#榕樹文化)#李遠川 戦争中の経験 #新竹_からの疎開生活_#台湾 RT_@tiniasobu
2022/04/29
『榕樹文化』75-76合併号(2022年4月刊行)に、アメリカ在住の李遠川先生の記事をお寄せいただきました。
英語を日本語にして刊行させていただきました。(以下のテキストは校正前のものです。引用されるときは、添付のpdfファイルからお願いいたします。)
すり鉢、五寸釘などは、英語にはありませんが、当時つかわれた日本語を考えて訳してみました。
昭和18年から20年にかけての、台湾の当時の生活を知る貴重な記録です。
李遠川先生ありがとうございました。
戦争中の経験: 新竹からの疎開生活
李遠川(Lee Yuan-Chuan)
はじめに
第二次世界大戦中の珊瑚海海戦とミッドウェー海戦でつまずいた後、日本の戦況は着実に悪くなっていきました。フィリピンを失うと同時に、日本は台湾付近の制空権を失い、アメリカの戦闘機はほとんど抵抗にあわずに台湾上空を自由に飛びまわるようになりました。都市への実際の空襲はまだなかったものの、爆撃機B25や戦闘機P38などが毎日のように台湾上空にあらわれるようになると、日本政府からの疎開勧告が出されました。それでも、新竹の住民の心は麻痺状態になっていたようで、勧告に従う人はほとんどいませんでした。しかし、私が中学1年生だった1943年11月25日、新竹市はついにアメリカ軍機の空襲にさらされました。
疎開
ひどい空襲は、新竹の街全体にショックを与え、すぐにその晩のうちに、安全な田園地帯への脱出(疎開)が始まりました。
一筋の光もない闇の中でしたが、人々の群れがみんな山地をめざして東に動いているのが感じられました。時折、絶望のささやきと子どもたちの押し殺した恐怖の叫びとが混ざり合って聞こえました。大勢の人々はのろのろと、しかしせっぱつまった様子で移動していました。爆撃で壊れたのかそれとも灯火管制のためか、街灯は点いていませんでした。懐中電灯やそれに類するものの使用も許可されませんでした。空爆を誘うといけないとして、煙草を吸うことさえ禁止でした。海軍の飛行場から7キロほど離れている新竹市がアメリカの飛行機によってひどい爆撃を受けるという、突然のパニックからまだ数時間しかたっていませんでした。私たちの家と、筋向いにある親戚の家は、全壊またはほぼ全壊の被害を受けました。
家々が建っていた場所には、爆弾が開けたすり鉢状の大きな空洞があり、それを目にした私たちは、胸に五寸釘を打たれるような強い恐怖を感じました。
新竹の市街から東に数キロ離れた丘陵地帯を疎開先として、私たち李一家はこれから2年ほどを暮らすことになるのでした。
李家は、双渓地区に少しばかりの土地をもっていて、父は小作人のひとりの劉廷木さんを訪ねるときに、時々子どもたちを連れて行ってくれていました。私たち子どもがこのような旅行で一番お気に入りだったのは、街の喧騒や悪臭から離れられるだけでなく、劉さんの家族が私たちのために用意してくれるおいしい食事を楽しむことができたことです。鶏肉料理のいろいろと目玉焼きがいくつも入った大きな丼(私たちは、家族全員で1つか2つの卵を分けて食べるのが普通だったのです!)、そして新鮮な野菜は、戦時中の私たちが切望する食べ物でした。そしてたいてい養鶏場のそばを散歩しました。私は、その頃は鶏を飼いたいと本気で思っていたので、よくそっと中を覗きこみました。散歩する道端には、グアバの葉のお茶が入っ
た2-3リットルほどのやかんがおいてあり、通行人は誰でも自由に飲めるようになっていました。また、われわれは蛇によく出くわしました。大きくて太いのもいれば、細くて長いのもいるのですが、ちょっと形容しがたい恐怖を覚えました。街はずれにある黒金町を歩いていると、おじいさんが長さ50センチほどの小さな蛇を、静かにほうきを使って家の中から掃きだしているのを見ました。彼には、蛇を殺すつもりなんて少しもなかったのです! 父は時々、劉さんの農園の近くの川へ釣りに連れて行ってくれました。当時の釣りは単なる暇つぶしなどではありません。釣りに出る前日には、川の特定の場所に餌をまいておき、魚を集めるように工夫しました。釣りがうまくいってもいかなくても、私たちは川の近くの高台にある道端の食
