#西表島_)#下田正夫_医師の思い出_#西表紙の復興 RT_@tiniasobu
2021/12/14
西表島西部の祖納(そない)集落には、診療所があります。
八重山病院の4つの付属診療所のひとつです。https://yaeyamaweb.hosp.pref.okinawa.jp/information/shinryou/seibu/ から引用します。
西表西部診療所は祖納という集落にあり、船でしか行けない集落である船浮や鳩間島などを含めた西部一体の約1500人の住民を診療対象しています。現在は、医師1人、看護師1人、事務員2人の体制で診療を行っています。また、一年を通して研修医、医学生が研修に訪れています。西部地域には長期滞在型の民宿やリゾートホテルなどもあるため、旅行シーズンは観光客の受診患者も多いです。
さて、私と貴子がはじめて西表島を訪ねた1974年から10年以上にわたって、この診療所の医師を務められたのが、下田正夫先生でした。
伊谷純一郎先生の門下生であれば、いつでも大歓迎です、と言っていただいて、奥様の貞子さんともども、私どもをあたたかく受け入れてくださいました。
お菓子を作るのがお上手で、石垣金星さんは、用がなくても貞子さんのお菓子を目当てに診療所へよく遊びにいったとか。
あるとき、私は、廃村か稲作の研究の時だったと思いますが、カメラを入れたかばんに、ヤブを切るための鎌を入れて歩いていたら、かばんが肩からすべりおちて、そのはずみに鎌で手首を3センチほど切ってしまったことがあります。なかなか血がとまらないので、受診した私に「冒険野郎だなぁ」といいながら、薬をつけてくださった下田正夫先生の温顔を思い出します。
地域の医療のほかに、地域の振興のために、焼き物や、アオガンピを栽培しての和紙の復興などのプロジェクトを、自費で進められました。
簡易水道から、小さなエビが出てくるといって、サンプル瓶に入ったたぶん、テナガエビを見せてくださったこともあり、地域全体の保健衛生の向上にも心をくだかれました。
西表紙復興の動きは、いまでも、子どもたちが自分ですいた和紙で、自分の卒業証書の紙を準備するというとりくみがなされているそうです。
http://oecc.open.ed.jp/cdrom/reppdf/rep10.pdf (ファイル添付)によれば、以下のような経緯があったとのことです。
1973年に西表西部診療所に赴任した故・下田正夫医師は,西表の美しい自然環境を生かし,住民が生きて行くために,農業のほかに手づくり工芸を起こそうと考えており,出来れば老人や障害者のリハビリテーションにも役立たせたいと思っていたところ,石垣の八重山博物館長の玻名城泰雄さんから「西表で昔行われていた紙漉きも取り上げたらどうだろうか」とのお誘いがあった。西表の祖納や古見,八重山蔵元の紙屋があり,その盛んな様は,祖納の殿様節にも歌われており,紙漉きの具体的方法は紙漉方例帖に伝わっており確かな事だ,今出来ないことはないと言われ,この事がきっかけとなって西表の青年達と青雁皮の抄造を始める事となったので,紙漉きに必要な簾桁を高知の有光弘範さんに注文したところ,
これが本土の和紙関係者の話題になり
1976年に安部榮四郎さんの弟子勝公彦さんと当時文化庁の顧問であった柳橋真さんの2人が西表に来島し,青雁皮紙抄造を初めて行い,西表の人々に青雁皮紙の抄造法を教え,青雁皮紙づくりの気運が高まった。その後,推進役の故・下田正夫医師が石垣島に転勤になったことを契機に,その気運は下火になっていった。しかし,1980年,西表校では小中学生の卒業証書は毎年青雁皮紙で脈々と漉いているほか,故・シスター金光の後継者であるシスター加藤が細々と青雁皮紙を栽培から漉いており,石垣市立博物館では毎年3月に勝さんのお弟子さんである安慶名清さんを招聘し,青雁皮紙の修了証書を手作りで漉いている。(固有名詞の誤変換を訂正しました。安渓)
石垣金星さんの撮影された、下田医師の写真を添付します。以下は金星さんのメッセージ。
