#西表島_)#イリオモテヤマネコ_の楽園とするために、住民をすべて移住させようという動物学者の提案(1977)#金城朝夫 #下田正夫 #Iriomote_#Wildcat_#Leyhausen_RT_@tiniasobu
2021/12/13
私と貴子が西表島に通い始めたのが1974年。最初の2年間は廃村調査でしたが、そのあとは、石垣金星さんのところへ居候して、農業のことなどいろいろ勉強させてもらいました。
そんなある日、翻訳を頼まれた文書がありました。(このブログの次の記事に添付した西表紙の歴史の記事には、1975年とありますが、7月31日に五号台風で大きな被害を受けた1977年のことだったと思います。添付の金城朝夫さんの記事は1978年の11月に出ていますが、その年は、私と妻は、6月からあとずっとアフリカのケニアとザイールですごしていました。)
西表島についての事実 Facts about Iriomote Island という英語の記事で、著者はPaul
Leyhausenライハウゼンというドイツの学者でした。
その記事が、石垣島在住のジャーナリスト 金城朝夫さんによって沖縄の雑誌に報道・紹介された記事をシェアします(金城朝夫「怒る!イリオモテヤマネコ」『青い海』1978年11月号)。この事件をめぐって、プレゼンを作ったことがありますので、その画像も載せておきます。西表島をヤマネコの楽園に、という中国語がついているのは、雲南省昆明でお話したときのプレゼンの一部だからです。
安渓の記憶では、エジンバラ公フィリップ殿下からの手紙もあって、WWF名誉総裁から、WWFJ名誉総裁へのメッセージで、あなたの影響力で、日本での自然保護の重要課題のひとつがよい方向に向かうように念じている、というような内容だったと思います。
以下は、石垣金星さんの記憶による ライハウゼン文書の経緯です。
1、前天皇が皇太子時代にイギリス訪問しエジンバラ公に会ったときにヤマネコ保護についてライハウゼン文書をいただいた。(下田医師の話)
2、当時祖納にあった八重山病院西表診療所医師としていた下田正夫先生は東京へ行った際、宮内庁へ挨拶にいき皇太子へあった。そのときに皇太子から下田先生はライハウゼン文書(英文)をいただいた。
3、私(金星)が診療所へ行った時に下田医師より英文のライハウゼン文書をいただいた、英文なのでよくわからないので、
4、その時たまたま西表研究で安渓さんが干立の我が家に居候していた、これ幸いと思い安渓さんへ依頼して英文ライハウゼン文書翻訳してもらった。
5、金城朝夫氏へは私(金星)が英文と安渓さんが翻訳した文書をあげました。『青い海』掲載文書がそうです。
6、英文の本文コピーは私の手元のどこかにあるはずですが、探し出すのは困難な状況です。
下田医師もすでに亡くなり下田医師宅で保存されていたであろう文書についても不明です。
金城朝夫氏もすでに亡くなりました。
7、当時は今のようなコピー機などないので、祖納の西表測候所にあった青写真コピー機にてコピーしてもらった。
8、ライハウゼン文書のオリジナル本物は宮内庁に保存されているのではないでしょうか?
以上です。
補足します。添付のpdf文書で、
ワイナ → クイナ の間違いは、
私の草稿を金城朝夫さんが、雑誌社にそのまま渡したのであれば、安渓の悪筆のせいだったのかもしれません。
また、西表島をはじめとするイノシシの生体研究の専門家で、ながく文化庁に務められた、花井正光(はない・まさみつ)さん@琉球弧世界遺産フォーラム
によれば、以下のようでしたので補足します。
「現上皇が皇太子だった1976年6月に訪英しています。
ちょっと気になるのは、前年1975年5月にエリザベス・
エジンバラ公夫妻が来日しています。
WWFだったかIUCNだったかに関わりがあったエジンバラ公の
来日に際し、何か関連の動きがあった可能性はなかった、
のでしょうか。
それにしても、ライハウゼン、エジンバラ公若しくは
何れかの書簡があれば日付けが記載されているでしょうに。」
安渓コメント:ライハウゼンレポートには、日付はなかったと思います。タイトルは雑誌掲載文にはありませんが、
日付があれば、訳さないはずはなく、それが掲載にあたって略されるということも考えにくいので。
おまけ1
1.宮内庁の文庫の検索は、以下でできます。https://shoryobu.kunaicho.go.jp/
エジンバラ公フィリップからの手紙に、資料としてつけられていたのがライハウゼンのレポートでしたから、 Philip
を検索してみましたが、19世紀の地図帳がヒットするだけでした。
2.ポール・ライハウゼン 追悼記事です。ドイツ語ですが、末尾の刊行論文リストの1977年には、インドのトラの保全の報告はありますが、西表はみあたりません。その前後の年にもそれらしいものはありません。添付します。元のサイトは、以下の通り。https://www.zobodat.at/pdf/Bonner-Zoologische-Beitraege_49_0179-0189.pdf
3.安渓遊地「足もとからの解決――失敗の歴史を環境ガバナンスで読み解く」 湯本貴和編、二〇一一『環境史とは何か