堂に立ち寄ることにしていました。お気に入りの食べ物は、米篩目(ミシムク)や?條(パンティアオ)でした。このあたりに住んでいたのはほとんど客家の人たちだったので、客家の食べ物があったのです。しかし、予期せぬ突然の避難のこの夜、人々はそのような牧歌的な楽しみのことを考えるゆとりはありませんでした。われわれは、生き残るために暗闇の中をいやおうなしに田舎に向かって移動していたのです。
空襲の日々
疎開前の新竹市民の日常は、午前10時ごろ、最初の警戒警報のサイレンが市内に鳴り、小学生が帰宅するというものでした。その後、たいてい1時間か2時間後に、より高い段階である空襲警報が鳴り響き、われわれは近くの防空壕に飛び込みます。私たちの家族は2つの防空壕を持っていました。1つは道のそばで、隣の家の真ん前でした。もう1つは家の食堂の中にありました。外の避難所は隣の家の前にありましたが、避難所を掘るように促したのは父で、隣人が無関心だったので、父と私は自発的に防空壕を掘って、誰でもこれを自由に使えるようにしました。これらの避難所はかなり原始的で、地面の穴に簡単な覆いが付いただけのものでした。私はかつて、台北帝国大学工学部の日本人教授の黒木先生と道端の防空壕に一緒に
入ったことがあります。彼は新竹の天然ガス研究所を訪れた時、突然の空襲警報に出くわしたのでした。家族以外ともう一度いっしょに避難したのは、家の中の防空壕でした。私たち家族に加えて、私たちの近くに住むいとこの祖母もやって来ました。爆弾が実際に地面に当たったとき、彼女は知る限りの神と仏に祈っていましたが、祈りの間中ずっと震えていました。そんな時、私はといえば、不思議に何の恐れもありませんでした。
新竹の悲劇は、西に6-7
km行った浜辺近くに海軍の飛行場があり、その近くに高射砲部隊が駐屯していたことでした。高射砲はめったに命中しませんでしたが、あるとき砲弾の1つがアメリカの飛行機にまぐれ当たりしたのだそうです。それがアメリカ人を激怒させ、どうやら復讐のために新竹市を爆撃することに決めたらしいのです。近くに高射砲部隊がいたために台湾全土でも新竹と嘉義が最も激しい空襲を受けたのだとのちに聞かされました。どちらの都市も軍用飛行場からは遠く離れていたのに、市中は激しい無差別爆撃を受け、民間の非戦闘員に甚大な被害が出たのです!
避難のその夜、かなりの苦労の末、私たちは青草湖の霊隠寺という仏教寺院に到着しました。「湖」とは名ばかりで、実際には単なる池でしたが、緑の草が豊富で、「湖」は水ではなく草を指しているのではないかとも言われています。ここは、私たちの親戚の一人がこの寺の尼僧だったので、戦前の穏やかだった時期に何度も週末を過ごした場所でした。小さな湖とゆっくり流れる川があり、清潔で静かなお寺の庭は、都市の住人にとってまことに心が癒されるものでした。そこでは精進料理も楽しめました。しかし、日没後にこの予定外の恐怖の旅が始まったため、その夜はこれらのどれも見られませんでした。どんな光でも、
マッチさえも空襲の標的になると言われたので、私たちは真っ暗闇の中で移動しなければなりません
でした。
いつもなら趣のある寺は、私たちの家族や他の家族が次はどうなるのかを慎重に考えるための短い滞在の仮の宿になりました。数日後、私たちは叔母の家族と一緒に、裕福な除柾f母(Hieng除膜ニ)が広大な土地を持っている水尾溝の近くに再び移動しました。彼女の小作人も大変ゆとりある暮らしぶりで、私たち全員を収容できる比較的大きな家を持っていました。私たちは部屋の1つで寝、叔母の家
戦争中の新竹市地図 家の印は李宅族は別の部屋で寝ました。しばらくして、私たちの家族は再び前述の劉さんの家に引っ越しました。そこで私たちの家族は戦争が終わるまで間借りして暮らしたのです。
田舎暮らし
