報告)#西表島_の動物たちと人びとの関わり_#魚部る #山下博由 RT_@tiniasobu
2022/03/17
依頼されて書きました。選んでもらうつもりで送った写真がすべて載せられてしまっているのに驚きました。
歌う貝類学者・故 山下博由(ひろよし)さんと、私の原稿以外は、まるで無人島のように書かれているので二度びっくり。
2018年4月に、北九州の魚部(ぎょぶ)というグループが発行した、『西表島自然観―イリオモテ・ウラオモテ』という本の、98から101ページに掲載されたものを公開します。
定価1800円ですが、ご購入の希望がある方は、以下のサイトから https://gyobu.or.jp/
西表島の動物たちと人びとの関わり 安渓遊地(あんけい ゆうじ)
1974年から西表中毒。理学バカセとなり、山口県立大学名誉教授になった現在も、西表ヤマ学校は卒業できない。共編著に2007『西表島の農耕文化』、2011『奄美沖縄環境史資料集成』、2017『廃村続出の時代を生きる』など。
村のあだ名は動物名
西表島西部の古い歴史をもつ村には、まわりの村からのあだ名がついていて、しかも動物の名前が多い。それぞれの動物名が、もともとはどのような含意で付けられたのか、いまではよく分からないものも多いのだが、西表島でもっとも神聖な川とされる浦内川の河口に位置する浦内村は、方言で《ウラチ・オーニ》というあだ名をもっていた。《オーニ》はウナギのことで、「浦内ウナギ」というあだ名だったわけだ。これは、「ぬるぬるとして逃げるが勝ち」(那根亨、1974『西表島の伝説』著者発行、33頁)という解釈もあるが、むしろ琉球王府が編纂した18世紀初めの説話集『遺老説伝』に「嶋中奇妙」として載っている伝承がもとになっていると思われる。『遺老説伝』によると、浦内村の井戸に大量のミミズがわいて、あふれて
海に流れたが、それがみなウナギになったというのである。こうした、忘れがたい出来事が村のあだ名として刻印された例だろう。西表島最大の村で、1477~79年の済州島民漂流記にも所乃是麼(現在の韓国語で読めばソネシマ)として登場する祖納村の人々は、《すネ・かマイ》と呼ばれる。《かマイ》」はリュウキュウイノシシのことで(注1)、西表島で最大の陸上の野生動物は、最古・最大の集落としての自信と誇りに満ち、やや気性の荒い祖納の人々を指すのにぴったりだ。祖納から歩いて15分ほどの北東に隣り合う干立村は、《フタデ・ガダリャ》と呼ばれる。《ガダリャ》は、村の背後に広がる広大なマングローブに棲むたくさんのカニ類の一種である。祖納への対抗心から、小なりとはいえ常に団結して独自路線をめざす心意
気をさしたものだろう。船浮は、《フネ・カミ》と、ウミガメが渾名についている。めでたい亀で村人の気性がのんびりしていることを表したものか。いまは廃村になってしまった村々の記憶も伝えられている。網取村は、《アントゥリ・ピードゥ》で、これはイルカ類を指す。鹿川村は、《かノー・ヤマミ》で、セマルハコガメである。南に開けた湾口をもち、海賊など予期せぬ外来者の来訪が多かった村だから、危険を感じると蓋をとざしてしまうセマルハコガメの習性に例えたのかもしれない。
ワニとジュゴン
浦内川の上流には、「水鯖」という怪物がいたと、前記の「島中奇妙」に記されている。それによると、稲葉院(現在の方言では《イナバ》)と呼ばれる《マリユドゥ》の滝の一帯には、水鯖という怪物がいた。そして、酉と寅の日には人が立ち入ることが厳禁されていた。この日にここへ近づくと、沈伽羅の香の良い匂いがしきりにしたり、いきなり大風が吹いて大木をなぎ倒したりという不思議があって、水鯖が水面に浮き出て狂い巡る。おそれ多い所なので、普通の日に行くときも頭を覆う布を脱ぐように定められていた。《サバ》とは方言で鮫のことを指すので、水鯖とは「淡水の鮫」というような意味であろう。たしかに南島最大の魚類の多様性を誇る浦内川には、ウシザメの幼体などの大型のサメも遡上する。しかし、
鹿川村の伝承を伝えた川平永美さんの語りによると、これはワニ、おそらくはイリエワニだったのだ。浦内川の河口の《トゥドゥマリ》浜の砂にうろこのある大きな生き物が寝たらしい跡があった。外離島《ふカパナリ》の砂浜にも寝た姿を写し、さらに網取村の西にも、また、崎山村の西の《ヌバン》の浜にも寝た跡があった。鹿川の村人たちが魚を捕りに来て、この「ヤモリそっくりの大きな姿」の怪物に遭遇したのは、鹿川村と崎山村の間の海岸の《ペブ》という所にそそり立つ、大きな岩の《ペブイシ》そばのサンゴ礁の池だった。鹿川村の人たちが魚捕りに来てその池に網を入れて潮の引くのを待っていた。山の上から魚の姿を見る人の指図で網を入れたところ、網の中に怪物の姿が見えた。ヤリやモリを取りに急いで