シリーズ日本列島の三万五千年―人と自然の環境史』文一総合出版)
にライハウゼン報告のことをかきました。英語でも少し触れたことがあります。Community-based Conservation of
Biocultural Diversity and the Role of Researchers: Examples from
Iriomote and Yaku Islands, Japan and Kakamega Forest, West
Kenya 本文は、以下にあります。http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yp/metadata/17
以下は、日本語で書いたものの抜粋です。全文は、pdfでつけておきますが、実際に印刷される前の原稿ですから、引用される場合は、刊本にあたっていただく方がよいと思います。
3.失敗をふまえて――西表島と屋久島における開発と保護計画の事例
■西表島の場合
琉球列島米国民政府は、一九六〇年、日本政府、琉球政府との連携のもと、四〇名近い調査団を一月余り派遣して西表島での総合調査を実施した(丸杉、一九七八、一七頁)。その報告の一つに、次のようなくだりがある。
「西表の河川の河口にあるマングローブ地帯は、今日経済的価値は全くない。しかし、埋め立てを行い、最小限度の堤防をつくると、これ等の地域は食用および餌用の養魚池にすることが出来る。」そして、合計三八六ヘクタールの土地がその適地であるとしている(スタンフォード研究所、一九六〇、四二~四三頁)。また、これらが水田開発の適地ではないかという検討もおこなっており、「これ等の地域は一ヘクタール当たり二七一ドルから二九五ドルを投じると、熱帯植物の伐採、盛土、石灰施用等を行うことができる」としている(同書、一九頁)。
スタンフォード研究所の報告は、この調査の目的が「西表島の経済開発上、最適の方法を明らかにすることである」(同書、五頁)と述べているが、具体的な目標は、沖縄における食糧増産(による沖縄統治コストの削減)と、米軍基地の建設により土地を失った人々に土地を与えるためだ、と調査を実施した米民政府の担当者は語ったという(丸杉、一九七八、一七頁)。これら西表島のマングローブのほとんどを消滅させる計画は、同時に検討された多くの開発計画とともに、ほとんどが実施に移されることはなかった。
マングローブを含め、亜熱帯域の川の河口付近は、海産生物にとって極めて重要な産卵・生育の場所であることが、最近明らかにされてきたが(安渓、二〇〇四)、ノコギリガザミやシレナシジミ、豊年祭で引かれる大綱の中に入れる丈夫な蔓シイノキカズラなど、島の生活の豊かさを支えてきたものの、その価値が直接金銭に換算されることがなかったマングローブの恵みに気付くには、調査の方法と期間が短すぎたことに問題があったようである。しかし、開発計画が実行に移されれば、西表島のマングローブの消滅は実際に起こった可能性が高い。それは、島の中にそれに疑問を抱く意識も阻止できる発言力もまだほとんど存在していなかったからである。
当時の島での雰囲気を示す資料として、一九六四年に九州大学八重山学術調査隊に同行して福岡毎日放送が制作した「弧の果ての島――八重山群島」という記録映画がある。石垣島・西表島・与那国島を取材した、今となっては貴重な映像ばかりである。このなかに、イタジイなどの直径一メートル近い大径木が、大型のチェーンソーで次々に切り倒され、ワイヤーで搬出された材木が、山腹を削って重機でならしただけのトラック道から搬出されるという光景に、西表島での映像につけられたナレーションは次のようだ(福岡RKB毎日放送、一九六四)。
島の大部分を覆う原生林、厄介者だった原生林が今、パルプの原料として切り出されているのです。島をなんとか開発しなくてはという動きがここにはあります。切り出しのために作った道は、道らしい道がなかった島にとって何よりの贈り物だと言えるでしょう。
一九六七年に新種として記載されたイリオモテヤマネコとともに、西表島のマングローブはいまや西表島観光の魅力の中心をなすものとなり、地元竹富町は西表島の世界自然遺産登録をめざしている(『八重山毎日新聞』二〇〇七年九月三日号)。わずか四〇年のうちに、「手つかずの自然」を強調した方がより大きな経済的な価値を生む、という大きな転換が起こったのである。
いまは、誰もが「自然が大事」と口にする時代である。その価値観から、過去の開発計画を賢明でなかったと決めつけたり、立案した人達を笑ったりすることはたやすい。しかし、それぞれの開発ないし保護の計画は、当時の最高の知恵を結集して、最良の選択と思われる提案がなされたことは疑い得ない。それでは、もしある選択が賢明でなかったとしたら、どこでどのように間違ったのか、それを検証してその失敗から学ばなければ、過ちを繰り返すことになるだろう。
結局は実施に移されなかった西表島開発計画を紹介したのであるから、実施に移されなかった自然保護計画のひとつを紹介しておこう。それは、住民をすっかり移住させてイリオモテヤマネコの楽園を作ろうという計画であった。
