#宮本常一_)「ああ、また歩いてみとうなってきたなあ」 #移動大学 #大山 #西表 RT_@tiniasobu
2020/09/30
2008年の『調査されるという迷惑』の冒頭に載せたのと同じ場面ですが、移動大学の関係者が広島で出していた、広島KJ法研究会の機関誌『地平線』に書いたバージョンのファイルがでてきました。2001年執筆です。
「ああ、また歩いてみとうなってきたなあ」
宮本常一先生との出会い
安渓 遊地(あんけいゆうじ・山口県立大学教員)
調査というものは地元のためにはならないで、かえって中央の力を少しずつ強めていく作用をしている場合が多く、しかも地元民の人のよさを利用して略奪するものが意外なほど多い――宮本常一先生の言葉(1972:
278)から。
私は、第10回青森移動大学の参加者だった。そこでの生活とほんの少しかじったフィールドワークは、私にとっては大学生活に比べてはるかに魅力的に感じられた。いつの間にか新潟県巻町での第11回移動大学のスタッフになり、その後は、京都大学の大学院で伊谷純一郎先生の指導をうけ、アフリカ行きを夢見て沖縄での人類学のフィールド・ワークに手を染めるようになっていった。
私は、大山の麓の香取(かとり)で開かれた第12回移動大学を訪ねてみることにした。到着したのは1974年8月20日の夕方だった。大型テントの立ち並ぶキャンパスは道路の上の一段高い台地上に広がっている。私は自分の個人テントを道の下側の広々した空き地に張ることにする。広場の下は、急に落ち込んでいて見晴らしがきく。二重のナイロンの生地をグラス・ファイバーの枠が支えられるカマボコ型のテントをキャンパスから一番遠い場所に張る。テントを固定するペグを打ち終えて、ふと気がつくと、ごましお頭のがっしりした男の人がかたわらに立っていた。手にはスコップをもっている。そして、やおらテントの周りに溝を掘り始めた。あっけにとられている私を尻目に幅30センチもある溝がどんどん掘られていく。(この親切
なおじさんはいったい誰なんだろう?)スコップをふるいながら、この人はこんなことをおっしゃる。「テントを張る時に一番大事なのは、水はけだよ。縄文人もこんな舌状台地の端に集落を作ったもんだ。そして、斜面の下にゴミをどんどん投げ捨てた……」
スコップにもたれながらこの人は、私がテントの中にリュックを入れ、小型テープレコーダや一眼レフカメラを取り出すのを覗きこんで、こうつぶやかれた。「もっと丁寧に入れんと、テントが歪むがな……。ああ、こんなに軽くてちいさい装備を見ていたら、また歩いてみとうなってきたなあ。」
この言葉を聞いて、やっと私の鈍い頭にも、大山移動大学の案内のパンフレットの中に「講師・宮本常一」と書かれていたことが思い出された。それでは、この人があの宮本先生だったのか。背伸びした中学生だったころ、誰の編集とも知らずに『日本残酷物語』なども読んではいたが、宮本常一という名前は、私の中では冒頭に引用した「調査地被害」という、ある意味では私のフィールドワークを決定した文章の著者として記憶されていた。第11回移動大学のスタッフになるにあたって、畏友・岩政隆一に一読を勧められた文章だった。それから四半世紀を経て、妻とともにまとめた本の冒頭に「される側の声――聞き書き・調査地被害」を置いたのも、宮本先生の影響ぬきには考えられない(安渓・安渓、2000)。
移動大学のキャンパスはちょうどKJ法の個人作業のまっただなかだった。宮本先生がお得意の座談をくりひろげられる場があまりない時期にあたっていたのだろう。おかげで私は、宮本常一先生にテントの溝を掘っていただくという思いがけない光栄に浴したのだった。しかし、私はこの光栄なキャンプサイトに1晩しか寝なかった。宮本先生すら暇をもてあますようなKJ法の個人作業の濃密さと、一日いくらの食費を納めなさい、というきまじめなキャンパスの雰囲気に驚いて、キャンパスにほど近い牛乳生産農家3家族が作り上げた「大三井(おおみい)協業」に居候することにしたからである。結局、わがテントは徹夜したスタッフ達がしばしの仮眠をとる場所として利用されることになったらしかった。
夕日をあびた山麓をながめながら、修士研究として取組もうとしている西表島での廃村調査について宮本先生に申し上げて、問いかけてみた。「文部省の資料館に明治中期の『八重山嶋巡検統計誌』という一連の書類があるんですが、第35冊などというのがあるのに、今では4冊しかのこっていません。私が調べている西表島の廃村・鹿川(かのかわ)のものなどが見られるといいと思うんですが、どこかに残っていないものでしょうか。」これに対して、即座にこんな答えが返ってきた。
あれは、田代安定が当時の山縣有朋内閣に提出した報告書でしょう。そのうちの何冊かだけが『琉球共産村落之研究』を書いた田村浩さんから渋沢敬三先生の手に入って、先生の「祭魚洞(さいぎょどう)文庫」に収められたのです。田村浩という人は、渋沢先生の友達で、沖縄へ赴任することになって「琉球へ島流しだ」としょげていたら、渋沢先生は「いや、またとない機会だ」とはげまされた。田代安定の報告の残りについては、あまり望みはもてないけれど、時間をかけて捜してみたらどうだろうか。
それから、地域がよくなっていくためには、地元から良いアイディアが出なくてはいけない。沖縄ならインドジャボクを薬用に栽培するとか、さまざまな可能性があるはずだ。自治省は、こういうプロジェクトに金を出す。経済企画庁だったら、金はあまり出ないが、地元の言い分は半分以上通る……。
