わが友)祝島の清水敏保(としやす)さんをいたむ
2024/09/05
2024年9月1日、祝島の清水敏保(としやす)さんがなくなりました。
島の人達から、敏ちゃん、敏ちゃん、と親しまれ、島の輸送船という大役をずっとこなしながら、上関原発はいらない、という島の人たちの願いを実現すべく、いつも先頭にたってこられました。
闘士というのではなく、ひとりの生活者として、島の暮らしとそれを支える自然を守るという態度に、いつも人間的な魅力を感じてきました。
こんなに若かったあなたを失ったことは、大きなショックでしたが、これからも、みんなをやさしく見守ってくださいますよう、お祈り申し上げます。合掌。
小中進さんのブログに掲載された新聞記事(http://blog.konaka.sunnyday.jp/?eid=990)に祝島から送られてきた記事を加えて共有します。
安渓遊地
朝日新聞 山野拓郎 2024年9月3日 10時30分
https://www.asahi.com/articles/ASS924W11S92TZNB00JM.html
上関原発反対、訴え続けた 清水敏保さん死去 祝島島民の会代表
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反原発の運動について話す清水敏保代表=2023年10月26日、山口県上関町祝島、渡辺純子撮影
「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の代表、清水敏保さんが1日、69歳で亡くなった。長年にわたって原発反対を粘り強く訴え、時に体を張って中国電力と対峙(たいじ)する一方、穏やかな人柄で運動を支えてきた。
上関原発の計画が浮上したのは1982年。祝島から4キロの対岸を埋め立て、原子炉2基を建設する計画に島民の多くが反対した。共に活動してきた木村力さん(77)は「最初から頑張ってきてくれた人。人柄も行動もみんなから信頼されていた。反対運動は、清水さん抜きでは考えられない部分があった」と悼んだ。
島民らは漁船を出して作業船を阻み、埋め立て予定の浜辺に座りこみ、体を張って工事を止めようとした。中電が海上ボーリングに着手しようとした際、清水さんは海面から12メートルのボーリングのやぐらに一人よじ登り、作業を中止させたこともあった。
町議としても1994年から7期務め、反対を訴え続けた。2011年の東京電力福島第一原発事故後、自然エネルギーを生かした町づくりをしている県外の町の視察を提案した。同年に島民の会の代表を引き継ぐと、反原発の思いを抱く移住者とも関係を築いていった。
「上関の自然を守る会」の高島美登里共同代表(72)は「上関原発への反対運動の中で祝島の闘いは大きな力になっていた。その中心になって、県内外の団体とも連携して運動全体をまとめてこられた方」と言う。清水さんが亡くなった今、その存在感の大きさをかみしめている。
昨年夏、今度は町内に使用済み核燃料の中間貯蔵施設をつくる計画が持ち上がった。反対運動を担ってきた島民は高齢化が進む。自身も闘病を続ける清水さんは「せめて原発計画を白紙撤回してから貯蔵施設の話をするべきじゃないのか。このままじゃ死んでも死にきれん」と話していた。
今年3月、山口市で雨の中で開かれた「上関原発を建てさせない山口大集会」。マイクを握り、「原発建設の白紙撤回、中間貯蔵施設の中止に向けて全力で取り組む」と訴える姿があった。
「次の世代の子や孫のため、きれいな海や自然をどうしても守っていきたい」。「原発いらん!山口ネットワーク」の小中進代表(76)は、清水さんのその言葉を胸に刻んでいる。「思いを受け継ぎ、海を必ず守っていく」と決意を新たにした。木村さんは「今も一緒にいるような感じがする。これからも一緒に頑張っていきたいという気持ちです」と話した。(山野拓郎)