環境問題講義録) #鬼頭秀一 + #安渓遊地 、1992年「 #デスマッチ から #ライブ へ ―― #環境教育 をめぐる表面的対立からの解放をもとめて」 RT @tiniasobu
2012/01/25
1/25 訂正:食べ物と暮らしの安全基金→食品と暮らしの安全基金
学用書房→学陽書房 でした。
添付のpdfも修正しました。
20年前の講義録が安渓のパソコンの中からでてきました。鬼頭秀一さんの了解を得
て、ここに記録として留めておきます。全文をpdfでも添付しました。
20年後の言葉のやりとり
鬼頭:安渓さんも私も、当時からあんまり変わっていないような気がするなあ。記
録としてとても重要かもしれません。
安渓:望遠鏡を縮めたように、子どもの中には将来の大人がいるのです。これは、
ジョージルーカスの言葉ではなく、ケストナーの『点子ちゃんとアントン』です。
デスマッチからライブへ
――環境教育をめぐる表面的対立からの解放をもとめて
鬼頭秀一(東大)・安渓遊地(山口県立大)
これは、山口大学の教養部の教員であった鬼頭秀一と安渓遊地が、1992年度に
共同でつくりだした3回の連続講義の記録です。1回目は、複数の教員が異なる立場
を強調してみせるタイプの講義で、遠慮や禁じ手なしに、暴力以外のあらゆる方法で
相手を打ち負かすことをめざす討論会です。山口大学の教養部では、こういう学生や
もぐり受講生や教員の乱入を奨励する対決講義をプロレスをもじって“デスマッチ”
と称していました。
鬼頭は、1993年3月末まで科学史の立場から現代の科学技術と社会のはざまの
問題の講義と総合コースの運営をしていました。安渓は、1995年3月末まで「人
と自然の人類学」の立場から環境問題についても講義していました。2人は、合計1
2人の教員で「いのちと環境」をめぐって思いのたけを述べるというオムニバス講義
(1992年後期)を共同で実施するためにお互いの研究を紹介しあう研究会やさま
ざまな打ち合せを進めていました。そんな2人が「ようし!学生たちの前で闘ってみ
よう」ということで“デスマッチ”をするようになったのは、教育の方法をめぐるく
いちがいからでした。
安渓は、「ゴミと人間」の旧受講生たちがなにか具体的にとりくみたいというので、
毎週1回、朝の7時半に集合して1時間キャンパスの内外の「ゴミ探検」をしてみた
り、また、広河隆一さんのチェルノブイリ写真展と原発で働いていたことのある人(
祝島の磯部一男いちおさんです)の講演をセットにしてアムネスティ・インターナショ
ナルの仲間たちとともに主催したりしていました。キャンパスを出て、教員以外の生
活者の話を学生が聞くという機会を学生に与えたいという願いからそういう会を自分
の講義の補講に指定したこともあります。そんなある日のことです。鬼頭が安渓を廊
下で呼び止めました。
鬼頭「ちょっと聞いておきたいんだけど、安渓さんは、学生たちが広瀬隆の『危険
な話』を聞いた主婦たちのように街に出て行ってデモしたりするような講義をめざし
てるの?」
安渓「んー、そうなりゃ最高じゃん。(独白。半年もすれば忘れてしまうような、
頭にばかり語りかけるような大学教養教育の中で、ほんの少しでも学生のハートに働
きかけて意識を変える講義できたらいいなと願っていて、その結果が具体的な行動に
つながるようなら、大学の講義にしては上出来と思うという意味なんよ。「理解から
納得、納得から体得へ」という環境学習の王道なんだけど、関西人はそんなに長たら
しくややこしゅう説明せぇへんのですわ。)」
鬼頭「そう! それなら、僕とあなたとは教育論がまるで違うな。僕はそういうの
は大学の講義でやることとは思わない。」
安渓「ほお、面白い。こんど二人で学生の前でやりおうじゃないの。」
鬼頭「よぉし、次の『地球環境と人間』の時間を提供するから、徹底的にやりあっ
てみようか。」
安渓「あなたが世話をしている『りべらる・あーつ』(山口大学教養部内にあった、
パソコン通信ネットワーク、当時の接続スピードは毎秒100bitか300bit)でも
宣伝して、学生や教員のモグリを奨励しよう。」
◎“デスマッチ”本番
1992年6月10日、いよいよ二人の対決の日が来ました。レフリーには、経済
学の教員の植村高久さんをお願いし、200人ちかい学生を主体に、同僚の教員たち
や3人のモグリ受講の社会人の女性たちも参加してにぎやかに始まりました。
鬼頭は、地球環境問題というものは、複雑にからまりあった問題群であって、例え
ば原発反対のようにひとつのことにだけ注目して、反対を叫んでも解決されるような
ものではないと指摘して、やみくもに行動をよびかけるような某教員の非を指弾しま
した。
安渓は、鬼頭の理路整然たる議論の展開に対抗するために、参加者の心に働きかけ
る手法(いわゆるマインドコントロールですな)に訴えることにして、鬼頭の足下を
掘り崩そうという路線をとることにしました。具体的には、次のような質問から始め
ました。
受講者への質問「地球環境問題の解決のためには、日本人なら例えば1960年ご
ろの生活をすればよいとよく言われます。ところが、『今の生活水準を下げろといわ
れて、納得する人は少ないと思うし、まして実行にうつせる人は例外だ。』という根
強い意見があります。それについてあなたはどう考えますか?」
