記録)#伊勢神宮_#御神田_で誕生した_#水稲品種_「#イセヒカリ_」について(2005)__#山口イセヒカリ会 RT_@tiniasobu
2021/12/03
阿東つばめ農園で栽培しているイセヒカリという品種について、基礎となる資料を、吉松敬祐(けいすけ)さんからいただきました。記録として、ここに掲載させていただきます。全文はpdfで添付します。もとの冊子には、ページ数がありませんでしたので、表紙と白紙のページを除いてページ番号を付与しました。
以下のテキストは、googledriveに保存し、googledocumentを経由して文字化したものです。文字化けなどが残っている可能性がありますので、正確にはpdfをご参照ください。
伊勢神宮御神田で誕生した水稲品種「イセヒカリ」について
平成17(2005)年3月
山口イセヒカリ会
はじめに
この記録は、平成6年10月、伊勢神宮神田管理事務所より元山口県農業試験場長岩瀬平氏のもとへ、イセヒカリ(当時コシヒカリ晩)の稲株5、稲穂3束が送られてきて、この稲の評価を求められたことから、イセヒカリとは如何なる稲かの探求が始まり、山口県阿武郡阿東町徳佐に住む吉松敬祐氏が原種圃を担当し、山口県内外の「山ロイセヒカリ会」参加の篤信農家が、10年かけて原種を特定し、栽培特性を明らかにした足跡を纏めたものである。
この稲の類稀なその優れた特質をつかんだのは、生育過程からこの稲に魅せられた農家によってであった。「稲のことは稲に聞け」と言うことを知っていた人達が「山ロイセヒカリ会」の中核を形成し、その作りを通じて、イセヒカリからつかんだ情報を持ち寄って成ったのがこの報告である。イセヒカリの原種が特定されたのを機に、会員一同の更なる研鑽のためのたたき台として纏めたものである。またこの記録がイセヒカリの試作にはいる人々にとって参考となるならば、それはまた望外の幸せとするものである。
平成17年3月
山口イセヒカリ会
1 水稲品種「イセヒカリ」の出自と由来
平成元年伊勢神宮御神田は二度に亘る台風に襲われ、西8号田のコシヒカリはなぎ倒された。膝まで浸かりながらコシヒカリを起こしていた神宮神田管理責任者森晋氏の眼に、圃場の中ほどに倒れずに立つ2株が眼にとまった。その株の穂はやがて黄金色に熟れ上がり、明らかにコシヒカリと異なる穂であった。翌平成2年度に試験田に1本植えで植えてみたところ、物差しを当てたようにそろっていた。突然変異の如くに生まれたこの変異種は、平成3年、4年と試験田(1本植え)で観察が続けられ、これは神田で誕生した新品種と育種の専門家も評定し、平成5年度から「コシヒカリ晩」という名称で本田栽培に移された。この稲のその秀れた資質から、平成8年1月16日、酒井逸雄少宮司(当時)によって、聖寿無窮を祈念し、皇大神宮(内宮)御鎮座
千年を記念する稲として「イセヒカリ」と命名され、平成9年度に、神社神饌田に限り作付けを希望する神社に種籾が頒賜された。神宮司庁は「神様から戴いた稲で、慎んで作っていただきたい」ということで、品種登録されること無く今日に至っている。
2 神宮神田を出て、イセヒカリの栽培は山口より始まる
「神饌」についての調査研究を志していた元山口県農業試験場長岩瀬平は、神田でコシヒカリから出たという変種に強い関心を抱いていたところ、平成6年の秋、「コシヒカリ晩」の稲5株・稲穂3束が神宮神田より送られてきた。添え状には「この稲の評価を願いたい」とあった。稲の鑑識眼にかけては山口県内で第一人者である後輩の元山口県農試場長内田敏夫氏に来てもらい、送られてきた稲をみせた。「いい稲」とスッカリ魅了された内田氏は分解調査用にと2株を持ち帰った。その分解調査の結果は次表のとおりで、イセヒカリを普通栽培した場合の基本的な数値としているが、穂首節間Noが稈長の真半分であることに注目されたい。良く作られた稲の事例である。
平成6年度神宮神田「コシヒカリ晩」の生育播種期移植期出穂期(表を略す)