私たちが住んでいた農家のコの字型の家は、典型的な台湾風の家でしたが、かなり大きく、多くの部屋がありました。農夫の劉さんとその弟に加えて、私たちと除柾f母の家族、そして黒金町から避難した農民もいました。私たちはお互いにうまがよく合いました。夕食後は、中庭に集まって、おしゃべりです。除柾f母の末っ子の竹村は、ギターを持っていて、よくギターを弾きながら日本の流行歌を歌いましたが、そのいくつかを私は今も覚えています。
当然、電気はなく、必要に応じて石油ランプをつけました。会話に使われた言語は主に福建語(ホーロー語、河咯話とも)でしたが、時折客家語と日本語が混ざり合うことがありました。誰もが互いによく親しみあっているように見えました。農家の劉さん一家は客家人でしたが、流暢な福建語も話しました。黒金町の農家の家族は福建人でしたが、客家語もたいへん上手に話しました。ですから、コミュニケーションの問題はまったくありませんでした。もちろん、当時の台湾の公用語は日本語でしたので、日本語での意思疎通も可能でした。
避難者としての田舎での生活は半ばロマンチックでしたが、その実、厳しいものでした。以下、この期間を「疎開期間」と呼ぶことにします。私たち7人(当時は両親と5人の子ども)がひと部屋に住んでいて、そこで私たちは料理と食事をし、睡眠をとり、そして私たちがしなければならないすべてのことをしました。もちろん、電灯や電話などはありませんでした。明り取りにはほとんど石油ランプを使用しました。その時期の私にとって最も大変だった仕事は、家族で使う水を汲むことでした。曲がりくねった急坂の小道を約30メートル歩く必要があり、そのつきあたりは急に深くなっていて(おそらく石灰分のために)少し濁った水がわずかに湧く泉がありました。一家の長男である私は、毎日数回、井戸まで降りて、20斤(12リット
ル)の水を容れた二つのバケツを天秤棒(扁担)の両端に下げて険しい斜面を登らなければなりませんでした。坂道の段々は大雑把に粘土に彫りこまれていて、雨の日にはどんなに足元が滑りやすくなるか想像がつくでしょう。何度も足を滑らせて、水をこぼしてしまい、水を汲みなおすために坂道を降りなければなりませんでした。7人家族が料理や洗濯をするのに十分な水を手に入れるために、雨の日も晴れの日も、毎日何往復もする必要がありました。
給水問題に加えて、燃料を集めることも手抜きのできない仕事でしたが、水を運ぶほど難しくはありませんでした。それでも落ちている枝や乾いた草を集めるために、毎日広い範囲を歩き回らなければなりませんでした。田舎ですから、敷地内には枯れ木の枝や乾いた竹がたくさんありましたが、火をつけるための乾いた草を集めておく必要もありました。水の運搬と同じく、燃料を集めることは毎日欠かせない仕事でした。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、野菜によっては他の場所に買いに行かなければなりませんでした。農民はたしかに農産物を作っていますが、必要とするすべてを作っているわけではありません。ですから、劉農場では得られないものを手に入れるために、少し遠出をする必要がありました。自分たちでも野菜を植えました。傷r菜(ヨウサイ、空心菜とも)、除枕リ(アサザ)、茄子を植えたことを覚えていますが、それらを日当たりの良い丘の中腹に植えました。傷r菜と除枕リは急速に成長しましたが、たくさんの水が必要でした。私たちが育てた茄子は、ちっとも丸くなく、キュウリの曲がったような形をしていました(アメリカに来て初めて、茄子が英語でエッグプラントと呼ばれる理由がわかりました)。
一番熱心に育てたのは落花生です。
両親は、落花生を植えるために小さな土地を借りることにしました。人に頼み牛を使って畑を耕してもらったあと、除草はもちろん、植え付けと収穫を私たち自身の手でやりました。落花生の花が咲き、それが地下にもぐりこんでナッツになる様子を見るのはわくわくします。でも、落花生に寄生する緑の毛虫に刺されることが多かったため、素手で落花生を収穫するのは苦痛でした。