質問への答えを書いてもらったあと、約3分間のビデオを見せます。その間に教室
をまわって、約200枚の答えを集め、ざっと目を通します。その結果、予想通り「
頭ではわかっていても行動にうつすには勇気がない、無理だ」というような意見が大
半をしめていることを確認します。見せたのは、小若順一さんの日本子孫基金(現在
は食品と暮らしの安全基金)ビデオ『ポストハーベスト農薬汚染』(学陽書房)の
冒頭部分でした。
・『ポストハーベスト農薬汚染』のかわいそうなレモンたち
輸入レモンにものすごい回数の様々な農薬がかけられている現場の映像です。ベト
ナム戦争で枯葉剤として撒かれた2ー4Dや、精子形成を阻害するため避妊薬として特
許がとられているイマザリルという物質なども使われていることなど、これまで隠さ
れてきた事実が、小さなNGOの3年間の取材を通して映像として明らかにされます。
これを見たあとで、あらためて会場から意見を求めますと、さっきとはかなり違う
反応です。
「この事実を見てしまったら、もう輸入レモンは食べたくない」とか、「食べられ
るものがひとつ減りました」といった感想を多くの学生がもちました。
安渓は、この例をもって「本当に納得できるほど深く知ることができるならば、そ
の結果は行動に反映してくるはずのものである」と主張しました。このことをもっと
端的に印象づけるために、津和野の亀井記念館に掛かっている孫文の揮毫「知難行易
(知るは難く行なうは易し)」を黒板に書きました。
ここで、行司であったはずの植村さんがしゃしゃり出てきて、安渓への批判を始め
ました。地球環境問題を扱うのに、こういう食べ物の話というのは関係がない、論点
のすり替えだというのです。一瞬、相撲のとりくみの最中に後から軍配で殴りつけら
れたような気分に陥りましたが、これはきっとバトルロイヤル方式のプロレスなので
あろうと考えて、断然反撃することにしました。
現在行なわれている地球環境問題の議論の多くには共通の欠陥があります。それは、
自分の等身大の問題と考えるのでなく、地球大の巨大な問題として論を建てることで
す。個人としての、生活者としての実感から遠い評論家的なことばをいくらつみあげ
たところで、なんの解決の糸口もつかめないのではないでしょうか。ポストハーベス
ト農薬汚染の問題は、ひとりの消費者としてのなにげない毎日の生活の中に、身体や
環境への深刻な汚染をもたらすものが隠れていることをあらためて我々に気づかせて
くれるものです。
評論家の立場からいろいろ発言する人のいうことはあまり鵜飲みにしないほうがい
いようです。その中にはもちろん大学の教員が含まれるわけです。その他、教科書や
新聞やテレビもぜったいそのまま信じ込まないようにした方がいいでしょう。一度で
いいから取材されてみると現場から記事までのつながりのいいかげんさがわかるかも
しれません。
鬼頭は、「レモンを食べないだけのことでは、ポストハーベスト農薬汚染の問題や
地球環境問題は決して解決なんかできない」と指摘しました。植村さんも、もっと全
体のシステムを改めるようにする努力をこそするべきで、安渓のように個人として趣
味的に取り組めることには自ずから限度があると批判します。
・西表島の無農薬米の産直による環境保全へのとりくみ
じつは、それまで安渓は、地球環境の未来について暗い、皮肉な話ばかりをしてき
ました。例えば「人間が滅びると喜ぶ生物が多いかもね」などのように。でも、19
90年ごろを境に変りました。希望を語るようになったのです。ひとことで言えば明
るくなったわけです。人間としての生きかた自体が変りつつあるので、それが自然に
講義にも反映してきたと思われるのです。それは、沖縄の西表島と出会いがきっかけ
でした。島の生活誌の勉強にいくうちに、島の自然環境と人間の暮しを守る無農薬米
の産直を手伝うはめになったのです。
まず、ビデオ『ヤマネコ印・西表安心米の挑戦』から3分ほどを抜粋で見ました。
お米の産直は、島おこし運動であり、商業行為です。そして、農協や食糧事務所や
自由米業者やサギ師たちから農民を守る直接的な闘いです。その運動のきっかけを投
じ、その運動にいやおうなくまきこまれた結果、大学の教員というわくにこだわって
いられなくなりました。
できるともできないともわからない明日のことをくよくよ心配するより、今日でき
ることに気付けばそれをする。そういう基本姿勢ができました。そして、気がついて
みると、それぞれに場所でいろいろな取組みをしている人達とのネットワークができ
ていたのです。ですから、真に学んだ結果をふまえて、個人としてできることをして
いく、という立場は、けっして地球レベルの広がりをもたない自己満足にはとどまら
ないのだ、と述べて安渓は、意見発表を終わりました。
・「ライブ」こと協同講義の提案――安渓からのメール
以下は、山口大学教養部のパソコン通信『りべらる・あーつ』の通信内容からの抜
粋です。1992年6月11日付けでアップロードされた、安渓から鬼頭へのメール
です。かっこ内は、補足です。
鬼頭さん、デスマッチお疲れ様でした。私も疲れた。
鬼頭さんは、デスマッチのあと、研究室についてきた学生さんに約1時間にわたっ
て、噛み付かれたそうで、そうとうな深手を受けられたようでした。再起を期待しま