一緒に送られてきた平成5年産古米(玄米)の食味値を山口県農試ニレコ食味計で計ると食味値は76であった。山口県内で作られている県奨励品種の平均的食味値が75~76といわれるから、味に遜色は無いと考えられた。
次の四氏に稲株・稲穂が分かたれ、如何なる生育相の稲か手探りながらコシヒカリに準じての試作が始められた。
長門市俵山、宮本 猛 稲1株 稲穂1束
菊川町日新、豐崎正善 稲1株 稲穂1束
美東町綾木、清水泰久 稲穂1束
熊毛町高水、森野 治 稲1株
山口県内でその人ありと知られた精農家であり、森野氏は山口県農試次長を以って県を退職し、現場の稲作を識る土壌肥料の専門家であった。
この試作から、イセヒカリは山口県で成熟期が「日本晴」の直前に来る稲と分かり、イセヒカリの基本的な栽培特性が把握された(詳しくは後述)。試作にあたって「伊勢神宮の稲」ということは伏せて行われたが、熟れ上あがる稲穂の美しさ、出来の見事さは衆目を集めるものとなった。
3 神宮司庁より山口県神社庁ヘイセヒカリ種籾が頒賜され、山口県神社庁・山口イセヒカリ会は原種圃を設置
山口県内の神社で、平成8年度からイセヒカリを神田に植えたいという要望が高まり、山口県神社庁はその旨を神宮司庁へ申し出たところ、平成8年4月12日神宮司庁にて種籾頒賜式がもたれ、佐伯虎之進山口県神社庁長に酒井逸雄少宮司より「イセヒカリ種籾」3升が授けられた。この種籾は、長門一宮住吉神社、赤間神宮、下関市内日神社、防府市右田熊野神社、ほか宮司自ら耕作し神饌とする者に分かたれた。山口県では他県より1年早く、正式にイセヒカリ栽培が開始された。種籾頒賜に当たって、神宮司庁担当部長より、皇大神宮御鎮座二千年記念事業として各県にも神社庁を通じて種籾を頒賜する計画がもたれているので、その節には協力を願いたい旨の内意がつたえられた。
ここで、山口県神社庁は、元山口県農試場長岩瀬の建言により、1本植えで選抜する原種圃を設けることとなった。コシヒカリ主産地で交雑の恐れがない阿武郡阿東町徳佐に住み、山口農試に通い、コシヒカリ晩の食味値分析をした吉松敬祐氏に原種画を担当してもらい、平成8年度から純系確保の選抜に入った。秋には選抜された種籾50kgが奉賽として山口県神社庁から神宮に奉納された。
秀れた稲であるイセヒカリは、農家から農家へと口づてに拡がり、有志農家によって原種圃・採種圃を運営する「山口イセヒカリ会」が結成され(平成10年12月)、爾来山口県神社庁と山口イセヒカリ会は唇歯輔車の関係を以って「イセヒカリ原種」の特定へとすすんでいった。
4 イセヒカリ原種の特定と変種群
原種圃を担当した吉松敬祐氏は、形質の上で明らかに変異種と分かるもの、極端に出穂期の異なるものを先ず外し、モード(中心となる部分)となるイセヒカリを選抜していった。平成8年、9年とこの要領で選抜をすすめ、農水省農業研究センター総合研究官横尾政雄先生に平成9年産種籾を送り、選抜について指導を請うたところ、その平成10年秋に「綺麗な稲です、純系確保のため個体選抜にはいるように、種は雑駁でした」との指示があった。平成10年秋に精英株8個体を選び、平成11年度より8系統ごとの個体選抜を開始した。これまでの集団選抜をした原種圃での選抜も併行して実施した。平成11,12,13年と8系統の個体選抜を観察する中で、系統番号2号が神宮神田より送られてきたイセヒカリに、草姿、穂相ともに良くこれを映し、食味も
最高であることから、2号がイセヒカリ原種の第一候補として捉えられた。イセヒカリ2号を平成14年度は1本植えで1万本作付け、変異種の発生如何が観察された。出穂時よく揃っているとみえたが、驚いたことに刈取り時(9月27日)今出穂、花盛りという1株があった。こうした稲は未だかって山口県に無く、この超晩生の稲はイセヒカリ自身が創り出したものであると考える以外に無いものであった。