私は田んぼでの農作業にも参加していました。よく手伝ったのは、水田が完全に排水されて乾燥した収穫時でした。田植えと稲刈りの仕事は、一家族でこなすには重労働すぎたので、文字通り村中で取り組む仕事でした。劉さんの家では、近隣の農場だけでなく、かなり離れた他の農場からの助けも求めていました。男たちが田んぼで働いている間、女たちは料理を作り、1日に5回もの食事を驚くほどもりもりと食べる男たちに大量の食べ物を持ってきました。農作業はそれほど腹が減り、また消耗させるものでした。実際には、食事の準備で忙しくしていないとき、女たちは現場でもかなりの量の仕事をこなしていました。客家の女性は丈夫でエネルギッシュな働き手として知られており、纏足をしていませんでした。
農場での生活
年老いた劉さんの息子は、背は低いもののがっちりした体格で、私と同じくらいの年格好の娘が二人ありました。彼女らは、日本語の「子」に相当する「xx妹」という典型的な客家語の名前で、とても親しみやすくかつおしゃべりでした。二人は熱心に農場での暮らしのことを教えてくれたので、私は多くのことを学びました。
除魔ィばさんの家族は、私たちが住んでいた場所から少し離れた水尾堤にある彼女の小作人の家に最初は間借りしましたが、大急ぎでその家の近くの丘の中腹に日干しレンガの小さな家を建てました。草葺き屋根で、雨が降ると憂鬱な音がしました(今でも、雨粒が家の屋根に当たるとき、農家で過ごした苦難の日々が鮮やかに蘇ります)。雨水を家から遠ざけようと家の周りに水路を掘りましたが、ちゃんと水が流れたためしがありませんでした。叔母の一人娘は日本から間もなく帰国しましたが、この家でマラリアにかかり、亡くなりました。彼女は私たちの2番目の伯父の家族と一緒に広島に滞在していたのです。彼女の兄は、小児麻痺にかかっていて、やはりマラリアで苦しんでいましたが、なんとか生き延びました。
この悲しい出来事の後、叔母の家族は日干しレンガの家を放棄することに決め、劉さんの家に引っ越して私たちに加わりました。こうして劉さんの住居はさらに活気に満ちてにぎやかになりました。
劉家から約50メートルほど離れて、数メートル下がったところに小さな池があり、疎開前もたまにここで釣りをしていました。ここに釣りに行く道すがら、私は2匹の台湾コブラ(飯匙倩、雄雌2匹でいることが多い)に遭遇し、また別の折には、青竹絲という緑色の蛇が私たちの近くの木の枝から滑り落ちました。これも猛毒をもつ蛇だと考えられていました。
大雨が降ると、池は峡谷に溢れ、多くの魚も流されました。そんな大雨の中、父は池の流出地点に竹編みの扉(普通の大きさの扉ですが、細い竹で編んだもの)を置いて、流された魚を捕まえるという素晴らしいアイデアを思いつきました。この作戦のために、彼は雨の中でしっかりこのスクリーンを支えるために数人の若くて強い男たちを指揮し、即席の「竹の網」で捕まえた魚を待ちかまえていて籠に拾い上げなければなりませんでした。全身びしょ濡れになると台湾でもかなり寒く感じますから、父は体を暖めるために、米の酒かもっと強い酒を飲まなければなりませんでした。私は父の創意工夫にとても感銘を受けました。
田舎のロマンス
黒金町からきた農民の家族は、劉さんの農場の近くにある自分たちの農場を耕作していました。この中年夫婦には、胡秋(胡椒だったかもしれません)という名前の20歳ぐらいの娘がありました。若い方の劉さんの家族には、20歳をちょっと越える息子がいて、気さくで好感の持てる若者でした。
ある時、この若者は、私たちが毎日水を飲む泉につながる斜面の約20メートル下に竹で簡単な屋根を作りました。暑い夏の夜にみんなで涼んで休むためだと彼は言い、人々は彼の勤勉さと思いやりに感銘を受けたものです。実際には、この片流れの屋根は、それを作った彼自身が主に使い、その本当の目的もすぐに明らかになったのでした。ある日、胡秋さんの家族に小さな騒ぎがあり、彼女が妊娠していることが発覚しました。お腹の赤ちゃんの父親は片流れの屋根を作った若い男性でした。彼が作った片流れの屋根が、実は胡秋との逢い引きを目的としていたことが皆に明らかになりました。彼女の両親はたいへん逆上して怒りましたが、できてしまったことは受け入れるしか仕方がありません。この青年は実際首都の台北まで自転車
を5時間もこいで行き、結婚式の衣装を買いそろえました。