す。
私も、三人のモグリさんの一人を『[自称18歳の]オバサン』と呼んだのは『オバ
タリアン』を連想させてひどいといってひとしきり糾弾されました。そして、[人権
についての本は研究室にあるけれど]、フェミニズムやメンズリブについてもっと勉
強するように、といって小倉千賀子さんの本やらを何冊か貸していただきました。
さて、対決を終えての感想ですが、いかにして世の中に働きかけるのか、という方
法論が少しちがっているだけで、私は、鬼頭さんの論旨にほぼ全面的に賛成です。おっ
しゃるとおりです。そして、なぜ、正しいはずのことがなかなか行われないのか、と
いうところをともに反省していくべきだと思います。
そこで提案です。こんどは、表面的対立ではなくて、協力しあってみませんか、わ
たしが、感性を呼び起こすワークをします。あなた(鬼頭さん)は理路整然と何が大
切で、どういう問題があり、どのような解決が考え得るのか、どのような解決策はだ
めなのか、ということを、あーであるこーである、と述べる。(あーでもない、こうー
でもないでなく。)これを交互にやって、最後に学生さんたちからの質問に応えると
いうのはいかがですか。
私が考えたテーマは、以下のようなものです。
安渓 まゆつば技術論(まゆにつばをつける技術。えせ情報にだまされないために)
鬼頭 地球環境問題の本質(生きる権利の侵害だと安渓は思うが)
鬼頭 科学技術批判(科学者・学者の反省として)
安渓 生活の質を問う(科学文明の軟着陸、安楽死へのシナリオも考えたい)
分担は、それぞれのテーマについて口火を切る人を書いてみました。
よくねって、こんどは、二人が束になると、どのくらいのインパクトをあたえうる
か、やってみませんか。総合コースはまず2人から。(2人の教員で総合できなけれ
ば、3人以上のオムニバス講義がまとまった内容あるものになるはずはない、という
意味です。)
事前に半日くらいかけて準備し、言葉や、映像や音をえらんで、2コマ分を準備し
ませんか。
・「徹底討論 安渓 vs 鬼頭(6月10日)」を終えて――鬼頭からの公開返信
1.学生さんの感想文を読ませて戴きましたが....
安渓さんに共鳴する学生さんと鬼頭に共鳴する学生さんがほぼ半々です。
安渓さんに共鳴する学生さんの意見は、おおむね、行動派としての安渓さんに共鳴
して、グローバルの議論とか、机上の議論はもういい、これからどうやって身近なと
ころからやっていくかというようなものが多かったです。
鬼頭に共鳴する学生さんの意見は、安渓さんが議論においてきちんと答えていない
というものがありました。また、身近の議論だけではいけない、もっと大きなところ
から見つめたいというものでした。
全体的な評価としては、とても刺激的だとか(まあ、なかなか教員同士の議論は聞
けませんものね)、面白かったという意見が多かったのですが、全体として論点がぼ
けていたとか、まとまりがなかったとか、そういう内容に関する批判も結構ありまし
た。これについては簡単に釈明します。少数でしたが、ぜんぜん詰まらなかったとい
うのもありました。ごめんなさい。ただ、理由はやはり内容的にまとまりがなかった
ことに対する批判でありました。
2.なぜ、議論がかみ合わないように見えたのか
一つは、当初議論しようとしていた主題の多くが結局論じられなかったということ
ですが、時間の問題とか、議論の流れでもうしわけないが仕方がない点もあります。
不満はあるでしょうが了承してください。この点についてはまた、別の機会を設けて
やります。以下参照。
もう一つは、かなり意図的なことであります。鬼頭は議論で詰めようとしましたが、
安渓さんはそれを一見はぐらかしのような形で回避されました。これは、二つの土俵
の対決なのです。鬼頭の議論に対して議論で詰めれば安渓さんは結局鬼頭の土俵の上
で戦わなくてはなりません。しかし、こと環境問題に関しては、議論の形でアプロー
チする以外にそれとは別次元のアプローチがあります。どちらがいいとか悪いとか議
論は出来ますが、その二つのアプローチがあって、それも含めて今の環境問題を広く
捉えていくことが必要であることは事実です。今回の議論は、まさにその二つのアプ
ローチの戦いであり、違う土俵の戦いであったわけです。そのために、あのような形
になりました。実は、議論の方のアプローチとしては、なかなか全体の講義の中でも
できないので、もう少し詰めて議論した方がいいという点もありますが、今回はもっ
と大きな視点として、二つのアプローチの存在を理解して戴けたらいいのではないか
と思います。
3.続編をという声に応えて
そうです。皆さんには、この二人がまったく別の方向を見ているように見えたかも
しれませんが、実は、大きな点に関しては、同じことを別な形で表現しているに過ぎ
ないと言ってもいいのです。もちろん、細部においては、意見の対立はあります。そ
こで、その場合、「対決」という形式も面白かったが、「共同作業による講義」とい
うのもおもしろいのではないでしょうか。「対決」よりも「協同」というやり方から、
今度はなにが見えてくるでしょうか。
ということで、時は、6月27日(土)8時40分~11時50分に教養2番教室
で行います。これは、安渓さんの「社会と人間」と、鬼頭の「人間環境論」の合同補