原種を決めるに当たって1本植え1万本としたのは、変種赤芒の濡の出現率が1万分の1であったからである。平成12年夏、出穂時に來県された静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授(現国立総合地球環境学研究所教授)に、原種圃は1本植えなのに縦に白斑のはいる株が外しても外しても翌年出、育苗時その出る確率は3千分の1と考えられることについて御意見を伺ったことがあり、翌日中国山地の農家の圃場に一茎鮮やかに白斑が出現している実際をみられて、もしかするとイセヒカリはトランスポゾン(動く遺伝子)を拾った稲かもしれない、トランスポゾンを持つとするなら、われわれ学者には誠に面白いことですが、選抜される側には厄介な稲ということになります、イセヒカリは便ですが標が出ているかも知れません、栽培者に当たってみてく
さいとの指導があった。当たってみると赤芒の艦が平成7年長門市の圃場で、翌8年には菊川町の圃場で出ていたことが追跡調査によって判明した。種子は神宮神田由来のもであったので、神田に問い合わせてみると神田では見ないとのことであった。山口県内に赤芒の標を見たことは無く、出現の理由は保留のまま時を過ごしたが、調査時点(平成12年)での出現率は1万分の1であったのである。
要するに選抜過程でとらえられた変種は交雑によるものか、トランスポゾンなどによって起こる突然変異なのかを見究める必要があり、発見された変種は一つ一つ後代検定にかけることとなり、一時は25aの原種圃に50区になんなんとする試験区が設けられる有様となり、原種圃担当吉松敬祐氏の労苦は大変なものとなった。
イセヒカリ2号から出た超晩生種は、実際経営のうえでは自然淘汰をうけて消滅するものであるから、山口県神社庁は「イセヒカリ2号」を「イセヒカリ原種」として扱いたい旨を神宮に申し出られ、平成14年12月5日、藤岡神宮少宮司(当時)のもとで原種として扱うことについての了承があった。原種が決まったのである。
平成14年産の「イセヒカリ2号」が原種と定まったことで、山口県神社庁は大型冷凍庫2台を購入し、1台を山口県神社庁、1台を原種圃担当吉松敬祐氏の農舎に設置し、原々種圃に用いる種籾を百年分凍結保存した。それを契機に山口県青年神職会は平成15年度より原種に斎田を設け、伊勢神宮御神田ならびに各神社神饌田の種子更新にあてる種籾の栽培にはいり、神宮には年毎に原種種籾を奉納する体制を整えた。
農水省農研センターから筑波大学教授へ転出されていた横尾政雄先生は原種圃へ度々足を運ばれ、選抜過程で出た変種が突然変異によるものか交雑による分離のものかを実地に検分され指導してくださった。平成16年8月16~17日には原々種圃ならびに原種圃を審査され、「均一性、安定性、識別性ともに良く揃ってきた」と評価された。農水省から水稲の品種登録の審査員を委嘱されていられる方の眼にかなったということで、関係者は安堵とともに、「イセヒカリ2号」を原種として扱うことについての自信を深めた。イセヒカリは品種登録こそ無けれ実質的にはその実を備えたのである。
有望な変種とみているものに、極早稲、赤芒の標、得先色襦、密穂まるたね、などがある。その他育種学、分子遺伝学上重要な試料とみられる超晩生を始めとする変異種は凍結保存し学術研究の試料に供しうる措置がとられた。
5 稲イセヒカリの遺伝的特質
(1)イセヒカリは熱帯ジャポニカの遺伝子をもつ稲
在来稲の遺伝子分析では第一人者である静岡大学佐藤洋一郎先生に平成10年産イセヒカリ種籾を送り、イセヒカリは新品種なのかどうなのか遺伝子分析をお願いした。作っての感触としてはこれまで手にしたことのない稲とは思いつつも、なお確信にいたる決め手がなかったのである。「お伊勢さんの稲」であり、学問の光に照らして確かにしておくべきものであった。先生は快く引き受けてくださり、平成11年6月、「熱帯ジャポニカの遺伝子を持つ新品種」と判定してくださった。これでイセヒカリの基本が立ったのである。
