わが師)西表島を愛した学問的巨人---多和田真淳先生を悼む(1990年)_RT_@tiniasobu
2022/10/31
パソコンで古いファイルを探していたら、たわだ・しんじゅん先生の追悼文がでてきました。たぶん、八重山毎日新聞 への投稿文ですが、掲載されたかどうかとりあえず記憶にありません。
1981年、はじめての職場となる沖縄大学の新任教員紹介の場に、礼服で出てくださって、過分のご紹介の談話をしてくださったことをありがたく思い出します。
西表島を愛した学問的巨人---多和田真淳先生を悼む
この一二月二一日の朝、多和田真淳先生が亡くなられた。先生が、考古学と植物学、とくに薬用植物について先駆的な大きな業績を残されたことは、広く知られている。しかし、先生が、昭和一五年から一七年まで西表校で教鞭をとられ、西表島を広く歩かれ、生涯にわたって西表島を深く愛しておられたことはあまり知られていないのではないだろうか。先生が、この春に刊行予定の『西表校百周年記念誌』にお送りになった遺稿となった原稿にも、思い出があふれて尽きることがない、という意味のことが書いてあった。また、先生の西表での生活は、学校の横に張った一人用のテントの中で始まったという。西表校で教鞭をとっておられたころは、生徒たちとともに、西表の山野を歩きまわって、たくさんの発見を残して
おられる。
一六年前に私が西表島の鹿川(かのかわ)村の遺跡調査を始めたころ、たしか天野鉄夫先生に紹介されて、おびただしい種類の植物に埋もれた首里のお宅を訪ねた。先生は、あるいはテント暮らしで西表島での廃村研究をしようという私の無鉄砲さに親しみを覚えられたのか、実に多くのことを惜しげもなく教えてくださった。その後は、西表島詣での旅の帰りには、かならず会っていただいてその時どきの疑問について、あれこれと教えを請うのが私の心おどる習慣になった。西表のこととなると目を輝かせて、遺跡のこと、植物やその利用法のこと、民俗や芸能などのあらゆる分野にわたって、掌をさすようにていねいに教えてくださるのが常であった。私のような駆け出しの学生に対しても、一点一画もゆるがせにすることなく
教え導いてくださった先生。教員のはしくれとなった今日、それがいかに大変なことであったかが少しづつわかるようになってきた。
お話を伺っていると、よく電話がかかった。薬草の使い方についての質問が多かったように思う。それぞれの質問に驚くほど懇切丁寧に親身になって返事をしておられたことが今も強く印象に残っている。
のちに、西表のサトイモ類やヤマノイモ類の栽培方法とルーツについての研究をしたときには、「新しい事実を発掘してゆく、こういう種類の研究をもっともっと推進して行くべきです」と強く励ましてくださった。
人文と自然の両方の分野の深く掘り下げた研究を通して、地域の全体像を総合的に明らかにしてゆくのが多和田先生の学問の方法であった。専門化が進んですぐ隣りあう研究分野でもお互いに没交渉といった風潮のある、現在の学問分野のあり方に対する、警鐘としてうけとめなければならないと思う。先生の御遺志をついで、これからも地域研究の深化のために地道な努力を積みかさねていくことが、多和田真淳先生の学恩にこたえる道であると、今強く感じている。つつしんで御冥福をお祈りもうしあげます。
安渓 遊地(西表をほりおこす会・山口大学教養部・助教授)
追記 多和田真順先生生誕100年記念パネル展のパンフ https://sitereports.nabunken.go.jp/115056
多和田真淳先生の研究業績と発見した遺跡 https://sitereports.nabunken.go.jp/115077
追記2 國分直一先生にうかがった、波照間島の下田原貝塚の調査の時のお話から
多和田先生は農業試験場の所長をしておられましたが、奥さまは戦争中に爆弾でお尻をやられまして、そしてそこが化膿して腐って、非常に惨憺たる症状になった時に米軍が来て、おそらくどこかに捨てるつもりでトラックに奥さんを無理に乗せたそうです。歩くこともなにもできない奥さんを乗せたそうです。多和田先生はつれていかれてどこかに捨てられたら大変だと思って飛び乗ったらたたき落とされたということです。そのまま奥さんの消息はわからないというそういうお話を聞いたんですが、もう頭が上げられないんですね。悲惨で残酷で悲しくて頭が上げられなかった。こんな苦しみをこの島の人たちがなめたのかと思うと、調査に来ました、というような顔はできないという深刻な思いがしました。