講講義です。両方の受講者300名近い学生さんが来ます。出入りは自由です。前回
の続きが見たいかたは、どうぞお越しください。また、違う世界を覗くことが出来る
でしょう。
私の問題提起の課題は「地球環境問題の本質」と「科学技術批判」になっています。
これでいきます。
副題としては、
前者は《ローカルな公害問題からグローバルな地球環境問題が見える!「地球にや
さしい」って、「自然を保護する」ってなあに?》、
後者は《われわれはわれわれにとって必要な科学をいかに得ることが出来るのか?》
ということにしておきます。
前回議論したかった本質的部分がこの二つです。前者については少しは話しました
が、後者の問題は議論したかったのに出来なかった部分であります。この二つの問題
は、前者は、安渓さんの「生活の質を問う」に密接に結びつきますし、後者は、「ま
ゆつば技術論」に結びつきます。交差して重なる点もあるし、違う点もあり、微妙な
関係を表現できればと思います。
「食」の問題と「環境問題」がどう結びつくのか分からないとか、単に健康食品グ
ルメではないかという意見もありましたが、その点は、おそらくもっとはっきり明ら
かになると思います。なぜなら、実は「食」の問題は、現在の時点で、「環境問題」
の本質的問題がいちばん典型的に現れているからです。それは、単に安全性の問題だ
けではありません。文化の問題や経済の問題も含めて環境問題を論じる際に重要な点
が含まれています。
・ライブ本番へのお誘い
1992年6月27日土曜日8時40分~11時50分の2コマを使って共同講義
をすることにまとまり、パソコン通信「りべらる・あーつ」を通して学生の参加とモ
グリ受講や、教員の参加を呼びかけました。
「社会と人間(安渓)」+「人間環境論(鬼頭)」の1粒で2度おいしい補講。先
日「地球環境と人間」のデスマッチ講義で徹底的に対立し徹底的にすれちがった2人
の教員が、こんどはお互いを活かしあい、ともにあなたに語りかける道をさぐるライ
ブ! 若人よYOUNG-AT-HEARTよ、このマッチに乱入せよ!
最後に学生さんやモグリの学生さんからの質問に応える時間をとりますが、いつで
も乱入してくださってけっこうです。それが面白ければ、このシナリオは途中からそっ
ちにきりかわります。
前半 この世界をどう認識するのか、
その方法(安渓)と
見取図(鬼頭)
後半 この世界を変えることは可能か、その方法は?
この世界を変えることは難しいが、それはなぜか(鬼頭)
”わたし一人から”という要素がなければ絶対に変えることはできない(安渓)」
◎ライブ本番の記録
第1部 まゆつば技術論入門 担当 安渓
「眉唾」とは狐や狸にばかされないように自分の眉に唾をつけるという古くからの
習慣です。この技術は、1)自分ひとりでできる、2)他への攻撃を含まない、3)
だめでもともと、という優れた特徴をもっています。地球環境問題についても、多く
の情報が流されていますが、その多くは眉唾ものです。そこで、この伝統技術の復興
をめざすべく、まずその適用範囲を明らかにしてみましょう。
「まゆつばの技術」によってあなたは、身のまわりにあふれている1~3の危険を
避けることができるかもしれません。でも、この技術は4番目の危険にはほとんど無
力であるという限界があることも知っておかなければなりません。
1.悪意――意図的にコントロールされた情報とその背景をみぬく力をつける。情
報の意図的コントロールの背景には「もうけるよろこび」「いばるうれしさ」「差別
し殺すたのしみ」という3つの動機があるのではないでしょうか。点検してみましょ
う。
2.善意――地獄への道は善意で舗装されているとか。情報を流す側がそれが正し
いと信じている場合には、悪意による場合より対処が難しくなります。
3.無知――知らぬが仏です。情報の判断を停止してしまった人や機関が同じ間違
いを繰り返し流し続けると、いつの間にかそれが本当のようになります。知っている
つもりでも取材の現場まで知っていることはめったにありません。
4.無意識界への働きかけ――例えばサブリミナル広告やマインドコントロールと
いった攻撃には、なかなか対抗できません。
まゆつば技術論のための文献
【本多勝一、1984『事実とは何か』朝日新聞社 \500ぐらい】「払う必要のないN
HK受信料を払っている人々のために」など必読文献あり。
【1985『指紋押捺拒否者への「脅迫状」を読む』明石書店 \1000】異民族を差別す
ることへの日本人のあくなき情熱がよく出ている本です。
【槌田敦、1992『原発安楽死のすすめ』学陽書房 \1600】今さわがれているCO2
なんかの問題は、実は石油間接発電にすぎない原発推進を隠すための煙幕だ。落ち目
の原発を粗末にすると怖い。金と人手をかけて安楽死させてあげよう。
【『現代農業』1989年11月増刊号『もうひとつの地球環境報告』】
【槌田敦、1992『環境保護運動はどこが間違っているのか』JICC \980】牛乳
パックは燃やしなさい。リサイクルは地球にやさしくないことがある。再生紙の陰謀
を知っていますか。あなたの「やさしさ」や科学技術への信仰を撃ちくだく。
第2部 科学技術と環境問題 鬼頭担当
1.科学技術は地球を救えるか?