熱帯ジャポニカは縄文時代に先行して日本に伝わった稲であり、日本で作ればそれは晩生になるので、若狭から伊勢湾にかけての線から東へ進むことが出来なかった。集約栽培である水田耕作に適する温帯ジャポニカが後から渡来し弥生時代が始まるが、晩生である熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの晩生が交雑するとF2(孫)に早生が出現し、瞬く間に稲は日本列島を北上することになった。この「日本の稲二元説」を出されたのが当時(平成2年)少壮の遺伝学者であった佐藤洋一郎先生である。イセヒカリが熱帯ジャポニカの遺伝子を持ちその影響を受けているとは想像だに出来なかったが、日本の稲の歴史がイセヒカリの中には畳みこまれているのかと思うと、皇大神宮御鎮座二千年を記念する稲には相応しいことと受け取れた。
イセヒカリの作り良さも焼畑農耕を支えた熱帯ジャポニカ遺伝子の影響によるところかもしれない。
(2)イセヒカリは高変異性の稲
通常の自然突然変異よりは高い頻度で突然変異を起こすイセヒカリを見られて強い関心を寄せられた佐藤先生は、栽培農家が品種改良の手段を手にしたことになると指摘されている。栽培の過程で有望な変種を発見するチャンスが訪れ、農家にとって愉しみな稲であるということである。その反面は種子更新を心掛けねばならぬということでもあるが、明治の老農たちが現在の稲品種の基となる優良系統を選抜したように、素直に稲に学ぶ心構えで精しくイセヒカリを観察しながら対応していると、思いもかけず新しい形質の稲を発見するかもしれないのである。
(3)イセヒカリの米質は硬質米であること
現在、日本の稲品種の80%を占めるコシヒカリ系統と異なり、イセヒカリはかつての、瀬戸内の低温登熟の硬質米と同じ典型的な硬質米である。炊飯には十分に水にかすこと。寝る前に仕掛けて朝炊いた昔の炊き方(6時間は水に浸した)が基本になる。一般化している電気炊飯器で我が家の好みに合った炊き方を工夫されたい。十分に時間がとれなければ、浸した水を捨て、捨てた水と同量の熱湯で湯炊きするなど工夫されて、ひと味違った硬質米の美味しさを再発見していただきたい。
以上の三点をしっかりと頭において、はじめての新しい稲を作るという気持ちで、正直に対応することである。さもないとイセヒカリはご縁無き稲となるかも知れない。それは稲の側から見ればイセヒカリは人を選ぶ稲と言えなくもない。
6 イセヒカリの栽培特性
平成8年4月22日、読売新聞が「伊勢神宮に新品種誕生、イセヒカリと命名」と特報記事を報じたことから、「種籾を一粒でも分けて欲しい」という熱望が神宮に殺到した。神宮は皇大神宮御鎮座二千年記念事業として神社神田に限っての頒場とされ、篤信農家への頒布は山口県神社庁で行われることとなった。その種籾は、平成8年産のものが当てられるのでまだ十分に選抜を経たものではなかったが、初めての作りにも拘わらず、「お伊勢さんの稲を作る」という農家の熱意はイセヒカリの品種的特性を見事に捉えた。
「こんな作り良い稲は始めてだ」「この稲は、如何様にも作れる稲だ」「こんな美味いコメは、生まれて初めて食べた」また
「この稲は、作る者の人柄が出る稲だ」と。それは、稲に対する農家の感性の鋭さを改めて知らしめる言葉であった。
県内外の農家の要望に応えて山口県神社庁を窓口にイセヒカリ種籾が配布された平成9年度の作付では、この稲の栽培適性を知るために、その農家が作る主力品種(その県の奨励品種)との対比をみるアンケート調査がなされた。驚いたのはイセヒカリが収量ならびに食味値で殆どその県の奨励品種を上廻っていたことである。イセヒカリとは如何なる能力の稲か、今日までの栽培事例からその特性に関わる知見を列記して参考に供したい。
1 地域適応性