動物相と植物相
田舎での生活は、当然動物との出会いがいっぱいでした。誰かが飼い猫ほどの大きさの奇妙な動物を捕まえたとき、模様のないややぽっちゃりした茶色がかった灰色の毛皮で、見た目はどう猛そうではありませんでしたが、誰もそれが何であるかを知りませんでした。この動物がそのあとどうなったのかは、覚えていません。別のときに、長さ約2メートルの蛇が木の上で捕まりました。どうやら、鶏小屋に侵入して、卵を飲み込んだらしいのです。木に逃げようとしたとき、人々によって引きずりおろされ、殺されて調理されました。生きた蛇の血と肝臓は漢方では非常に貴重なものとされているため、蛇は最初に採血のために切断され、調理の前に肝を取るために腹が開かれます。蛇の血をお前も飲んでみないかと言われましたが、
この招待は遠慮しました。
また、家の周りにはコガネムシ(金亀子、Mimela
splendens)がたくさんいました。それらはみんなピカピカした色で、あるものは2-3cmぐらいの大きさがありました。凧を飛ばすのと同じように、ひもを結びつけて飛ばす子どもたちもいました。時々、大きなカブトムシが捕まえられて、彼らは「カブトムシの戦い」に従事させられました。蝶はあまりいませんでしたが、あたりに花が少なかったためかと思います。
台湾はお茶で有名で、私たちが住んでいた場所の周りにはずいぶんたくさんの茶畑がありました。私たちの住まいから見える製茶工場もありました。実際に訪ねてみて、初めてお茶の加工方法を学びました。茶摘みは、通常、娘たちの仕事でした。茶摘み娘たちはもちろん円錐形をした竹の葉の笠をかぶっていましたが、驚くべきことに、太陽を避けるために腕全体と顔の一部を注意深く覆っていました。茶摘み娘たちが仕事をしながら茶摘み歌を歌っているのを聞きましたが、これは人生で初めての経験でした。ちなみに、茶摘み歌のほとんどは客家語で、何を歌っているのか私にはわかりませんでしたが、時折通りかかる若い男性の反応から、これらの歌は男の子と女の子の関係についてのものらしいと感じました。茶の樹に
加えて?
?サトウキビもたくさんありました。サトウキビは非常に高くなり、人の平均的な背丈よりも高く、しかも非常に密に植えられます。畑でよく育ったサトウキビの列に足を踏み入れると、迷子になってしまいます。同時に、高い湿度や虫からの攻撃を気にしないのであれば、不愉快なことがあった時には逃げ込むに適した場所でした。これらのサトウキビは、台湾製糖株式会社との契約により植えられ、収穫後、サトウキビの茎は牛車に積み込まれて、近くの精糖工場に運ばれました。新竹高女の近くに製糖工場が1つあり、たいてい甘いキャラメルのような匂いがしていました。数年前に私たちがインドを旅行していた時のことが興味深かったので付け加えますが、製糖工場の近くにサトウキビを積んだ牛車がたくさん並んでいて、その光
に思わずほほえまずにはいられませんでした。
アメリカの戦闘機
アメリカの飛行機は、台湾の空を完全に支配した後、邪魔されずに台湾中のいたるところを飛び回りました。それらは毎日新竹を爆撃したわけではありませんでしたが、私はアメリカの飛行士による残虐行為の発生を目撃しました。ある日の午後、劉家の近くの高台に立っていたとき、ひとりの農夫が下の棚田で水牛と一緒に土を耕しているのをのんびりと見ていました。突然、双胴のロッキードP38(アメリカの飛行機をその形で識別することを教えられていました)が頭上に現れ、農夫と彼の水牛を急襲し始めました。幸いなことに、弾丸はどちらにも命中しませんでした。私たちは学校で「鬼畜米英」と教えられていましたが、その通りなのかもしれないとその瞬間に感じました(この刷り込まれた感情は戦後激変します)。
近くに軍事目標はなく、
危険をおよぼさない農民と彼の水牛を撃ったことは彼らのスポーツとしか解釈できませんでした。たぶんこれも驚くべきことではなくて、飛行場から何キロも離れた民間人の暮らす街並みも、以下に説明するように、正当な理由もなく爆撃されていたのでした。それが戦争なのだと考えることで、打ちひしがれつつも自分を納得させるしかありませんでした。戦時には、どちらの側からの残虐行為も発生するもののようです。