アニメ『宇宙戦艦ヤマト』は、放射能で汚染された地球をきれいにすることができ
る「コスモクリーナー」という機械を宇宙のかなたイスカンダル星へもらいに行くと
いう内容でした。地球環境問題の解決にあたって、あなたは科学技術にこうした期待
を寄せてはいませんか?ところが、「コスモクリーナー」のような機械が存在しえな
いことは、エントロピー増大の法則(熱力学の第2法則)によってすでに1世紀近く
前に明らかにされていることなのです。科学がいくら進歩してもこの法則を乗り越え
ることはできません。ですから、科学技術や科学者にあまり過大な期待をいだくこと
はSF以外では考えものです。
しかも、今日の科学技術には「暴走する」というこまった性質があるのです。例え
ば、全人類を何百回も絶滅させられるだけの核兵器を科学者たちが作ってしまうとい
う事態ひとつ見ても、そのことは容易に理解できると思いませんか。暴走する科学技
術に未来はないのです。科学技術がなぜ暴走するのか?については、吉岡斉【『科学
文明の暴走過程』海鳴社】と【池田浩士、天野恵一編『科学技術という妖怪――検証
[昭和の思想]3』社会評論社】が参考になります。
A)科学研究の内部合理性
科学者の科学研究は、論文を生産するという行為につながります。論文を多く生産
すると博士になれたり教授になれたり、賞がもらえたり、というメリットシステムが
そこにあるのです。つまり、その科学研究の結果がどういう社会的な意味をもつか、
という観点が二の次になって、論文生産にいそしむということができるのです。
科学研究は一種の「パズル解き」に過ぎません。「目的」はなくても、また間違っ
ていても「パズル」を作ったり解いたりすることは面白い。そして、うまい「パズル」
を作ったり、上手に解いたりすると、仲間うちから賞賛されます。これが、科学研究
のもつ「内部合理性」です。科学研究では「分かること」しか研究できず、「分から
ないこと」はそもそも研究できないのですが、その意味がお判りになりますか?この
あたりのことについては、【柴谷篤弘『あなたにとって科学とは何か』みすず書房】
【柴谷篤弘『反科学論』みすず書房】や【村上陽一郎『「科学的」って何だろう』ダ
イヤモンド社】にあたってください。
B)科学の産業化
科学技術の営みには、「内部合理性」の他にもうひとつの一般民衆の生活から遠く
離れた「合理性」があります。それは、「産業合理性」と呼ぶべきものです。しかも、
環境汚染や遺伝子を組み替えた細菌などがまきちらされるといったバイオハザードを
とおして、大衆の生活への影響力はますます大きくなる傾向があります。ラヴェッツ
はこれを「ビッグプロジェクトの科学」と呼んでいます。
産業合理性の中では以下のような科学の類型があらわれてきます。
1)手抜き科学――単なる業績稼ぎのための研究。産業合理性の中では、投資効果
が絶えず問われるためにどうしても論文のインフレがおこります。
2)企業家的科学――「役に立ち」、「金もうけに直結する」科学研究。
3)向こう見ずの科学――一種のショー・ビジネスとしての科学。常温核融合さわ
ぎもここに入るでしょう。
4)汚れた科学――より多く、より安く人を殺すための軍事研究など。
【ラヴェッツ『批判的科学――産業化科学の批判のために』秀潤社】は「批判的科
学」を提唱します。【ディクソン『何のための科学か』紀伊國屋書店】も参考になり
ます。
C)科学と国家・軍事
科学技術は政治と結びついたとき、実際にはまったく経済的になりたたない技術で
あっても、経済行為の「ふりをしている」科学技術となります。ことに国策技術、国
家技術となった科学技術には、その傾向が強く、原爆を開発したマンハッタン計画や、
核廃棄物のもっていきどころのない原子力発電所などがその代表例です。マンハッタ
ン計画では、その計画の真の目的と全貌を知っていたのは、科学者のリーダーのオッ
ペンハイマーともうひとりの将軍の2人だけでした。その他の科学者たちは、目的は
わからないけれども、例えば高温に耐える金属の開発などの個別のテーマについて研
究するように指示され、莫大な研究費が使えました。科学者たちは、「あんなにわく
わくして楽しい時期はなかった」と正直な回想をもらしています。
原発と科学技術との関係については、【高木仁三郎『危機の科学』朝日新聞社】と
高木仁三郎『科学は変わる』社会思想社・教養文庫】を、国策科学については【吉岡
斉『テクノトピアをこえて』社会思想社】挙げておきます。
2.暴走する科学技術にわたしたちは何ができるか?
わたしたちが何をできるか考えてみましょう。暴走しない、私たちの科学をとりも
どすことをめざす【ファイヤアーベント『自由人のための科学』新曜社】が参考にな
ります。以下は、いろいろな立場の人々に対する提案です。
科学行政に携わる側にまわる人には――どういう分野に重点をおくか、という科学
の「前線配置」の組み換えを!
科学技術者になる人に対しては――「もう一つの科学技術」の模索を!
科学技術に直接関係ない人に対しては――だまされないようにしよう!