関東以西に適し標高200m以下なら安心できる中生品種で、山口県での成熟期は「日本晴」か、その直前である。平成9年度の栽培は、北は宮城県涌谷町から南は鹿児島県大口市に及び、標高は長野県穂高町の600mが最高であった。宮城県ではササニシキに遅れること3週間、刈入れは雪が降る直前での10月31日、収穫は反当たり6俵(好天の年は10俵を記録)、長野県はまだ置きたかったが10月9日にともあれ刈り取り10俵を超えたという。今なお作られているところをみると、「お伊勢さんの稲」への信仰の力は、長びく作期にも耐えて、当初の想定をはるかに超えた北辺での作りの情報が年毎に寄せられて来るのには心打たれる。
2 耐倒伏性
耐倒伏性は他品種に較べて際立つ強さをもつ。山口を直撃した平成11年の18号台風(瞬間風速48m)、平成16年は度重なる台風直撃の中で、瞬間風速50.5m(山口市)にも耐え、なぎ倒された他品種を尻目に立つはイセヒカリのみであった。それは、イセヒカリが同一圃場に植えられたヒノヒカリに比べて茎太く、下位節間が短く上位節間で長く、また根群もコシヒカリなどに較べて1.5倍はある根の強さによるところである。この耐倒伏性の強さは、機械化一貫作業体系下にある現在の稲作にあっては、稲品種として基本的に具備すべき要件である。
3 耐病性
山口県内の試作経験を積んだイセヒカリ栽培者は育苗段階での防除の外は、本田栽培で除草剤一回使用のみで農薬散布を行っていない。消費者が求める低農薬栽培が労せずしてやれるということは、農業者が高齢化するなかで注目すべきイセヒカリの特性である。とは言っても、横尾先生がイセヒカリを診断されて、イセヒカリが特別なイモチ病抵抗性遺伝子をもっているとは思えないから多肥栽培は慎むことと助言されている。コシヒカリ・ヤマホウシなどに較べればイモチ病に対する抵抗性は確かに強いが、「日本晴」なみの「中」と考えて対応するのが無難と考えられる。
イセヒカリの耐病性について特筆すべきは、平成10年度の西日本のウンカ大発生に対して、イセヒカリ栽培経験者はそれを無防除で凌ぐ者が多かったことである。隣接の田が坪枯れて無残にも腐っていくなかで、山口市朝田の宮成恵臣朝田神社宮司のイセヒカリは、二度の診断で防除の必要無しであった。収穫時1m2ばかり色が変わっていたところがあったが反当たり9俵、食味値97の見事な収穫であった。イセヒカリがウンカにみせたこの抵抗性はこれまでの日本の稲品種にみなかったものである。注目すべき遺伝形質をもつ稲なのでは
ないかと考えられた。
4 収量性
他品種に較べて、茎太く下位節間で短く上位節間が長いと言うことは、収量性でも優れていることを示している。平成9年度のアンケート調査で、いずれの県にあってもその人が作るその県の奨励品種を上廻る収量をあげていて、最多収量は10a当たりで700kgを超えていた。成熟期が、「日本晴」かその前に来る稲という以外には、これという情報も無き初めての作りであったにも拘わらずである。農家は「作りよい稲」「如何様にも作れる稲」と知ったのである。
耕種概要の事例を添付したので作り方の参考とされたい。標高が高くなると、温度が上がってくるまでの初期生育がこの稲は鈍くなるので、元肥を押えた作り方がよい。また倒れないからといって欲を出し、不用意に多収穫を狙って多肥栽培をすると、食べられたシロモノではない不味いコメになる。これはイセヒカリのもつ恐ろしさである。作りよい稲だが、食味を求める時代であり、窒素を押えて作ることが大切。自在に作りこなせる如何様にも作れるこの稲の懐の深さを、良き方向で会得されることを願いたい。
5 食味値
平成9年度、アンケート調査とともに行ったニレコ食味計による食味値分析結果も、イセヒカリがその人の作るその県の奨励品種を超えていた。炊飯しての食味は、異口同音に「寿司米に向く」という。典型的な、かつての瀬戸内低温登熟の硬質米の食味である。よく作られたイセヒカリを正しく炊いた御飯を常食すると、外食は出来なくなること請け合いである。コメを洗わないで使う本格的な欧風調理でのパエリヤ、リゾットなどにイセヒカリはまた適合する。イセヒカリは日本の米であると同時に世界に通ずる米であるという山口イセヒカリ会の自負はここから生まれている。
