わが師)アフリカの物々交換の市場の博士論文についての玉野井芳郎先生からの指摘とその後のやりとり_RT_@tiniasobu
2020/10/15
玉野井芳郎先生から博士論文の草稿について指導していただいたのは、1982年の秋のことでした。安渓遊地は、1981年4月から1982年3月まで沖縄大学の教員をしていて、その当時玉野井先生は沖縄国際大学の教授でしたから、行き来があったのでした。
翌年 講演のために山口にお迎えした時は、すでにこのやりとりのあとだったのですね。
先生との郵便でのやりとりを入力してありました。図のコピーはありませんが、
できあがった博士論文Fish as ”Primitive Money”(英語)は、 国立民族学博物館(みんぱく) のサイトにありますが、いきなり pdfをダウンロードする仕様のようですから、ここにもpdfで貼り付けておきます。
先生に見ていただいた日本語版「『原始貨幣』としての魚」は、『アフリカ文化の研究』に載っています。以下は書評のリンクですが。https://ci.nii.ac.jp/naid/110001839350
玉野井 先生
1982年11月18日
先日は、大切なお時間をさいて拙論文に懇切なる御批判、御助言をたまわり感謝に耐えません。
先生の御批判の要点を私なりにメモしたものと、それについての論文改変の方針を示したリプライを書いて見ました。聞きまちがいや誤解があるのではないかと恐れております。ただ、方法論的な問題についての御批判はまことに根本的で、今後の課題として勉強させていただかなければならない点ばかりであることを痛感いたしました。
先生とのやりとりの中から
fisherman は孫悟空で、farmers(とくに男たち) がオシャカさまであるというたとえが生まれました。さらに、farmers から fishermen の所へ婚入する女たちが、悟空の頭をしばりつけるハチマキになっているという可能性にも気づきました。
よろしく御指導下さいますよう
安渓遊地拝
Ankei,Y, Barter Markets of the Songola
に対する玉野井芳郎先生のコメントと安渓のリプライ(答え)(1982年11月18日)
玉野井:Facts が大変面白かった。
玉野井:全体の印象として、いささか市(し)場(じょう)経済学的な取り扱いが強い。経済学者にはよくわかるかもしれないが、これでは経済学そのものになってしまっている。
---安渓:書きながらもっとも自分で不満だった点でもあります。しかし、市の参加者の(少なくとも魚をもってくる人々の)たてまえとして、「魚の同一視と標準化による交易活動の平均化」といったものをめざす傾向がはっきりあらわれている点は否定しがたいと思われます。「こういう傾向が伝統的なものであるはずはないという」批判はもちろん覚悟しておりますが、これは、1979年の調査であり、「市場経済学的な考え方をまったく(・・・・)もたない人々」というのはもはや幻想にすぎないかとも思われます。とくに魚をとっている人々の生活は、5万人の人口をかかえる町の公設市場と直結した生業活動を営んでいる peasant economy であると考えます。(農耕民の方は、きわめて自給性の高い tribal economy であるわけですが。)
バーターのレートとそれを決めるもの、というテーマについて facts
を提供した論文はほとんどないわけですが、この論文では、様々な市場経済学的な viteria
をあてはめようとして、いずれもうまくいかなかった、というプロセスがそのまま出てしまっているのだと思います。経済学的とりあつかいが、いかにうまくいかないかを私なりに納得することができました。これからは“経済学”の論文は書かないつもりです。
玉野井:これでは Adam Smith になってしまっている。
彼の“primitive individualism”という誤った論点が「個人というものが、はたして抽象できるのか」という批判を受けてきたという経過がどれだけ考慮されているのか。どうも人類学の人の書くものにはこの誤りが多い。
---安渓:書き方がアダム・スミス的になってしまっていたとは気付きませんでした。しかし、バーターの要点として、異なる生活環境に住み、異なる生産活動を営む複数の集団の存在要点になることを指摘しています(p.104)。こういう生態学的背景があってこそ食品の非儀礼的バーターはなされるものだという点で、“individualism”の批判に、ある程度お答えできるのではないかと思うのですが‥。
玉野井:第3者が(神のような立場で)見ているような叙述になっている。一般化、平均化、普遍化が続いていくという書き方にも方法論的問題を感じる。もっと漁労民の側(あるいは農耕民の側)に立った書き方はできなかっただろうか。(ただし、私のように[狭義の]経済学はやめた Minority の言うことを聞いていては、学位はもらえないかもしれんよ)
---安渓:農耕民の生活については、以前にレポートを書き、漁労民についても魚とのかかわりという形でレポートしました。この論文はいわばそういう肉を一時忘れて骨だけにしてみたらどうなるか…と思って書いてみたものです。先生の御示唆は今後の話題として心にとどめておきたいと思います。
玉野井:交易に参加しているどちらが主体なのだろうか?