【奥野良之助『生態学入門――その歴史と現状批判』創元社】は、生態学が環境問
題を解決しないこと、それどころか、むしろ「害毒」を流す側に利用されるという現
状になっていることをするどく指摘しています。
また、科学が差別を正当化するために使われてきたことが、【グールド『人間の測
りまちがい――差別の科学史』河出書房新社】を読むとよくわかります。
3.科学技術に新しい方向性はあるのか?
科学技術が暴走とは違う道を歩みうるとすれば、どのような現状と違う道がありう
るのでしょうか。そのために、「もう一つの科学」の可能性と新しい「前線配置」の
可能性をさぐってみましょう。
ATという言葉があります。Alternative Technology(もう一つの技術) とか Ap
propriate Technology(適正技術)の略ですが、ATの模索の動きは、1965年ご
ろから具体化しています。ATの古典としては、【シューマッハ『スモール・イズ・
ビューティフル』講談社学術文庫】が必読で、新しいところでは【ディクソン『オル
ターナティブ・テクノロジー』時事通信社】と【里深文彦『もうひとつの科学――も
うひとつの技術』現代書館】があります。
「ルーカス・プラン」をごぞんじですか。これは、NASA(アメリカ航空宇宙局)
の仕事が減るなかで、途方のないエネルギー生産の膨脹を必要とせず、長期的な雇用
の増大をもたらし、実際の社会的必要を満たすことに重きを置くような戦略への労働
組合を中心としたとりくみを指す言葉です。1973年からのLucas Aero Space (宇
宙産業) の労働争議による命名ですか、わたしたちも恩恵を受けている効率の高い暖
房方式のヒートポンプなどもこの「ルーカス・プラン」から生まれたものです。参考
文献として、【ウエインライト&エリオット『ルーカス・プラン――「もう一つの社
会」への労働者戦略』緑風出版】があります。
4.そもそもわれわれにとって科学技術とは何か
「われわれにとって必要な科学をいかに得ることが出来るのか?」という問い掛け
は、もっと個人的でより根源的な「わたしにとってどうしても必要な科学技術は何か?
」として考えてみることができます。その点で【高木仁三郎『わが内なるエコロジー』
農文協】は科学者の真摯な内省をあらわしています。
5.科学技術は変わりうるのか?
変わりうる!これが鬼頭の返事です。現在の科学技術の評価システムから外れた数
多くの模索している科学技術者たちがいます。それらの人々は、在野の科学者であっ
たり、アカデミズムの昇進のシステムから外されていたりするわけですが、やはりこ
こに科学技術者がいるということを強く感じさせてくれる活動をしています。それら
の科学者の例として高木仁三郎、槌田敦(【『資源物理学入門』NHKブックス】)
村尾行一(【『人間・森林系の経済学』都市文化社】)最首悟(【『生あるものは皆
この海に染まり』新曜社】)等々が挙げられましょう。
第3部 この地球環境問題に出口はあるか? 鬼頭担当
簡単に答えを出してしまう前に、まず、出口に一番近い道はどこ?ということを模
索してみましょう。そのためには、「地球にやさしい」って、「自然を保護する」っ
てなあに?ということを考え直してみる必要があります。「グローバルな地球環境問
題がローカルな公害問題から見える」という事実にも注意を払いたいものです。
考えなおすための手がかりとして3冊の本を紹介します。【『地球環境・読本――
あるいは地球の病いについてあなたが間違って信じていること』(別冊宝島101)
JICC出版】【『もうひとつの地球環境報告』(『現代農業』1989年11月増
刊号)】【市川定夫『総覧地球環境』(FOR BEGINNERS シリーズ)現代書館】
1.環境問題は資源の枯渇ではなく資源の過剰が問題である
よく原油の枯渇の恐れが危機だなどということが言われますが、これは、大嘘です。
むしろ、大気の汚染や海の汚濁といったエントロピーの増大がとりかえしがつかない
ほど進みすぎたのに、まだまだ燃やす化石燃料があり、人間は燃やし続けていこうと
している――これこそが、本当の危機です。【河宮信郎『エントロピーと工業社会の
選択』モナドブックス 海鳴社】
2.「生活者にとっての森、観察者にとっての森林」問題
「開発か、保護か」の二分法で単純化してものごとを考えることがよくあります。
しかし、これは大変に怖いことではないでしょうか。たとえば、アイヌ民族への差別
的な法律が現在も生き残っていて「北海道旧土人保護法」という名前になっているこ
とを考えてみてください。言葉ではなく、いわゆる「開発」やいわゆる「保護」の中
身をこそ問題にしないといけません。
熱帯林をくいつぶす日本人必読の本があります。【イブリン・ホン『サラワクの先
住民――消えゆく森に生きる』法政大学出版局】です。環境や資源を大切にすると称
して、いかに先進国の論理で人口抑制政策が取られてきたのかを【マンダニ『反「人
口抑制の論理」』風濤社】は示しています。少数民族・先住民族への生きる権利の侵
害という視点から環境問題を見直す必要があるということでしょう。
3.グローバルな地球環境問題から見えなくなるもの
環境問題は、有害廃棄物や公害の輸出という問題や水俣病などの日本の公害といっ
た地域に密着した視点からみていくべきです。とくに被害者の立場にたつと、宇宙船
地球号といったものの見方からは見えない多くのことが見えるようになります。
日本の公害とその輸出についての文献を選んでおきます。【日本弁護士連合会『日
本の公害輸出と環境破壊』日本評論社】【市川定夫『新公害原論――遺伝学的視点か
ら』新評論】【原田正純『水俣は終わっていない』岩波新書】【原田正純『水俣が映
す世界』『水俣にまなぶ旅』日本評論社】【宇井純『合本――公害原論』亜紀書房】
【飯島伸子『環境問題と被害者運動』学文社】
4.わたしは、そしてあなたは、どのようして環境破壊と結びついているのか?