現在、山口イセヒカリ会に参加するメンバーのイセヒカリの食味値は、ニレコ食味計で、85%の者が80を超え、半数の者が90を超えている。これはイセヒカリを作り始めて以来、逐年食味値分析をしてその数値を各人に伝え、収量と食味のかねあいをみて、各自は自らの目標を設定し、各々納得のいくイセヒカリ作りに励んで来たからに外ならない。ちなみに山口県で作られている米の平均的食味値は75~76である。
イセヒカリを初めて作った時、有機栽培農家の食味値は1ランクあるいは2ランク落ちる傾向を示した。それはイセヒカリの根の強さに気付かなかったからと思われる。結果的に登熟後期にも窒素が効く肥培管理になっていたのだと推測された。
コシヒカリ並の少肥栽培をすると収量は平均反収ながら食味値は抜群となり、コシヒカリを凌ぐものとなる。そのコメは文句なく美味しいコメである。
6 畜産との連携
畜産経営とイセヒカリ栽培の関係は注目に値する。イセヒカリは乾物での籾/藁比が低いことである。平成7年度の手探りによる四氏の試作で、初/藁比が長門市でコシヒカリ123に対しイセヒカリ96、美東町でヤマホウシ128に対しイセヒカリ104、熊毛町の1本植えでコシヒカリ134に対しイセヒカリ104であった。イセヒカリは収量も穫れるが、藁がまた素敵に出来るということである。これを一般的には肥料効率の悪い稲ととらえるが、それは人間が食べるコメだけを頭において稲をみている狭い捉え方で、畜産農家の立場は違った。和牛飼育農家がイセヒカリに目をつけない筈はなかったのである。倒れず無防除で安心できる藁を牛に給与出来るのであって、山口県で和牛農家が早くよりha単位でイセヒカリを導入したのはまさにこの点にあった
。平成12年春92年ぶりに宮崎県・北海道で口蹄疫が発生したが、その伝染経路として輸入藁の存在は否定できないとされている。畜産経営の立場から畜産農家が熱い視線をイセヒカリに送るのは当然のことである。稲は地力で作る作物であって、畜産農家と水稲耕作農家との良き連携がとられるなら、日本農業はしっかりとした生産構造の上に構築されていくことになるであろう。イセヒカリは人にも家畜にも使い分けられる多用性をもつ稲品種であり、こうした認識はこれからの稲作を考える上では重要な視点になるものと考えられる。
7 イセヒカリ純米酒用原料米
イセヒカリ純米酒の開発は、平成10年度、山口県産業技術センターによってなされた。期待を上廻った見事な純米酒が得られ、「食べて良し、飲んで良し」の米はイセヒカリ以外にないと、山口県産業技術センターは県内酒造業界に紹介し、清酒の需要低迷の活路を「イセヒカリ純米酒」に求め、杜氏が自らイセヒカリを作り、その米で自ら蔵元で純米酒を造るという動きとなった。現在6社でイセヒカリ純米酒が造られている。山口県の特産酒の地位を確立するかどうかは今後の発展にかかっている。
面白いのはイセヒカリの個体選抜「系統番号5号」から出た変種の「密穂まるたね」に心白のものが見つかり、酒米としての適性に期待をかけて育種してみることになっていることである。
7 結び イセヒカリが問いかけている課題
1 イセヒカリの高変異性についての解明が待たれること
静岡大学佐藤洋一郎助教授(当時)は、イセヒカリの高変異性について、二度に亘って日本育種学会で報告(平成13年10月、15年4月)された。その問題意識は、高い頻度をもって、それまでに無かった全く新しい形質の稲をイセヒカリが創り出すことから、動く遺伝子トランスポゾンを内包する稲ではないかとする点にあった。平成15年1月9日に新聞各紙が一斉に報じた「突然変異遺伝子発見」の記事は、この想定に現実味を与えた。記事は、突然変異などを起こす「動く遺伝子」の一種が稲にあり実際に動いていることを日米の三チームが発見、mPingと名づけられ、京大チームはこれが突然変異に関わっていることを突き止めたというものである。まだイセヒカリでトランスポゾンは特定されていないが、イセヒカリがもつ優れた資質は日本の稲
