北大博物館)ボーダーツーリズム展示 こんどはやまぐち
2023/10/03
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/ubrj/movies/
の最新は、奄美展示ですが、この10月から やまぐち展示に切り替わりました。
内容は、『知られざるボーダー やまぐち』https://ankei.jp/yuji/?n=2758
にまとめたものを、ビジュアルにしたものです。
ホームページが更新される前に、担当の岩下明裕さんから届いた写真の抜粋で、その内容をお伝えしましょう。
私も、曾祖父さんの 香川葆晃(ほうこう)が、西本願寺からもらった辞令などを資料として提供しています。
展示の文字はよく読めませんが、辞令の上のパネルのために私が書いた原文をはりつけておきます。
外交・仏教僧・詩作――ボーダーを超えて働いた長州僧の力の源泉
博多を対外貿易の拠点にする大内氏と堺商人と組んだ細川氏が、明国との勘合貿易の覇権を争った室町時代。外交の現場を担ったのは、禅宗の学僧たちでした。長門の大寧寺が国政にはたした重要性も、ここにあります。
江戸時代に鎖国政策がとられる中、徳川幕府は、李氏朝鮮からの「通信使」を12回にわたって受け入れました。当初対馬藩が改ざんしていた朝鮮との外交文書を検閲するために、当代最高の知性をもつ京都五山の学僧を、輪番で対馬に駐在させました。事務文書だけでなく、漢文での詩作にたけていることが、当時の東アジアの文化交流の必須の教養でした。
幕末の長州で「海防僧」として、全国的な影響力をもった真宗僧・月性(げっしょう)。彼の最大の武器は、ずっと後に毛沢東が引用したほどの詩作の力でした。その弟子たちは、維新での軍事的な活動をにない、周防大島の大洲鉄然(てつねん)は、第二騎兵隊の隊長でした。周南市政所の香川葆晃 (ほうこう)は、京都で学んだ経験を活かして、長州藩の密偵として情報を収集しました。山口市徳地の島地黙雷(もくらい)は、岩倉使節団の一員としてヨーロッパを歴訪し、政教分離しなければ、世界の先進国に受け入れられないことを、明治新政府に警告します。これが、廃仏毀釈の停止と、キリスト教の解禁につながります。周南市徳山の赤松連城(れんじょう)は、イギリス留学の経験を活かして、「英語を話す坊主」として世界に名が知られ、腐敗した仏教を立て直し、キリスト教に対抗できる宗教者を育てるための学校を設立しました。長州僧が中心になって西本願寺を武士団の支配から開放する改革運動は、明治政府による憲法の制定や議会の設置にも影響を与えたことが分かっています。香川葆晃は、明治2年に政府要人の招きで国政、とくに宗教政策について意見を述べました。その後、辞令(1)にあるように、龍谷大学の前身の学長を勤めながら、宗主の作詞の添削・助言者をつとめました。
このように、中世以後、外交と文化交流に果たした仏教僧の役割は、きわめて大きく、学僧としての知識を超えて、ときには僧として武器をとるという活動も大きかったということがわかります。
参考文献
安渓遊地他(2012)「明治初期に仏教を救った山口の四傑僧:島地黙雷・大洲鉄然・赤松連城・香川葆晃の研究」(英文)『山口県立大学学術情報』5 :31-51
安渓遊地・井竿富雄(2013)「資料紹介:島地黙雷ゆかりの願教寺所蔵の足尾鉱毒事件関係書類」『山口県立大学学術情報』6: 59-93
安渓遊地