最近、日本人は莫大な量のエビを消費するようになりました。バナナも戦後かなり
長い間、かなり高価な貴重品でした。それらが、現在ではわたしたちの食卓にひんぱ
んにのるようになったわけですが、その陰で、広大なマングローブ林が切り倒されて
エビの養殖場にされたり、バナナがフィリピンの労働者のきわめて苛酷な労働のもと
に安く生産されたりしています。そのことがわかりやすく書かれた本として【村井吉
敬『エビと日本人』岩波新書】と【鶴見良行『バナナと日本人』岩波新書】などがあ
ります。
5.「やさしくされるべき地球」「保護されるべき自然」なのか?
「地球にやさしい」という言葉はずいぶんうさんくさいものですね。人間が自然か
ら独立した存在で、自然を「保護」する力があるという考え方ですが、むしろ、人間
との関わりの中にある自然、その関わりの仕方が問題であると考えられます。前にも
挙げた【奥野良之助『生態学入門――その歴史と現状批判』創元社】と【村尾行一『
人間・森林系の経済学』都市文化社】を参照してください。
6.そして出口はあるのか?
地球環境問題の出口に一番近いのは何か?それを考えてみましょう。そのための大
前提は、環境破壊と結びついている「わたし」を「知る」ことです。
いかにして本当に「知る」ことができるのでしょうか? そのパイプはどこに?
また、安渓がよくいう「マユツバ」にだまされないためにはどうすればいいのでしょ
う?さらに、出口を「知る」だけでは、出口からでることはできません。行動が必要
です。でも、あまりがんばって無理をしないことが大事でしょう。禁欲主義でがまん
をしたりしても長続きしないでしょうから。長く続けられる継続性こそが必要だと思
うからです。
ひとりひとりの置かれている状況のなかで「わたし」を変えられるオプションは違
います。しかし、できることはあるし、そういう努力のなかに出口も確かに見えてく
るし、そこから出る可能性もあるのです。
第4部 生活の質を問う 安渓担当
ある学生が、こんなことを感想用紙に書いてくれたことがあります。
自分は、幼稚園の時から
「勉強しなさい」と言われて育ちました。
それは、人よりもいい小学校へ行くためでした。
そして、小学校の時には、
人よりいい中学校へ行くために勉強しました。
高校に行って、人よりいいかどうかしらないけれど、
偏差値のつごうで山口大学にきました。
僕の人生のこれからを考えてみると、
いい会社に就職できるように大学ではがんばって、
会社に入ったら、人より速く出世できるようにがんばる。
このあとは、定年になって、
そのあとはええーっと。
そうだ!
僕の人生の最終目標は
「人より1ランク上のりっぱなお墓」だ!
よりよい明日のために今日を犠牲にするという生活を続けるかぎり、このレポート
の発見した「1ランク上への発展」の道筋をはずれることはとても困難のように思わ
れます。しかし、それは「私ってこれでほんとにシアワセかしら?」と思いながら追
い立てられ続ける一生を過ごす道でもあります。岡庭昇は、産業兵士=社畜というき
びしい言葉を使ってこういう道を批判しています。つまり、日本人の生活は量的には
いちじるしい拡大を見ました。しかし、「生活の質(quality of life)」という観点
から見た時、ちっとも満足が得られないというのが多くの人の率直な印象でしょう。
そして、私たちの生活は、他の多くの「いのち」を踏みつけにして始めて成立してい
るのです。
安渓は、環境問題は、基本的に人権問題として理解できるという立場をとっていま
す。例えば、熱帯林の伐採と環境の汚染は、地球の大気に与える影響もさることなが
ら、まずはそこを住み家としてきた先住民族の「くらしといのち」の重大な侵害であ
るという事実から入るべきだと考えるのです。わたしたちがなにげなく買うカラーボッ
クスや、ビル工事などで大量に使い捨てにされているコンクリートパネルなどは、安
価であるために熱帯材が主として使われています。そういう身近な風景の向こうに、
ゆたかな熱帯の森に生きてきた人々や、動物植物などの多くのいのちたちが傷つけら
れていることが見えますか。その感受性をもつことができるようになって始めて、大
学まで来て環境問題を学んだ意味があると思うのです。
2部と3部で鬼頭が指摘したことは、科学技術と科学者が、人間のしあわせのため
という目的を忘れて暴走していくというシステムの存在であったと安渓は理解しまし
た。そして、その暴走システムは、絶え間ない成長を必要とするわれわれの経済に支
えられた機械文明のとめどない暴走の一部であるわけです。日本人は、このところ毎
年約5億トンのものを輸入し、1億トンを輸出し続けているといわれます。おおざっ
ぱに見て国民ひとりあたり4トン近い廃棄物と廃棄ガスなどがその差として残ること
になりますね。
安渓は、いまここでできる「暴走しない生きかた」をいくつか提案してみたいと思っ
ています。それはなにかを我慢することではなく、毒物・劇物をなんどもまとわされ