男たちの集団のアイデンティティから問題を立ててみることはできないか、農耕集落の側から市場をとおして(生活を)見てゆくことはできないか? そもそも彼らの subsistence がどうなっているかをとらえたうえで、市の位置づけを考えないといけない。
---安渓:農耕民と漁労民たちのどちらが主体化という問題に入る前に次のような図式を検討してみたいと思います。
図
このように、農耕民は、多量の現金を使う必要がない生活であるのに対して、漁労民はつねに都市の市場で交易して現金を得るという生活です。
○漁労民曰く、「われわれはすべて(=イモと金と妻)を魚で得ることができる。水こそがわれわれの財産である。網を2つもっている人が金もちだ。」
○農耕民曰く、「体が不自由でないかぎり、貧乏だなどと言ってはならない。しかし妻のない者は貧乏である。夫は妻(たち)が植えつけるのに充分な畑を伐りひらけるか、妻は夫が開いた畑にすべて植えつけられるどうかで一人前かどうか判断される。」
○バーター市の位置づけについて、
漁労民から農耕民に対して、
「あの未開な連中に現金と魚を与えて開化させてやっている。」と陰では言うものの、「妻たちをバーター市へ来させているのは、農耕民の男たちの漁労民へのこころざし(・・・・・)があればこそじゃないか。だから、その女たちと寝ようとすることなどもってのほかだ」というように、表むきは言うこともあります。
農耕民から漁労民に対して、
「われわれが農作物を与えてやらなければあの連中は飢え死にしてしまう。ちゃんと魚をもってこない連中がいるのはけしからん」と陰では言っています。
○ある漁労民曰く
「我々の銀行は、嫁どりしあうことだ」
さらに漁労民のロケレが、同じく漁労民によってこう批難されています。「20年前、裸でやってきた連中が、今では家ももった、畑もある、財産もできた。だからこんなバーター市なんかもういらないとばかり、大きな魚ばっかりもってきたり、盗みをしたりすることはまことにけしからん。」
このようなことを手がかりに考えてみますと、漁労民はバーター市に等価交換の論理をもちこもうとし、農耕民は reciprocity (Sahlins の generalized reciprocity)の論理をつらぬこうとし、その拮抗関係が微妙にゆれうごいているのが現在のバーター市であるとも言えそうです。ですから、農耕民の側からもう一人の監督を出すようなかけひきが見られるし、監督らしいものがいない小さなバーター市もあるのです。
結局、漁労民の側からのアプローチを進めた結果、原始貨幣の話にまで進んでしまったとも言えるのではないでしょうか。イントロダクションに前頁の図と説明を入れることでバーター市の位置づけを示しておきたいと思います。農耕民は、きわめて豊かで、安定した生活を送っていて、漁労民はオシャカ様の掌の上の孫悟空といったところだと思われます。
個別的コメント
玉野井:言語・生業・identityという3つの点を最後にではなく、第1章に入るとおもしろくなるだろう。
---安渓:第1章でも一応は触れているのですが、さらに下のような図(の上半分)を挿入してみようと思います。
図
玉野井:market にも様々なdimensionあるはずだ。コミュニティ間のexternal marketとコミュニティ内のinternal market と、その区別をはっきりさせた方がいい。
---安渓:この手紙の3頁にある図の説明のところで、
都市のグラン=マルシェと大店舗
大集落のpetty market
集落ごとの 小店舗と行商人
そして
barter marketの位置づけを述べることにします。ただし、barter市が完全にinternal
marketであるという話は、「コミュニティのわくぐみとは何か」まで立ちもどって考えてみても、やはり成り立ちかねるのではないかと思います。
玉野井:漁労民、農耕民、クリスチャン・イスラムなどといきなり一般的なことばが出てきて、とまどう。
---安渓:この手紙の3頁の図およびその説明で、読者のとまどいを軽くできるのではないかと期待しています。生業についてのくわしい記述は別報にせざるを得ません。
玉野井:争いの調整の演説の部分おもしろい(p.12)
---安渓:実は、このあとで、キャッサバそのほかの現金価格を、現金の市にスライドさせて下げる話となり、1山のキャッサバ(現行30マクタ)を10マクタにしたいという漁労民の長の命令に対し、農耕民の女たちの「20マクタ、20、20‥」という大合唱がおこり、とうとう20マクタが認められるというひと幕もあったのですが、これは省かざるを得ないと思いました。(バーター市で現金も使われることをまだ言っていないため)。
玉野井:農耕民の中に、数人の男がまじっている。このメンバー構成が、実に深い意味があると思う。
---安渓:いつも大した用もないのに、いつもバーター市をのぞきに来ていた男が、農耕民側の監督に選ばれたという事実を注に入れます。「いつも市に来ているから」というのがその理由でした。つまり、農耕民の女の背景には男たちがひかえている、という無言の圧力をいつも漁労民に与えるということかもしれません。
玉野井:漁労民の嫁たちが「料理だけが仕事だ」と言っているのは、非常に深い意味があるに違いない。