村に戻って、
潮が引くのを待ってわれ先にヤリで突いたが、うろこが堅くてヤリなどの道具はことごとく折れてしまった。怒った怪物に追われて、村人たちは《ペブイシ》の岩上まで追いつめられてしまった。そのとき大久という力持ちの男が後から流木の丸太棒でたたいたところ弱ってたおれたので、皆で退治した。村に持ちかえったところ、村にいた旅人がこれはワニというものだと教えたという。西表島の東部には、新城島の伝承としてカエルとワニがたたかって、知恵をめぐらせたカエルたちが勝ったという昔話も伝わっている。また、竹富島の喜宝院蒐集館には、ワニの形の民具が展示されている。藩政期に船出する人を浜辺で送るときに用いた道具だとのことで、順風にめぐまれるように祈念するための風車なのだが、
その土台の種類が旅人の
身分によって異なっていたのである。平民用は、飾りのないビロウの葉柄であるが、役人の最高の身分であった頭職にある人を送る時には、特にワニの風車が用いられた。これらのことから、今はみかけられなくても、八重山の島びとの経験の中に、ワニが確かに位置づけられていたことがわかるだろう。
もうひとつ、絶滅してしまった生きものとして、ジュゴンを挙げておきたい。ジュゴンは、西表島の方言では《ザぁ》または《ザーノー》という。明治年の琉球処分によって、琉球王朝が滅びるまでは、新城島の島民には、ジュゴンの上納が義務づけられていた。
崎山村の前の広大な干潟は、ジュゴンの餌となる海草類が豊富だったことから、ジュゴンが多く生息していたらしい。この干潟の中にある深いラグーンには、《ザぁヌくモリ》つまり、「ジュゴンの池」という地名が付けられていたのである。ジュゴンは、塩漬け肉と皮の部分を乾燥したものが、王族の特別の滋養食や中国からの冊封使への接待として食されたのだった。ところが、新城島以外の者が捕獲することを禁じていた王朝が滅ぼされ沖縄県の支配に移行するにあたって、ジュゴンの保護はその政策に盛り込まれなかった。その結果、明治の年代には毎年~頭以上が捕獲され、大正に入った
1914年に八重山で最後の 3頭が捕獲されてほぼ絶滅にいたったことが知られている(当山昌直、
2011「ジュゴンの乱獲と絶滅の歴史」『島と海と森の環境史』文一総合出版、 190頁)。
自然の不思議に裸になる
考古・人類学の國分直一先生のご教示によると、西表島の南の波照間島民によるジュゴン猟の際には、ひとりの男が舟の上ですべての衣服を脱いで横たわると成功するという儀礼的な行為がなされていたという。西表の網取村の山田武男さんによると、必ず褌を外すことになっている例があった。それは、海辺を歩いていてウミガメやタコの産卵に出くわしたときである。その時には、けっして産卵のじゃまをしないようにし、すべての衣服を脱ぎすてて見守らなければならないという決まりがあった。ウミガメの卵の孵化に出くわした時にはさらに厳しく、孵ったばかりの仔ガメたちの海までの難路を少しでも平らかにするために、脱いだ褌をひろげて通路とし、その上を仔ガメたちが歩くようにして海に帰るのを見届けるべきと
されていた。それにしても、なぜ裸になるのだろうか。次の例にそのヒントがある。網取村は山奥の田が多く、傾斜の急な田の高い畦が長雨で崩れたりすると、とうてい一軒の力では修復できない。そこで村中の人の助力を頼み、牛をつぶし、酒をふるまってそれをお礼がわりにする《バフ》という助け合いがあった。しかし、同じ畦がまた崩れてしまったとき、山田武男さんの父君は、すっぱだかになって祈った。「私は着る物もないほどいたって貧乏でありますから、こんなに畦が崩れられて、困り果てております。地の神様はどうぞ崩れないようにお守りいただきますようお願いいたします。」
西表島と周辺の島びとたちは、大いなる自然の不思議の前にすべての衣服を脱ぎ捨てて、《イキムシ》(生き物)たちの一員として、自らが貧しく謙虚な存在であることをアピールしつつ、あらぶる神々や人間の尋常の力のおよばない世界に働きかけてきたのだった。そこには、「自然保護」という言葉に見られるような人間中心の思い上がりとはまったく異なる土着の智恵の体系があり、これこそが西表島の自然を今日まで保たせてきたものであると私は考えている。
【注1】ここで《 》にくくって表記している方言の表記についてひとこと触れておく。西表島西部方言には、強い息をともない、しかも喉が震えない母音(有気無声音)があるのが特徴で、これは韓国語の激音に似た音である。この文章では、この激音に似た音をひらかなで示して区別することにしている。もうひとつ鼻音があるが、これはちいさな《ぁ》を添えて示すことにする。