写真が出てきましたので送付しておきます。西表にとって記録に残しておくべき人物です。焼き物、和紙作り復興などなど医療の傍ら西表の工芸振興にも貢献されました。西表小中学校ではそれ以来いまも子供たちが和紙をすいて自分の卒業証書を制作しております。下田先生の奥様は貞子(ていこ)さんでした。美味しいお菓子作り上手でした、ガチマヤー(食いしん坊)しに用事を作り、病気でもないのによく診療所へ行ったものです。
写真1 西表校水泳教室で救急措置についての講師を務める下田医師。
写真2 石垣-白浜航路の定期船・幸八丸上でスケッチする下田医師、絵を書くのも特技でした。
下田正夫先生の書かれたもののタイトルが、以下のサイトに乗っています。
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000008111632
https://ci.nii.ac.jp/nrid/9000256547568
86歳で、石垣島で、亡くなられたのは、1996年4月19日だと思われます。以下の記事を参照しました。
http://www.san-kotu.jp/taikenn-dann/ishigakijima.htm
◆「自分の遺灰を海に」生前の希望で自然葬
石垣島で亡くなった下田正夫さん
自分が死んだら遺灰を海に流してほしい―と生前望んでいた男性の自然葬が24日の明け方、石垣島の南西海上で執り行われた。自然葬は、本人の遺志と遺族の了解のもと、火葬後の遺骨をさらに細かくし、海や山など“自然に還(かえ)す”葬法。6年ほど前までは遺骨、遺体は墓に納めなければならない、という先入観や誤った法律解釈の関係で自然葬が実施されることがなかった。しかしその後、先行して実施された自然葬を追認する形で「節度をもって葬送の1つとして行われる限り違法ではない」という法務省見解(1991年10月)が発表されて以来、少しずつ各地で実施されるようになっている。
自然葬で中心的役割を果たし、沖縄にも支部がある「葬送の自由をすすめる会」(安田睦彦会長、本部東京)によると、沖縄県内で自然葬が行われるのは昨年夏に続き2例目で、今回は県内在住者としては初めてのケースだという。
宗教色がまったくなく「お墓に入らない自由も尊重されるべきだ」との同会の市民運動は、各地で限りなく行われている墓の造成による自然環境への悪影響などともあいまって理解の輪が広がりつつある。まだ圧倒的多数の人に趣旨が伝わっていないのが実情。特に親族や門中意識の強い沖縄では「死後墓に入るのは当たり前」の考えがあり、自然葬が葬送の1つとして一般に理解、実施されるにはかなりの時間がかかりそうだ。
この日の自然葬は4月19日に石垣島で亡くなった下田正夫さん=享年86歳=をしのんで行われた。下田さんは東京都出身。京都府などで医師の仕事をしたあと、23年前に西表島の診療所に赴任、その後石垣島で身障者授産施設「わしの里」の開設の一員として活躍。また、亡くなる直前まで老人保健施設「太陽の里」施設長としても地域に貢献していた。
下田さんの妻の貞子さん(78)は体調を崩し、2年前から県外で療養中。今回の自然葬には東京、京都から3人の子供たちが集まった。長女の井上祥子さん(57)=弁護士=は「父は10年ほど前に、お墓は要らないと言っていた」と回顧、長男の下田元美さん(48)=公務員=も「今年1月、父が葬送の自由をすすめる会に入会したことを知ったが、違和感はなく、今回の自然葬になったのも父の生き方などを考えると自然な流れ」と話していた。
元美さんらがチャーターした船には安田会長や、下田さんが勤めていた施設の関係者、友人ら20人余が乗り込み、午前5時50分に石垣港を出港。西表島との中間地点まで進んで停泊、旋回し、実施された。
自然葬は、遺族のあいさつや故人の好きだったシューベルトの歌曲と芭蕉布などを参加者が歌うなどして行われ、紙製の包みに分散して入れられた遺灰と花を海に流し、40分ほどで終了した。
(琉球新報新聞より)
以上、安渓遊地@西表をほりおこす会 でした。