わが師)天野鉄夫さんの『琉球列島植物方言集』のころ
2024/09/13
AmanoTetsuo
沖縄のダビンチたちというシリーズを構想しています。
天野鉄夫著『琉球列島植物方言集』(1979年、新星図書)の前史との出会い
安渓遊地
大学を卒業したばかりの私は、天野鉄夫さんの家を訪ねていた。1974年6月のことである。
神戸から船に揺られて那覇についてその足で、市立図書館の外間政彰館長を訪ねた私は、そこで掛け軸のようなものを広げて見ていた多和田真淳さんと天野鉄夫さんに紹介された。
外間館長は、私の中学時代の担任の仲村寿子先生の叔父で、私が京都大学の1年生だった時に、京大図書館の沖縄関係資料の収集の訪問の時に、『沖縄教育』などの雑誌を借り出して複写するお手伝いをしたのがご縁だった。図書館に複写を頼むと1枚35円もした時代である。その時に外間さんから伊波普猷の名前などを初めて聞いたのだが、その後沖縄研究をするようになるとは大学院に進むまでは夢にも思わなかった。
私が京都で師事していた伊谷純一郎先生は、著書の『高崎山のサル』や『ゴリラとピグミーの森』のフィールドワークのスタイルから分かるように、肩で風を切って歩きに歩いて、見たこと感じたことをノートに書きつけるのを得意とし、事前にたくさんの文献に目を通すというタイプの指導ではなかった。私もアフリカ行きを夢見ていたので、沖縄の人と自然の研究において、お二人がどんなに重要な位置を占める方たちなのか、まったく予備知識がなかった。
図書館の館長室で「この青年は、これから西表島の人類学をやろうというんです」と外間さんから紹介していただいたところ、それならと、その日のうちに多和田・天野両氏宅の訪問を許されたのだ。
天野さんの家は、焼き物や資料が所狭しとならび、博物館の収蔵庫のようだった。新聞のスクラップブックを見せてくださったが、たいへんな手間をかけて、余白ができないようにきれいに張り込んである。「これ、ちょっと貸してくれませんかと、新聞記者なんかがよく言うけれど、人が一生懸命整理したものをコピーしたいのなら、コピー機をここへ担いでこい、というんだよ」とにやりと笑って言われた。そして、今取り組んでいるという、植物の方言のカードを引き出して見せてくださった。細かい文字で、植物の種類ごとに集落ごとの呼び方が書き付けてあるらしかった。「やんばるでは、ヤシ科のビロウのことを、”フバ”という村が多いんだけれど、ヤマトゥの学者は、これを”クバ”と聞いてしまうようなことがしょっちゅうで、よく確認しない中途半端な状態で活字にしてしまうんで、たいへん困るんだよ」と言われた。(続く)
つづきでは、まだよちよち歩きの息子が天野邸の2階から頭を下にして階段をころがり落ちます。互いに無言で、こちらは、息子の頭をなでる、天野先生は、落ちた焼き物の頭をなでる、という映画的な場面も。
写真は、沖縄タイムスの記事からお借りしました。https://ryukyushimpo.jp/news/entry-402319.html