一九七七年八月、世界自然保護連盟(WWF)の名誉総裁であったエジンバラ公は、西表島の保護を求める手紙を日本の皇太子(現・天皇)に送った。そこには「西表島の実情」というドイツの動物学者ライハウゼンによる報告と勧告が添付されていた。私も西表島で原文を見せられ、英語の内容のあらましを地元の方に説明したことがある。それによると、
日本の西表島には、世界的にみて貴重なイリオモテヤマネコが生息している。しかし、後に移住してきた人間たちによってその数が激減し、種としての存亡の危機にある。そもそも西表島の住民は、第二次世界大戦後の移民であるから、行政として住民に補償金を支払って島外の適当な場所に全住民を移転させるべきである……(金城、一九七八)。
復帰の前後から西表島に続々とUターンしてきていた若者たちは、この勧告の内容を知って怒った。「もし、その学者が島に来たら、この山刀で叩き殺してやる」という血の気の多い青年もいた。
翌年二月には、これが新聞で報道され、地域社会に大きな波紋が広がった。二月二七日の参議院決算委員会で、沖縄県選出の喜屋武真栄議員の質問に答えて環境庁長官はそのような手紙に関係なく、地元民との理解、協力が得られるような方法で取り組んでいく、と答弁した(ウェブページ・参議院会議録情報)。
ある島びとはヤマネコと人との理想的な関係をこう教えてくれた。「ヤマネコは山の奥には少ない。田んぼの周りが主な餌場だ。だから、農薬を使わない田を作ってヤマネコの餌になるカエルなんかの小動物を増やしてヤマネコを養ってきたのは、われわれ島の住民なんだよ。」
今日まで、西表島の開発と自然保護をめぐっては実に様々なできごとがあった。島民は、色々な開発計画が島外から持ち込まれては、はかない泡のように消えていくのを経験してきた。復帰後騒がれた計画の一部を挙げてみると、石油国家備蓄基地(CTS)、原子力発電所の放射性廃棄物処分場、戦前の炭鉱の坑道あとを利用する乾電池捨て場などなど、もっていきどころのない、はた迷惑な計画が多かった。最近では、日本でもっとも魚類相が豊かな浦内川河口のリゾート開発(馬場・安渓、二〇〇三)をめぐって深刻な意見の対立がおこっている(安渓、二〇〇四)
西表島は、「原始の島」「最後の秘境」などともてはやされ、テレビ等であたかも無人島のように紹介されることが多い。しかし、そこには、四〇〇〇年も昔の遺跡があり、少なくとも五〇〇年以上にわたって連綿と続いてきた村がある。西表島に他にはない自然が残されてきたのは、そこに住んできた住人が、ヤマネコをはじめとする島の自然との共存をはたす智恵を身につけていたからではないのか。このような問題意識のもとに、島びとたちの智恵と知識の体系を学ぶことを中心に私の西表島詣でを続けてきた。
ここで、一九八八年から西表島で取り組んでいる農薬・除草剤・化学肥料を使わない「ヤマネコ印西表安心米」(電話09808-5-6302)の産地直送について紹介しておこう。イリオモテヤマネコの主な餌場が、水田周辺の湿地であることを踏まえて「ヤマネコも人も安心して暮らせる西表島に」をスローガンに、島民自身の健康と野生生物の保全を目標に二〇年目を迎えた。一九九一年からは合鴨による除草をした米を全国に産直をしている。しかしヤマネコが合鴨を食べてしまうという問題が起きている。その時、中心メンバーの那良伊孫一(ならい・まごいち)さんは、「少しは食べられるのも仕方がないよ。ヤマネコの顔を登録商標にしたから、使用料を請求されたわけだなあ」といって笑ったのであった。
おまけ2
某大学の入試担当員として、派遣された石垣島で、泊まった大原ホテルのバーが、マスコミ関係者の巣だったわけ。
思わず午前3時くらい飲んでしまったわたしは、翌朝、はっと目覚めたら、いっけなーい! 入試がもう始まっている時間。
あわてて駆けつけて、会場設定係兼試験官がこないのでうろうろしているたった一人の受験生と。なんとか面接はしたものの、
あやうくクビよね、これ。
そのいっしょに呑んだ中に、添付の記事の著者の金城朝夫さんこと友寄英正さんもおられたのでした。
気骨のあるがっしりした体格で、すっかり日焼けした顔に、いつも大きなプロ用のビデオカメラを下げている彼の姿は、八重山の名物でしたね。
本名では、ともよせ・えいせいさん と呼ばれていましたが、彼の書いたものをリストした、以下のサイトには、 ともより・ひでまさ と書いてあります。
https://ci.nii.ac.jp/author/DA02647829
亡くなったのは、2007年5月1日であったということです。ともよせ・えいしょう とあります。
http://japonesia-video.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_2c6a.html
彼についてくわしく知りたいときは、月間やいま 2007年11月号を買いましょう。たぶんまだ買えます。
https://www.jaima-mark.net/SHOP/book-jaima200711.html
以上、掲載責任者は、安渓遊地@西表をほりおこす会でした。
失敗の歴史を環境カ?ハ?ンスて?読みく.pdf (709KB)
Bonner-Zoologische-Beitraege_49_0179-0189.pdf (1,338KB)