---安渓:うがった言い方をすると、漁労民の妻たちの半分をしめる農耕民出身の女たちは、オシャカ様が孫悟空にはめたハチマキかもしれません。何もしないでもいい人質的な存在とまでは言わなくても、wife-givers が圧倒的に強くなることは事実です。漁労民の女は、農耕民の嫁になってはつとまりかねるのか、ほとんどが漁労民の嫁になっています。
玉野井:p33の取引きの単位の話、なかなか面白いが、このへんから急に一般化が進んでゆく。自分ならこの事実は、注に入れてしまうところ。
---安渓:これまで、このような一般化を試みるような論文を書いたことがありません。単位があるかないかという所は私にとってはひとつの眼目で、よく想像されているようにまったくランダムではありえないことを示したつもりです。
玉野井:p34-38のかけひき、なかなか面白い。しかし、魚なり、農作物なりの使用価値がはっきり出るといい。「資本論」の始めに、リンネルと上着の交換の話が出てくるが、上着は使用価値として1着であり、1/2着という使用価値はないことを想いおこしてほしい。交換価値と使用価値を区別せよ。
---安渓:魚と農産物の使用価値をめぐって、「Songolaの料理と食事」という別報を準備中です。それができないうちは議論が進みません。
玉野井:最後の労働量の扱いはAdam Smith そのものだ。
---安渓:これから勉強します。
玉野井:魚が貨幣であると言いたければ言える。が、それでどうというほどのことはない。
---安渓:これまでのいわゆる“原始貨幣”の多くは貨幣などではなく、それに比べれば魚でもという程度のことです。
用語についてのコメント
玉野井:populationと言わない方がいい。このことばは、イギリスでは17世紀以降、フランスではその影響をうけて、18世紀にはじめて使われることばだ。人間の顔を出していない概念は、私はだいきらいだ。なるべく、people, les gens 人々、などと言った方がいい。そもそも男と女はとりかえ不可能なものじゃないか。
---安渓:文中のpopulationはpeopleにいたします。が、“population pyramid”の図は残しておきたいと思います。
玉野井:同様に“分業”と言わない方がいい。「仕事がいかにわりふられているか」と言え。
---安渓:なるほど。
玉野井:“物々交換”は“バーター”とした方がよい。交換というと、どうしても近代の市場交換をイメージする。exchangeに対するinterchangeにあたる訳語がないのがひとつの原因。exchangeよりもbarterを、barterよりもtrade 交易ということばをなるべく使え。
---安渓:人類学ではもっとも深い意味で使いますが、誤解なさる向きがあるということでしたら、そのようにします。
安渓 遊地
葉書1
お手紙ありがたく拝見しました。「コメントとリプライ」の文章も拝見しました。よくまとめておられ、結構と思います。若干気がついた点を申し上げます。
(一)p,1
私はむしろ一九七九年の調査であるからこそ、非市場経済の仕組みを解明することの大切さを感じます。ザイールを対象的素材に、market-less economyの考案が主題だと思われます。それへのアプローチがいかになされるかに大きい関心があります。
(二)農耕民はfarmerではなくpeasantとし、小農民であることを明らかにしておくのがよいと思います。
(三)p.10の下の方。exchangeよりもtradeよりもbarter、といった方が正しいと考えます。
気づいた点まで。よい御論文が仕上がることを期待します。
草々
玉野井先生
1982.12.3
前略失礼いたします。
このたびは、お葉書をたまわり、大いなるはげましと感じております。実際に改訂に着手してみますと、これまでの書き方では、「切りすて、平均化してはならない差異があえて無視されている」ようになることを強く感じました。次のような点が主なものです。
1.各グループの生業活動のレパートリーをくわしく。
2.「農耕民」・「漁労民」はやめて、
ソンゴーラの農耕グループ(クコ・ビンジャ・オンボ)
ソンゴーラ=エニャを含むワゲーニアという表現によることにしました。ワゲーニアの生業の多様性と農耕グループと一部の貨幣経済化したワゲーニアの板ばさみ、あるいは中つぎをしているエニャの立場がよくわかるようになりました。
図
3.労働の話は、
「バーターレートは労働量との関連で説明できるか?」という設問にし、できないと決論づけます。米以外の農産物の生産レベルが年中一定であることと、バーターレートが一定であることを個々の作物の使用価値と結びつけて論じようと思います。もっとも、「グループごとにして、食事の好みがことなり、好まれる作物の順位はグループ内ではほとんど固定されている」という話ですが…
4.市のロカリティについてのデータを加えました。
冒頭の部分のコピーを送らせていただきます。緑色の線をひいた部分が新しい部分です。400字づめで20枚ほど増えました。
牧志市場の報告書、送らせていただきます。
よろしく御指導を賜りますよう、お願い申し上げます。
安渓遊地
葉書2
前略
沖縄も朝晩は大分寒くなりました。さて、牧志市場の報告書と西表に関する御論文をお送りくださり、有難うございました。
御同封のお手紙も、うれしく拝見しました。冒頭の部分のコピーも拝読。ずい分、良くなりましたね。四〇〇字二十枚も増えて大きく改作されたとあり、私もコメントした甲斐があった。と大変よろこんでおります。今後いよいよ御研究の深化することを祈念いたします。お大事に。
十二月