わが師)移動大学でフィールドワークの魅力を教えて下さった川喜田二郎先生をしのぶ
2024/09/04
もともとは、2009年9月23日の投稿でした。
2024年9月4日追加 移動大学とKJ法の年表を末尾に加えました。
安渓遊地と貴子が、いまのようなフィールドワークを専門とするようになったのは、
川喜田二郎先生(1920年5月11日 - 2009年7月8日)の始められた移動大学運動に参画したからでした。広島のKJ法研究会が出している機関誌『地平線』で、先生の追悼文をあつめているので、誘いに応じて送らせてもらった文章で、まだ印刷されていませんが一足お先にウェブ上で公開させていただきます。
いつでもどこでも移動大学
――川喜田二郎先生にいただいたもの
安渓遊地(あんけい・ゆうじ)
川喜田二郎先生に初めてお会いしたのは、1972年の夏、青森県の鰺ヶ沢町で開かれた第10回の移動大学の参加者としてでした。その時以来今日まで、移動大学でいただいたものの大きさに感謝しつつ、謹んで先生のご冥福を祈りします。
大学1年生の5月病が慢性化し、3年生になっても、専門の生物学で何がしたいのか分からないという挫折感をもっていた私は、移動大学という二週間のキャンプが小笠原で開かれるという知らせをもらって、参加を決意しました。1972年のことです。きっかけは、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』(岩波新書)を読んで、アイデアを小さい紙片に書きつけて組み立てる「こざね法」を知り、それを洗練させた川喜田二郎先生のKJ法というものがあるというので、KJラベルを注文したことでした。そのつてで、ダイレクトメールが届いたのです。十分な水がないことを理由に小笠原移動大学が中止されたあと、青森で開くという知らせがきました。始めから青森だったら参加していなかったかもしれませんが、108人の参加者が2週間のキャンプ生活をするという岩木山中に向かいました。
6人ひと組のテント生活。フィールドワークやKJ法と夜の語らい。そこで出会ったのは、それまでに味わったことのない開放感から、すっかりくつろいで腹の底から笑っている自分でした。チームのメンバーが焚き火を囲んでいると、川喜田先生が空いたところに座って、いろいろなお話をしてくださいます。話しながら先生は、よく顔をしかめられたのですが、席があいているたき火の風下は、いつも煙のくる場所だったからだと後で気付いたものでした。KJ法の作業がなかなか進まないでいると通りかかった川喜田先生が「お、これは大変だぞ!」と、例のちょっととぼけたような声で言われたのが印象に残っています。
時刻表を見ることも、写真を撮ることもまったく経験がなかった私でしたが、気がついた時には、翌年の夏、新潟で開かれる第11回角田浜移動大学の準備スタッフとなって、写真係を引き受けていたのでした。あまり自宅にはいなくて、開催までの半年のうち、東京タワーの下あたりにあった、通称「城山アジト」という家や、新潟などに100泊したことを覚えています。ひきこもりで大学に行かない「寝たきり学生」だった私が、こんどは「蒸発学生」になってしまったと、母はぼやいていたそうです。
移動大学の8つの目標のうちで「人間性開放」や「雲と水と」に惹かれていた私は、アフリカでのフィールドワークにあこがれて大学院に進みました。KJ法そのものは苦手でしたが、移動大学のご縁で結ばれた妻の貴子が、ていねいに教えてくれました。1981年に沖縄の大学に就職して、学生たちと公設市場のフィールドワークをしました。その成果を合宿して累積KJ法でまとめあげ、つくば大学に在職中だった川喜田先生に図解をお見せした時「うん、きみらのKJ法は本物だ」と言われた時は、身がひきしまる感じがしました。
その後は、西表島やアフリカの論文を書いていて先が見えなくなった時、屋久島につどった若者たちと地域課題の解決策を考える時など、ここ一番という時に、KJ法がその威力を発揮する場面に出会います。今は、韓国ソウル大学校の全京秀(チョンギョンス)先生と知り合って、新しい国際プロジェクトの夢を育てているところです。そんな異質の交流の場面では、やはりKJ法での意思疎通が有効なようです。(筆者のURL https//ankei.jp)
移動大学とKJ法の年表
以下のサイトに、1997年までの動きが記録されています。備忘のため、ここにコピーさせていただきます。