しばらくの間、私は毎日中学校に通うようにしていましたが、実際には授業はありませんでした。学校に着くと、1、2時間後、最初の警戒警報のサイレンが鳴ると、授業は解散ですから、空き家に戻ってしばらくの間そこらをぶらぶらしました。次いで、2番目の空襲警報のサイレンが鳴り、アメリカの飛行機が上空を飛んでいる音が聞こえます。通常、空襲警報はしばらくすると解除され、その直後に警戒警報も解除されます。それから私は丘の道を歩いて、家からは遠く離れた仮住まいに戻りました。市内の家に住んでいた頃、通りの向かい側に家があった中学の同級生の友人邱君と一緒に、壊れた給水管の鉛をガスで溶かすことがよくありました。溶けた鉛を型に流し込み、さまざまな形を作ります。たいてい私たちは、
釣りに使う錘を
いくつか作りました。これは、作るのが最も簡単でしかも役立ったためです。溶けた鉛で右手の甲に小さな火傷を負ったことがありますが、その傷跡は何十年も消えませんでした。
ある朝のこと、邱君は家で何かすることがあると言って、家に来なかったので、私は早めに山の家に戻ることにしました。最初の空襲警報はすでに解除されており、また何事もない日になるようでした。かなり曇っていたので、汗をかかずに疎開場所にたどり着けると思いました。黒金町を通り過ぎ、丘の麓に近づいてゆるやかな登り道を歩き始めると、背後で大爆発の音が続いて聞こえました。どこからともなく飛んできた飛行機による空襲が警告なしに行われたので、私は本能的に近くの溝に飛び込んで、次に何が起こるかを待ちました。それ以上の爆発は起こりませんでしたが、人々が金切声を上げ、叫び、そしてみんなが丘に向かって東に走っているのを耳にしました。一部の人は血に染まっていました。私も彼らに加わって
走りに走って丘陵地帯に入りました。
夢中で家に着くまで何も覚えていませんでした。もしも出発が5分遅かったら、私も血に染まっていたか、もっとひどい目に遭った可能性もあったのです。そう気づいて私はひどい寒けを感じました。後で、黒金町の全域が爆撃で完全に平らになっていることがわかりました。なぜその地域が標的にされたのか私にはわかりません。それは無差別な爆撃でした。「内山」と呼んでいた丘陵地に出かけるたびにこの辺りを通り抜けなければならなかったので、黒金町には少し親近感を覚えていました。自宅から新竹中学校に通ったときも、この道を通っていました。ですから、私たちはそこに住む人々のいく人かを個人的に知ってもいたのです。
終戦
日本が戦争に負けつつあるということは、いろいろな方面から感じられました。第一に、アメリカの飛行機が台湾上空を自由に飛行していましたが、抵抗の兆候はほとんどありませんでした。また多くの生活必需品がどんどん少なくなっていきました。「経済警察」による厳重な統制にもかかわらず、食料やその他の生活必需品の闇取引が横行していました。ひそかに豚を飼っていた農民たちの中には、経済警察に見つかると没収・逮捕されるために、寝室で飼っている人たちさえいました。しかし、日本の敗戦が差し迫っていることの最も明白な兆候は、ある海軍の士官によってもたらされました。おそらく美味しい食べ物を求めるために、そしてまたおしゃべりをするために、彼は劉家のあたりに時折現れたのです。農民は、
他の人達よりも多くの食べ物を持っていましたし、日本人の中でも多くの食べ物を配給されていた軍人よりも豊富にもっていたのです。彼は大尉であり、弾薬の保管の責任者でした。新竹の飛行場は日本海軍のものであり、新竹市と私たちが避難所を置いていた地区を結ぶ道路沿いに急ごしらえに掘られた水平の洞窟に弾薬を保管していました。彼は、父に、日本は戦争に負けるだろうと言い、神風特攻隊員の話をしました。終戦間際、日本は神風特攻隊の攻撃戦術に訴えました。この戦術は、爆弾と片道飛行分だけの燃料を搭載した飛行機が敵の軍艦に飛び込み、大爆発によって船を撃沈することを目的としていました。初期の神風はよく訓練され、意欲が高く、(残念なことに)任務をかなり成功させましたが、後の特攻隊員は、
急募された大学生や高校生で、
