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わが師)西表島を愛した学問的巨人---多和田真淳先生を悼む(1990年)_RT_@tiniasobu
2026/01/13
2022年10月31日の記事の改訂です。
写真の説明の文字化けをなおしました。
多和田真淳が見た戦争 という記事のリンクをつけておきます。
https://okimu.jp/museum/column/1747031953/
パソコンで古いファイルを探していたら、たわだ・しんじゅん先生の追悼文がでてきました。たぶん、八重山毎日新聞 への投稿文ですが、掲載されたかどうかとりあえず記憶にありません。
1981年、はじめての職場となる沖縄大学の新任教員紹介の場に、礼服で出てくださって、過分のご紹介の談話をしてくださったことをありがたく思い出します。
西表島を愛した学問的巨人---多和田真淳先生を悼む
この一二月二一日の朝、多和田真淳先生が亡くなられた。先生が、考古学と植物学、とくに薬用植物について先駆的な大きな業績を残されたことは、広く知られている。しかし、先生が、昭和一五年から一七年まで西表校で教鞭をとられ、西表島を広く歩かれ、生涯にわたって西表島を深く愛しておられたことはあまり知られていないのではないだろうか。先生が、この春に刊行予定の『西表校百周年記念誌』にお送りになった遺稿となった原稿にも、思い出があふれて尽きることがない、という意味のことが書いてあった。また、先生の西表での生活は、学校の横に張った一人用のテントの中で始まったという。西表校で教鞭をとっておられたころは、生徒たちとともに、西表の山野を歩きまわって、たくさんの発見を残して
おられる。
一六年前に私が西表島の鹿川(かのかわ)村の遺跡調査を始めたころ、たしか天野鉄夫先生に紹介されて、おびただしい種類の植物に埋もれた首里のお宅を訪ねた。先生は、あるいはテント暮らしで西表島での廃村研究をしようという私の無鉄砲さに親しみを覚えられたのか、実に多くのことを惜しげもなく教えてくださった。その後は、西表島詣での旅の帰りには、かならず会っていただいてその時どきの疑問について、あれこれと教えを請うのが私の心おどる習慣になった。西表のこととなると目を輝かせて、遺跡のこと、植物やその利用法のこと、民俗や芸能などのあらゆる分野にわたって、掌をさすようにていねいに教えてくださるのが常であった。私のような駆け出しの学生に対しても、一点一画もゆるがせにすることなく
教え導いてくださった先生。教員のはしくれとなった今日、それがいかに大変なことであったかが少しづつわかるようになってきた。
お話を伺っていると、よく電話がかかった。薬草の使い方についての質問が多かったように思う。それぞれの質問に驚くほど懇切丁寧に親身になって返事をしておられたことが今も強く印象に残っている。
のちに、西表のサトイモ類やヤマノイモ類の栽培方法とルーツについての研究をしたときには、「新しい事実を発掘してゆく、こういう種類の研究をもっともっと推進して行くべきです」と強く励ましてくださった。
人文と自然の両方の分野の深く掘り下げた研究を通して、地域の全体像を総合的に明らかにしてゆくのが多和田先生の学問の方法であった。専門化が進んですぐ隣りあう研究分野でもお互いに没交渉といった風潮のある、現在の学問分野のあり方に対する、警鐘としてうけとめなければならないと思う。先生の御遺志をついで、これからも地域研究の深化のために地道な努力を積みかさねていくことが、多和田真淳先生の学恩にこたえる道であると、今強く感じている。つつしんで御冥福をお祈りもうしあげます。
安渓 遊地(西表をほりおこす会・山口大学教養部・助教授)
追記 多和田真順先生生誕100年記念パネル展のパンフ https://sitereports.nabunken.go.jp/115056
多和田真淳先生の研究業績と発見した遺跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/115077
追記2 國分直一先生にうかがった、波照間島の下田原貝塚の調査の時のお話から
多和田先生は農業試験場の所長をしておられましたが、奥さまは戦争中に爆弾でお尻をやられまして、そしてそこが化膿して腐って、非常に惨憺たる症状になった時に米軍が来て、おそらくどこかに捨てるつもりでトラックに奥さんを無理に乗せたそうです。歩くこともなにもできない奥さんを乗せたそうです。多和田先生はつれていかれてどこかに捨てられたら大変だと思って飛び乗ったらたたき落とされたということです。そのまま奥さんの消息はわからないというそういうお話を聞いたんですが、もう頭が上げられないんですね。悲惨で残酷で悲しくて頭が上げられなかった。こんな苦しみをこの島の人たちがなめたのかと思うと、調査に来ました、というような顔はできないという深刻な思いがしました。
追記3 里井洋一さんの記事
https://okimu.jp/museum/column/1747031953/