もっといろいろお教えいただくことはあったはずなのに、当時の私には、先生のお話しを受け止めるだけの経験も、耳を傾ける力もなかった。移動大学のキャンパスにいるよりも、寝る所と食事が提供される「大三井協業」での仕事の手伝いの方に精を出す日々が続いて、それ以上宮本先生にお会いする機会を持たなかったことが悔やまれる。朝6時から夕方の7時まで働いたり、トウモロコシの畑の中から逃げ出したタヌキを見たり、牛肉をたらふく御馳走になったりしながら、農場の日々は過ぎていった。給料制にして、借金を返している協同経営についても少しは話をきいた。壁にはってあった次の言葉が今も心に響いている。
開拓者は
世間の人の
出来ないということを
やりとげる者である。
苦難は後日の楽しい思い出
失敗は面白い
批判はありがたい
何くそやるぞ
その後、宮本先生に学会の懇親会でお会いしてお酒をすすめようとしたが、「僕は旅の間の粗食のせいで胃の調子があまりよくないのです」といって飲もうとはなさらなかった。
今、私の手元には宮本常一先生からの2通の葉書が残っている。どちらも、武蔵野美術大学に先生が作られた資料室の展示を絵はがきにしたものだ。
ひとつは、1976年9月1日の消印があり、図柄は糸車だ。
暑中見まい多謝
私もこの夏沖縄へかけ足でいって来ました。ほんの二、三日の旅でしたが、宮古、伊良部、石垣、竹富、西表を訪れました。モクマオウとギンネムの木のはびこっているのにおどろきました。内地のセイタカアワダチソウよりひどい。ギンネムをなんとかしないとどうしようもなくなるのではないかと思いました。朝のうち石垣島を一周して、その午后の飛行機で石垣を経て、ナハから東京へかえり飛行機を利用すると沖縄が本土へあまりにも近くなっているのに驚きました。
宮本先生が御存命であったら、「開発」にともなうサンゴの海の破壊や、ジュゴンの棲む辺野古の海への米軍のヘリパット建設計画について、とくに、先生のふるさとの周防大島の目の前に計画されている原子力発電所などについてどのような意見を述べられただろうか。最近よくそんなことを考える。
そして、先生がなくなられる半年ほど前にはこんな葉書をいただいている。1980年8月25日の消印があり、しょいこの下にあてる「ばんどり」のコレクションの絵葉書だ。ほぼ1年前に「西表島の稲作:自然・ヒト・イネ」(安渓、1979)という論文をお送りしたことを、覚えていてくださったのはうれしかった。
まえに西表のすぐれたレポートを送っていただいて拝読して、すごく感激して手紙を出そうと思ったら、アフリカへいっていることに気がついてそのうちかえって来るのだからと思っていたらもうちゃんとかえっていることを暑中見まいで知り、さて私の方は例のごとくうろうろしていて何もかも事がはかどらずこの夏もおわりが近付いています。
何も彼も後から後から気のつくことばかり、貴兄の場合は今のうちにウンと貪欲にあらゆるものをたべておいてください。
ひといきに書かれた長い文章。あの宮本先生にして「何もかも事がはかどらず」という言葉に、病魔がすでに先生の肉体を蝕み始めていたのかと想像してみる。
西表島の人々と伊谷純一郎・渡部忠世両先生に導かれて書いた稲作の論文について宮本先生が何を書き送ろうとしてくださったのかはわからない。小論は、西表島の在来稲作の品種や耕作技術の自然環境との関係、昭和の始めに台湾から新しい稲の品種「蓬莱米(ほうらいまい)」がもたらされた後の生活の大変革のことなどについて、今思い出してもあきれるくらいの汗を流してまとめたものだった。例えば、水田の土の構造を勉強してみようと思い立って、7か所の水田の持ち主の了解を得て、深さ1メートルの穴を掘らせてもらうという、お百姓さんにとってはとんでもない「調査」(自分が田んぼをつくるようになって、ようやく気づいたのだが、すき床層に穴が開くとそこから水が漏って水もちが悪くなる危険がある)を実行した
ことがある。田んぼの泥の中でパンをかじりながら疲れて、自分の掘った穴に下半身を埋めたまま居眠りをするような作業を延べ7日の間くりかえした結果が、論文ではようやく掌ほどの図ひとつになるのだ。
後になって、「生態学的な視点を大切に」と晩年の宮本先生が主張し、生物の図鑑のコピーなどを持ち歩いておられたことを知った。単に生活の変化を受け身のものとして描くのではなく、民衆の生活を高めるきっかけになった技術についてもっと詳しく調べるべきだ……という先生の立場からの助言がもらえただろうと思うと残念であった。
私は、自分の興味の広がりや、やるべきことが自分の能力を越えるのではないか感じて途方にくれることもしばしばであるが、そんな時私は、宮本常一先生の葉書を取り出してみることがある。
ウンと貪欲にあらゆるものをたべておいてください……。ながめるたびに、宮本先生の語り口とあのくしゃくしゃの笑顔がよみがえり、新しい力が湧いてくるのを感じるのである。
引用文献
安渓遊地、1979「西表島の稲作:自然・ヒト・イネ」『季刊人類学』9(3):27-101、講談社
安渓遊地・安渓貴子、2000『島からのことづて――琉球弧聞き書きの旅』葦書房
宮本常一、1972「調査地被害――される側のさまざまな迷惑」『朝日講座・探検と冒険』7、朝日新聞社(1975『現代日本民俗学 Ⅱ』三一書房に再録)