訓練が不十分で意気も上がりませんでした。この海軍士官が言うには、神風特攻隊員の中には、飛び立つってすぐにエンジンに不調があったと主張して基地に戻ってくるものがありました。その後、上官は、地上整備士が職務を適切に遂行しなかったとして厳しく叱責し、厳罰を与えます。こんなことが何度も起こったとき、整備士はもはや我慢ならず、こう言ったそうです。「次は私をあなたと一緒に連れて行ってください。そうすれば私は飛行機に何の問題もないことを証明することができます。私はあなたと一緒に死ぬことをいといません。」もちろん、こんな話をした海軍士官は私たちに他言は無用と口止めしましたが、彼はおそらく人の口に戸は立てられないとわかっていたと思います。
アメリカの飛行機は爆弾を投下したり機関銃で撃ったりするだけでなく、時々、宣伝のビラを撒きました(注1)。そのうちの1枚を、その賢さと詩的な美しさのために、私は非常によく覚えています。
桐一葉、落ちて天下の秋を知る
桐の花は日本の皇室の紋のひとつですから、この俳句は、日本が崩壊しつつあることを意味していたのでしょう(もともとは梧桐で、出典は「淮南子」)。
天皇が終戦を発表したとき、ほとんどの日本人はラジオでそれを聞きました。私たちには、ラジオなどの迅速な情報伝達手段はありませんでしたが、街から帰ってきたばかりの牛車の運転手からメッセージが伝わってきました。ニュースが明かされると、多くの人が「出頭天暑驕A出頭天暑驕I(解放された、自由になった!)」と叫びました。
私たちの学校
避難期間中のもう一つの苦労は、新竹中学の学生だったので、学校は本当の意味で機能していなかったのに、毎朝学校に出なければならないことでした。私たちの時間のほとんどは、新しい土地を耕したり、飛行場の草を刈ったりする「勤労奉仕」に費やされました。学校に通うためには、午前6時前に起きて、墓地のそばの狭い道を歩いて幹線道路にたどり着きました。私は墓が怖くて慣れることができませんでしたが、大人になってからは、何度も海外旅行する中で、ちょっと思い出すだけでもクロアチア、パタゴニア、ウィーン、ハンガリー東部の町などの墓地を訪れることを楽しむようになりました。
当時の規則にそって、学校には、中村中尉と桃原少尉の2人の配属将校がいました。前者は「ナチ」というあだ名で、生徒を罰する言いがかりを常に探している、とてもいやな人物でした。一方、桃原少尉は優しくて筋が通っていて、かなりハンサムでした。戦後は、二人とも姿を消し、もうどこにも見つかりませんでした。
戦争が終わった後、台湾人があちこちで日本人を虐待する事件がありました。一部の「解放された」台湾人は、復讐をすることに熱心でした。それは私たちの中学校でも起こりました(旧制中学は5年間で、今の中学と高校を合わせた一貫校でした)。日本人の学生は、理由もなく、また挑発されたわけでもないのに台湾人の学生を殴っていました。戦争が終わり、今や主人と召使いの役割は逆転しました。台湾人の学生は日本人の学生を追いかけ、ひざまずかせて激しく殴りました。私も一度だけそのような暴力的な取り組みに加わるように言われましたが、私はどうしてもそうするように自分をしむけることができず、その結果、臆病者として嘲笑されました。
ただし、新竹中学には立派な日本人の先生がいらっしゃったことは言っておかなければなりません。前田先生という物理の教師で、その人柄は、深く印象にのこっています。戦争中、私たちはしばしば鎌を手に、飛行場の草を刈るために動員されました。そんなある時、ある生徒が自分の手をかなり深く切ったのです。前田先生はただちに40人ほどの生徒を集めてこうおっしゃいました。「あなたの体はご両親からの貴重な贈り物であり、今の自分に育つまでに何年もかかっています。自分の体を大切にするように努めてください! 飛行機は何百機でも簡単に作ることができますが、あなた方の身体は飛行機よりはるかに大切なのです。」当時としては、これは非常に大胆な発言でした。軍隊は何よりも重要であり、反軍事的、反政府的
なニュアンスで何かを言うことは重大な犯罪行為でした。彼の勇敢な発言は、私にとってまことに目を覚まさせるものでした。