育種に測りしれない貢献を果たすのではないかと推察している。名品コシヒカリが出て、遂にこれを超えることなき現在の育種事情に、イセヒカリは確実に新生面を拓き、稲品種に多様性をもたらすであろうと思われる。
イセヒカリの高変異性について分子遺伝学の立場からする解明が待たれるところである。
2 イセヒカリは日本農業の構造改革を担う稲として生かされたいこと
兼業農家は言うまでも無く、山田を守る零細な高齢農家の稲作も、大型穀作経営の稲作も、畜産・園芸に特化した経営の稲作をも束ねて経営間協同をもたらし得る稲品種であってこそ、さらには低農薬栽培で消費者にも迎へられて連携しうるコメであってこそ、農業構造の改革を担いうる稲と言えよう。イセヒカリはまさにその能力をもつスケールの大きな、稀有な稲として神宮神田に誕生した。神宮は神様から戴いた稲として品種登録はされないが、品種としての実質をそなえてきたイセヒカリは、現在の閉塞状況に陥っている日本のコメ情勢を切り開き、日本農業に再生をもたらすであろうと確信する。農業者ならびに農業関係各界の方々のご検討を戴きたいと切に願うところで
ある。
(文責 岩瀬 平)
おわりに
山口県神社庁の支援のもとに、山ロイセヒカリ会がイセヒカリの原種特定を達成出来たのは、偏に、筑波大学教授横尾政雄先生、並びに静岡大学ご在任中より現在は総合地球環境学研究所教授の職にいられる佐藤洋一郎先生が、わがこととして、しばしば遠路山口の地に足を運ばれ、実地に御助言、御指導くださった御蔭によるところであります。原種圃担当吉松敬祐氏の精進に敬意を払うとともに、ここに両先生の御厚情に対し、会員一同衷心より感謝申し上げるものであります。
平成17年3月吉日
山ロイセヒカリ会会員一同
イセヒカリ栽培にあたっての留意点(補足)
イセヒカリ栽培に当たって、本文に述べなかった大切な留意点を下記に記す。
1 生活雑排水流入の圃場は避けること。
イセヒカリの根が強いことが裏目に出て、著しく食味を落すことになる。無肥料で作っても高蛋白となり酒米に使うことが出来ず、不味いコメになることを経験している。圃場条件がその様な環境の場合は、他の品種とするか、あるいは思い切って施肥量を落すことを考えられたい。
2 イセヒカリは株張りの良い船なので、株間は18cm以上をとり、粗植・細植えとし、不必要な薬剤散布はしないこと。
3 秋風の立つ9月下旬以降の刈り取りとなるような作期とすること。
早植えで8月末、あるいは9月早々には収穫する夏期高温登熟のイセヒカリは、食味値は高く出ても味がいまひとつ乗ってこない。台風を恐れる必要は無い稲なので、西日本では9月下旬以降の刈り取りとなるような作期にされたい。
麦作あとにイセヒカリをもってくる作目構成は良い組み立てとなる。
4 刈り取り適期を見逃さないように留意すること。
発見者森晋氏が注意を促しているように、刈り取り適期となっても、止葉以下の上位3~4枚は生葉であるので、刈り取り適期を見逃さないように注意すること。
5 堆肥投与は稲作に増収と作柄の安定をもたらすが、その反面、食味値を落とすことも
事実である。多投与は避け、収量と食味の兼ね合いを考えて自分の設計を樹てること。
6 耕作放棄田を復田した圃場の場合、萱のように強い稲に育つはずである。無肥料で出発することをすすめたい。休耕と復田をどのように繰り返したら良いか、その時の施肥は無肥料でいけるのかどうか、イセヒカリを巡って将来想定されると思はれるこれらの土地利用方式に関わるデータは、未だ全く得られていない。
イセヒカリは品種登録されていない稲品種なので、一般のコメ流通市場には乗り難い現状にある。売り捌く目途も無く作ると大変なことになる。まず自家用・縁故米として満足のいくイセヒカリ作りを会得してもらいたい。そこを原点にして、それから今後のコメ情勢に対応する構想を樹ててもらいたい。
