを通ろうとしました。ところが、やっぱり僕の引き締まった足では届かなくて、滝壷の中に落ちこみそうになりました。僕が先生の立場だったら、水の中で少し頭を冷やせと静観しているところ。
先生は、さっと胸まで水のある滝壺の中をかけよって来て、鋲のついた僕の靴を御自らの肩で受け止めてくださったのです。その後も、ひとことも叱るような言葉をおっしゃらず、平然とサバ崎を越えて船浮村に至る道なき道の藪こぎを続けられたのでした。
それ以来、頭があがりません。誰でも「さんづけ」で呼ぶ、研究室の伝統にもかかわらず、「伊谷先生」としか言えなくなりました。教員になってからも、いざという時には、身を挺してでも学生を守るということを最優先に動くようになったのも、あの時の伊谷先生の身をもっての行動のおかげです。
そんな恩師を、大声で叱りつけたことがあります、私。
1988年、パリに家族で滞在中のことです。コンゴ民主共和国のイツリの森のフィールドワーク中にひどい貧血かなにかで倒れた伊谷先生は、パリのアメリカンホスピタルに入院されました。個室にシャワーがあり、メニューでワインが選べる、「豪華なホテルをめざすのか」と新聞で揶揄された私立病院です。何回目かの御見舞に行くと、一冊のノートを示して、
伊谷「これな、今朝の3時までかかって書き上げてん。こんどの旅の記録や。『旅に病んでの記』いうねん。」
私「『夢は枯野』ですか? 縁起でもない*、やめてください! そんな記録、徹夜で書かはっても、公開はできひんし**、そもそもあなた、死にかけてはるんですよ!!」
* 芭蕉が大坂で亡くなる4日前の辞世の句
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
** 公務員が公務災害を申請するためには、公務としてのフィールドワーク中に新たにかかった病気による入院であることが必須の条件のひとつ。万一にも、持病が悪化したような記録があれば、アメリカンホスピタルの入院費用も、ファーストクラスの飛行機代も、みんな自己負担となる可能性があったため。
恩師をしのびつつ安渓遊地