当時、音楽の先生は英語も教えていましたが、私はその内容をほとんど覚えていません。一方で、「飛行機は今朝も飛ぶなり」という曲は、いまも頭の中に残っています。これは、かなり感傷的なメロディーで、軍歌のようなものではありませんでした。もう一つ覚えている歌は、万葉集の「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」で、昔ながらの日本の曲のようでした(記憶から再現した楽譜を掲載しておきます。新古今和歌集では山部赤人の原作が「田子の浦に打ち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」に改作されています。訳者注)。
張棟蘭先生は、新竹中学でただひとりの台湾人教師で、上級生向けの英語を教えておられました。張先生は、普通の「君たち」ではなく「君がた」という表現を使われるのが、とても珍しく思われました。彼の子どもたちは私たちと同じくらいの年齢で、良い友達どうしでした。
戦後のできごと
しかし、疎開の期間で一番苦労したのは戦後のことでした。戦争が終わってすぐに、私たちの家族は市内のもとの家に戻ることを計画しました。新竹に戻った日、牛車を借りて家財道具一式を家に持ち帰る手はずになっていたので、私は先に家に戻って、扉を開けて荷物を入れることになっていました。30分歩いて、家で待ちくたびれていましたが、牛車は現れないのです。数時間待った後、私は何が起こっているのかを知るために歩いて戻ることにしました。その時です、マラリアの発作が起きたのです(注2)。それでも、私は山の中の家に帰ろうと決心しました。悪寒に震えながら高熱が出ていましたが、何かに取りつかれたように歩き続けました。どうやって目的地にたどり着いたのかもわからなかったのですが、
到着するやいなや意識を失い、
翌朝まで目が覚めなかったらしいのです。実は約束の牛車が来ず、街に戻る計画は1日か2日延期になったということを後で知らされました。たまたま、私たちの家の向かいの同級生の邱君の長兄の邱先生が、台北帝国大学(現、国立台湾大学)の医学部で働いていたので、特効薬のキニーネを提供してもらうことができました。おかげで私のマラリアは最終的に治癒しました(注3)。
戦後のもうひとつの出来事も私の人生に影響を与えました。疎開期間中、新竹中学の備品はあちこち分散して疎開させていました。戦後、教育制度が復活したとき、私と他の数人の級友は、金管楽器を元の場所である新竹中学に戻すように頼まれました。トランペット、トロンボーン、チューバなどがありました。私は、楽器が手に入るならばと、学校でブラスバンドを組織することを思い付きました。これが組織だった音楽活動への私の関わりの始まりで、それは私の生涯を通じて続くようになるものでした。
振り返ってみると、疎開期間中の私の生活は厳しいものでしたが、無意味ではありませんでした。その期間に得られた経験は、後になって私にとって貴重なものだったと気づいたのです。とはいえ、もし自分で選べるのなら、あの経験はもっと快適なものと喜んで交換したいと思います。
注
注1 米軍のまいたビラを拾うことは、禁止され処罰の対象となっていましたが、私たちはそれでも拾って読んでいました。
注2 第二次世界大戦のずっと前に、台湾のマラリアは根絶されていました。日本軍の南進作戦によって、マラリアとデング熱が台湾にもちこまれ、疎開からもどれることになった数週間前に、私は運悪くマラリアにかかっていたのです。
注3 戦時中はすべての医薬品も不足し、しかも軍人が独占した結果、一般人には手に入りにくくなっていました。
謝辞
原稿の準備のために李玲子から援助を受け、親戚の多くからも助言と関連情報の提供を受けました。古地図の「新竹州」は、中央研究院の黄智慧博士からの提供です。これは、もともとアメリカ合衆国で暮らす甥や姪たちのために、英語で書いたものですが、このたび、『榕樹文化』に掲載していただくために、山口県立大学の安溪遊地名誉教授によって日本語に訳されました。以上のみなさんに感謝します。