た果物を食べたくないと思うように、自然にそのように行動できるということで、そ
んなに大きな決心がいることでもないのです。
唐突ですが、ちょっとでもいいから、自分で土を耕してみませんか。安渓の家では、
『ポストハーベスト農薬汚染』のビデオを見たショックから畑を借りてサツマイモを
作り始めて、いまでは150坪の水田と150坪の畑をつくるにいたっています。そ
ういうなかから、この科学技術文明の軟着陸へのシナリオを考えてみたいものです。
まだまにあうかしら、と懐疑的・絶望的になることはありません。まだ間に合います。
その道は、暴走族である「みんな」と違うことをする道です。でも本当は「みんな」
なんてどこにもいないんです。この列島に同時代を生きる「在日地球人」のひとりと
して自分のくらしを足下から見直していくという動きの中にこそ地球環境問題の真の
解決の道があると信じています。
共同講義の終わりに、安渓は部屋の電気を消して小さな木の笛を吹きます。曲は「
コンドルは飛んで行く」だったかな。電気がなければ人間としての幸せはないんだと
いいかねない電力会社などの巨大な宣伝に対抗するワークですが、どんなCDでもど
んなに高いアンプを使っても、人間が出す生の音そのものを出すことはできないとい
う事実に気づいてもらおうと願い、目を閉じて3分もたつと昼間の部屋の中が暗いと
は思えなくなるという生理的反応を楽しんでもらったのでした。
「社畜」への道を脱して生活をみなおすための文献
【L.J.ピーター、R.ハル、1970『ピーターの法則』ダイヤモンド社】昇進社会では
いつか自分の能力を越えるポストにつかされます。その時のために今のうちに準備を!
【岡庭昇、1991『亡国の予言』徳間書店 \1300】いいかげんに無知・無告の産業兵
士(サラリーマン)なんかやめてしまえ!
【中島正、1992『都市を滅ぼせ』日本協同体協会 \800 1995『都市を滅ぼせ』舞
字社 \1700】環境破壊(地球公害)は都市機能の活動そのものである。都市こそ諸悪
の根源。
【津野幸人、1991『小農本論――誰が地球を守ったか』農文協 \1600】大学教員が
第3種兼業農家(農収入ゼロ)になって、蜂や鳥と交流する!
【星川淳・加代子、1992『リヴ・グリーン――地球生活書』3、ほんの木 \1800】
みどりに生きるアイデア満載。生命の躍動する屋久島からのメッセージ。
◎番外編 「大きな環境派」対「身近かな環境派」が激突
それから半年。パソコン通信「りべらる・あーつ」の上に、またまたデスマッチの
お知らせがのりました。
総合コース「地球環境と人間」《植村 vs 安渓》デスマッチのお知らせ
上記総合コースでは、「身近な環境と大きな環境の関係をどう考えるか」というこ
とをテーマにして、教員間の討論会を計画しています。本来は11月4日と11日の
2日あったのですが、残念なことに4日は大学祭の後片付けで休講になっています。
残された11日だけで行います。
日時:1992年11月11日(水)10時20分~11時50分~?
場所:教養27番教室(いつもは指定席制ですが、当日は自由席にしますのでご自
由にお座り下さい。)
参加者:植村高久(教養部・経済学)+安渓遊地(教養部・文化人類学)
その他教養部教員およびモグリ学生多数 司会:鬼頭秀一
プログラム:10時20分~10時40分 無農薬運動やリサイクル運動では地球
は救えない!
社会システムから見た環境問題――《大きな環境》派 代表 植村高久10時40
分~11時00分
クラ~イ未来の話はもうたくさんだ! あなたが変われば世界は変わる――《身近
かな環境》派 代表 安渓遊地 11時00分~
デスマッチと会場からの乱入で会場騒然、負傷者続出!?
なお、各報告のタイトルは世話人の方で勝手につけました。当日の話は違うかもし
れません。多数のご参加をお待ちしています。
総合コース「地球環境と人間」世話人 鬼頭秀一
・デスマッチの意味――番外編の付録として
安渓は、植村さんとの討論の結果を鬼頭さんとのやりとりほどよく記憶していませ
ん。ただ、地球規模で動いている経済や科学技術の全体のシステムというものを十分
理解しないでおいていろいろ動いてみても無駄なことであるという安渓への批判があっ
たように思います。その点については、年があらたまった1月に安渓が世話人をする
総合コース『いのちと環境』で話していただいたことの中から、植村さんの次の言葉
を抜粋して引用しておこうと思います。「流される人間から、流れが何であるのかを
自分で考えてみようとするようになることが、すべての問題の鍵だ」とあります。
世が世ならエリツィンぐらいにはなれたかもしれないという植村さんから「ポルポ
ト」というあだ名をたまわった安渓ではありますが、地球環境問題に関してまったく
同感できる部分です。対立し、すれちがうことの多い相手と真に同意しあえる境地に
いたることがあるんですね。これこそが何度もデスマッチを重ねた最大の成果だった
と思っています。
安渓遊地