安渓遊地と安渓貴子がかかわったのは、参加者として第10回青森移動大学(1972年)
スタッフとして第11回新潟移動大学(1973年)
安渓遊地が、一時的に訪問したのは、第13回大山移動大学(1974年)で、そこで宮本常一先生に出会いました。
以下は、引用です。
https://tanokura.net/kjmethod/971001.html
KJ法の歴史
HOME > 発想法(旧サイト) > KJ法の歴史
解 説
「KJ法学会」という、KJ法の研究開発をおこなう学会があります。この学会は1977年に発足し、『KJ法研究』という学会誌を毎年 発行してきており、1997年 には第20号(記念号)が発行されました。当時わたしは、KJ法本部・川喜田研究所に主任研究員として勤務していたので、第20号を記念して「KJ法の歴史」をまとめ、発表しました(注1)。以下の年 表はそのときに作成したものです。
掲載した項目は、川喜田二郎著作集(中央公論社)(注2)からピックアップしたり、川喜田先生から直接ききとったりしたものです。KJ法の歴史では、「移動大学」とよばれる事業が大きな役割を果たしたということができます。(2003年 6月16日 解説記)
(注1)「KJ法の歴史」KJ法研究、第20号、87-90ページ、1997年 10月1日発行。
(注2)川喜田二郎著『川喜田二郎著作集』、1995-1997年 、中央公論社。
1920年 KJ法創始者・川喜田二郎、三重県に生まれる。
1943年 川喜田二郎、京都大学文学部史学科地理学専攻を卒業する。
1951年 川喜田二郎、奈良県都介野(つげの)村(現天理市内)の村誌作成調査において、データのまとめのために図書カード(の裏)を使い、KJ法の最初のヒントを得る。その方法をその後「紙切れ法」と呼ぶ。
1953年 川喜田二郎、日本マナスル登山隊学術調査で初めてネパールを調査し、KJ法の原型を実施する。
1957年 川喜田二郎著『ネパール王国探検記』(光文社・カッパブックス)が刊行される。
1958年 西北ネパール学術探検(隊長:川喜田二郎)において「フィールドノート」→「データカード」の共同作業を実施する。データカードの下欄に作製者のイニシャルとして「KJ」と記載する。
1960年 川喜田二郎著『鳥葬の国』(光文社・カッパブックス)が刊行される。
1962年 川喜田二郎、思想の科学研究会で「紙切れ法」に関するアイデアを発表する。その発表内容は『思想の科学』8月号に「衆知を集める法」として掲載される。
1963年 第3次東南アジア稲作民族文化総合調査(団長:川喜田二郎)が実施される。
1964年 その調査報告のまとめにおいて、川喜田二郎は、杉山晃一氏(現東北大学名誉教授)にKJ法の原型を教える。
「日本ネパール協会」が設立され、川喜田二郎は専務理事に就任する。
川喜田二郎著『パーティー学』(社会思想社・教養文庫)が刊行される。企業界から特に注目を集める。
京都大学の人類学同好者の会合において「紙切れ法」について発表する。その折に配布したがり版刷り資料の隅に小さく「KJ」と記す。参加者の一人の梅棹忠夫氏(現国立民族学博物館顧問)が「紙切れ法」という名称を改めよと指摘し、「KJ法」という名を示唆する。
1965年 『独創』第8号「KJ法特集号」(日本独創性協会)に、印刷物として最初に「KJ法」の名が現れる。「KJ法」の名称が正式にきまる。
1966年 川喜田二郎著『チームワーク』(光文社・カッパブックス)が刊行される。
1967年 KJ法研修体系の粗筋が川喜田二郎により完成し、本格的な普及が始まる。川喜田二郎はKJ法指導のために企業各社に招かれる。川喜田二郎を中心とした研修の努力で、「KJ法」の名称は急速に全国に普及・定着していく。
川喜田二郎著『可能性の探検』(講談社・現代新書)が刊行される。
川喜田二郎著『発想法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
1968年 川喜田二郎、国際人類学民族学会議で「KJ法」について発表する。
日本の大学紛争が本格化する。
1969年 東京工業大学に「参画会」(参画社会を実現する会)が結成される。
川喜田二郎、東京工業大学教授を辞任し(辞表が受理されたのは1970年 3月)、「移動大学」代表に就任する。
第1回移動大学「黒姫移動大学」(長野県黒姫高原)が開催される。
移動大学のために、「KJラベル」を設計する。
