芙美子14歳)母の一番若い時の写真_ #島地大等「お嬢ちゃんは #マレー人 のようだね」 RT_@tiniasobu
2020/04/21
遊地の母の遺品の中で、一番若いときの写真です。「十四才 芙美子 猫をいだきて いさゝか野蕃じみている」と裏に書いてあります。
真渓涙骨さんから、この五年後に 「野趣満々」と評されています。https://ankei.jp/yuji/?n=822
1956年に書かれた、「バイオリンのために 母と子の日記」の中に、以下のような映画を見ての感想の部分があって、当時五才の私は、「人類の川メコン」というフレーズが耳に染みつき、一晩中ふいごの火をみつめる鍛冶屋の目の充血していたことが心に残りましたが、母は、自分の容貌が父が奄美の加計呂麻島出身だけあって、まことに南方系なのだということを雪国の暗い空の下で再認識したもののようです。
島地大等(だいとう、1875-1927)というのは、宮沢賢治さんが、盛岡を出奔して東京の「国柱会」に走るようになり、一晩に何百枚もの童話を書くようになるきっかけを、与えた人と言われています。その学僧としての厖大な著作の中の『漢和対照、妙法蓮華経』が、迷っていた賢治の頭の上に落ちたのだそうです。国柱会の公式サイトには、賢治さんのことがかなりくわしく載っています。http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/miyazawakenji.html
芙美子の母の父は、香川葆晃(ほうこう)という学僧で、大等の養父の 島地黙雷の盟友ですから、芙美子5歳の1924年に、最晩年の大等さんに直接会う機会もあったのでしょう。葆晃の墓と黙雷の墓は、大谷本廟の勧学谷に、大等の墓は、新勧学谷にあります。以下の記事では見つけられなかった、大洲鉄然さんと、彼の属した覚法寺の2つの墓も、近くに並んでありました。 http://ankei.jp/yuji/?n=504
以下は日記からの引用です。
1956年2月23日
○「失われた大陸」「銀盤のリズム」という映画、一家総上げで観て来た。
マレー人の生活の基盤となるものは、自然に対する恐怖、感謝、祈祷の三要素だということをみて、やはり風土は人間生活の思念の深部を決定するのだなと感心する。天変地異に関係なく生きることは、不可能なのだろうか。自然の力はそれ程大きいものだろうか。雪に閉ぢこめられ曇り空に憂鬱になる自分を何か変の様に思っていた、覚めた方の自分をもう一つの情念的自分が「それ御覧」と笑っているような気持ちで、観覧してた。和辻センセの「風土」、もう一度読み返してみようと、思い立った。
○南洋人の風貌、平板な顔立ちの中にある濃い憂愁の翳、雨や風や火山や地震、貧乏によって形造られた陰、顔面に表れる表情は、そのまま私や私の近辺に転がっている表情である。幼稚とも思える神々への信憑も彼等の風土から生まれる素朴な馴致、私達だってどれ程覚めた意識で、暮らしていることだろう。迷信といわれる多くの非科学を日常性の内部に秘めて、苦痛なく過ごせる私達も、やはり南洋人だなぁと、様々に感心してみていた。
家にかえってつくづく鏡を見る。このモジャモジャの眉、ギョロリとした目、分厚い唇、平板な鼻、私も南方系だナと思う。昔、島地大等さんというエライ坊さんが、五つの私の頭を撫でて、お嬢ちゃんは馬来人のようだネといったのを忽然として思い出した。成程、私はいつも精神の自由を求めている。氏素性だの行き掛かりだの習慣だのに昏まされない剥き出しの素朴なこころそのものを求めるという点に於いて、実にマレー的ぢゃないかと、鏡の中の自分を見たら思う。
但し、おしまいにいや気がさして、ベッカンコー、オカメ、ガリガリ目、それからイーッと「いけづ」の顔して、鏡をタンと叩いて炬燵に入ってうたたねした。
以上、抜粋引用終わり。