【国際博物館の日2025】多和田眞淳と沖縄の学術研究-多和田眞淳が見た戦争-
最終更新日:2025.05.12
多和田眞淳(たわだしんじゅん)は、戦前・戦後の沖縄で活躍した教師、植物学者、考古学者です。1907 年首里に生まれ、1925 年沖縄県立第一中学校卒業。一中時代には、坂口總一郎(さかぐちそういちろう)、山城盛貞の薫陶を受け、「私の学問探究のとびらを開いてくれたのは山城先生であった。学歴はどうでもよい勉強さえしておけばいつか役に立つというのが先生の信念であった」と述べています。
1926 年沖縄県師範学校本科第二部を卒業したのち、教師(訓導)として安田(あだ)・美里(みさと)・天願(てんがん)・美東(びとう)・西表(いりおもて)小学校で教鞭をとりました。天願小学校勤務時に、校庭で天願貝塚を再発見して考古学に興味をもつようになり、公爵大山柏が著わした欧州の旧石器時代に関する著書を通じて、旧石器時代の知識も身につけていたようです。
この頃、沖縄博物学会にも参加して伊江島の植物に関する報文を執筆しており、伊江島での植物調査の際には、知人を介してカダ原洞穴の絶滅シカ類化石の存在を知り、これを世に出すきっかけを作りました。戦後(1962 年)にはカダ原洞穴を再訪して人骨(頭骨片)も発見しており、これが沖縄の旧石器人骨研究の端緒を開くことになりました。1943 年には県立第一中学校に転出し、博物(自然史)を担当し、後に沖縄国際大学教授・学長を務める高宮廣衞(たかみやひろえ)(考古学者)らを育てました。
1945 年の沖縄戦については、「米軍上陸と同時に絶海の一孤島は震天動地 阿修羅の巷と化し、山海の区別なく鉄の暴風にたたきのめされ」たと記しています。多和田は家族11 名の中7 名を失い、島尻郡八重瀬(現八重瀬町)で捕虜となったのち、玉城村(たまぐすくそん:現南城市)百名(ひゃくな)の収容所で瀕死の身となりましたが、かろうじて一命をとりとめました。
1954 年3 月に、柳田國男の「海上の道」の仮説検証を目的として来沖した「南島文化の綜合調査」(団長:金関丈夫)のメンバーとして多和田と共同で調査を行った国分直一(考古学者)は、次のように回想しています。
「…多和田先生は農業試験場の所長をしておられましたが、奥さまが戦争中に爆弾でお尻をやられ、そこが化膿して腐って、非常に惨憺たる症状になりました。その時、米軍が来て、おそらくどこかに捨てるつもりで、歩くこともできない奥さんを無理にトラックに乗せたそうです。多和田先生は、どこかに捨てられたら大変だと思ってトラックに飛び乗ったところ、たたき落とされたということです。そのまま奥さんの消息はわからないというお話を聞いたんですが、もう頭が上げられないんですね。悲惨で残酷で悲しくて…」(安渓・平川2006)
多和田は1954 年の「南島文化の綜合調査」への参加を契機として、考古学研究にいっそう精励し、1956 年には「琉球列島の貝塚分布と編年の概念」を著わしました。そこで示された考古学的編年の大枠は、今日の沖縄考古学にも引き継がれています。
植物調査の傍ら、多和田が発見した遺跡は174 箇所にのぼり、その分布は奄美大島・喜界島から西表島に及んでいます。1959 年からは琉球政府文化財保護委員会に勤務し、1970 年に退職するまで、沖縄の文化財保護に尽力しました。多和田が戦後収集した考古学資料は、1973 年12 月に県立博物館に寄託され、その一部は公開されています。
植物学者としても、1952 年の尖閣諸島調査への参加や、米軍による民情調査事業SIRI(Scientific Investigations in the Ryukyu Islands)の一環として実施されたエグバート・ウォーカーの植物調査への協力など、多くの業績を残したほか、その名はセンカクツツジ(尖閣諸島魚釣島の固有変種)の学名(Rhododendron simsii Planch. var. tawadae (Ohwi) Hatusima)にも刻まれています。
SIRI の植物調査の際のスナップ。
左からウォーカー、多和田眞淳、天野鉄夫。
「琉球列島の貝塚分布と編年の概念」(部分)
1958 年に多和田眞淳と賀川光夫が発掘した大山貝塚(宜野湾市)の大山式土器(博物館常設展考古部門展示室)。
参考文献
安渓遊地・平川敬治編2006『遠い空-国分直一、人と学問』海鳥社
ウォーカー博士展実行委員会 2001『ウォーカー博士が見た沖縄の原風景-米国植物学者の偉業と写真で蘇る1950 年代の沖縄』
沖縄県立埋蔵文化財センター2007『平成19 年度企画展 多和田眞淳先生の研究業績と発見した遺跡』
多和田眞淳 1956「琉球列島の貝塚分布と編年の概念」『文化 財要覧 1956 年版』 琉球政府文化財保護委員会
多和田眞淳1980『多和田真淳選集 考古・民俗・歴史・工芸篇』古稀記念多和田真淳選集刊行会
【国際博物館の日2025】 戦後80年記念-戦争と研究者と博物館-