1970年 第2回移動大学「琵琶湖移動大学」(滋賀県三上山麓)が開催される。
第3回移動大学「えびの移動大学」(宮崎県えびの高原)が開催される。
第4回移動大学「新潟移動大学」(新潟県角田浜海岸)が開催される。
第5回移動大学「愛知移動大学」(愛知県伊良湖岬)が開催される。
「川喜田研究所」が創設される。
川喜田二郎著『続・発想法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎・牧島信一編『問題解決学ワークブック』(講談社)が刊行される。
川喜田研究所主催第1回「KJ法基礎実技研修会」が開催される。
1971年 第6回移動大学「沖縄移動大学」(沖縄県伊武部ビーチ)が開催される。
第7回移動大学「湖北移動大学」(滋賀県湖北)が開催される。
第8回移動大学「十勝移動大学」(北海道十勝平野)が開催される。
第9回移動大学「四国移動大学」(愛媛県城辺町)が開催される。
番号外の「三河移動大学」が開催される。
山梨県での「桃ノ木移動大学」がこの年 と翌年 に開催される。ソニー学園に川喜田らが指導した。
川喜田二郎編著『移動大学』(鹿島研究所出版会)が刊行される。
川喜田二郎編著『雲と水と ―移動大学奮戦記』(講談社)が刊行される。
1972年 「参画協会」の発起人会が開催される。
第10回移動大学「青森移動大学」(青森県岩木山麓)が開催される。
1973年 「KJ法上級コース」が始まる。
第11回移動大学「新潟移動大学」(新潟県角田浜海岸)が開催される。
川喜田二郎著『野外科学の方法』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
「KJ法上級コース研究班」が発足する。
1974年 第12回移動大学「多摩移動大学」(東京都秋川市)が開催される。
第13回移動大学「大山移動大学」(鳥取県大山町)が開催される。
川喜田二郎著『海外協力の哲学』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎著 "The Hill Magars and Their Neighbours"(Tokai University Press)が刊行される。
「KJ法基礎実技教育者コース」が始まる。
「ヒマラヤ技術協力会」が設立され、川喜田二郎は代表理事に就任する。シーカ河谷数ヶ村へ技術協力を開始する。
1975年 研修カリキュラムに「方針ラウンド」が加わる。
「KJ法入門コース」が始まる。
研修カリキュラムに「パルス討論」が加わる。
番号外の「大山移動大学」が開催される。
『KJ法清流作り』(川喜田研究所)が刊行される。
1976年 「KJ友の会」が発足する。
取材ノート「KJ手帳」を開発し、発売を開始する。
「取材学コース(タッチネッティングコース)」が始まる。
第14回移動大学「能登移動大学」(石川県穴水町)が開催される。
KJ友の会会報『積乱雲』が発刊される。
第1回「KJ法経験交流会」が開催される。
1977年 第1回「KJ法学会」が開催される。
第15回移動大学「富士移動大学」(静岡県富士山麓)が開催される。
川喜田二郎著『ひろばの創造』(中央公論社・中公新書)が刊行される。
川喜田二郎著『知の探検学』(講談社・現代新書)が刊行される。
「KJ法東京ミニ広場」が始まる。
1978年 川喜田二郎、筑波大学歴史人類学系教授に就任する。あわせて新設の大学院環境科学研究科教授を併任する。
指導者の要請を基本にし、新研修システムに移行する。
KJ法学会年 報『KJ法研究』(川喜田研究所)が創刊される。
川喜田二郎、「秩父宮記念学術賞」を受賞する。
川喜田二郎、ネパール国の「ゴルカ・ダクシン・バフ三等勲章」を受章する。
1979年 「KJ法」その他一連の名称が登録商標となる。
「KJ法入門登録制度」が発足する。
1970年 に「KJ基礎実技研修会」としてスタートした標準講座が100回を迎える。
川喜田研究所公認「KJ法塾」の開設が始まる。
1981年 「KJ法横浜ミニ広場」が発足する。
朝日カルチャーセンター・横浜で「KJ法入門講座」が始まる。
『KJ法本流づくりへの道』(川喜田研究所)が発刊される。
1982年 「KJ法学校法人設立準備委員会発起総会」が開催される。
KJ法研修会でケーススタディー方式が始まる。
1983年 「KJラベル」「KJ手帳」の規格を拡張する。
