廃村熱中人)西表島に網取(Anturi)村のあとをたずねる RT_@tiniasobu
2021/01/30
同日修正 掲載紙の名前を訂正し、本文のテキストを追加しました。
http://ankei.jp/yuji/?n=434
でご紹介した 廃村熱中人 の heyanekoこと 浅原さんが、『農業共済新聞』の2020年8月12日号に掲載された記事(連載の3回目)をご紹介します。
記憶に残る廃村旅 3
『わが故郷アントゥリ』との出会い
網取 沖縄県竹富町
沖縄県西表島西部、陸路がない海辺の集落
網取は、本土復帰1年前の1971(昭和46)年に廃村となった。その存在は、97年春の八重山への旅の終わり、那覇空港で見つけた『崎山節のふるさと』(川平永美述、安渓遊地、安渓貴子編、ひるぎ社刊)という本で知った。
この本の内容に引き込まれ、私は網取に足を運んでみたくなった。調べているうちに、村の跡地は東海大学の海洋研究所になっていることがわかった。
往時の網取の生活については、『わが故郷アントゥリ』(山田武男著、ひるぎ社刊)という本に丹念にまとめられている。著者の「みんなの力で村の記念碑を建てたい、せめて記録にとどめたい」という後書きは、ストレートに心にささった。
網取が廃村となった大きな理由は、子供の教育問題、無医村の不安、陸路が通じる見込みがないなど行政への絶望感にあったと言われる。
98(平成10)年の春、36歳の私は14泊15日の沖縄本島・八重山への旅に出かけた。5月1日、観光ツアーの船に乗って、シュノーケリングを楽しんだ後、昼食休みに着いた網取の海は、とても明るかった。
桟橋の正面には小中学校(71年閉校)の校舎を使った海が建っていた。また、桟橋の右側には「あんとぅり」と刻まれた記念碑が建っており、「具体化したんだなあ」と感慨を覚えた。96年建立の碑は、網取出身者の会「うるち会」の活動が、順調に進んでいることの象徴のように思った。海岸から入った集落跡には、南の島らしいフクギの並木にサンゴを切り出した石垣、サンゴのかけらを敷いた小道があった。建物の跡は見られなかったが、少し涼しくてとてもよい雰囲気だった。
この頃のインターネットは黎明期で、廃村の情報はほとんどなかったが、時代が動く感じがしていた。また、97年の夏に立ち上げた「HEYANEKOのホームページ」によって、探索の記録をまとめ、情報発信ができるようになっていった。
浅原 昭生 (Team
HEYANEKO 代表)
(2020年8月12日(水)
農業共済新聞に掲載)
以上、引用終わり。
網取は、私と貴子が地域研究をはじめたとき、すでに廃村になっていましたが、出身のみなさんにいちばんお世話になった村ですから、感慨ひとしおです。
この村や近くの崎山・鹿川(かのかわ)についての詳しい情報は、http://ankei.jp/yuji/?n=2288
廃村ひとすじ、現在は1000選! をめざしてあるいておられる浅原さんの HEYANEKOのホームページは
http://www.din.or.jp/~heyaneko/
以上、紹介者は 安渓遊地@西表をほりおこす会 でした。