(文責岩瀬)
イセヒカリ耕種概要事例
1 始めに紹介する
1 美東町清水泰久氏、
2 長門市宮本孟氏、
3 山口市中野重雄氏のものは、イセヒカリのもつ能力の高さを、客観的に示し、またそれを見事に引き出した事例として参考に供するものである。
2 美和町阿賀佐伯全男氏、山口市嘉川藤井治郎氏、下関市菊川町豊崎正善氏、長門市三隅町的場一義氏の耕種概要は、本田無防除で食味値も高く確保されている例として、山口県の東・西・南・北から1名づつ選んで参考に供するものである。
3 事例を、平成10年度、平成12年度、平成14年度の中から選んだのは、平成10年度はウンカの大発生をみたが、大体において比較的気象条件が安定していた年であったことによる。(山口県の平成10年度の作況指数は100、12年度104、14年度100であった)
4 県外にも平成10年、直播栽培で反収9俵、食味値90をあげた福岡県赤池町の太田五郎氏、同じく平成10年に食味値103の最高を出した鹿児島県大口市の森山善友氏などの事例も参考に供したいがここでは割愛して山口県内に絞らせてもらった。
耕種概要についての凡例
1)耕種概要は10a当たり換算で表示した。
2)食味値はニレコ食味計による数値である。T・Nとあるのはトータル窒素の数値で、これを6倍したものが蛋白含量とされる。
以下の表は、補足の文章のみ掲載。データについては、添付のpdfを参照されたい。
平成10年度イセヒカリ耕種概要
栽培者
山口県美祢郡美東町綾木、清水泰久
山口県の中央秋吉台の南東山間平坦標高80m
山口県長門市俵山七重、宮本孟
山口県の北西部山間地標高170m
長門一宮住吉神社お田植祭の育苗奉仕40余年、早乙女は中学生の奉仕によるところから、保温折衷苗代で育苗、成苗植となる。一発の基肥はコシヒカリ用である。和牛4頭を飼育し地力培養を心がけ、イセヒカリ栽培4年目。10a当り収量750kgで食味値81を確保し、手をかけずイセヒカリの能力を最高度に引き出した美事な作りである。
山口県山口市大内御堀(氷上)、中野重雄
山口盆地平坦標高28m
稲の顔をみながら手を打った肥料分施、平成10年度山口県内で最高の食味値(101)を出したイセヒカリ2年目の作り。疎植、細植えを注目されたい。
山口市大字佐山、 藤井治郎
瀬戸内中部沿岸平坦地標高8m
米直販の立場からイセヒカリに注目、葉身窒素測定機をもって、関係者の幼穂形成直前期、穂揃期の葉身窒素を測定して、適確合理的な施肥をすすめ、美味しい米作りにつとめた。マグホスコート、魚肥の施用は米に旨味をのせる工夫。とくに、梅雨後、熱帯夜の多い瀬戸内平坦部は、穂肥えによる翔数増加では米質が落ちるので、籾数確保は穂数優先とし、それも施肥量を抑えての穂数を確保することがこの作りでの重要なポイントにされている。
平成12年度イセヒカリ耕種概要
山口県長門市三隅豊原、的場一義
山口県西部北浦沿岸平坦標高3m
手馴れた作り方で、米糠還元・測条施肥の事例。山口県エコファーム認定農家で「イセヒカリは如何様にも作れる稲」と評した人、そのイセヒカリ4年目の成績。
山口県玖珂郡美和町大字阿賀、佐伯全男
山口県東部山間標高200m
山口県東部中国山地の過疎の村で、平成9年以来平均反収ながら食味値は山口県内でトップクラスの安定した作りで、本田無防除・自家用縁故米作りに徹してきた。作り方は「への字型」、この作り方はイセヒカリ栽培に合っている。
平成14年度イセヒカリ耕種概要
山口県下関市菊川町日新、豊崎正善
瀬戸内西部内陸平坦標高30m
平成7年の試作は圃場整備直後の腐植皆無で鶏糞5t余を投入、以来米作地帯の米作りの指標たるべく食味向上につとめ、グループと共にイセヒカリ純米酒原料米としての道を開いた。平成9年以来本田無防除である。玄米出荷先岩国市酒井酒造株式会社
以上、掲載は、イセヒカリ栽培農家(阿東つばめ農園) 安渓遊地でした。