“THE ORIGINAL KJ METHOD”(英語版KJ法紹介小冊子)、同エスペラント語版が刊行される。
「会議法コース」が始まる。
1984年 川喜田二郎編監修『KJ法実践叢書』(1)(2)(プレジデント社)が刊行される。
川喜田二郎、筑波大学を退官する。
川喜田二郎、「日本ネパール協会」会長に就任する。
「テーマ追求コース」(7コース)が開催される。
「KJ法日報シート」を開発し、販売を開始する。
川喜田二郎、KJ法の功績により日本能率協会から「経営技術開発賞」を受賞する。
川喜田二郎、フィリピンの「マグサイサイ賞」を受賞する。
1985年 川喜田二郎、中部大学国際関係学部教授に就任する。
川喜田二郎編監修『KJ法実践叢書』(3)(4)(プレジデント社)が刊行される。
『KJ法実践叢書』出版記念兼第9回「KJ法経験交流会」が開催される。
1986年 「KJ法学会」10周年 記念大会が開催される。
ネパール国が要請した環境保全のためのキング・マヘンドラ財団に協力するため、ヒマラヤ技術協力会を「ヒマラヤ保全協会」として解体再編成する。
川喜田二郎著『KJ法―渾沌をして語らしめる』(中央公論社)(KJ法を集大成した原典)が刊行される。
1987年 川喜田二郎著『素朴と文明』(講談社)が刊行される。
川喜田二郎、ネパール国の「ビキャット・トリシャクティ・パッタ三等勲章」を受賞する。
川喜田二郎著『野外科学運動への提言』(川喜田研究所)が刊行される。
『KJ法学園(仮称)の創設―問題解決から構想計画まで―』(KJ法学園設立準備委員会)が刊行される。
1988年 川喜田二郎著『ヒマラヤ・チベット・日本』(白水社)が刊行される。
1989年 表札づくりの新手法「核融合法」が川喜田二郎により開発される。
第16回移動大学「丹後移動大学」(京都府網野町)が開催される。(移動大学発足20周年 )
1990年 第14回「KJ法学会」(開催地、岐阜県大垣市)が開催される。(初めて東京を離れ地方での開催。)
1991年 川喜田二郎、中部大学を退官し、KJ法本部・川喜田研究所理事長に就任する。KJ法の本流づくりと、ネパール・ヒマラヤの環境保全・国際協力の2点をライフワークとする。
KJ法本部・川喜田研究所が、東京都目黒区下目黒から目黒区碑文谷6-14-6に新築移転する。新施設は、1階は研修兼交流の場として、2階の半分は事務室として使用できる。
取材のための新手法「点メモ花火」が川喜田二郎により開発される。
1992年 初代会長大来佐武郎氏の逝去にともない、川喜田二郎、「ヒマラヤ保全協会」会長に就任する。
新本部の披露を兼ね、第16回「KJ法経験交流会」が行われる。
1993年 川喜田二郎著『創造と伝統』(祥伝社)が刊行される。
川喜田二郎、「大同生命地域研究賞」を受賞する。
川喜田二郎、「福岡アジア文化賞」を受賞する。
1994年 京都下鴨に「KJ法関西研修所」が完成し、関西および西日本方面の研修・交流に利用できるようになる。
川喜田二郎、「勲三等瑞宝章」を受章する。
1995年 KJ法1ラウンドの作業にパソコンが活用されるようになる。『積乱雲』『KJ法研究』のDTPが始まる。
「KJ友の会」の会員間で電子メールによる通信が本格化する。
KJ法を中核とした「住民の声による地域診断システム」の実施が始まる。「信濃川地域連携軸構想業務」が実施される。
川喜田二郎著『野性の復興』(祥伝社)が刊行される。
『川喜田二郎著作集』(中央公論社)の刊行が始まる。
1996年 口頭発表の新手法「闊達話法」が川喜田二郎により開発される。
「KJ友の会」が発足20周年 を迎える。第20回記念「KJ法経験交流会」が開催される。
第20回記念「KJ法学会」(テーマ:電脳時代の海図を求めて)が盛大に開催される。電子版KJ法(KJ法サポートソフトウェア)開発の具体的な見通しが明らかになる。電子版移動大学の展開が構想される。
「KJ法日常情報活用コース」「6ラウンドKJ法後期コース」が始まる。
山形県鶴岡市において「住民の声による地域診断システム」が実施される。
1997年 秋田県矢島町において「住民の声による地域診断システム」が実施される。
「KJ法最高研究会」が発足する。
第17回移動大学「鳥海山移動大学」の実行委員会が発足する。
参考書
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